集英社新書WEB連載
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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第九章 「三田文学」永井荷風の責任編集で創刊

新時代の文学をリードする「早稲田文学」の復刊

 日露戦争に勝利したあと、日本が欧米列強に伍する強国としての地位を獲得し、日本全体がバブルな上昇機運に舞い上がるなか、文学の世界でも、正に20世紀近代の文学を担うにふさわしい小説家や詩人が現れ、今こそ新しい時代の文学をという機運が漲ってくる。すなわち、乃木大将の率いる第三軍が、難攻不落の旅順を陥落させたという報道に日本中が沸き上がった明治38(1905)年の1月元旦には、東京帝国大学文科大学英文学科講師夏目漱石が、俳諧雑誌「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を発表し、一躍国民作家としての名声を獲得。それ以降、『坊ちゃん』、『草枕』……と、古今東西にわたる浩瀚な知識と縦横無尽の言語表現力を駆使して、ユーモアと文明批評のスパイスを利かせた小説を立て続けに発表していく。

 漱石はさらに、明治40(1907)年には、専属小説家として朝日新聞に入社し、第一回作品として『虞美人草』を連載、以後『坑夫』、『三四郎』、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』、『道草』、「明暗」……と、自己の生と存在の根底にわだかまる闇を見据えて、日本近代文学史における金字塔とでもいうべき重要な作品を、旺盛な筆力で次々と発表していくことになる。

 一方、「若菜集」(1898年)や「落梅集」などロマンチックな叙情詩集で名を挙げていた島崎藤村は、明治39(1906)年3月に『破壊』を自費出版し、自然主義小説家に転身することに成功し、以後『春』、『家』と発表、田山花袋は翌40年9月に『蒲団』を「新小説」に発表、41年には『生』を読売新聞に連載し、さらに42年には『田舎教師』を佐久良書房から刊行、自然主義を代表する小説家として、藤村と並ぶ地位と名声を不動のものにしていた。

 さらにまた、国木田独歩も、日清戦争終結後に書き始めた『源叔父』とか『武蔵野』、『忘れ得ぬ人々』、『運命論者』、『正直者』といった短編小説が、日露戦争後、『独歩集』(1905年)、あるいは『運命』にまとめて刊行され、自然主義文学の先駆けとして評価を高めていた。

 このようにして、自然主義的文学作品が、日露戦争勝利後、雨後の筍のように出現してくるなか、それらを一つの流れに結集し、時代をリードする文学思潮のメイン・ストリームに押し上げるうえで、決定的に重要な役割を果たしたのが、明治35(1902)にヨーロッパに留学し、およそ3年間、イギリスのオックスフォード大学やドイツのベルリン大学に学び、新帰朝してきた島村抱月を編集主幹に迎え、明治39年1月に復刊された「早稲田文学」であった。

 ヨーロッパ留学中は、数多く演劇の舞台に接し、近代演劇の何たるかを見極め、日本帰国後は日本の演劇の近代化に全力で取り組もうと決意を固めて帰国してきた抱月ではあったものの、早稲田大学文学科の大御所坪内逍遥の強い要請を受けて、文学科の講師に就任、さらに「早稲田文学」の編集主幹につき、明治31(1898)以来、廃刊になっていた同誌を復刊させることとなる。抱月は、自身が日本を不在にしていた間に、島崎藤村が『破戒』を書いて自然主義文学台頭の先鞭をつけ、さらに田山花袋が、日本の近代小説において初めて「性欲」を主題とした小説とされる「蒲団」を書いて大センセーションを巻き起こし、さらにまた国木田独歩が、日露戦争前から書き継いできた小説が、自然主義の先駆けとして注目されるなど、自然主義文学が、日露戦争勝利後の文学空間にあって、新時代の文学をリードする主役、あるいは原動力として、目覚ましい上昇気流に乗ろうとしている状況を目の当たりにして、ここにこそ20世紀日本文学の可能性があると見極める。

 そのうえで、抱月は、藤村や花袋、独歩、さらには早稲田大学文学科卒業で読売新聞の文芸記者をしていた正宗白鳥など自然主義小説家に誌面を与え、作品を発表させていく。そして、自ら明治39年5月発行の「早稲田文学」に「『破戒』を評す」という評論を寄せ、「『破戒』はたしかにわが文壇に於ける近来の新発現である。余は此の作に対して、小説壇が初めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪へぬ。欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に傳はつた生命は、此の作に依て初めて我が創作界に対等の発現を得たといつてよい」と高く評価し、「最も鮮やかに新機運の旌旗」を掲げたものとして、「余は此の作品に満腔の敬意を捧げぐるに躊躇しない」と絶賛したのである。

 抱月はさらにまた、田山花袋の『蒲団』についても、明治40(1907)年10月発行の「早稲田文学」に「『蒲団』を評す」という評論を寄せ、「此の一篇は肉の人、赤裸々な人間の大胆なる懺悔録である。此の一面に於いては、明治に小説あつて以来、早く二葉亭風葉藤村等の諸家に端緒を見んとしたものを、此の作に至つて最も明白に且意識的に露呈した趣がある。美醜矯める所なき描写が、一歩を進めて専ら醜を描くに傾いた自然派の一面は、遺憾なく此の篇に代表せられてゐる。醜とはいふ篠、已みがたい人間の野生の声でもある、それに理性の反面を照らし合わせて自意識的な現代性格の見本を、正視するに堪えぬまで赤裸々にして公衆に示した。之が此の作の声明でまた価値である」と、花袋が、性欲という「已みがたい人間の野生の声」を「告白」という形で「赤裸々にして公衆に示した」ことを、小説「蒲団」の「生命」であり、「価値」であると評価する。

 そのかたわら、抱月は明治41年には、「文芸上の自然主義」と「自然主義の価値」を「早稲田文学」に発表し、自然主義文学運動の理論的指導者としての地位を確立、さらに、片上天弦や相馬御風、中村星湖ら早稲田大学文学科卒業の評論家や小説家が、「早稲田文学」の編集に加わり、次々と自然主義文学を擁護し、自然主義文学の20世紀文学としての正当性を主張する論陣を張ったことで、「早稲田文学」は、自然主義文学の拠点、あるいは牙城として、日本近代文学の新展開をリードしていくこととなる。

ドイツ留学中の島村抱月。ロンドンおよびベルリン留学中は、もっぱら演劇の舞台を見て回り、近代演劇の何たるかに理解を深めて帰国した。右の図(2)は、明治43年1月に復刊された第二次「早稲田文学」に掲載された「早稲田文 學再興の辞」。島村抱月自身が書いたもの


 自然主義文学が、日露戦争後の文学空間にあって、いかに強いインパクトを持っていたかは、明治23(1980)年に「国民の友」に発表した『舞姫』に端を発し、『うたかたの記』、『文づかひ』と連なる新帰朝者小説を発表しながら、明治24(1891)年に「早稲田文学」と「しがらみ草紙」を舞台にして、坪内逍遥と「没理想論争」をかわして以来、小説の筆を断ってきた森鷗外が、短歌雑誌「明星」の廃刊を受けて、明治42年1月に、与謝野鉄幹・晶子夫婦らと共に、ロマン主義的文学の創造を志向する文芸雑誌「スバル」を創刊、それを機に、自身と妻、そして自身の母親との三角関係における妻と母親の対立と葛藤の板挟みになって苦労する自身の「家長」としての日常生活体験に基づいて書いた、多分に自然主義的小説『半日』をスバル」に発表、さらにこれまた自然主義的色合いの濃い性的自伝小説「ヸタ・セクスアリアス」を発表して、新時代の小説家として再起してきた事実にもうかがわれる。

 あるいはまた、それまでユーモアのスパイスを利かせた饒舌な文体で『吾輩は猫である』に始まり、『坊つちやん』や『草枕』を立て続けに発表し、「高踏派」と呼ばれてきた夏目漱石が、明治42(1909)年発表の『それから』以降、『門』、『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』、『道草』、『明暗』と、自身の内面の孤独と自己の存在そのものに対する根源的懐疑、あるいは妻や子供や愛の対象としての女性との対的関係性に対する本能的恐れや不協和の感覚、さらにはもっと広がって、社会とか国家とか世界といった全体集合的共同性に対する生理的嫌悪と異和の感覚を徹底的に見据えた作品を執拗に描き続けたのも、人間の生の暗く、重い現実を見据え、克明に記述することを建前とする自然主義文学の影響と見ることができるだろう。このように、自然主義は、自然主義小説家の枠を超えて、本来非自然主義的立場に立つ小説家にも影響を与えつつ、時代の文学表現のメイン・ストリームとして、日本の20世紀近代文学の展開に決定的影響を及ぼしていたのである。

 ただしかし、自然主義文学のパイオニア「早稲田文学」と「早稲田文学」を作品発表のよりどころとした自然主義文学者たちだけが、日露戦争勝利後の日本の近代文学の新展開を宰領し、リードしていったわけではなかった。確かに、「早稲田文学」と早稲田派の小説家や評論家たちの唱道する自然主義文学が、「自然主義にあらざれば、文学にあらず」といった形で、日本の近代文学界を制覇したかに見えた時期はあった。ただしかし、それは高々2年か3年のことであり、明治末期から大正期にかけての文学空間が、自然主義一色で塗りつぶされたわけではなかった。

 すなわち、上述の森鷗外を筆頭に、夏目漱石、永井荷風らに加えて、志賀直哉や有島武郎、武者小路実篤らの「白樺派」の小説家や反道徳的耽美主義を標榜する谷崎純一郎などなど、新しい文学者が続々と時代の最前線に躍り出てきた。そしてそれに対応するようにして、明治40年10月には小山内薫によって「新思潮」が創刊され、さらには41年10月創刊の短歌雑誌「アララギ」、42年1月創刊の「スバル」、同年10月創刊の「屋上庭園」と文芸雑誌の創刊が相続き、43年4月には武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎など学習院卒業者を中心に「白樺」が創刊される。さらに加えて、明治41年12月には、北原白秋や木下杢太郎、吉井勇、石井柏亭らの詩人と画家たちによって、より鮮明に反自然主義的で、ロマン派的、かつ耽美主義的芸術表現を志向する自由結社「パンの会」が結成され、明治末期から大正初期にかけて、日本近代文学の可能性とその展開を一層多面的、複層的で、モダンかつ色彩とバラエティに溢れるものにしていったのである。

 このように、自然主義と反自然主義的志向性が渦を巻くようにして時代の文学思潮をリードし、新しい文学の扉が次々と開かれようとしていくなか、新たに「スバル」を模しつつ、「スバル」以上にモダニズムの装いをこらし、軽快な足取りで、20世紀日本近代文学の舞台に躍り出てきたのが、永井荷風を編集主幹に据え、慶應義塾大学部文学科の機関雑誌(正確には文学科の学生たちによって組織された「三田文学会」の機関誌)として創刊された「三田文学」であった。

「三田文学」わずかに2か月で創刊される

 すでに何度か指摘したように、永井荷風が、慶應義塾大学部文学科教授に抜擢された理由には、文学科創設以来20年も経とうというのに、在学生は毎年20人に足らず、早稲田の文学科の卒業生数が毎年40名を超えていたのに対して、慶應は高々2~4名程度に終始し、名のある小説家や詩人、評論家も出すこともなく、あってもなくてもいいような存在に終始し、「もう廃止してしまっては……」という声まで出ていた文学科の教授内容を一新し、ライバルの早稲田大学の文学科に匹敵する学科に一新させようという狙いのほかに、もう一つ、文学科の機関文芸雑誌「三田文学」を荷風の責任編集で創刊させることにあった。

 おそらく、慶應側としては、最初は森鷗外、あるいは上田敏に責任編集をと考えたのだろうが、鷗外はすでに「明星」廃刊の後を受けて、与謝野鉄幹・晶子夫妻らと共に「スバル」を創刊させ、同年3月に初めての口語体小説「半日」を、7月には自身の性的体験を回顧して書き、発禁処分にあった『ヰタ・セクスアリス』を同誌に発表するなど、「スバル」を作品発表の主要舞台として、旺盛に創作意欲を回復させ、小説家として復帰していこうとしていた。それだけに、新雑誌の創刊に関わることは到底できず、編集顧問に収まった。また上田敏も、京都帝国大学文学部教授として京都を離れることができないため、編集を引き受けることができないということで、編集顧問として名を残すに留まった。結局、鷗外や敏の代わりとして、鷗外や敏が新任教授にと推挙した永井荷風に「三田文学」の編集も任せようということになったものと思われる。

 「三田文学」創刊号に荷風自身が寄せたエッセイ「紅茶の後」の冒頭に置かれた「三田文学の発刊」の記述によると、荷風が慶應側から教授就任と「三田文学」編集主幹就任の委嘱を正式に受けたのが、明治43(1910)年の2月のことであり、4月の18日に荷風の講義が始まり、5月1日に「三田文学」創刊号が発行されていることを考えると、執筆者選定から、原稿の依頼、集まった原稿のチェック、具体的な編集作業、表紙のデザインを含めて雑誌の装丁のデザインの決定、校正、さらには次号の執筆者の選定と書いてもらう原稿のタイトルの決定、さらに加えて広告集め……やらなければならないことは山ほどあったのにもかかわらず、電話はまだ一般家庭には普及せず、ファックスとかパソコン、コピー・マシンなど便利な通信・情報手段が存在せず、原稿の依頼は、狙いをつけた書き手に手紙を書くか、本人が住んでいるところまで足を運び、直接面談の上で依頼するしかなかった。

 荷風は、そうした雑誌創刊にかかわる仕事を、文学科の学生だった井川滋の手助けで、わずかに2か月の間にやり遂げたわけで、その苦労は並大抵のものではなかったはずである。そうした苦労を、荷風は「三田文学」創刊号に寄せた「紅茶の後(随筆」のなかの一篇「『三田文学』の発刊」で以下のように記している。

  自分は手紙を沢山書いた。車に乗つて今まで訪ねた事のない人々を訪ねた。大方は本郷小石川のはづれか牛込の奥で、杉垣つきの分かりにくい番地は村園門巷多相似、処々春風枳殻花の句を思はせる。明治の文人墨客の想いに電車の終点を離る事幾丁、冬ならば霜解、春ならば雨の泥濘(ぬかるみ)のなかへ乾かない新開の町の彼方(あなた)に潜んで、想(おもひ)をねり筆を磨いてゐるのであつた。

 雑誌の編集、それも創刊号の編集という仕事は、荷風にとって初めてのことであり、普通であれば、編集長、あるいはは編集主幹の下に何人かスタッフがついて、原稿の依頼交渉や進捗状況の確認、書き上がった原稿の受け取り、内容のチェックなどの仕事はそのスタッフが行うものであるが、「三田文学の発刊」を読むと、荷風は、それまで雑誌の編集の仕事にかかわったことがなかったのにも関わらず、そうした仕事を、わずかに学生の手助けを得てやり遂げたようである。ずいぶんと慣れないことも多く、試行錯誤の連続だったと思われるが、とにもかくにも創刊号は、明治43(1910)年5月1日に発行された。

大正モダニズムを先取りする斬新な表紙のデザイン

 永井荷風は、慶應の側から文学科教授就任と同時に、機関雑誌の編集主幹の仕事を委嘱されたとき、「早稲田文学」に引けを取らないような雑誌を刊行してほしいと、強く要望されたはずである。そのため、荷風は、「敵に勝つには敵をよく知る」の例え通り、「早稲田文学」をよく研究し、大学文学科の機関雑誌として、雑誌の名称や、雑誌の顔といってもいい表紙のデザインなど外形的なところで、取り入れるべきところは取り入れる一方、執筆者の陣容や掲載する原稿の質や内容の面では徹底的に差別化を図り、新機軸を打ち出そうとした。

 荷風に幸いしたのは、前の年に森鷗外の肝入りで、文芸雑誌「スバル」が発刊され、石川啄木を編集・発行人として、創刊されていたことであった。当然荷風は、新雑誌を創刊するにあたって、ライバルである「早稲田文学」と、反自然主義的スタンスでは同盟ともいうべき「スバル」を入念に分析し、雑誌の表紙のデザインから、装丁、執筆者の選定や原稿の内容などなど、二つの先行誌から取り入れるべきところは取り入れつつ、差別化を徹底して図ることで、新時代に新風を送るにふさわしい斬新で、モダンな雑誌を作ろうとした。

 さて、それなら、荷風はどのようにして、「早稲田文学」と「スバル」との差別化を図ったのか。雑誌そのものの名称及び表紙のデザインから見ていくことにしたい。雑誌のタイトルにかんしては、当初、慶應側は「早稲田文学」に対抗して「慶應文学」を要求したはずだが、それでは、あまりに早稲田大学に対する対抗意識が出すぎるということで、退けられた。そして、2年前の明治41年に学生たちの組織として「三田文学会」が立ち上げられ、学生たちの間で文学科の刷新について議論が交わされた際に、機関雑誌発行のことが議論され、「早稲田文学」に対抗して、機関雑誌として文芸雑誌を刊行しよう、それには名前は、「早稲田文学」との差別化を図る意味でも、「三田文学」にしよういう話が出ていたこともあって、「三田文學」に落ち着いたということのようである。

 だがしかし、慶應義塾のキャンパスが三田にあることを知らない読者には、「三田文学」が慶應の文学科の機関雑誌であることは分からない。表紙であれ、裏表紙であれ、何らかの形で雑誌が慶應義塾とかかわりのある雑誌であることを示すものが必要であった。そのため、下の図4に見るように、裏表紙に「文芸の嗜みは人の品性を高くし精神を娯ましめ之を大にすれば社会の平和を助け人生の幸福を増すものなれば亦是れ人間要務の一なりと知るべし」」と、墨筆で書かれた福沢諭吉の「真蹟」が掲げられたのである。

 ところで、図(3)に見るように、表紙に書かれた「三田文學」の漢字表記は、「早稲田文學」が隷書で表記されているのに倣って隷書体で書かれ、「早稲田文學」と同じ大学文学科の機関雑誌であることを読者に印象づけつつ、かつ、図6に見るように「早稲田文學」が表紙の左側に、「早稲田文學」と白抜きで刻した印璽が黒く縦に捺されてされているのに対して、「三田文学」の方は黒地の囲みを排し、淡いレモン・カラーの表紙の右側に直接、黒の字体で「三田文學」と刻印され、明確に差別化が図られている。

明治43年5月1日発行の「三田文学」の表紙。藤島武二のデザインによる。
右の図(4)は、創刊号の裏表紙に印刷された文学の尊さを説いた福沢諭吉の真蹟


 さらにまた、図3に見るように、淡いレモン色の表紙の右手上方には「三田」の「田」字を四葉のクローバーに見立て、紅茶の色を思わせる茶色に塗られたロゴを三つ横に並べ、それぞれの「田」のクローバーの葉を流線型にしなう型で支え、表紙左下に流れる淡い緑色の細い茎とそれを握る左手を、これも茶色であしらったデザインは、明らかに図5に見る「スバル」創刊号の、濃いひげを生やし、太い棍棒を手にした牧夫ががニンフを追いかける古代ギリシャの壺絵風の画像をあしらったモダンで、しゃれたデザインを見習ったものである。

 それはまた、2か月遅れて発行された図6の「早稲田文学」7月号の、人間の生の暗く、重い事実、あるいは実相を、地を這うような文体で克明に記述していくことを旨とする自然主義文学の牙城としての文学雑誌にふさわしい厳格、かつ重厚な表紙デザインと比べて、いかにも軽やかで清新、かつ新時代の文芸雑誌にふさわしく都市的で、モダンな感覚に溢れたものであり、ある意味ではやがて来る大正モダニズムを先取りするものであった。

明治42年1月創刊の「スバル」の表紙。右の図(6)は「三田文学」創刊号より2か月遅れて、明治43年7月に発 行された「早稲田文学」の表紙。篆書体で彫られた印璽を大きく朱色で捺し、その左に黒地に白抜きで「早稲田文學」 と隷書で刻したデザインは、いかにも硬く、重々しく、旧時代の雑誌という印象を与える。


目次や本文の構成面でも徹底して「早稲田文学」との差別化がはかられる

 以上見てきたように、雑誌の名称や表紙に印刷されたロゴのデザインにおいては、「早稲田文学」を踏襲しつつ、表紙全体のデザインにグラフィックな要素を取り入れ差別化がはかられたことで、「三田文学」は、新時代の雑誌にふさわしい斬新なイメージを持って誕生したわけだが、「早稲田文学」との差別化は、さらに目次や本文ページの構成とデザインの面でも徹底的に図られていた。すなわち、「三田文学」は、表紙をめくると裏に、図(7)に見るように10本の掲載作品のタイトルと「表紙絵 藤島武二」にはじまる目次が記されている。
 そしてその目次には、図7に見るように10本の掲載作品のタイトルと9名の執筆者の名が列記されていて、いかにもシンプルな構成で、しかもそれぞれの作品家の掲載ページが記入されてないことで、一層シンプル感を際立たせている。この目次の表記がいかにシンプルかということは、右の図8の「早稲田文学」の明治40(1907)年7月発行の第19号の目次や、図(9)の「三田文学」創刊号より1か月前の明治42年12月1日に発行され、荷風の出世作『すみだ川』が巻頭に掲載された「新小説」の目次の煩雑さと比べてみれば明らかである。

明治43年5月1日に創刊された「三田文学」の目次。右は、「三田文学」創刊号より 2か月後の7月に発行された「早 稲田文学」の目次。いかに「三田文学」の目次がシンプルで、明るく軽快で、モダンであるかが分かる


 一見して明らかなように、「早稲田文学」、「新小説」ともに、掲載されている作品数と執筆者数が圧倒的に多く、しかも「早稲田文学」は、全体が「本欄」と「彙報」と「附録」の三つに分けられ、「本欄」が早稲田の文学科とかかわりのあるなしにかかわらず、例えば、明治42年の3月号に、反自然主義の一方の旗頭とも言うべき永井荷風の『監獄所の裏』が掲載されているように、文学的志向性が自然主義とは違う文学者が書いた小説や詩や戯曲、評論の原稿でも載せることを建前としたオープン・スペースであった。これに対して、「彙報」の方は、「社会」や「文芸界」、「文学消息」など、ジャンルに分けて、早稲田の文学部とかかわりのある記事が掲載されることで、クローズドなスペースとなっていた。さらにまた、「附録」としては、自然主義文学者の小説やシェークスピアやイプセンの戯曲の翻訳などが掲載されることになっていた。このように雑誌が、三つのスペースに分けられ、それぞれにかなりの数の執筆者が原稿を寄せているため、その目次の表記は、「三田文学」と比べると、いかにも煩雑で、窮屈かつ重苦しい感じがする。

 一方、「新小説」の方も、図(9)に見るように、「本欄」にはじまり、「思潮」、「雑録」、「 談」、「寸鉄、「譚叢」、「芸苑」……と、トータルで13ものジャンルに分かれ、「懸賞吟詠」として、和歌や俳句、狂句など読者の投稿欄まで用意されている。つまり、「早稲田文学」も「新小説」もともに、文学に関わる全てのジャンルを網羅し、活字にするに値すると思われる原稿の全てを掲載するという方針で、できるだけたくさんの不特定大多数の読者の希望に応えるべく雑誌が作られていることが分かる。

 これに対して、「三田文学」の方は、作品名の下にかなりスペースを空けて、執筆者名が記されているだけで、ジャンル分けも、ページの表記もなく、きわめてシンプルで、清新なイメージに溢れている。言い換えれば、「早稲田文学」や「新小説」が内容の量の大きさと重さで勝負しようとしているのに対して、「三田文学」の方は量的には軽少であるものの、一つひとつの作品のシャープな切れ味と質の高さ、さらには味わいの深さで勝負しようとする姿勢が打ち出されているといえよう。

永井荷風の出世作『すみだ川』が巻頭に掲載された文芸雑誌「新小説」の目次


 そうした「三田文学」の基本姿勢は、本文の構成にも明確に打ち出されていて、最初に驚かされるのは、掲載作品のタイトルの下に執筆者の名がクレジットされておらず、原稿の末尾に記されていることである。ここにおいても、執筆者の名前の大きさや重さとかかわりなく、作品自体を前面に押し出そうとする姿勢が明確に読み取れる。

 次に一ページずつの構成を見ていくと、文字の組立ては、「早稲田文学」が縦26文字X横17行であるのに対して、「三田文学」は縦24文字X横16行と幾分少なく、そのせいでそれぞれのページ及び雑誌全体から受ける印象が窮屈で重苦しいという感じを免れているといえる。さらにまた、「早稲田文学」や「新小説」では、小さな活字による二段、三段構成のページが少なからずあるのに対して、「三田文学」は、最初から最後まで一段構成で組まれており、一冊の総ページ数も、各号平均して「早稲田文学」が少ない時で150ページ程度、多い時で300ページを越える分量で、「新小説」も各号平均して300ページを超えるのに対して、「三田文学」は120~150ページ前後に抑えられている。

慶應義塾及び森鴎外と縁の深い執筆陣

 次に、掲載された作品の執筆者についてみてみると、荷風一流の戦略的配慮から、執筆者が慎重に選ばれていることが分かる。すなわち、「早稲田文学」が、掲載するに値する作品はすべて掲載するというポリシーで、「本欄」では、早稲田とかかわりのない執筆者にもスペースを提供していたのに対して、「三田文学」は創刊されたばかりの雑誌であり、文学の世界に実績もないし、人脈も乏しいということもあって、表紙をデザインした藤島武二にはじまり、原稿執筆者のうち冒頭の森鷗外を筆頭に、野口米次郎、木下杢太郎、三木露風、馬場孤蝶、永井荷風、山崎紫紅と最初から7人までが、森鷗外及び慶應義塾と縁の深い文学者が選ばれており、残りの黒田湖山と深川烏雨の2人も、永井荷風の長年の文学仲間である……ということと、その荷風が慶應の文学科の教授であるという意味で、この二人もまた間接的ではあるもの慶應義塾とつながりのある文学者だということになる。

 以下、それぞれの執筆者と慶應とのかかわりについて概略見ていくと、表紙をデザインした藤島武二は、明治の末期から大正、昭和の初めにかけて文展や帝展に作品を発表する傍ら、東京美術大学(現在の東京芸術大学)の教授を務め、日本の近代洋画界の重鎮として重きをなした画家であった。慶應とは直接的かかわりはなかったものの、前述したように森鷗外の主宰する「観潮楼歌会」を通してかかわりのあった与謝野鉄幹・晶子夫妻の主宰する短歌雑誌「明星」の表紙を手掛けていたことと、鷗外が鉄幹夫妻と共に創刊した「スバル」の挿絵を描いていたことなどから、鷗外とは面識・交友があり、鷗外の勧めで表紙のデザインを受け持ったものと思われる。

 次に、巻頭小説として「桟橋」を寄せた森鷗外は、前述したように明治25(1892)年以来、慶應義塾の文学科で審美学を講じ、荷風招聘にともなう文学科刷新に際しては、文学科と「三田文学」の顧問に就任するなど、慶應と縁の深い文学者であった。英詩「The morning glory」を寄せた野口米次郎は渡米以前に慶應義塾に籍を置いたことがあり、日本帰国後は母校の文学科教授として後進の指導に当たっていた。また小説も書き、詩も書き、戯曲も書き、「スバル」から刊行された吉井勇の短歌集『酒ほがい』に挿絵を寄せるなど、文学だけでなく、絵画の面でも特異な才能を有し、当時正に新進気鋭の小説家として、また詩人、戯曲家として売り出し中であった木下杢太郎も、東京帝国大学医科大学卒の医師が本業であり、鷗外とかかわりの深い文芸雑誌「スバル」の寄稿家であったことで、おそらくは森鷗外が推したものと考えられる。

「三田文学」の表紙をデザインした藤島武二。当時、東京美術学校の教授を務めるかたわら、作品を文展や帝展 に発表していた。右は、1909年制作の「黒扇」。藤島の最高傑作とされている


 木下杢太郎に次いでモーパッサンの短編『ブウル・ド・シュイフ=脂肪の塊』の翻訳を寄せた馬場孤蝶は、卒業こそは島崎藤村と同期の明治学院であったが、慶應義塾の分校と目されていた三菱商業学校に籍を置いたことがあり、森鷗外ともかかわりが深く「スバル」にも寄稿、さらに明治39(1906)年には、荷風より4年早く慶應義塾文学科の教授に就任している。

 次に、明治39年、17歳の若さで処女詩集『夏姫』を上梓し、2年後の41年には第二詩集『廃園』を刊行、「早稲田文学」にもたびたび寄稿し、21歳の若さですでに象徴派の詩人として知られていた三木露風は、最初は早稲田の文科に入学したが、荷風が慶應義塾文学科教授に就任した年に慶應の文科に転向してきた、早熟の詩人であった。

レストランでくつろぐ永井荷風(左)と馬場辰猪(右)。
右は「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」展のポスター


青年時代の三木露風。荷風が慶應義塾文学科教授に就任した年に、早稲田大学文学科から慶應の文学科に転学。 早熟の詩人で、そのとき、20歳の若さであったのにもかかわらず、象徴派の詩人として知られていた。右は 慶應義塾理財課卒が縁で「三田文学」の発売元を引き受けた籾山庭後


 次いで、「着物」を寄せた山崎紫紅は、あまり名を聞いたことがない書き手であるが、当時は戯曲の著者として知られ、森鷗外の弟の三木竹二が編集・発行していた演劇雑誌「歌舞伎」にたびたび寄稿していた関係で、鷗外とも面識があったはずで、その縁で「三田文学」の創刊号に寄稿することになったものと思われる。

 最後にもう一人、慶應関係者として忘れてならないのは、雑誌の発行を引き受けた籾山庭後(仁三郎)で、明治34(1901)年に慶應の理財課を卒業している。「三田文学」の発行をゆだねられたとき、籾山は、出版社籾山書店を経営し、内藤鳴雪や高浜虚子、河東碧梧桐らの俳書を刊行するかたわら、森鷗外や夏目漱石、谷崎潤一郎、島崎藤村、泉鏡花ら、当時すでに有力小説家と見られていた文学者の著書を少なからず刊行し、良心的な文学書の出版社として評価されていた。そうしたことがあって、「三田文学」発行の話が持ち込まれたものと思うが、荷風は、籾山に初対面したときの印象について、後年、日記のなかで「言語態度の非常に礼儀正しく沈着温和上品」と記している。このことからも分かる通り、荷風は出版人としての庭後を信頼し、「三田文学」の発行人を引き受けるからには、営利を度外視して「三田文学」を俗化から守ることを要請。庭後はそれを了承し、引き受けてくれた。そうした意味で、「三田文学」の創刊号が、営利を無視して贅沢な装いと内容でスタートできたのは、荷風の意向を酌んだ籾山庭後の配慮と努力によるものであったといえよう。

荷風の文学仲間から選ばれた二人の文学者

 さて最後の二人の黒田湖山と深川夜烏は、永井荷風の文学上の友人関係から選ばれている。すなわち黒田湖山は、荷風が巌谷小波の主宰する「木曜会」に出入りしていたころからの文学仲間で、荷風のアメリカ、フランス滞在中にも一番頻繁に手紙を書き送ってきた友人であった。岩波版『荷風全集』の第27巻所載の「断腸亭尺牘」に収められた明治40年7月11日付の黒田湖山当ての書簡の中で、荷風は芸術の尊さと「性」を結婚という社会的制度の外側に置き、「文化」としてエンジョイしたいという心情を素直に吐露している。このことからも、荷風が黒田を「分かる」男として、心を許していたことがうかがえる。

 一方、「深川夜烏」と、いかにも荷風好みの江戸趣味にかなった筆名で「火吹竹」と「溝」を寄せた井上唖々は、荷風が東京高等師範学校附属中学校の学生であったころからの友人で、父親の書斎から漢籍を持ち出して質屋に預け、それで得た金で共に吉原に登楼、遊女を買ったりするなど、正に荷風の悪友の一人であった。

 ただ荷風は、井上唖々の文学に対する並々ならぬ知識と鋭いセンス、特に江戸軟文学への深い知識と理解、心的傾斜に対しては、一方ならぬ畏敬の念を抱いており、上述の黒田湖山当ての手紙のなかで、唖々の早熟の天才ぶりについて、「唖々君は一代の奇人である。先生も一時は天才であつた(今日は知らない。)先生の短編(木曜会で朗読したことのある)の中でも「水の音」だの「夜の人」だの其他先生が反故にしてしまつた幾篇は実に名作だと僕も此頃思出して居る。シンボリズムの議論から僕は此間ボードレールの散文詩を読んだが其の中の一二篇は唖々子の短篇と同想同形式のものがあるのを発見し僕は大いに唖々子の天才に驚いたのだ。先生はどことなしに失敗したフランスのデカダン派の詩人らしいところがある。式亭三馬の軽い処とアメリカのポーの放縦陰鬱な処とイギリスのスヰフトの不快な処とを混じたやうな男であらう」と記し、その鬼才・天才ぶりに驚嘆し、高く評価している。

 荷風は、日本に帰国して以後、井上唖々との文学上の交わりを復し、「三田文学」発刊に当たって、いろいろ相談したこともあったはずで、それに恩義を感じて、かって「失敗したフランスのデカダン派詩人らしいところがある」と評したことのある唖々のために、少しでも書く場を広げてやろうと思い、原稿を依頼したものと思われる。

荷風と荷風が生涯でただ一人心を許した親友、井上唖々。右は、明治35年に永井荷風が井上唖々との分担執筆 で出版したとされる「夜の女界」


 荷風はさらにまた、大正4(1915)年2月、慶應義塾文学科の教授を辞したのち、井上唖々と籾山庭後と共に、雑誌「文明」を発刊、さらに大正七年には、井上唖々と久米秀治(慶應での荷風の教え子で、「三田文学」にも作品を発表、卒業後は帝国劇場に勤務した)らと新雑誌「花月」を発刊している。

 しかし、井上唖々が、大正12年7月11日、45歳の若さで冥界へと旅立ってしまったことで、荷風と唖々との交わりは長く続かなかった。その狷介奇矯な性格と生き様の故か、少なからぬ友人と一時は親しく文学上の交わりをかわしながら、断交・絶交を繰り返してきた荷風ではあるが、井上唖々だけは、生涯を通して心を許し、付き合ったほとんどただ一人の友人であり、『断腸亭日乗』の昭和5(1930)年7月11日のくだりには、「七月十一日 唖々子が八年目の忌日なり」という書き出しで、井上唖々との交わりを追憶し、唖々の徹底して時代に背を向けた、凄まじいまでにデカダンな文学的生きざまを、異例の長文で紹介。その記述の最後のところで、荷風は、「深川夜烏」という筆名の由来について、「明治四十三年八月都下大洪水の頃子は凡一年余り元下谷の妓なりし女と狎れ親しみ深川東森下町なる女の家に入り込みゐたりし事あり、子が別号を深川夜烏と称せしは此の故なり」と明らかにしている。

 以上見てきたように、「早稲田文学」や「新小説」とは真逆の方向で、徹底してシンプルかつモダンで、ハイカラな「リトル・マガジン」としてのイメージ性を前面に打ち出していることで、「三田文学」は、雑誌それ自体が一つの「作品」として作り上げられているという印象を与える。それはまた、永井荷風が創刊号に寄せたエッセイのタイトル「紅茶の後」が象徴的に物語るような、紅茶を飲み終わった後のくつろいだ気分のなかで、精神を自由の気圏に遊ばせる時間と空間にふさわしい、滋味あふれる、おしゃれな雑誌として創られたものであった。そこに、アメリカのニューヨークやフランスのリヨン、パリで生活する中で文学的、芸術的感性に磨きをかけてきた永井荷風の面目が躍如としていると言っていいだろう。

 以上、「三田文学」創刊号の表向きの体裁を、表紙のデザインから目次、本文の構成、執筆者の略歴まで一通り見てきたわけだが、さてそれでは、肝心の中身、すなわち、それぞれの執筆者がいかなる作品を寄せているか、そしてそこから立ち上がってくるものが、「三田文学」のその後の展開にいかなる意味を持つことになるのか、大いに興味のあるところだが、それについては次回に詳しく見ていくことにしたい。

(2017年12月12日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。