宇都宮直子 スケートを語る 第10回

はじめの一歩

宇都宮直子

 都築章一郎は、羽生結弦の映像を見ている。ずいぶん前の映像だ。そこには、マッシュルームカットの少年がいる。

 少年が踊っているのは、「ロシアより愛を込めて」である。幼い分、技術的には現在とは比べられない。

 だけど、少年はすでに感じさせる、当たり前だが、彼はどこか、ものすごく「羽生結弦」なのだ。醸し出すものが同じなのだと思う。

 映像を見る都築の表情が優しい。ときおり、小さく笑う。

「これは神宮へ行ったときの映像です。今と変わらない? そうそう、この頃から、人を意識できる子どもでした。

 この時分のこの年代の男の子で、こういう動きができる子はいないですよ。音楽をしっかり意識しています」

 アクセルは「ジャンプの王様」。都築は羽生にそう教えた。ただ、それに特別な意味はなかったという。

「スケート界では、昔から『王様』と言われていたんです。

 で、私たちもなんとなしに『ああ、そうか』というような感じでやっていた。羽生に教えたのもその流れです。これといった理由はありません。

 だけど、アクセル自体は、やっぱり特別なジャンプだと思います。

 跳ぶところからして、ほかのジャンプとは違います。優雅さがあって、雄大さがあって、習得までに選手が苦労する。

 ですから、私は羽生に、アクセルをいちばん大事にして教えました。

 だいたいは皆さん、スリージャンプから始めて、それからシングルアクセル、ダブルという形だと思います。

 私は、とにかくアクセルを跳ばせました。最初からです。羽生自身も『これを絶対に跳ぶんだ』という気持ちが強かったですからね。

 アクセルの型は、すべてのジャンプの基本になります。

 アクセルを理にかなった跳び方で跳べていれば、ルッツもフリップも、ほかのジャンプも、割合簡単に跳べるようになっていくんです」

 アクセルが特別な理由なら、ほかにもいくつも数えられるだろう。

 トリプルアクセルは、羽生結弦を勝者にした。王者への扉を開いた。事実だ。間違いない。

 都築は話す。

「羽生は同じ年代と比べ、高い成績を上げました。得意中の得意であったトリプルアクセルが、その大きな理由だと思います。

 羽生はトリプルアクセルを完璧に跳んだ。ほかの選手は、まだ上手く跳べなかった。確実性の低いジャンプを跳んでおりました」

 結局、差は縮まらなかった。羽生はそれから、昇ってゆく。オリンピック二連覇という、とてつもない高みへ、だ。

 つまり、「理にかなった跳び方」が、どうしても必要なのである。

「跳び方とか、幅とか高さとか。そうしたものは、小さい頃から指導されていないと急には変えられません。

 一回、感覚的に覚えたものというのは、なかなか変えられないものなんです。ですから、最初にどういう指導者と出会うのかが、非常に重要になってくる。

 選手の方向性を大きく左右する要素だと言えると思います」

 幼少期に、誰を師とするか。それが肝要とは、ロシアでも聞いた。

 名だたる指導者たちが、言った。「最初のコーチはとても重要」。異口同音に語られる内容に、強いプライドを感じた。

 タチアナ・タラソワは、自身の指導について、

「私は最初から間違えませんでした。それを誇りに思っています」

 と話した。

 彼女は、たしかに間違えなかった。

 多くのチャンピオンを育て、フィギュアスケートの発展に尽力した。現在も大きな影響力を持っている。

 私は都築に言った。

「羽生さんにとって、先生との出会いは幸運でしたね」

 都築は短く、さらりと答えた。

「そうですね」

 羽生結弦は、都築章一郎の情熱と自信、プライドに育てられた。熱さをしっかりと受け継いだ。そして、王者になった。

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宇都宮直子 スケートを語る

ノンフィクション作家、エッセイストの宇都宮直子が、フィギュアスケートにまつわる様々な問題を取材する。

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プロフィール

宇都宮直子
ノンフィクション作家、エッセイスト。医療、人物、教育、スポーツ、ペットと人間の関わりなど、幅広いジャンルで活動。フィギュアスケートの取材・執筆は20年以上におよび、スポーツ誌、文芸誌などでルポルタージュ、エッセイを発表している。著書に『人間らしい死を迎えるために』『ペットと日本人』『別れの何が悲しいのですかと、三國連太郎は言った』『羽生結弦が生まれるまで 日本男子フィギュアスケート挑戦の歴史』『スケートは人生だ!』『三國連太郎、彷徨う魂へ』ほか多数。2020年1月に『羽生結弦を生んだ男 都築章一郎の道程』を、また2022年12月には『アイスダンスを踊る』(ともに集英社新書)を刊行。
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