タイトルイメージ

慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第十一章 「三田文学」から飛び立った荷風門下生

 密かに持ち込まれた反モダニズム志向

 昭和31(1956)年10月5日、河出書房から発行された「文藝」臨時増刊『永井荷風讀本』に掲載された久保田万太郎の「三田時代の荷風先生」のなかで、万太郎は、永井荷風が慶應義塾大学部文学科の教授に就任した当時、いかに荷風が学生たちにとってあこがれの的であり、センセーショナルな存在であったかについて、自身が第二外国語としてドイツ語を選んだ予科の学生でありながら、荷風の講義を傍聴していたときの体験にもとづいて記しながら、最後のところで、当時のモダニスト永井荷風の風貌について「……(中略)、わたくしの目には、かうしたことをしるしつゝも、黒い服、黒い帽子、黒いボヘミアンネクタイ、長い髪の毛の波うちのともすればゆたかに白い額にふりかゝつた三十代の先生の、端でなあくまで貴族的な顔しかうかんで来ない……」と回想している。

 さらにまた、理財科の学生でありながら、久保田万太郎と同じように荷風の講義を傍聴に来ていた水上瀧太郎は、荷風に心酔する学生たちが、荷風と親交を深めるために催した夕食会に出席したときの荷風の服装や風貌、ヘアー・スタイルなどについて回想し、大正13(1924)年8月号の「随筆」に寄せた「永井荷風先生招待会」のなかで、「先生の仏蘭西好みの地味な服装は、当時の吾々がむちゅうになつて賛美したものであつた」、「給仕が食堂の用意の出来た事を知らせに来た頃は、風も無くしつとりと落ち着いた青葉の木立に、静かに雨の降りそゝぐ夕暮れとなつた。永井先生の蒼白い額が一層美しく見えた」、「先生の御話は何から何迄面白く、我々は下らない事迄質問に及んだ。たとへば先生はその頃髪を長くして居られたが、その型は仏蘭西のものですかといふやうな事迄訊いたものだが、驚いたのはその髪を、近頃は先生御自身でぢよきぢよき鋏を入れて居るのだといふ事だつた」などと、なつかしく追憶している。

 こうした記述から、三田山上でフランス語とフランス文学、そして文学評論を教える荷風は、いかにも欧米遊学から新帰朝してきた新進気鋭の文学者らしく、フランス趣味の洋装と知的で、繊細かつモダンで、ロマンチックな風貌と髪型で、年若い学生たちを魅了していたことがうかがえる。つまり、大学教授として三田山上にあるときは、荷風はモダニストして振る舞い通した。一方、三田山上から降り、文学者に立ち戻ったときの荷風は、すでに前章で詳しく見たように、明治41(1908)年の7月15日、すなわち、パリから日本に新帰朝してから半年後の明治42年2月には、東京下町への下降宣言の書といってもいい「深川の唄」を書き、12月には『すみだ川』を「新小説」に発表。実生活では新橋の新翁屋の芸妓、吉野コウと馴染んでいる。さらに、翌43年には、同じく新橋の巴屋の妓、八重次(金子ヤイ、のちに藤間静枝)とも交情を深めるなか、江戸伝来の風俗や人情、自然環境がまだまだ失われずに残っている、浅草や向島、本所、須崎、深川など隅田川下流域の風俗空間へと傾斜・下降していくことで、反モダニズムの姿勢を強くしていった。

 こうした事実は、永井荷風が、大学教授としてはモダニストとして通しながら、文学者としては反モダニストへの傾斜を深めていたことで、二重生活を送っていたことを物語っていることになる。しかもその二重性は、「三田文学」の表紙や目次、本文ページのデザインや構成から雑誌全体のレイアウトなど、モダニズムの粋を凝らした雑誌の外的(表層的)体裁から、掲載された作品の内容にまでストレートに反映されることとなる。すなわち、「三田文学」創刊号に掲載された小説、詩、戯曲、エッセイ、翻訳と五つのジャンルにわたる九つの作品を読んでみると、反自然主義という志向性においては、どの作品も共通するものの、モダニズムという視点から読むと、前半にはモダニズムを志向する作品が取り上げられているものの、後半では、反モダニズムを志向する作品が並んでおり、そこに二重性が読み取れるということである。

 そうした二重性を、具体的に掲載された九つの作品に則してみていくと、森鷗外の短編小説『桟橋』や野口米次郎の英詩「The morning glory」、木下杢太郎の戯曲『印度王と太子』、三木露風の詩「快楽と太陽」、馬場孤蝶のモーパッサンの小説『ブウル・ド・シュイフ=脂肪の塊』の翻訳など、前半に並べられた五つの作品と、7番目の永井荷風によるフランス象徴派の詩人アンリ・ド・レニエの詩「正午」の翻訳は、モダニズムを志向する作品といっていい。しかし後半に並べられた五つの作品のうち、最後に置かれた荷風の慶應義塾文学科教授招聘と「三田文学」創刊に至る経緯を記した「紅茶の後」は別として、山崎紫紅の『着物』や黒田湖山の『立てた箸』、深川夜烏の『火吹竹』と『溝』の四作は、いずれも西洋文明・文化の皮相的物まねを通して性急に進められてきた明治日本の表向きのモダニズムから取り残され、その裏側に生きる人間の生活や情緒、風俗、自然にまなざしを向け、そこに人間として生きていける心的、美的、倫理的共同性を見出していこうとする志向性が打ち出されているといえた。そうした意味で、創刊号のモダニズムの装いの下に反モダニズムを標榜する戯曲と小説を並べたことは、明治の日本において、モダニズムを貫くことを断念した編集主幹の永井荷風が、文学者として自身が、ひいては「三田文学」が文学雑誌として、ライバルの「早稲田文学」と対抗しつつ生き延びていくために、密かに仕掛けた反モダニストとしてのマニュフェストであり、仕掛けでもあった。

 ここで一つ注意しておかなければならないのは、「反モダニズム」という言葉は、欧米における真正モダニズムを全面的に否定し、拒否する心的傾向、あるいは姿勢を指すものではなく、精神や感性の根底において近代社会を生きていくための基本原則としてそれを受け入れつつ、近代欧米の文明・文化の上面だけを真似して取り入れ、成し遂げられた明治日本におけるまがい物としての擬似モダニズムを批判的にとらえ、皮相的な近代化から取り残されたまま、東京の隅田川下流域に広がる「下町」という庶民の生活空間にまだ名残をとどめている江戸末期の自然風景や都市景観、人々の生活風俗や習慣、心性、言語、文化のなかに、明治という時代が失ってしまった「調和の美」を見出し、そこに自らの「幸福」なる生のよりどころを求めようとする心的志向性を指す言葉であるということである。

 重要なことは、以上のような意味で、「三田文学」は創刊された当初から、モダニズム志向と反モダニズム志向という両面性を抱え込む形でスタートしたということ、そしてそのことによって、創刊号は文学科の学生を失望させる一方で、雑誌それ自体の間口が広がり、より多層的で、バラエティに富んだ作品の掲載が可能となり、結果、自然主義一辺倒の文学状況に飽き足らなく思っていた読者層からは歓迎されることになった。さらにまた、そのことによって、その後の「三田文学」の展開の歴史おいて、左のモダニストから右の反モダニストまで、多彩、かつユニークな文学者を生み出すことを可能にするルートが敷かれたことになる。

 さてそれなら、なぜ「三田文学」は、モダニズムと反モダニズムという両面性、あるいは矛盾する志向性を抱え込んでスタートしたのか。考えられる理由は、永井荷風が、慶應義塾の文学科教授に招聘され、「三田文学」の編集主幹につくまえの段階で、明治末期の日本でモダニズムを貫くことの不可能さを悟り、江戸の名残を残す東京隅田川下流域の下町で低く生きる人々の生活文化や風習・風俗に心的共同性を見出し、荷風自身の言葉を借りれば、「江戸の戯作者」の心意気と生き様に、自らの生をなぞらえる方向で、文学者として生き延びるべく生きる姿勢や文学的志向性をシフトさせていたからである。

 久保田万太郎の期待を裏切った創刊号の内容

 こうしてモダニズムと反モダニズムと、相反する志向性を内包しながらスタートした「三田文学」は、自然主義文学に飽き足らないものを感じていた読者に受け入れられ、売れ行きは五千部に達し、順調なスタートを切った。だが、その内容、すなわち掲載された作品は、慶應文学科の学生たちを必ずしも満足させるものではなかった。たとえば、「三田文学」が発刊されてから一年後の、明治44年6月号に、処女作「朝顔」が掲載され、荷風の門下生のなかにあって最初に小説家としてブレークし、社会的に認知された久保田万太郎は、『よしや わざくれ』(青蛙房、1963年)のなかで、創刊号のデザインについて、以下のように好意的に評価している。

  "三田文学"の第一巻第一号は、明治43年の五月、市場にあらはれた。
   ―ほう、きれいだ。……なるほど永井さんの雑誌だ……。
  と、だれもがそれを手にとって、まづもつてかういつた。
 表紙は藤島武二画伯が四つの苜蓿(クローバー)を意匠化した、代赭、緑、黒、三度刷りの、空白の多い清楚な、あつさりした感じのものだつた。本文、すべて五号活字の、三十四字詰十六行、百八十ページの、綴じはそのころでも贅沢な絲かゞりだつた。作者の署名の、各作品のしまひに、本文とおなじ大きさの活字で組んであることでも、品があり、何か高踏的だつた。

 ところが、掲載された作品については、「一トたび子細にページを翻すや、誰もまた同時に、その内容の寂しさ、貧し
さ、精彩のなさに失望した」、「―かりにもこれが、われらの輝ける永井先生を主幹にいただく雑誌だらうか?……(中
略)……われゝ学生にしてさへがなほかつ疑ひの目を見張つた」と、失望感を露わにしている。



  
  大正2年、慶應義塾大学部文学科在学中の久保田万太郎。
この時すでに、「三田文学」から出た新進作家として注目
を集めていた。中央公論社版『久保田万太郎全集』第一巻
より。
昭和28年3月、木村伊兵衛撮影の万太郎。左の若いこ
ろの写真とあまりに違いにおどろかされる。現代日本文
学全集(57)『水上瀧太郎・久保 田万太郎集』(筑
摩書房、昭和48年)より



 さてそれなら、万太郎は、創刊号に収められた九つの作品の何に、どのように失望したのだろうか? 『よしや わざくれ』の記述に沿って見ていくと、万太郎は、創刊号巻頭に置かれた、森鷗外の『桟橋』と木下杢太郎の戯曲『印度王と太子』、荷風のアンリ・ド・レニエの詩の翻訳、さらに巻末に置かれた『紅茶の味』の四つは「われわれを喜ばせた」としながら、残りの作品については、野口米次郎の英詩「The Morning glory」は「装飾以上の何ものでもない」と切り捨て、さらに山崎紫紅の『着物』と黒田湖山の『立てた箸』、深川烏雨の『火吹竹』の三作が、ページ数で雑誌全体の半ばを占めたことに不快感を示し、「われへの世代にかゝわりのない執筆者の進出を、われへの世代にかゝわりないといふだけで憎んだ。永井先生、及び、永井先生の"三田文学"を冒瀆するものとした」と、不快感を露わにしている。

 要するに久保田万太郎をはじめ、慶應義塾大学部文学科の新任教授として、三田山上のヴィカース・ホールにさっそうと登場した、永井荷風のいかにもモダニストらしい風貌とフランス仕込みの新帰朝者らしいファッションとスタイル、そしてフランス近代文学についての講義に魅せられた文学科の学生たちは、新発刊された「三田文学」に対しても、編集主幹の永井荷風が体現していたモダニズムを反映して、モダンで、粋で、ロマンチックで、読むものをワクワクさせるような魅惑的な小説や戯曲、詩が掲載されるものと思いこんでいた。ところが、出てきたものは、確かに表紙や雑誌全体のデザイン性は、モダンで、おしゃれで、高踏的に仕上がっていたが、内容的には、古臭く、前近代的で、時代の文学表現の最前線から取り残されたような書き手の作品が、量的にも半分近く占めていたことで、学生たちをいたく失望・落胆させるものであった。言い換えれば、文学科の機関雑誌として発行される「三田文学」に、なぜ自分らが望み、志向するものとは全く違う、古臭い小説家や戯曲家、詩人の作品が掲載されなければならないのか……というのが学生たちの言い分であった。

 だが、前述したように、荷風が、モダニズムと反モダニズムという相反しあい、矛盾する志向性を、あえて新雑誌に持ち込んだのは、明治末期の日本においてモダニズム一辺倒で押し通すことの難しさと限界を、慶應義塾の文学科教授に就任する前から痛感し、隅田川下流域に広がる東京下町に残る、江戸伝来の自然景観や風俗、人情、文化の世界に、逆転的に下降していくことで文学者として生き延びていこうとしていたということ、そして、そうした苦渋の逆転的選択が、新雑誌の編集方針にも持ち込まれ、反モダニズム的作品が掲載されるに至ったということなのである。ただ、モダニストとしての新進気鋭の文学者、永井荷風の存在そのものから発露してくる華やかで、洗練され、ロマンチックな記号性に魅惑・幻惑されていた学生たちには、雑誌編集者としての荷風の戦術的狙いが見抜けていなかった。久保田万太郎が、新雑誌の内容に失望・幻滅した理由がそこにあったと言っていいだろう。

 学生たちの要望に応えて、荷風、「三田文学」の門戸を学生たちにも開く

 「三田文学」は、慶應義塾文学科の学生組織「三田文学会」の機関雑誌として発行されていた。しかし、未熟な学生たちの創作をそのまま掲載することは許されることではなかった。そのため、編集主幹の永井荷風は、すでに実績と名声の確立した書き手を選び、小説や詩、戯曲、翻訳などを掲載したわけだが、前節でみたように、創刊号そのものから、モダニズムと反モダニズムと、矛盾をはらんだ作品構成となり、それ以降の号も、そうした対立・矛盾は持ち込まれ、かつまた相馬御風など「早稲田文学」系の文学者の自然主義的作品も掲載されるなど、統一感に欠け、読者をも混乱させるところがあった。

 そうしたことに加えて、久保田万太郎が『よしや わざくれ』に書いたように、学生たちの「慶應義塾関係の書き手に」という意向に沿って書き手が選ばれず、慶應とは無関係で、しかも旧態然たる書き手の作品が選ばれていることに対して、学生たちは不満を募らせていた。結果、雑誌の内容と編集方針を変えてほしいという学生たちの声につき上げられたのであろう、文学科刷新のため、慶應側を代表して荷風招聘の交渉に当たった監事の石田新太郎や英文学教授の馬場孤蝶などが学校側から参加する形で、「三田文学を今後どうするか」というテーマで、学生たちとの話し合いがもたれることになる。会議では、石田が、「もう少し慶應とかかわりのある書き手を登用できないものか」と学校側の要望を伝え、それを受けて学生たちも誌面の刷新を強く主張するに及んで、石田は、「君たちがそれほど慶應、慶應というなら、君たち自身が書いたらいいじゃないか」と、逆に学生を煽る。しかし、学生の方では書ける自信もないし、能力がないことも分かっているので、「それはそうなんですが、何分自分たちには……」と。しり込みしてしまう。それを見て、馬場孤蝶が、「小説や戯曲をすぐ書くというのは無理だろうから、最初は翻訳をやったらどうだろう。それには、語学の教育にこれまで以上に力を入れる必要があるから、語学教育の拡充を図ろうじゃないか」と提案するものの、もともと語学の勉強にあまり気が進まない学生たちは、乗り気を見せないまま、会議はあいまいな形で終わってしまう。

 しかし、荷風は、学生たちの言い分を聞いて、感じる所があったのだろう。「学生たちがそれほど言うなら、彼らに書かせてみよう。それで、載せるに値する作品が出てくれば、載せてやろう……」と考える。そして、学生と学校側の話し合いが不首尾に終わってからしばらく経ったある日、講義が始まるまえかあと、荷風は満面の笑みを浮かべ、学生たちに「君たちも、作品を書きなさい。それで書き上がったら、私に見せてください。出来が良かったら、雑誌に載せてあげますよ」と、優しく奨励する。この一言で、文学科の雰囲気は、がらりと変わり、水上瀧太郎が「誰の心にも創作熱が泉の如く湧いてきた」(「永井荷風先生招待会」、大正13年8月、「三田文学」に連載中の「貝殻追放」に掲載)と回想したように、学生誰もが目の色を変え、競うように小説を書き始めるようになる。

 こうして、ヴィッカーズ・ホールは、教授や講師の講義を受け身で聴くだけの教室から、小説を書くことを通して文学に能動的、積極的にかかわる一種の創作教室に一気に変貌する。慶應義塾大学の文学部と「三田文学」が、今日まで110余年の歴史を有し、その間に日本の近代/現代文学史に名を残すこととなった、幾多の小説家や詩人、文学評論家、文学研究者を生み出してきた歴史は、正にこの時、荷風の「君たちも小説を書きなさい。そして書き上がったら、私に見せてください」という一言が発せられたときからスタートしたと言っていい。そして、その最初の成果として、明治44年6月発行の「三田文学」に掲載された学生の書いた小説が、久保田万太郎の『朝顔』という短編小説であった。

 万太郎、『朝顔』で「三田文学」デビュー、一躍注目を集める

 東京下町は浅草の袋物製造を営む家に生まれ、生粋の江戸っ子として育った久保田万太郎が、山崎紫紅や黒田湖山、深川夜烏らの反モダニズム小説を忌避し、批判的に受け止めたというのはいささか奇異に感じるが、それは、万太郎が、浅草に象徴される前近代性の桎梏から逃れようとして、中学生時代に、当時日本の中等学校教育機関のなかでモダニズムの先端を走っていた慶應義塾の普通部に転校し、卒業後は大学部の文学科に進み、モダニスト永井荷風の小説を愛読し……と、強くモダニズム志向することで、自らの生の可能性を切り開こうと努めてきたからであった。

 ところが、皮肉と言うべきか、荷風から「君たちも、小説を書き給え。そして、書けたら読ませてくれたまえ」と励まされ、万太郎が書き上げ、「三田文学」に掲載された処女小説『朝顔』は、最初から最後まで、「近代」の光が差し込まない、徹底した反モダニズム小説として書かれたものであった。それにしても、『朝顔』を書いたとき、久保田万太郎は21歳の大学生であり、「三田文学」創刊号の反モダニズム志向を批判的に受け止めてから一年も経っていなかった。にもかかわらず、なぜ、万太郎は反モダニズムの権化ともいうべき小説家に一気に変身し、『朝顔』を書いたのか……。

 考えられる理由は二つある。一つは、実際に小説を書く段となって、万太郎が、自身の出自であり、表も裏も知り尽くしている浅草の反近代性に足場を据えて書くしかないことを自覚したこと。二つ目は、荷風が慶應の文学科の教授に就任するまえから、『深川の唄』とか『監獄署の裏』、『すみだ川』などの作品を読み、荷風が明治日本の皮相的、かつ醜悪な文明・文化の近代化に辟易、嫌悪し、表向きの記号としてのモダニストから反モダニストに変身し、江戸の名残りを残す隅田川下流域に広がる下町空間に、人間が人間として生きていける調和的世界を見出し、そこに生きる人々、特に女性との交情のいきさつを主題に小説を書こうとしていることを、万太郎が見抜いていたということ。そして、自分が書く小説が「三田文学」に掲載されるには、荷風のそうした江戸や下町文化への回帰・下降志向に「おもねる」というと言葉が過ぎるが、荷風の志向、あるいは趣味性にかなった作品を書くにしくはないと判断したからであった。

 その結果、書き上げられた『朝顔』は、明らかに万太郎が、「朝、慶應義塾へかよふ電車の中で読んでことゝしく昂奮し」(『雷門以北』後記」、「三田文学」、昭和2年)ながら読んだという『すみだ川』を下敷きにして書かれたものであった。万太郎が何より『すみだ川』に魅せられたのは、主人公の「長吉」に万太郎が少年期の自分自身を重ね合わせ、『すみだ川』を万太郎自身の身の上が書かれた物語として読んだからにほかならなかった。であればこそ、浅草の奉公先でちょっとした不正を働いたのがバレて解雇され、そのまま旅回りの女役者の母親の後を追って、役者の世界に身を落としていく『朝顔』の主人公「徳松」は、浅草の今戸で常磐津の師匠をしている母親「お豊」の、上級学校を出てしっかりした堅気の職に就き、出世してほしいという願望に抗して、幼馴染で、歌と踊りが大好きで、芸妓の道に進みたいと三味線と唄の稽古に励む16歳の少女「お糸」に淡い恋心を抱き、自分もできれば芸の道(役者)に進みたいと願う『すみだ川』の主人公「長吉」を下敷きに書かれなければならなかったのである。

 自身の出自たる浅草からの離脱と遁走……そして、浅草への回帰……。それはモダニズム志向の文学青年であった久保田万太郎が、小説家に変身する上で、どうしても潜っておかなければならない関門であった。万太郎に幸いしたのは、浅草に生まれ、浅草に育ち、浅草で成長したことで、万太郎が東京下町の中核としての浅草を知悉していたことであった。であればこそ、万太郎は処女作『朝顔』で、とても21歳の大学生が書いた小説とは思えないほど、流ちょうな下町言葉による会話体の文体を駆使し、煙草入れ屋を営む浅草の商家に奉公し年季を積んできたものの、仕入れた菖蒲革(菖蒲の葉や花の文様を白く染め抜いた鹿のなめし革のこと。筆者註)をくすねて、金を作っていたことがばれ、店を解雇され、何とか雇いなおしてもらおうと機会をうかがうものの、事は思うように進まず、結局、旅役者である母親の後について、地方巡業に出ていかざるを得ない男の転落の生の物語を書き上げることができたのである。

 さらにまた、万太郎に幸いしたのは、『朝顔』が「三田文学」に掲載されてからほぼ一か月後の明治44年6月11日付の朝日新聞紙上で、夏目漱石の門下生の一人で、同紙の文藝欄に文学時評を書いていた小宮豊隆が、「蓬雨里」という俳号を使い、『朝顔』を取り上げ、「布置結構から描写の仕方乃至文章に至る迄極めてなだらかにも亦染々(しみじみ)した出来栄である。(中略)個々の事は精しく云はれぬとして最も自分の心を惹いたのは全体を通じて感じの上にムラのないことである。然も其の感じがメンシユリツヒなどである。換言すれば漂ふ様な哀れと寂味とがあることである。線が細く柔らかく且温味のあることである。最後に衒気と誇張とがなくて素直な自然な感じで貫ひてゐることである。(中略)実際淑(しつとり)とした然(しか)も温味のある詩的(リリカル)な主観に世界を包んで生きてゐる人でない限り、かヽる纏つた感じの作品が出来やう筈がない。此作者は詩人である、真の意味に於ける詩人である」と絶賛したことで、『朝顔』とその作者久保田万太郎の名は一気にブレークする。

 くわえて、「早稲田文学」の記者で、小説も書き、文学評論も書いていた中村星湖が、「早稲田文学」で『朝顔』を絶賛した小宮の時評に論駁し、『朝顔』を「用意の至らぬ」作品と評し、「作者の観念と作の材料とが十分に融け合つてゐない」、「是を哀れが出てゐるとからして褒めるやうな人々は一体今年は明治何年だと問ひ返したくなる」などと批判、さらにまたそれに対して小宮が、7月23日付の文芸欄に「早稲田文学記者に與ふ」と題して反論を書くなど、朝日の紙面で応酬があったことで、一層『朝顔』と久保田万太郎の名は世間的に広く認知されるに至る。このように久保田万太郎は、『朝顔』一作を書いて、「三田文学」が生み出した最初の新人作家として認知され、『朝顔』に続いて、初めて書いた戯曲『遊戯』も「三田文学」に掲載され、さらに雑誌「太陽」の懸賞戯曲に応募した『プロローグ』が小山内薫の選で入賞し、「太陽」に掲載されるなど、劇作家としてもブレーク、慶應義塾大学文学部の学生だった、江藤淳が評論『夏目漱石』を「三田文学」に発表して一気にブレークしたように、万太郎もまた、学生の身分でありながら、特異かつ前途有為な新進小説家、劇作家として大正初期の文壇において、早々と地位と名声を確立していったのである。

 ところが、万太郎自身がのちに回想しているように、万太郎は、あまりに早く小説家として、戯曲家として世に出、知名度を上げてしまったゆえに、「学校はでたが、さて、なまじ早く新進作家扱いにされたばかり、すつかり筆がすくんでしま」(『よしやわざくれ』)、い、スランプ状態に陥り、何をどう書いたらいいのかが分からなくなり、読者もまた離れていったことで、苦しむことになる。しかし、大正6年、処女作『朝顔』の手法に倣って、再び、低く転落していく浅草の芸人(盲目の落語家)の生を描いた『末枯』を書き、それが「新小説」に掲載され、読者から受け入れられたことで、再び自己本来の書くべき主題と手法を見出して立ち直る。

 そして、それ以降は、小説では、『寂しければ』、『春泥』、『花冷え』と、戯曲では『大寺学校』、『波しぶき』など、浅草を舞台にそこに反近代的な姿勢で、低く生きる芸人や俳人の生きざまや風俗・人情を、流ちょうな下町言葉を駆使した会話調の文体で描き続ける一方、俳句や戯曲の方面でも多彩な才能を遺憾なく発揮し、昭和27(1952)年に永井荷風が文化勲章を受章した際には、選考委員会の久保田が強く推したとされ、自身も昭和32(1957)年に文化勲章を受章。昭和38(1963)年5月6日、73歳で永眠。死後、著作権や遺産の全てを慶應義塾に譲渡し、その資金をもとに「久保田万太郎講座」が開設され、著名な作家や詩人、評論家が講義を受け持ち今に至っている。

 水上瀧太郎、「荷風先生招待会」で『山の手の子』の原稿を手渡す

 文学科教授永井荷風は、規則上は2年間の予科過程を終えた本科の学生たちにフランス語とフランス文学、さらに文学評論の講義を行うことになっていた。しかし、売れっ子の小説家永井荷風が慶應の教授に招かれ、学生たちに講義をするということで、久保田万太郎のようにドイツ語課程の学生や、佐藤春夫や堀口大学のように予科の学生でありながら、荷風の講義を聴きにくる学生も少なくなかった。

 さらにくわえて、理財科の学生でありながら,文学への夢断ちがたく、理財科の授業を抜け出しては、荷風の講義を聴きに来る学生もいた。明治44(1911)年7月、久保田万太郎より一か月遅れて、処女小説『山の手の子』が「三田文学」に掲載され、それがきっかけとなって、理財科在学中は久保田万太郎に次ぐ大学生作家として、さらに卒業後、4年に及ぶアメリカ、イギリス、フランス遊学を経て、帰国後に明治生命保険に入社、それ以降は、保険会社に勤めながら、小説家の道を歩むことになる水上瀧太郎(本名阿部章蔵、以下水上瀧太郎で通す)も、そうした非正規の荷風の教え子の一人であった。

 水上瀧太郎は、久保田万太郎より2年早く、明治20(1887)年12月6日、東京市麻布区飯倉3丁目15番地に、父泰蔵、母優の4男として生まれている。父親の泰蔵は、明治生命の創始者であり、瀧太郎は、山の手の資産家の御曹司として、黒い門構えの深窓の家に育ち、5歳のころから絵画、特に錦絵を好み、自らも絵筆を採る。8歳で芝区の御田(みた)小学校に進み、巌谷小波の「お伽草子」や「少年世界」に親しみ、高学年に至って「太平記」や「平家物語」、「万葉集」、「古今集」などを読むことに熱中し、国文の成績はずば抜けてよかった。

 明治33(1900)年3月、御田高等小学校を卒業し、慶應義塾普通部に進み、泉鏡花の小説や与謝野鉄幹・晶子夫妻の短歌に心酔。学年が進むにつれて文学熱が高じて、学級仲間たちと謄写版刷りの文芸雑誌を発行したりするが、学科の好悪の差が激しく、2年次と3年次に落第を繰り返す。そうした意味で、瀧太郎は、東京府立第三中学校の第三学年終了時の数学の成績が悪く、留年を余儀なくされたことで慶應義塾普通部に転学した久保田万太郎と並んで、「落第・留年」という「三田系」文学者に共通する「負」の記号性を身に着けた最初の文学者の一人であると言える。

 ともあれ、こうして道草を食った瀧太郎ではあったが、それでも明治40(1907)3月、普通部を卒業して、大学部予科に入学。42(1909)年3月、予科を卒業し、本科理財科に進む。ところが、理財科2年次のとき、瀧太郎は、理財科への進学を決めた時に、断念したはずの文学への夢を蘇らせ、小説を書き始める。のちに瀧太郎が「三田文学」に連載していたコラム「貝殻追放」の大正13年8月号に寄せた記事、「永井荷風先生招待会」によると、文学への思いを断ち切って、理財科に進んだ瀧太郎に「文学をやりたい」という気持ちに再び火をつけ、小説を書き始めるようになったのは、正に天来の霹靂といっていい、永井荷風が文学科の新任教授として、三田のキャンパスでフランス語やフランス文学、文学評論の講義を行うかたわら、新たに創刊されることとなった月刊文芸雑誌「三田文学」の責任編集を行うという告知であったという。そのときの荷風との運命的出会いについて、瀧太郎は『永井荷風先生招待会』のなかで、次のように記している。

 子供の時分から文学美術に対して異常な憧憬の念を抱いてはいたが、自分が作家にならうとは思はなかつた。否、なれようとは考へられなかつたのである。若し其の時永井先生が学校に御出でにならなかつたなら、若し「三田文学」が創刊されなかつたら、自分は結局小説作家にはならなかつたであらう。或は「三田文学」の発刊以前に学校を卒業してゐたら、矢張り創作の筆を試る機会は無くて終つたらう。人の人生を支配するさまざまの機縁の不可思議を、自分は度々おもふのである。(『永井荷風先生招待会』)

 久保田万太郎が、どうせ兵役に取られるなら、それまで好きなことをしようという思いで文学科に進み、ドイツ語課程の予科2年のときに、荷風の教授就任を知り、「文学をやろう」と文学への情熱を燃え立たせたように、明治生命保険の創立者である父親の跡を継ぐべく理財科に進み、卒業後は欧米に留学し、帰国後は明治生命に就職し……とビジネスマンとして生きる道が決定されていただけに、そしてまた、文学を断念して無味乾燥な経済学の講義を聴かされていただけに、「永井荷風、文学科教授に就任」の告知は、瀧太郎を興奮させ、一旦は断念したはずの文学への思いが、堰を切った奔流のようにあふれ出てきたのである。



  
  慶應義塾大学部理財科に入学したころの
水上瀧太郎。岩波書店版『水上瀧太郎全
集・第一巻』(昭和58年12月)より
処女作『山の手の子』が「三田文学」に掲載されたころの水上瀧太郎。
岩波書店版『水上瀧太郎全集・第二巻』(昭和59年2月)より



 水上瀧太郎は、小学校以来のクラス・メートであり、文学愛好家でもあり、理財科の助手をしていた小泉信三と共に、文学科の学生以上に熱心に荷風の講義を聴いた。そして、講義のあるなしにかかわらず、暇を見つけては、ヴィッカーズ・ホールに足を運び、講義が終わったあと、荷風が学生たちと交わす文学談義を聴き、談話の輪に加わり、荷風の正真正銘のモダニストしての風貌や言動、ロマンチストしてのオーラに心酔し、感応し、インスパイヤ―されることで、「自分も小説を書こう」という気持ちを募らせる。くわえて、「三田文学」が創刊されたことで、学生たちの創作意欲はますます高まり、おのずからそうした学生たちが集まり、美学専攻の沢木四方吉らを中心に、瀧太郎や小泉信三も加わり、「例の会」という名の創作同好会のようなものが作られる。「三田文学」に乗せてもらいたいという一念でお互いが集まって、それぞれの創作アイディアを出し合い、批評し合うことで刺激を受け、一層創作への意欲を高まらせ、小説を書き上げることを競い合ったわけである。

 『永井荷風先生招待会』の記述によると、そうしたなかで、学生たちの間で、何とかして、講義とは別に先生の御話を聞き、親しく荷風先生と交わりを深め、自分たちのことも知ってもらう席を作ろうじゃないかという話が持ち上がる。しかし、荷風先生が引き受けてくれるかどうか分からないし、フランス仕込みのモダニストで、ハイカラな先生をどこで、どのような料理とお酒でもてなしたらいいかも分からない。学生たちは、顔を合わせるごとに、どうしよう、どうしようと口にするが、一向に実現の道は見えてこない。瀧太郎の回想するところでは、「『例の会』は時々開かれ、その度毎に永井先生を招待しようと云ひながら、矢張り先生と吾々の間に余り人間の値うちが違い過ぎるといふやうなおもわくが邪魔になつてことはすらすら運ばなかった」(下線部筆者)のだという。つまり、モダニスト文学者として永井荷風の持つ記号的優越性、あるいは特権性に圧倒され、学生たちに、荷風先生に親睦会の開催を申し出る勇気が湧いてこなかったということなのだ。

 ところが、そうこうするなか、明治44年の5月半ばのある日、瀧太郎と小泉信三が連れ立って、荷風先生の講義を聴くべく、ヴィッカース・ホールに足を運ぶと、文学科の連中は一人も来ておらず、講義にならないので、二人は、中学生時代に荷風先生が小説を書き始めたころのことを色々質問し、荷風先生はそれに丁寧に答えてくれた。その話が一段落ついたあとで、荷風先生は翌月発行される「三田文学」(明治44年6月号)の内容について話しはじめ、文科一年(本科の一回生という意味、筆者註)の久保田万太郎という学生の書いた『朝顔』という短編小説が掲載されるという話になる。それを聞いて、「今がチャンス!」と思ったのであろう、小泉信三が、「水上君も小説を書きました」と言って、『山の手の子』のことを紹介してくれた。すると、荷風先生はにこやかな笑みを浮かべて、「持つていらつしやい。拝見しましょう」と、言ってくれたという。しかし、自分の書いた小説など、到底荷風先生のお眼鏡にかなうはずはないと思いこんでいただけに、瀧太郎は、顔を赤くして恥じ入るだけだったという。

 だが、しかし、運命は、瀧太郎に『山の手の子』を「先生、読んでみてください」と荷風に手渡す機会を用意してくれる。それから10日ばかり経った5月24日の夜、「例の会」に荷風先生を招待することが決まり、その席で瀧太郎は『山の手の子』の原稿を荷風に手渡したのである。会場は、「仏蘭西帰りの先生に、日本の西洋料理なんか差上げられないと心配する一方に、吾々の懐中も頗る豊かで無かつたのである。どうせ先生を満足させる事は出来ないのだから、いつそふだんの生地で行かうといふ事になつて、結局場所は三田の山の上のヴイツカース・ホールときまつた」(下線筆者)という。

 招待会当日は、昼間激しい雷鳴がして雨が降ったが、夕方、食事の用意ができたころには、「風も無くしつとりと落ち着いた青葉の木立に静かに雨の降りそゝぐ夕暮れとなつた」という。荷風先生は、午後の4時ころ会場に現れ、一同席についたものの、学生たちは変に緊張していつものように自由に口を開くことができないまま、時間が過ぎていったが、すでに慶應を卒業し、会社勤めをしていた岡田四郎が遅れて参加し、「ガラガラした調子」で話し出すのを、一同荷風先生に対して失礼にならなければいいがと、気をもんだものの、荷風先生が一向に気にする気配がないので、かえって一座の緊張がほぐれ、さらに酒が出たので、それぞれが活発にしゃべりだし座は大いに賑わった。

 荷風先生は葡萄酒しか飲まなかったが、学生たちは葡萄酒に始まり、アブサン、ビールと何でもござれで飲みまくり、酔うほどに気炎は上がり、荷風先生にあれこれ質問し、先生の方も「距てなくいろんな話をして下さつた」という。そして、文学、美術、音楽、演劇などについて、学生たちは忌憚なく自分たちの意見を述べ、荷風先生も機嫌よくそれに受け答えし、「粗末な料理も、先生は平気であがつて下さつた」という。こうして永井先生は、夜の11時ころまで学生たちに付き合い、席を立たれた。そして、帰り際に、瀧太郎は、『山の手の子』の原稿を、「読んでみてください」と手渡したというのだ。学生たちの事前の不安や懸念をひっくり返す形で、荷風先生は自由で、気さくな態度で学生たちに臨み、ワインを飲み、決して上等は言えない料理を食べ、上機嫌でしゃべり、学生たちの質問に答えてくれた。そして、そこに「教授」と「学生」という記号的上下・優劣の壁が取り払われ、文学のみに可能な精神の自由共同空間が現出し、学生たちは荷風先生との一体感に酔い、荷風先生もまた学生たちと一体感を共有し、喜んでくれた。荷風先生と、分け隔てのない自由で幸福な時間を共有することができたという。そうした高揚感と解放感が、瀧太郎をして「先生、これ読んでください!」と、原稿を差し出すことを可能にしたのだろう。

 『永井先生招待会』を読んで、見落としてはならないのは、今から百年以上も昔、静かに雨の降る春の宵、三田山上の学生と教授の懇親会で、荷風教授と学生たちの間で、このように自由活発で、モダン、かつ幸福な時間が共有され、そこから「よし、自分たちも全力で小説を書いてみよう」という創造的気運が盛り上がり、そのなかから久保田万太郎や水上瀧太郎など若い書き手が躍り出てきて、それが慶應義塾の文学科と「三田文学」の100年を超える創造的歴史を生み出す原点となったということである。

 稀代の好色作家で、気難しく、性狷介で、世に背を向けて容易に人と交わろうとしない変人文学者と思われてきた永井荷風が、慶應義塾大学部の文学科教授であった時代に、このように上下の隔てなく、自由に開かれた人間的関係性と「幸福」の時間を、学生たちと共有したという事実をこれほど生き生きと今日まで私たちに伝えてくれるテキストは、水上瀧太郎の『永井荷風先生招待会』をおいてほかにないといっていい。そのことを、文学の20世紀性という意味において、少なからぬ先駆的小説を書き残したのにもかかわらず、今日あまりに不当に忘れられた存在に甘んじている小説家、水上瀧太郎の名誉のために特筆大書しておきたい。

 荷風の『狐』と『すみだ川』に倣って書かれた『山の手の子』

 水上瀧太郎が勇を鼓して荷風先生に差し出した処女小説『山の手の子』は、「阿部省三」の名で、明治44年、」「三田文学」7月号に掲載された。ところが、この号に掲載された江南文三の『媾曳』という小説が、「風俗紊乱」を理由に、内務省から発禁処分を受けたことで、『山の手の子』もまた一般読者から読まれる機会を奪われてしまう。しかし、瀧太郎に幸いしたのは、朝日新聞の文藝欄の「七月の劇と小説(下)で、小宮豊隆が、久保田万太郎の『朝顔』に次いで、この小説を取り上げ「子供の折の追憶を描いたものであるが(中略)佳作なると失わない、的確な表現の形には充実した内容が籠ってゐる。子供の折の色彩ある追憶は夫(そ)れ自らが詩を形成(かたちづく)るものである。此詩を描(か)いて其天地が纏まるか纏まらぬかは作者の内界が纏まつてゐるかゐないかに依つて定まることである。江戸に生まれたかに見える此の作者は其内界を彩る江戸らしからぬ遣瀬ない弱々しい心持を懐いて生きている。其の消息が作全体を包む、纏まつた空気に浮動してゐると思ふ」と、高く評価したことで、瀧太郎の名は認知されるに至る。

 『山の手の子』は、小宮豊隆が「稍(やや)感傷的になりすぎた処と作者の心持が今昔入乱れた点とあつて」と指摘したように、若書きゆえの未熟なところがある。しかし、この作品が「三田文学」に掲載されてから100年以上経った現時点で読み返してみても、久保田万太郎の『朝顔』以上に、読む者の胸を打つところがあるのは、小説が、失われた時を求める追憶の小説として書かれていること。さらに、その追憶のなかで、作者の分身といっていい「山の手の」黒い門構えの「御屋敷」に住む「坊ちやん」が、その存在を受け入れ、ほおずりして可愛がってくれ、山の下に広がる異界に入っていくことを可能にする導き手に等しい存在となってくれていた、「お鶴」という名の、明るく、おきゃんで、歌や踊りが好きな町娘が芸者になるため浅草に去っていくことで、大切な何かを失ってしまった……その悲しみの歌が、作品を通して聞こえてきて、それが読む者の心を痛切に打つからである。幼少年期における喪失の悲しみの歌を、追憶の小説という形式を通して詠ったところに、この小説の第一の手柄があると言っていいだろう。

 第二の手柄として指摘しておきたいのは、おそらくは敬愛する永井風先生に認められたいという本心から出たのだろうが、25歳の大学生が書いた処女小説としては、小説の登場人物の設定やストーリーの組み立てと展開、具体的場面や情景の描写などの面で、以下に列記するように、実に周到な配慮と計算がなされているということである。

  1. 1. 山の手の裕福な家庭に育った瀧太郎自身の幼少年期における体験を追憶して書かれていることで、荷風の、
       幼年期において父親が屋敷内に棲む狐を退治したときの恐怖の体験を想起して書かれた『狐』と重なると
       ころがある。
  1. 2. しかも作品の世界が、少年が住む山の上の「御屋敷」に象徴される裕福な上流階層が住む近代的な生活空間と、
       少年が入っていきたいと誘惑に駆られている山の下の庶民(下層階級)が住む前近代的な生活空間、すな
       わち少年にとっては未知なる「異界」と、二つの世界に引き裂かれて設定されていることで、作品世界に
       奥行きと広がりを与えていて、その意味で浅草の世界に限定して書かれている久保田万太郎の『朝顔』の
       単調感を免れている。
  1. 3. 浅草を舞台にした久保田万太郎の『朝顔』との差別化を図り、同時に荷風先生との近縁性を意識して、小
       説の舞台が東京山の手の芝区松坂町あたりに設定されている。
  1. 4. 主人公の「御屋敷」に住む「坊ちやん」にとって淡い初恋の対象であると言っていい町娘の「お鶴」が、
       浅草の芸者家に売られていくという物語の設定は、永井荷風の『すみだ川』における、主人公の「長吉」
       の幼友達であり、「長吉」が淡い恋心を抱いている「お糸」という少女が、葭町の芸者になるため浅草を
       去っていくという設定を踏まえて書かれており、その辺に「お鶴」を失った「坊ちやん」の悲しみと「お
       糸」を失った「長吉」の悲しみを交響させることで、荷風先生を喜ばせ気に入られたいという、教え子瀧
       太郎の憎めない「計算」が仕掛けられている。
  1. 5. さらにまた、町内の若者が「わっしょいわっしょい!」と、お祭りのみこしを担いで威勢よく「山の上」
       まで回ってくるのを、乳母の手に引かれながらこわごわ少年が見ているという設定は、荷風の『狐』にお
       いて、父親が屋敷内に棲みついた狐を退治し、天秤棒に吊るして意気揚々引き上げた場面、すなわち狐の
       食いしばった牙の間から生血がどろどろと雪に滴るのを見て、思わず、母親の小袖のかげに顔を隠したと
       いう記述を踏まえたもので、共に暴力的なものに対する恐怖と嫌悪感が書き込まれていることで共通して
       いるといえる。
 

 このように、恩師永井荷風の影響を強く受け、処女作『山の手の子』でデビューした水上瀧太郎は、さらに、慶應義塾大学部理財科を卒業後、アメリカやイギリス、フランスなどへの遊学体験を経て日本に帰国。父親が経営する生命保険会社に勤務するかたわら、再び荷風の強い影響のもとに書き上げ、世に問うたのが、遊学体験に基づいて書いた異国遍歴物語とでも言うべき一連の新帰朝者小説であった。

 荷風の『あめりか物語』や『ふらんす物語』を踏まえて書かれた瀧太郎の異国遍歴物語

 『山の手の子』で、久保田万太郎に次ぐ「三田文学」出身の新進作家としてデビューした水上瀧太郎は、その年の秋11月、「三田文学」に『新次の身の上』を発表、翌年の2月には『ぼたん』を「三田文学」に、『うすごおり』と『噂』を「スバル」の2月号と8月号に、さらに『沈丁花』を「新潮」の5月号に発表と、「三田文学」をベースにしつつ、作品発表の場を広げ、大学生小説家として着実に地歩を固めていく。そして、大正元(1912)年3月、理財科を卒業後、同年9月欧米遊学のため渡米し、ボストン近郊のハーバード大学に通い、経済原論と社会学を聴講。大正3(1914)年6月には、ハーバード留学を終え、ロンドンに渡る。およそ一年三か月に及ぶロンドン滞在中には、大英博物館に通い近代文学の研究に没頭、トルストイの全作品を英訳で読む。さらに、大正4(1915)年12月、ロンドンからパリに移り、およそ八か月滞在。大正5(1916)年8月、パリを発ち日本に帰国、同年12月、父親の経営する明治生命保険会社に入社し、サラリーマン生活を始める。

 このように、水上瀧太郎は、永井荷風がそうであったように、ボストン、ニューヨーク、ロンドン、パリ……と、当時としては近代文明・文化の最先端を行く大都市で異邦人生活を体験することを通して、欧米の文明・文化の根底を流れる伝統の重みをしっかりと受け止め、個我の独立と精神の自由を何より尊しとする欧米の近代精神を身に着けて日本に新帰朝してくる。そして、生命保険会社の社員として、サラリーマン生活を続けながら、『海上日記』(「三田文学」、大正6年1月号から5月号まで連載)、『船中』(「中央公論」、大正6年1月号)、『同窓』(「新小説」、大正6年4月号)、『楡の樹蔭』(「三田文学」、大正6年8月号)、『ベルファストの一日』(「三田文学」、大正7年3月号)、『新嘉坡の一夜』(「新小説」、大正7年9月号)……と、新帰朝者小説と呼ぶべき、欧米での生活体験や人との交わり、見聞、思念、感懐、自然観察に基づいた異国遍歴物語とでもいうべき小説を発表していく。

 こうした異国巡りの小説は、永井荷風がアメリカやフランス滞在中に書き、日本の雑誌に発表し、のちに『あめりか物語』や『ふらんす物語』に収められた短編小説を意識したうえで、自分もまた荷風先生に倣って『新あめりか物語』を書いてみようという決意のもとに書かれたものであった。たとえば、「新小説」の大正6年4月号に掲載された『同窓』という短編のなかで、シアトルに上陸して、ニューヨークに向かう夜行列車の出発時間までの待ち時間の間、シアトル市内を見物がてら歩くなか、日本人町に迷い込んだときの印象について、瀧太郎は「そのせゝこましい日本街の不可思議を極めた光景は、自分をして、船中の徒然に読んだ「亜米利加物語」といふ短編小説集の中の「悪寒」といふ一篇に驚く可き細かい写実的の筆で描き出されてゐたのを想い起こさせた」(下線筆者)と記している。瀧太郎は、それまでに何度も繰り返して読んだはずの荷風の『あめりか物語』に収められた『悪寒』という短編小説の舞台となったシアトルの日本人町を実際に歩き、その目で「不可思議を極めた光景」を確かめたことで、荷風の記述が、いかに微細、かつ緻密で、写実的であるかに感服驚嘆した。そして、自分も荷風先生には到底及ばないものの、荷風先生に倣って、これから先アメリカやイギリスで見聞し、体験し、思い、感じることを小説に書き込んでいくことで、自身の異国生活体験が意味するものを、文学的に深く検証していこうという決意を固めたはずであった。

 そうした意味で、新帰朝者文学者水上瀧太郎は、荷風との同質性を前面に押し出しつつ、これらの新帰朝小説を書き続けたわけで、そこには文学上の恩師永井荷風先生に対する帰朝報告という意味合いも込められていたものと思われる。ただしかし、水上瀧太郎は永井荷風のエピゴーネンとしてではなく、言い換えるとこれらの作が荷風の『あめりか物語』や『ふらんす物語』のコピーとしてではなく、瀧太郎独自の異国遍歴物語として書かれているということは、見落としてはならない。



  
  水上瀧太郎が経済学と社会学を学んだハーバード
大学。筆者所蔵の葉書コレクションより
ロンドン滞在中に瀧太郎が西洋近代文学研究のために通った
大英博物館(上)とその閲覧室(下)。
筆者所蔵の絵葉書コレクションより



 今回、本稿を書くために荷風と瀧太郎の異国遍歴物語を読み比べてみて、一つひとつの作品を貫く主題の特性ということで、一番大きな違いとして見えてきたのは、荷風の『あめりか物語』には、ほぼ全篇にわたって、父親の支配権から逃れ、父親を「殺す」ための代行行為としての、異国の女性、それも社会の底辺や周辺、あるいは外側に生きる娼婦と、皮膚の色や民族、言語、宗教、社会的階層の上下などの差別の壁を越えて、性的対関係性を結び、肉体的、精神的結合、合体を遂げることで、心身の自由と解放を獲得するという「性」の主題が書き込まれているのに対して、瀧太郎の方にはそれが書き込まれていないことである。たとえば、『あめりか物語』のなかに、荷風がセントルイスで開かれていた万国博覧会を視察するために、セントルイスに一か月余り滞在したときの体験に基づいて書かれた『酔美人』という、日本の近代小説において、はじめてレース(人種)の壁を乗り越えて、男と女が性的に合体する現場に降り立って書かれた短編小説がある。この小説で、荷風は、セントルイス万国博覧会の会場で知り合った「モンテロ―」というフランス人ジャーナリストが、黒人ダンサーの性的魅力に惹かれ、彼女との愛欲の泥沼に溺れ込むことで身体を衰弱させ、最後は命まで失ってしまうという性的人間が避けて通ることが許されない悲劇的生のありようを見届けようとしている。

 これに対して、水上瀧太郎は、大正7(1918)年の「新小説」9月号に掲載された『新嘉坡(シンガポール)の一夜』という、荷風の『あめりか物語』に「余篇」として収められた『舎路港(シアトル)の一夜』から題名が取られた短編小説のなかで、異国で知り合った女性との間で、反社会的な性的関係の泥沼に足を踏み込むかどうか、ギリギリのところまで迫られた体験を告白している。瀧太郎の小説のなかでは、女性との肉体的関係性を結ぶかどうかの瀬戸際にまで追い込まれたところで書かれたほとんど唯一の小説と思われるこの短編で、瀧太郎は、欧米遊学を終え、喜望峰周りで日本に帰国する「上月」という男の口を通して、ロンドンとパリに滞在していた折の、一歩間違えれば反社会的な性関係の泥沼に沈溺しかねなかった「女難」の体験を告白させている。

 すなわち、船がシンガポールに寄港した際に、「上月」は、船を降りて市内をぶらぶら歩くなか、同じ船の機関士に出会い、「カラユキさん」と呼ばれる娼婦たちが春を売る日本人町に連れていかれる。そこで「上月」はさんざん酒を飲まされ、ぐでんぐでんに酔っぱらって、ほとんど意識を失った状態で、長崎から来たというカラユキさんの部屋に連れ込まれ、衣服を脱がされ、真っ裸でベッドに倒れ込んでしまう。そして、翌朝気が付いたら、これも真っ裸なカラユキさんと肌を密着させて寝ている自分を発見する。瀧太郎の小説のなかでは最も大胆に、それから先は愛のない、動物的結合以外ないというギリギリの地点まで売春婦の肉体に接近したところで書かれた小説だが、ここでも瀧太郎の分身である「上月」は、「いけない、いけない」、「私には女難の相があるさうだよ」と言って、「かういふ種類の女に特有の思い切った姿態で擦り寄つ」てくるカラユキさんの誘惑を振り切っている。

 「新嘉坡の一夜」の記述によると、瀧太郎は、「上月」のいう「女難の相」について、ロンドンとパリ滞在中に親しく交わった3人の女性との「危険域」一歩手前まで迫った体験を告白させている。一人は大英博物館の裏手に隠れ住み、街頭に春を売るベルギー生まれの女で、「上月」は、この女と旅の気まぐれに一夜枕を共にしたのが縁で、ずるずると動物的性欲の泥沼に曳きづり込まれるものの、女のしつこさに辟易し、女を振り捨ててパリに渡ってしまう。二人目は、「上月」が一時下宿していたことのある陸軍少佐の家にしばしば遊びに来ていた陸軍大佐の妻で、フランス文学を好んでいたことで話が合い、「上月」が夫人の住むハイド・パークを見下ろすフラットをたびたび訪れ、文学談義をかわすなか、夫人の方が「上月」に恋心を抱き、夫人から一線を越え、肉体の交わりを持つことを迫ってくる。にもかかわらず、夫人の求めに応じようとしない「上月」は、夫人からあるときは、自分を抱いてくれないなら「毒を仰いで死ぬ」と迫られ、またあるときは抱きすくめられ「火のやうに燃える夫人の狂乱の唇」に、額も頬も唇も吸われたという。にもかかわらず、「上月」は、肉体の一線を越えることはせず、夫人から逃れるようにしてロンドンを去ってしまう。ところが、夫人は「上月」の行き先を執拗に調べあげ、ついにパリの下宿先のアドレスを探し当てて手紙を送ってくる。その手紙には、このままパリにとどまるのなら自分もパリに行く、そうではなくてロンドンに戻ってくるなら、以前のような友人の関係に戻りたいので、ぜひ自分を訪ねてほしい。それでなければ、自分は「毒を服して死ぬ」と書かれてあったという。

 「上月」にとって3番目の「女難」の相手は、パリ滞在中、「上月」に「貴方には女難の相があります」と告げた、マドモアゼル・デュポンという名のフランス語の教師で、戦死した弟のためにいつも着ている喪服がよく似合う「白臘の顔に、希臘の彫刻のやうに整つた目鼻や口もとが、不浄な血液や分泌物を体内に持たない人のやうに思はれた」というほど、崇高純潔な「聖女」のイメージを持つ「処女」であった。彼女は、フランス語の教師として「上月」に接する間は、一度も彼女のなかの「女」を表に出すことはなかったという。しかし、故国に残してきた父親が病気であるという理由で、「上月」がパリを去り、日本に帰らなければならないと告げたとき、彼女は「強い哀惜の情」を浮かべ、船がロンドンに寄港した折に大佐夫人に逢うつもりかと問いただす。上月が「そのつもりだ」と答えると、聖女は「貴方は未練があるのですね」と、いつもとは違った声の調子で言い、その目に「嫉妬」の念を漂わせ、最後に、「貴方にはほんとうに女難の相がありますよ。―おお怖い。」と、冗談めかして言う。そのとき、彼女の声は、「異常に震えて、日頃冷い瞳の色が炎のやうに輝」き、「椅子に腰かけた彼女のつまさきも、膝の上で手巾をなぶつてゐた指先も、かすかに痙攣して震へ」ていた。

 そのとき初めて、「上月」は、真に自身の身に「女難」が迫ってゐることを感じ取る。そして、「難有(ありがと)う。左様なら。―私は誓つて今後の生涯を女に触れずに終わりませう。」といって、手を差し出す。その手を強く握って、マドモアゼル・デュポンは、「真青になった頬に落ちる涙を拭いもせず、黙つて強く握りしめた。喪服の胸に首からかけて長く垂れた黄金の鎖の先の十字架も、はげしく波打つておののいた」……。

 「上月」は、まさにこのとき、その先には、「聖なる処女」を抱きしめ、唇を吸い……男として「処女」と性的に合体するしかないという、ギリギリの瀬戸際に立たされていたことになる。にもかかわらず、彼は、「病床に伏せる父親」を安心させるために、その地点から身をひるがえし、「聖なる処女」に別れを告げ、パリを発ち、日本に帰っていった。繰り返しになるが、『新嘉坡の一夜』は、おそらく、水上瀧太郎の書いた小説のなかで、反社会的な性の世界に足を踏み込ませるかどうか、ギリギリの地点に接近したところで書かれた小説であった。だがしかし、瀧太郎は、その一線を見届けたうえで、社会の内側に帰ってくる。永井荷風の新帰朝者小説と10年後に書かれた水上瀧太郎の新帰朝者との、最大の違いがそこにあると言っていい。

 同じような異国遍歴体験から生まれてきた小説であるにも関わらず、瀧太郎と荷風では、なぜこのように大きな違いが出てきたのだろうか。理由として考えられるのは、明治末期から大正、昭和にかけて、国家が個人に優越し、国家が個人の心身の自由を束縛しようとした時代にあって、永井荷風の場合は、「性」を通して個人の身体と精神の自由を獲得するには、「性」を社会の外に置かざるを得なかった。つまり、性欲の対象を、社会の周辺、あるいは外側に生きる娼婦たちに求めざるを得なかったということである。ならばなぜ荷風は、「性」を社会の外に置かざるを得なかったのか? 「性」を社会の内側に置いて、男と女の性的関係性を求めると、そこには必ず「性」の第一義的本能としての「生殖」の問題が出てきて、人は、結婚し、種族保存のために子を産み、育てることで社会的使命と義務を果たすことを要求されるようになる。そしてそこに倫理の問題が発生し、人は社会的モラルに従うことを求められ、しかも生まれてくる子は「国家」の象徴的主体としての天皇の子とみなされていた明治のあの時代にあっては、人は「国家」のために性行為を行い、子を産み、育てることが義務化され、個人は国家の支配下に置かれ、心身を従属させ、「自由」を奪われることになっていたからである。

 永井荷風は、そうした国家による個人の内心と行動の自由の支配という、明治の社会と個人をがんじがらめに縛っていた構造的支配の力学に反抗し、自らの心身の自由を確保するために、「性」を社会的規範の外側に求め、そこに低く生きる女性、すなわち、街娼婦やカフェの女給、ダンサーたちとの性的な対関係を求めていった。特に、父親から追放される形でアメリカに渡った荷風は、国家による暴力的支配の力学をそのまま体現している父親に反抗し、父親からの命令に近い負託に逆らい、結果として父親を「殺す」ためにも、自身の存在が自由であることのあかしを、アメリカ社会の最底辺、あるいは外側に生きる街娼婦との性的関係性のなかに求めざるを得なかった。『あめりか物語』全篇を貫く主題として、「性」が極めて重要な意味を持って浮かび上がってくる所以がそこにあると言っていい。永井荷風は、日本の男子にただ一つ残された心身の自由の可能性を求めて、「性」を社会の外の置き、そこに生きる女性たちと「性的」対関係性を共有しようとした。別の言い方をすれば、荷風は、自由を求めて「性」を社会の外側に求め、「性」を生殖本能から切り離し、より上位の文化、あるいは遊戯のレベルに解放する形で異国の街娼婦と性的な関係を持ち、心身の自由を獲得することによって、「父殺し」を敢行しようとしていたことになる。

 一方、『山の手の子』に次いで、2番目に「三田文学」に掲載された『新次の身の上』(のちに『ものの哀れ』と改題)に書かれているように、水上瀧太郎の父親もまた、永井荷風の父親と同じように、官僚としてのキャリアを積んだのち、実業界に転身し、生命保険会社を創立した、明治の典型的家父長であり、瀧太郎に大学を優秀な成績で卒業し、一流企業に就職し、ビジネスマンとして立つことを要求する。そんな父親に対して瀧太郎もまた、激しく反抗し、学業を疎かにして、文学に没頭することで、「父殺し」を敢行しようとしたことがあった。しかし、瀧太郎の場合は、慶應義塾普通部のクラスメートで、文学上の親友となりながら、途中家庭の事情で普通部を中退し、朝鮮に渡るものの、結核に罹り早死にしてしまう松波冬樹という名の友人と手紙をやり取りするなかで、松波から「学業を疎かにするな。勉学に励み、大学を卒業せよ」と度々忠告を受けたことで、学業にも時間を割くようになり、優秀な成績で普通部を卒業。そのまま、大学部の理財科に進み、文学と経済学を両立させる形で本科を卒業。そのあとは、父親の意向を受け入れる形で、欧米遊学の途に就くことで、文学に溺れて社会的敗北者、あるいは脱落者になる危険から免れていた。それだけに欧米遊学中も、荷風のようには、やみくもに父親に逆らって、自身を社会の外に追放し、酒や麻薬、女に溺れるというデカダンな生活に脱落していく必要がなかったということになる。

 永井荷風のようには「父殺し」の本能的衝動に駆られていなかった水上瀧太郎は、「父殺し」の象徴的行為として、社会の外に生きる女性たちとの「性的」関係性を持たざるを得ないところまで追い込まれていなかった。そして、そのことの必然的結果として、瀧太郎は、男と女の性的対関係性を、「結婚」という社会的制度の内側に求め、大正10(1921)年四月二日には、明治生命監査役俣野景蔵の長女都と結婚し、「家庭」というこれもまた社会的に認知された生活共同体おいて、男と女が何か「善きもの」を「共有」しあう対的関係性のなかに、人が人として生きるうえでの「幸福」の源泉を求め、それを文学的に表現した。つまり、文学者水上瀧太郎は、表面では荷風文学を受け入れたように見えて、「性」という主題性においては、荷風と真逆の方向で、「性」を社会の内側に位置づけ、結婚という社会的に認知された性的対関係性を男と女が共有しあうことのなかで、人間が「幸福」に生きる姿を文学的に形象化した。そして、そうした水上文学の根本主題を、最も美しく雄弁に物語った作品が、大正14年、「中央公論」10月号に掲載された日本近代短編文學史上屈指の名作と言っていい『果樹』であった。

 水上瀧太郎の文学については、書きたいこと、論じたいことがまだまだ沢山ある。しかし、それを書きだすと、本連載の枠を大幅に超えてしまうので、別の機会に詳しく私見を明らかにすることとして、ここでは、一連の新帰朝小説を書き終わってから以降の瀧太郎文学の展開について、「三田文学」とのかかわりを中心に、概略見ていくことにしたい。

 およそ4年に及ぶ欧米遊学を終えて大正5年10月、日本に帰国した水上瀧太郎は、同年12月22日、明治生命保険会社に入社。翌年の11月、大阪支店副長を命ぜられ、大阪に赴任する。瀧太郎が帰国する前、すなわち同年4月に、永井荷風は慶應義塾を去り、「三田文学」の編集からも手を引いていた。荷風に代わって、「三田文学」の編集主幹についたのは、瀧太郎とは「例の会」の仲間であり、慶應卒業後はイギリスやフランスに留学して美術史を研究し、瀧太郎よりすこしまえに日本に帰国し、母校で美術史を講じていた沢木四方吉であった。大黒柱とも言うべき永井荷風を失い、雑誌の刊行そのものが危ぶまれるなか、瀧太郎は沢木を助け、前述したように欧米遊学体験に基づいた新帰朝者小説を「三田文学」に立て続けに発表、かたわら大正7(1918)年1月、「三田文学」の連載コラム「貝殻追放」の第一回目の記事として「新聞記者を憎むの記」を発表、新帰朝した瀧太郎に関して、事実に基づかない記事を掲載したことで、新聞記者を厳しく批判したこの記事が評判となり、瀧太郎は辛口の批評家としても名声を上げるに至る。

 ただしかし、会社員生活を続けながら小説を書く文学者として、水上瀧太郎の名が文学界だけでなく、社会一般に知られるようになるのは、瀧太郎自身の大阪での生活体験に基づいて書いた長編小説『大阪』を、大正11(1922)年7月15日から12月20日まで大阪毎日新聞に連載、さらに『大阪の宿』を大正14(1925)年、雑誌「女性」の10月号から翌15年の6月号まで連載してからのことであった。この二つの長編小説を書き上げることによって、水上瀧太郎は、日本で最初のサラリーマン小説家として自身の進むべき道筋を見定めたことになる。

 水上瀧太郎と「三田文学」のかかわりで、最後にもう一つ触れておかなければならないのは、永井荷風が慶應義塾大学部文学科の教授を辞任し、「三田文学」の編集主幹から身を引いたあと、不振に陥り、大正14(1925)年3月から一年間休刊に追い込まれていた「三田文学」を瀧太郎の献身的骨折で復刊させ、実質的、かつ精神的編集主幹として同誌の継続的発行を支え、それ以降、同誌が今日まで存続し、西脇順三郎や勝本清一郎、奥野信太郎、原民喜、野口富士夫、安岡章太郎、遠藤周作、江藤淳、坂上弘などなど、日本近代・現代文学史に名を残す小説家や詩人、評論家を数多く生み出す基盤を固めたのが水上瀧太郎だったということである。

 そしてまた、「三田文学」の創刊号に永井荷風が仕掛けたモダニズムと反モダニズムと二つの相反する志向性の内、モダニズム志向の方を最も正統的に受け継ぎ、欧米での異国生活体験に基づいて新帰朝者小説を書き上げ、さらにサラリーマンという近代都市生活者の「生」を、自身の生命保険会社社員としての勤労、生活体験に基づいて描き続け、日本近代文学史において、初めて「サラリーマン」文学という領域を切り開いたという意味で、水上瀧太郎は、戦後の黒井千次や坂上弘などのサラリーマン小説家の先駆けとなった重要な存在であり、もっともっと読まれ、論じられてしかるべき小説家であると言っていい。

 永井荷風が、慶應を去り、「三田文学」から去って以降、もし水上瀧太郎という小説家が、「三田文学」の精神的主幹として同誌を支え続けていなければ、「三田文学」が今日まで存続し、幾多の有為の文学者を生み出すことはなかった。そうした意味でも、水上瀧太郎は、永井荷風に次ぐ、第二の「三田文学」生みの親であり、育ての親であった。

 

(2018年3月12日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。