天皇制とアメリカの結合という、誰も書かなかった日本の深層!
戦後も、この国を縛り続ける「国体」は、我々をどこに導くのか。
もうすぐ平成時代が終わります。後世の歴史家はこの時代をどう規定するだろうか。その答えはすでに出ています。「きわめて愚かな時代」――これしかありえません。「失われた20年(否、30年)」は、ほぼ平成と重なるのですから、平成時代は丸ごと「失われた時代」なのです。
しかも、平成が終われば「失われた時代」も自動的に終わる、などという保証はどこにもありません。日本の現状は、「極東バナナ共和国」あるいは「一等国だと思い込んでいる四等国」といった酷いものであり、現在の日本人は、言うなれば、精神的な複雑骨折の状態にあります。
平成の終わりに加えて、日本の近代は、間もなく(2022年に)154歳を迎えます。2022年という年がなぜ重要なのでしょうか。
周知のように、日本の近代史は、1945年という大きな転回点を持っています。その年に日本は敗戦し、それをきっかけとしていわゆる民主化改革が行なわれ、「国のかたち」が大きく変わったために、私たちはその時点から現在までを「現代」として、その時点から過去を「昔の時代」として認識しています。明治維新(1868年)から敗戦までの期間が77年。2022年を迎えると、敗戦から「現在」までがちょうど同じく77年になります。
「現代」も随分歳月を重ねました。にもかかわらず、「現代」(それは、「戦後」と呼ばれもします)がどんな時代だったのか、私たちが持っている歴史のイメージは、あまりに貧しいのではないでしょうか。とりわけ、「戦後=平和と繁栄の時代」という華々しいイメージが維持不可能になって以降、私たちはあるべき「国のかたち」を見失い、「失われた時代」から脱出できなくなってしまったのです。
しかし、歴史の歩みを了解することによって、このトンネルは必ず脱け出せるはずです。
日本近代の前半につくり出され、封建社会だった日本を少なくとも外見的には列強に伍する近代国家へと成長させた装置が「国体」でした。しかしそれは進路を誤り、1945年に一度破滅します。近代後半(現代)の日本もまた、一旦は華々しい発展を経験した後、進路を誤り、破滅へと着々と向かっているように見えます。それはきっと、「国体」の二度目の茶番的な破滅なのでしょう。
しかし私たちは、この現実に絶望するべきではありません。カール・マルクスの次のよう言葉を噛みしめながら、『国体論』を読んでいただきたいと、著者としては思います。
「ギリシアの神々は、アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』のなかですでに一度傷つき悲劇的に死んだのであったが、ルキアノスの『対話篇』のなかでもう一度喜劇的に死なねばならなかった。なぜ歴史はこのように進行するのか? それは人類が明るく朗らかにその過去と訣別するためである。」(『ヘーゲル法哲学批判序説』より)