徳光和夫の昭和プロレス夜話 第3夜

アナウンサーとして大事なことはプロレスから学んだ

徳光和夫

時代は平成から令和へと移り変わり、今、日本のプロレス界は群雄割拠の時代を迎えている。数え切れないほどの団体が存在し、自称プロレスラーを含めると、何百人という男たちが夜な夜なリングに舞っている。

プロレスといえば、日本プロレス。レスラーといえば力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木……そして屈強・凶悪・個性的であり、大人のファンタジーに彩られた外国人レスラーたちとの死闘がその原点である。

そんなモノクロームに包まれた昭和プロレス草創期の世界を、徳光和夫は実況アナウンサーとして間近で体験、血しぶきが飛ぶ、その激しい闘いの数々を目撃してきた。果たして徳光はリング上、リング外で何を見てきたのだろう。

その血と汗と涙が詰まった、徳光のプロレス実況アナウンサー時代を、プロレスに関することだけはやたらと詳しいライター佐々木徹が根掘り葉掘り訊き出し、これまでプロレスマスコミなどが描き忘れていた昭和プロレスの裏面史を後世に残そうというのがこの企画、「徳光和夫の昭和プロレス夜話」である。

さあ、昭和の親父たちがしていたように、テーブルにビールでも置き、あえて部屋の電気を消し、ブラウン管の中の馬場と猪木のBI砲の熱き闘いを見守っていたように、パソコンなどの液晶画面に喰らいついていただきたい!

 

 さて、今宵から、いよいよジャイアント馬場にまつわる夜話を徳光和夫に語ってもらうのだが、その前に僕も夜話をひとつ。それは馬場さんのことではなく、夫人……というより、盟友として全日本プロレスを支えてきた馬場元子さんの夜話だ。

 元子さんは2018年4月、お亡くなりになった。生前は業界内で彼女を煙たがる人が多かったように思う。

 あだ名は「女帝」。このあだ名でもわかるとおり、一部の業界筋の人に言わせると、元子さんのネガティブな評価を挙げていったら、きりがないそうだ。それぐらい外部にも身内の全日本プロレス内部にも当たりの強い女性だったことは確か。

 もちろん、擁護する人もたくさんいる。日本プロレス界のスーパースター、ジャイアント馬場に近寄ろうとする人物の中には、よからぬ人もいたりする。そういう人間を馬場さんに近づけないようにしていたのも、元子さんの役割だったらしい。そのため、あえて悪役を買って出た――。

 また、馬場さんのイメージを守るために元子さんが悪役となって対レスラー、対関係者(マスコミも含め)に言いづらいことをズバズバ言っていたみたいだ。2019年、天に召された白覆面の魔王、ザ・デストロイヤーに言わせれば「ミセス・ババはジャイアント馬場のリング外の最強ボディガード」ということになる。

女帝と呼ばれながらもジャイアント馬場、全日本プロレスを守り抜いた馬場元子さん。写真/宮本厚二

 

 その馬場元子さんにインタビューができたのは2002年の晩夏だった。

 馬場さん亡き後、三沢光晴らが元子さんに反発、全日本プロレスを離脱し、新たにプロレスリング・ノアを設立していた。三沢たちが大量離脱したことにより、全日本プロレスには川田利明、渕正信しか残っておらず、団体崩壊間近と囁かれていた時期でもある。

 創刊間もなかったスポーツ誌『スポルティーバ』(集英社)から“大丈夫か、全日本プロレス”的な特集を作りたいので、元子さんと川田のインタビューがほしいとの依頼だった。デリケートな時期だっただけに、川田はまだしも、元子さんは難しいと思っていたのだが、意外にもすんなり快諾、インタビュー場所は馬場夫妻が私的オフィスといっていいほど頻繁に利用していたキャピタル東急ホテルの『オリガミ』に決まった。

「三沢君たちが出て行っちゃったのもわかるのよね。だって、馬場さんが亡くなって表向きには三沢君が社長になったけど、私、彼に会社の実印を渡さなかったんだもん(笑)」

 元子さん、そこは笑うとこではなく……。

「そうね、三沢君からすれば、笑い話じゃないわよね。なんだよって思うのは仕方ないかな。でも、ヤだったの、馬場さんが死んだからって、すぐに実印を渡すのが。今も会社の実印を馬場さんの魂のように思っているせいなのかもしれないわね。馬場さんの引退試合(1999年5月2日/東京ドーム)も無事に終わらせることができたし、私がプロレス界にとどまっている理由はないんだけどねえ……なかなか離れられないのよ」

 インタビュー終了後、写真撮影をするということになり、まだ夏の暑さが残る午後の日差しの中、元子さんにはホテルに隣接する日枝神社までご足労願った。元子さんは薄いピンク地の日傘をクルクル回し、神社の本堂へと続く石段を先頭に立って登っていった。

「今日は楽しかったな。いっぱい馬場さんのことをしゃべれて。あのね、馬場さんと初めて会ったのは私が15歳のときよ。私はおさげ髪の学生でね。父がね、巨人軍のタニマチだったのよ。その関係で用事を頼まれて地元の(兵庫県)球場に行ったとき、初めて馬場さんと会話を交わしたの。馬場さん、体が大きいくせに、私としゃべったときはずっと、猫背で下を向いたままだったな。たぶん、顔は赤かったはずよ(笑)」

 元子さんは、そう言いながら、僕のほうを振り向き微笑んだ。その微笑みは15才の頃から変わっていないと思われ、純朴だった馬場正平青年の顔を赤らめるには十分すぎるほどに魅力的だった――。

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プロフィール

徳光和夫

1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。

 

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