宇都宮直子 スケートを語る 第19回

八分の一

宇都宮直子

 さて、ここから、四回転半アクセルの話をする。「八分の一」の話でもある。

 あと八分の一の回転で、羽生結弦はさらなる高みへ昇る。世界で初めて四回転半アクセルを跳んだ選手になる。

「羽生は、世界選手権で、四回転半を跳びたかったのだと思います。だから、最後の最後まで死にものぐるいで練習した。

 それでも、間に合わなかったのは、三回転半の影響が大きいと思います。全日本まで、トリプルアクセルを跳んでいましたからね。

 ストックホルムでは、彼が言うように『軸がずれて』いました。

 半回転は180度ですが、その回転をつけるための努力が、ちょっとずつ軸を外していった。

 練習を重ねたからこそ、バランスが崩れてしまった。自身でそれがわかるのは、羽生が本物のスケーターだからです。

 前にもお話ししましたが、彼の四回転半は、もういつ降りてもおかしくありません。また、降りさえすれば、勝てると感じていたと思います。

  仮に成功しなかったとしても、三番くらいの順位は取れる、それくらいの計算はあったと思いますよ。彼の場合、ほかの要素でカバーできますから。

『挑戦する』という決断ができなかったのが、今回の大会だったような気がします。やはり自分の納得できる状況ではなかったのでしょう。

 彼は口にしませんが、心の中には悔いが残ったと思います」

 羽生結弦が「跳ばない」と決断したのは、日本を発つ三日前だ。

 ぎりぎりまで、彼は挑戦を続けていた。目的を果たそうとしていた。そんな姿勢が、いかにも羽生らしいと思う。

 都築に訊ねる。

 ストックホルムへの出発前日に、宮城は地震に見舞われた。東日本大震災の余震とされる。この影響はあっただろうか。

「東日本大震災のあと、羽生は心底傷ついていました。スケートに戻れるかを心配したほどです。だから、心理的な影響はあったと思います。

 ただ、彼は人の痛みがわかる。苦しい経験をした人が周りにいっぱいいるから、よくわかっている。

 その人たちのために、その人たちを勇気づけるために、いい演技をしようと考えたのだと思います。

 喜んでもらえる演技をすることが、羽生の感謝の表れです。経験に培われた人間性が、彼のいちばんの魅力だと私は思っています」

 たしかに、彼はそういう選手だ。心が洗われるような演技をする。

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宇都宮直子 スケートを語る

ノンフィクション作家、エッセイストの宇都宮直子が、フィギュアスケートにまつわる様々な問題を取材する。

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プロフィール

宇都宮直子
ノンフィクション作家、エッセイスト。医療、人物、教育、スポーツ、ペットと人間の関わりなど、幅広いジャンルで活動。フィギュアスケートの取材・執筆は20年以上におよび、スポーツ誌、文芸誌などでルポルタージュ、エッセイを発表している。著書に『人間らしい死を迎えるために』『ペットと日本人』『別れの何が悲しいのですかと、三國連太郎は言った』『羽生結弦が生まれるまで 日本男子フィギュアスケート挑戦の歴史』『スケートは人生だ!』『三國連太郎、彷徨う魂へ』ほか多数。2020年1月に『羽生結弦を生んだ男 都築章一郎の道程』を、また2022年12月には『アイスダンスを踊る』(ともに集英社新書)を刊行。
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