赤坂真理 なきものにされることへの物語り 第1回

仕事着のまま避難して永遠にさすらう「国内難民」

赤坂真理

福島第一原発事故に対して国や東京電力を訴えた裁判の中で、最も大規模な原告団を擁する福島生業訴訟。その最高裁判決が6月17日に言い渡される(群馬、千葉、愛媛の同様の裁判も同日判決)。その判決を前に、福島生業訴訟の裁判を傍聴し、福島の現地を何度も訪れた作家の赤坂真理さんが、この事故や裁判、そしてそれらが日本人に突きつけたものの意味を問う。

 

 「東日本大震災による津波と福島第一原子力発電所の事故から、今日で○年です」

 毎年3月11日には、キャスターのこんな台詞ではじまるニュースがある。8月15日の終戦の日のように。その日だけ。1日でも過ぎれば意味がなくなるそんなリードに、「復興関連」のニュースが続く。希望のニュースだ、ささやかで心暖まる。あの場所にも桜の蕾は膨らみかけている、とか、そんなこと。しかし、希望とはなんだろうか。希望とは、イメージではない。本当の希望とは、画像になかなか映らない。

 本当の絶望とも同じように。

 わたしはこの5、6年で、福島のいくつかの集落や町がゴーストタウンになっているのを見た。ゴーストタウンというのを本当に体感したのは初めてだった。見た目には何の変なところもない。こぎれいな住宅地だ。画像にとったところで、あの、しばらく歩いて心底ぞっとするような不気味さは伝わらない。どの戸の中にも人はいないという、訪問者の自分達しか、その町に、生きている人間はいないという不気味さ、地球最後の人間になったような感じ、静まり方。鳥や虫などもおらず静かだ。空だけが頭上に抜けて、太陽はことさらむき出しに感じられる。静まり返っている。気のせいではなく、そこは静かなのだ。何年か後に聞いてわかった。虫がいない。放射性物質の影響で虫の卵が孵らないから、虫がいない。なんの知識もなくそこへ行っても、どこと言えない不穏さは感じられただろう。虫がいないから、鳥が来ない。写真や動画に撮ってみた。いくら撮ってもただ、そこにはただきれいな住宅地があるだけだった。

2018年時点での富岡町夜ノ森の住宅(撮影/五十嵐和博)

 そうした家々は、地震や津波の被害はなく、見た目は無傷だが、もし特殊なスコープを使って、とりついた放射性物質を見たならば「全損」とわかる、と夜ノ森などを案内してくれた馬奈木さんが言う。福島生業訴訟の弁護団事務局長をしている弁護士だ。放射性物質のついた家々は速く傷む。放射性物質とは、放射能(放射する能力)を持つ物質で、絶えず原子核内の中性子を放射し続けている。中性子は物質を透過して進む性質を持ち、その物質の組織を傷つける。

 それが建物でも、生物でも。臓器でも、遺伝子でも。

 しかしあまりに目に見えない。なんの匂いもない。味はないし、ものの味も変えない。目に見えないもの、通常の五感では感知できないものと戦うには、想像力がいる。

 この町の人たちは、どこへ行ってしまったのだろうと思う。今も思う。

 もう、同じ町に集うことはない人たち。どんなに好きでも、苦手でも。もう、同じ場所で同じお隣さんやご近所さんを持つことはなく、町内の集まりもない。祭りもない。同じ通りを通る見知った顔もない。ランドセルを背負って駆ける子どもたちの笑い声もない。小さい頃から知っていた子の行方も知らない。同じ通行人を見ることもない。誰かの子どもも、飼い犬も、季節ごとに花や実をつけた庭の木も、もう見ることはない。自宅の窓からの四季折々の色彩や訪れる鳥たちも。

 行く場所は、あるのか。今日も。今日もどこかで泣いていないのだろうか。私は生家を父の事業の倒産で失ったことがある。その家のことを今も思い出して泣くことがある。それは今でもわたしの中にある痛みだ。彼らにもあるだろうか、失われた家を夢に見て、苦い気持ちで目覚める朝。ないはずは、ないと思う。

 年月が過ぎるだけで自然解消する悲しみなどは、ない。年月が過ぎるだけで薄まり忘却できるような傷はない。年月が経つほどに疲弊し、絶望や虚脱感が増すこともある。建物が劣化するように。人が老いるように。

 今日で○年、が、数字の大きさで覆い隠そうとするのは、結局のところ、そういうものだ。

 

一時避難のはずが、永遠に帰れなくなった

「地震のときは仕事中で、すぐに戻れると思い、仕事着のままほとんど何も持たずに逃げました。その時は、避難生活が11年以上にもなるとは全く考えていませんでした。その後、体育館や親族の家、旅館や借り上げ住宅、復興公営住宅など10ヶ所以上を転々としましたが、どこに行っても気の休まるときはありませんでした」

 2022年、4月25日。福島生業訴訟の原告の一人、深谷敬子さんは最高裁の第二小法廷で立ち上がり、こう陳述した。飾らない実直な人柄が、佇まいから伝わってくる女性。働き者であっただろうことがよくわかる女性。その姿は疲れているようにも見える。深谷さんは語る、原子力発電所の事故による一時的な避難と思って家を出て、永遠に家に帰れなかったことを。その人生の意味を問う。一体誰に問えばいいのかもよくわからない、やり場のない思いを。66歳で家を出て、漂泊した。現在77歳。

深谷敬子さん(撮影/堀潤)

 深谷さんが夫の出身地である富岡町に家を建てたのは1968年のことだ。自身はずっと美容師をしていたが、子どもが独立し60歳になったのを機に、自宅を美容院に改装した。自宅兼美容院は、店という以上に、自身にも近隣の人にとっても憩いの場であり、そこで自家菜園の野菜を使った料理を作って食べたり、お茶を飲んだりして楽しく生きがいを持って働いていた。家と美容院は、つまりは彼女にとって、人生そのものだった。

「富岡町の自宅は、事故を起こした福島第一原発から直線距離でおよそ7キロほどのところにあります。自宅を建てて数年後に福島第一原発が運転を開始しましたが、国も電力会社も『原発は絶対に安全』と宣伝していましたので、私もそれをすっかり信じていました。1986(昭和61)年にチェルノブイリ原発事故があったときも、国や電力会社は『原子炉の仕組みが違うから、日本では放射性物質が漏れるような事故は絶対に起きない』と宣伝し、私もそれを信じて、毎日安心して暮らしていました。

 しかし、事故は起こってしまいました」

 福島生業訴訟。

 最高裁判所。

 地裁、高裁、と勝訴して、上告をされた、最高裁。

 最高裁判所は、皇居の、道を挟んで向かい側にある。モニュメンタルな建物で、内部でいくつもの階層を上がって、法廷に行き着ける構造になっている。裁判官の位置が高い。そこに裁判官たちは、傍聴席に向かって開く扉を開けて出てきて席に着く。地裁、高裁とは違った、権威の匂いというのがある。またそれを印象づける造りになっている。

 福島生業訴訟は、約3650人という最大の原告団を持つ福島第一原発事故の訴訟であり、いくつかの画期的な特徴を持つ。

・避難した人(「避難者」)と、避難しない人(「滞在者」というのが国による名づけだ。しかし考えてもほしい、元々そこに住んでいた人たちが「滞在者」だ。残留者とさえ呼ばない)の両方を原告に持つ訴訟であること。

・国の責任を追及していること。エネルギー産業とは、一企業でできることではなく「国策」なのだから。

・救済立法を目指し、原告にならなかった人たちも救済されることを目指していること。

 そしてこれは、脱原子力発電を目指す大きな市民運動の波の一部たろうとしているのだろうとも、私は感じる。弁護団や原告団は、地道な集会やレクチャーなどを各地で行なってきた。その中には、記者などを連れて現地をまわるといったことも含まれる。そこで現地の人と関わりができる。そこには、弁護ということを超えた、訴訟ということを超えた、よりよい社会を作ろうとする懸命の努力の手触りが感じられた。だからこそ協力者は各地に増えた。またその努力が通じて、仙台高等裁判所の裁判官たちが現地を視察に来たことが、高等裁判所での勝訴につながったのではないかと深谷さんは陳述する。少なくとも、朽ち果てた我が家を、防護服をきた仙台高等裁判所の裁判官たちが見てくれ、深谷さんの話をうなずきながら聞いてくれたことは、深谷さんにとってとても心慰められることだった。

 わたしも仙台高等裁判所の判決を聞いたが、「国は東電による不誠実とも言える報告を易々諾々と受け入れることとなった」という、かなり国に厳しい文言があった。かなり思い切った文言を裁判官が入れたと、原告や弁護団さえ驚き、感銘を受けた当該の箇所を引用する。

“ 東電による不誠実ともいえる報告を唯々諾々と受け入れることとなったものであり、規制当局に期待される役割を果たさなかったものといわざるを得ない。一般に営利企業たる原子力事業者においては、利益を重視するあまりややもすれば費用を要する安全対策を怠る方向に向かいがちな傾向が生じていないかを不断に注視しつつ、安全寄りの指導・規制をしていくことが期待されていたというべきであった。上記対応は、規制当局の姿勢として不十分なものであったとの批判は免れない。 ”

 つまり「国(ないし原子力保安院)は、現地など見ず、政府自らが組織した地震調査研究推進本部の「長期評価」により地震と津波が起きることは十分に予見可能であったにもかかわらず、その論文を真摯に受け取ることもなく、東電が利益優先のために都合よく解釈した説明を丸々受け入れた、その責任は重い」と言っているのである。

 日本型の<無責任システム>の典型がここに問われているように思う。この<無責任システム>は、「やったことに対しては責任を問われうるが、やらなかったことに関しては、ほとんど責任が問われない」、という特徴を利用している。誰もが任期中に、責任を問われる可能性のあることを、やろうとしない。しかし、「やらないこと」「やるべきことを怠ること」もまた、罪である、やるべきことがあってそれを怠ったために被害が生まれたのであれば、その責任は問われるべきである、と仙台高等裁判所の判決文は言う。

仙台高裁で勝訴の幕を掲げる原告(中央は深谷さん)(写真/共同通信社・ユニフォトプレス)

 日本の責任ある立場の多くの人は、任期中にどれだけ「やらない」かに腐心しているように見える。だから、自分の責任で何かを判断するということをできるだけ回避して、そのことに都合のよい説明を受け入れようとする。「上」に行くほどそのように見える。そしてこの構図はそこここに見え隠れする。今回、この体質が追及されるのであれば、それもまた画期的なことだ。判決文の新時代を感じさえする。

 逆にいうと、現場を見もしないで、判断できることなど一つもない。今まで多くの裁判の裁判官が、現場も見ずに書面や弁論だけで判断し判決を出してきたとしたら、それはなんなのだろうと考えさせられもする。

 

「わたしの家を知りませんか」と浪江で見かけた女性は言った

 頻繁にではないが、わたしは福島を訪ねた。告白すれば、東京に住み親戚を福島に持つわけでもないわたしにもまた、福島に起きたことを「忘れている」という特権はあった。人々の、人生をもぎ取られたような行き場のない怒りや悲しみのことも。  

 実際、忘れていることは、時には年単位だった。だが、知り合った原告団の心温かい人たちのことは、折に触れ心をよぎった。思い出したように連絡しても、彼らはあたたかかった。弁護団の不断の奮闘のことも、わかっていた。わたしは今、忘却するのをやめようと思う。『星の王子さま』のキツネの台詞を思い出す。「仲良くなるとは、セキニンが生じること」。忘れずにいる。たとえそれが遠い星の出来事に思えても。いや、遠い星くらいに、どこでも見たことのない風景にされていく土地のことを、忘れずにいる。

 福島は、訪ねるたびに「きれい」には、なった。おしゃれな道の駅ができる、とか。

 映像に撮ってそれだけ見せるなら、たしかに「復興」は進んだように見える。

 今から約2年前。浪江町を編集者と取材で回ったとき、こんなことがあった。

 道路沿いの仮設的飲食店がひと並びする一角で、午後に食事をとった時のことだ。

「わたしの家を知りませんか? 実家の場所がわからないんです」

 入ってきて、飲食店の店主に、尋ねる女性がいた。見たところ60代ではなかったかと思う。きちんとした物腰の人だった。バスで着いたばかりで、そこから彼女の実家のありかが、わからないのだという。飲食店の店主は、わかりませんといった。土地の人間ではないようだった。店員は外国人だった。女性の問いは宙に浮いていた。

 彼女は認知症などではなかったと思う。だがそれは、認知症が誘発されそうな風景だった。

 町というものが、町単位で、更地になっていくのだ。

 見慣れた街並みでも、どこかが壊され更地になったり新しいビルが建ったりするとき、そこに前に何があったかを私たちはなかなか思い出せない。それが町単位で起きた時、人の記憶がどうなるのか、人の心がどうなるのか、ほとんど想像がつかない。そこから本当の認知症を発症してしまいそうなくらいの、トータルな喪失。

 自分の中にある、帰れない場所のことを思う。とても個人的なことではあるけれど、失った家のことを思う。それは心の中にだけ保存された場所があるような感じだった。けれどわたしは、町に帰ることは、できたのだ。生まれた町に行って、ああここが母と手をつないで歩いた昔ながらの商店街、だとか、通学路とか、ファーストキスの場所だとか、すべて、まだ行くことができる。

 福島では、町が消える。

 あなたも訪ねてみるといい。できれば、その町の昔の(と言っても2010年くらいの)画像と一緒に。そして、そこに自分の家があったと仮定して、家の周りまで、すべてのものがなくなってしまったことを、あなたはどう感じるか。感じてみてほしい。生まれ育った町、長年住んだ町に行って、思い出をたどれる場所が、何ひとつないとは、どんなことか。まるで、そんな記憶がある自分のことを、疑ってしまうような風景ではないのか。それは最も深い深い自己否定ではないのか。

 それはなかなかしにくい想像だ。だけれど、しにくい想像をこそするために、想像力は、人間にあるのだ。

 それは、想像力にしか、できないことだから。

 

 わたしたちが戦わなければいけないのは、被害そのものもさることながら、それを「なかったことにしようとする力」だ。原発事故にとどまらない。いじめも、モラハラやパワハラも。戦争があったことさえ。何もかも、そうなのだ。

(了)

プロフィール

赤坂真理

東京都生まれ。2012年に天皇の戦争責任をアメリカで問われる少女を描いた『東京プリズン』(河出書房新社)が反響を呼び、毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞、紫式部文学賞を受賞。その他著書に『ヴァイブレータ』(講談社文庫)、『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)、『箱の中の天皇』(河出書房新社)、『愛と性と存在のはなし』(NHK出版新書)などがある。

 
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