ガザの声を聴け! 第43回

2018年7月「なんのために苦労してきたのか」

清田明宏
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Clip to Evernote

今から70年前の1948年、第1次中東戦争が起き、当時のパレスチナの地が戦火に巻き込まれた。命の危険を感じたパレスチナ人が約80万人、近隣のガザ地区、ヨルダン川西岸(当時はヨルダン統治下)、ヨルダン、レバノン、そしてシリアに避難した。多くの人は1、2週間の一時避難と考えており、戦火が収まり次第、家に帰るつもりだった。しかし実際は全く違った。二度と戻れなかったのだ。

 

それから70年、彼らの難民生活は続いている。ナジュワさんの祖父も当時のパレスチナの地を離れ、遠くシリアに避難した。

 

あの時、70年前のあの時に、もう少し我慢し、避難せず、そのまま当時のパレスチナの地にとどまるべきだった、と話すパレスチナ難民は少なくない。そうすれば難民にはならなかった。70年も難民生活をすることもなかった。もちろん、当時の状況は複雑・危険で、単純に残ることを決断できる状況ではなかった。ただ、あの時逃げなければ、という忸怩たる思いがあるのだ。

 

ナジュワさんの父親もそうだ。1948年と同じ間違いを犯したくない。自分の家を守りたい、そして将来内戦が終わったら、また生活を始めたい。その思いでヤルムークに残った。

 

シリアにいるパレスチナ難民の多くにとって、ヤルムークは心の拠り所だ。国内最大のパレスチナ難民キャンプ。そこでは難民が互いに寄り添い、一緒に生活をする。故郷パレスチナの地に帰る日まで、そこで生きて行く。懸命に仕事をして、そこに家を建てる、アパートを買う、子供を育てる。生きて行く証だ。もちろんシリア国内にはヤルムーク以外にも難民キャンプはあるが、ヤルムークが持つ意味は象徴的で重いものだ。

 

2018年春にダマスカス近郊の反政府側の地域を政府側が次々掌握していった。政府側のヤルムーク奪回の活動が始まった時、パレスチナ難民の多くが、いよいよ我々もヤルムークに帰れるのだ、以前の生活が始められるのだ、との思いを強く持ったそうだ。実際、「ヤルムークに帰る!」というフレーズは内戦中、パレスチナ難民の間で共通の標語でもあった。

 

しかし、その父親の思いは、無残にも壊された。最も悲惨な形で。

 

政府側と反政府側の間のヤルムークの攻防は2018年4月に始まり、5月20日過ぎまで続いた。その間両者間の交渉も進んではいたが、やはり戦闘行為は激化し、ヤルムークの多くの家が崩壊した。

 

ナジュワさんの父親もずっと家に残り、戦闘が終わるのを待っていたが、避難せざるを得ない状況になった。父親はヤルムークの隣のヤルダに避難したそうだ。そしてその直後、家が砲撃で完全に壊された。

 

現在、昔そこに住んでいたパレスチナ人は、ヤルムークを訪問することが可能になっている。ナジュワさんも最近、2012年に避難して以来、初めてヤルムークを訪問し、完全に崩壊した家を(家の跡を)見た。

 

「そのことについて、お父さんはなんて言ったの?」とナジュワさんに聞いてみた。

 

すると、「こちらが家の状況を説明しようとすると、お父さんは『そんなことは聞きたくない。必死の思いで苦しい中守り通した家のこと、1948年の間違いを決して再び繰り返さないために残ったあの家のことは聞きたくない。なんのために苦労してきたんだ!』と強い口調で言ったのよ」とナジュワさんは言った。

次ページ  終わりなき始まり
1 2 3 4 5
 第42回
ガザの声を聴け!

1961年福岡県生まれ。国際連合パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA=ウンルワ)の保健局長で医師。高知医科大学(現・高知大学医学部)卒業。世界保健機関(WHO)で約15年間、中東など22カ国の結核やエイズ対策に携わった。2010年から現職。中東の結核対策では、患者の服薬を直接確認する療法「DOTS」を導入し、高い治癒率を達成。その功績が認められ、第18回秩父宮妃記念結核予防国際協力功労賞を受賞した。

プロフィール

清田明宏
1961年福岡県生まれ。国際連合パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA=ウンルワ)の保健局長で医師。高知医科大学(現・高知大学医学部)卒業。世界保健機関(WHO)で約15年間、中東など22カ国の結核やエイズ対策に携わった。2010年から現職。中東の結核対策では、患者の服薬を直接確認する療法「DOTS」を導入し、高い治癒率を達成。その功績が認められ、第18回秩父宮妃記念結核予防国際協力功労賞を受賞した。
 
集英社新書公式Twitter 集英社新書Youtube公式チャンネル

プラスをSNSでも

Twitter, Youtube

2018年7月「なんのために苦労してきたのか」

;