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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第十一章 「三田文学」から飛び立った荷風門下生(2)

 三田山上のデカダンス学生、佐藤春夫

 慶應義塾の三田キャンパスのヴィッカース・ホールで、永井荷風の謦咳に接し、「君たちも何か書き給え! 内容が良ければ「三田文学」にも載せたいから」と励ましを受け、それが契機となって小説や詩を「三田文学」に発表し、後々日本近代文学史に名を残す小説家、詩人、評論家となった学生として、前章で詳しく記述した久保田万太郎と水上瀧太郎のほかに、学年が下の予科の学生ではあったものの、佐藤春夫と堀口大学がいる。

 この二人に共通するのは、久保田万太郎は文学科、水上瀧太郎は理財科を卒業しているのに対して、佐藤春夫と堀口大学は共に中途退学していることと、さらに久保田が東京下町の浅草区田原町、水上が山の手の麻布区飯倉町(のちに芝区松阪町に移る)と東京出身であったのに対して、佐藤春夫は和歌山県の新宮に生まれ、育ち、堀口大学は、生まれこそ東京府本郷区森川町であったが、3歳の時に、外交官だった父親が朝鮮の仁川領事館に赴任したため、幼少年期を故郷の新潟県古志郡長岡町で過ごすと、共に地方出身であったこと。さらにまた、久保田万太郎が、「フランス語課程の学生は地方出身が多かった」と回想したように、二人共に大学部文学科予科に入学したとき、フランス語を第二外国語として選んでいること、すなわち本科に進めばフランス文学専攻のコースを選んでいることである。

 そうした意味で、この二人は予科と本科の課程を修了し、卒業していれば、最初に正規の荷風門下生となったはずであったが、学制上、予科の学生は本科教授の荷風の講義を聴講できなかったため、傍聴という形で荷風の講義を聴き、佐藤春夫の場合は3年余(慶應義塾塾監局に残る記録では、学籍は大正2年まであった)で、堀口大学の場合は、外交官であった父親がメキシコに赴任していた関係で、海外で就学すべく、1年余りでと、共に予科を修了せずに退学してしまった。そのため、二人を正規の荷風門下生と呼ぶには、厳格に言えば、いささか適格性に欠けるところがある気がする。だがしかし、二人が、永井荷風教授のもとでフランス語とフランス文学を学びたいという意志を持って慶應の文学科に入学し、本来であれば聴講の資格がないまま荷風の講義を傍聴し、荷風の奨めで書いた詩や評論が「三田文学」に掲載されたことがきっかけで、佐藤春夫の場合は詩人、評論家、小説家として、堀口大学の場合は詩人として立ち、その後の文学人生を通して、荷風を恩師として敬い、オマージュを捧げ続けたことで、荷風門下生に加えることにいささかの異議もないはずである。

 佐藤春夫は、明治25(1892)年4月9日、和歌山県東牟婁郡新宮町船町に、父豊太郎と母政代の長男として生まれている。父親の豊太郎は開業医であったが、俳句をよくし、「春夫」の名は、「よく笑へどちらむいても春の山」から取られている。明治31(1898)年4月、新宮第一尋常小学校に入学。37(1904)年4月、新宮第一尋常中学校に進学、その頃から将来文学者として立つことを志望し、与謝野鉄幹と与謝野晶子の主宰する短歌雑誌「明星」に自作の短歌を投稿、石川啄木の撰で短歌一首が選ばれている。さらに「明星」廃刊後、「明星」の後を受けて発刊された「スバル」にも短歌の投稿を続け、明治42(1909)年の「スバル」1月号には10首が掲載されるようになる。

 しかし、同年、町内の有志が、生田長江や与謝野鉄幹を招いて開いた文学講演会で、春夫は前座を務め、「偽らざる告白」と題して行った20分ほどのスピーチのなかで自然主義の文学について、「一切の社会制度の虚偽を排し百般の因習と世俗的権威を無視した虚無観に立って天真のままの人間性と人間生活を見ようというのが自然主義の文学論である」(「私の履歴書」、日本経済新聞、1958年)と解説したことが、学校当局から問題視され無期停学処分を受ける。さらにまた、春夫に対する学校側の処分を不服として、11月には中学校内に同盟休校事件が起こり、春夫はその首謀者に目されたことなどで学校に嫌気がさし、文学講演会の際に面識を得た生田長江や与謝野鉄幹らを頼って東京に出てきてしまう。
 ただこのときは、停学処分が意外に早く解けたことで、2週間ほど東京に滞在しただけで新宮に戻り、尋常中学校を卒業。ただちに再び東京に出てきて、生田長江の家に寄宿し、外国文学の指導を受けるかたわら、将来文学者として立っていくための心構えや振る舞いを教えられ、さらに与謝野鉄幹には短歌の指導を受けるようになる。おそらく上京するにあたっては、第一高等学校に進学し、学業に励むという約束が父親との間で交わされたのであろう、19歳の春夫は、明治43年の初夏(おそらく6月)、一高の入学試験を受ける。試験は三日間にわたって行われたものの、春夫は、初日の試験を受けただけで、到底入学は不可能と悟り、試験を放棄してしまう。このとき、与謝野鉄幹の引き合わせで知り合い、生涯の交わりを結ぶこととなる堀口大学も受験しており、二人は受験会場で偶然再会。堀口は、三日間、すべての試験を受け、かなりの手ごたえを感じ、合格すると思っていたものの不合格に終わってしまう。

 一高受験に失敗したことで、佐藤春夫は進学をあきらめ、自力で文学修行を続ける気持ちを固めるが、堀口大学は、与謝野鉄幹に一高受験に失敗したことを報告し、慶應義塾文学科の第二学期の補欠編入試験を受験する意向を伝える。これに対して、与謝野鉄幹は、それはいい、自分も慶應義塾で国文学を教えることになっているから好都合だと歓迎し、主任教授の荷風宛に紹介状を書いてくれる。その紹介状を持って、堀口大学は佐藤春夫ともども、新宿区大久保余丁町の監獄署裏手、荷風の住む「来青閣」を訪れ、鉄幹の紹介状を渡し、慶應を受けるのでよろしくと深々と頭を下げる。そのときのことを、佐藤春夫は、『小説永井荷風傳』(新潮社、昭和35年)の第二章「偏奇館門前」のなかで、以下のように回想している。

 玄関わきのベルのボタンを押すとすぐ取次に出て来た若い女中に堀口が紹介状を渡すと、程なくその紹介状をまた封書のままで手にした和服姿の長身の人が式台の上まで出て額の下に立つたままで紹介状を読み始めた。(中略)
 この長身の人こそはじめてみる永井荷風先生であつた。はじめてではあつたが写真で十分見おぼえてゐたから、すぐ当の先生と知つて我々は恭しく手を膝がしらまで下げて敬礼した。(中略)
 我々の敬礼に対して少しくうなだれたような答礼を与えた姿勢のままで紹介状の封を切った先生は、読み了つて紙を巻き返しながら、「お手紙は拝見しました。果たしてどれだけ有力なものかは知りませんが、仰せのとほりできるだけのことは致しましせう。(中略)」
 と言ふ言葉に対しても、我々二少年は黙々と、再び揃つて膝まで手を下げる敬礼をしただけであった。

 ここで、佐藤春夫は、堀口大学が直接荷風に与謝野鉄幹が書いてくれた紹介状を手渡したように書いているが、これは春夫の記憶違い(あるいは創作)で、堀口大学の「恩師永井荷風先生」(『昭和文学全集5』月報、昭和28年1月)の記述によると、このとき荷風は不在だったので、取次に出て来た「玄関子」に紹介状を手渡して帰ったというのが事実のようである。「恩師永井荷風先生」によると、このとき補欠試験を受けた学生は5、6人いた。ところが、荷風先生が「できるだけのこと」をしてくれたせいかどうかは別として、合格したのは佐藤春夫と堀口大学の二人だけであった。結果、二人は、明治43年の9月からヴィッカース・ホールで永井荷風の講義を傍聴し、荷風先生から「何か書いたら見せるやうに、三田には、君等のほか詩を書く学生はゐないのだから……」と、声をかけられ、二人は短歌や詩を詠むことへの意欲を一層燃え上がらせる。その結果、佐藤春夫は、明治44年8月号の「三田文学」に「キイツの艶書の競売に附せらるるとき」という長いタイトルの評論を発表し、「三田文学」にデビューすることになる。

 ところで、地方出身の新入生二人が、20人ほどいた当時の文学科の学生のなかで際立って特徴的だったのは、二人ともが、入学するまえから、文学者たらんとする志望を強く有し、「スバル」に短歌を発表、新進の歌人としてそれなりのキャリアを有していたこと。そしてその結果として、二人は共に新入生でありながら、授業も気が向いたときだけ顔を出すといった風で、無頼派的な振る舞いを押し通し、特に佐藤春夫は、大正モダンボーイを先取りするような奇抜なファッションで、三田山上に異彩を放ち、くわえて、佐藤春夫より25歳年うえで、正岡子規や夏目漱石と共に東京大学予備門(東京第一高等学校の前身)に入学するものの、授業にはほとんど出席せず、上野の図書館で本を読み漁り、品川の海岸で魚介類の標本を採集したりして、結局予備門を中途退学しアメリカに渡ってしまった南方熊楠と同じように紀州人独特の気質を受け継いだせいであろうか、滅法気が強く、独立心に富み、平気で授業をさぼり……と、デカダンスな振る舞いを押し通し、上級生と議論しても絶対に負けを認めようとしなかったことである。

 さらにまた、おそらく地方から出て来たばかりで、同級生仲間も少なく、大学というアカデミックな制度と空気にもなじめない。くわえて、これから先、東京に生活の場を置き、独力で文学者として身を立てていかなければならないことで、二人は共に大きな不安を感じていた。しかも荷風の講義を聞きに来る上級生のほとんどが、荷風に倣って小説を書くことに情熱を燃やしていたなか、二人ともに短歌、あるいは詩を書こうとしていたことで、荷風教授を中心としたヴィッカース・ホールでの談話の輪のなかにも入っていきにくいものを感じていた。そうした違和感と孤立感が、二人を一層強く同志愛的友情で結びつけていた。そのため、二人は、のちに堀口大学が「一卵性双生児」、あるいは「シャム双子」と例えたように仲が良く、荷風が同性愛ではないかと疑い、二人の関係について、「あの二人は、どっちがどっちかね?」と上級生に聞いたというほど関係は緊密で、常に形影相沿うように一緒だったことである。

 ところが、予科一学年を終えると、この「一卵性双生児」は、離別を強いられることになる。すなわち、堀口大学が外交官としてメキシコに赴任していた父親の九萬一のもとで生活し、海外、それもヨーロッパの大学に入学する道を探すべく、明治44(1911)年の7月3日、横浜港を出港し、太平洋の彼方に消えていく。残された佐藤春夫は、学籍だけは慶應に残っていたものの、「三年(みとせ)がほどもかよひしも/酒、歌、煙草、また女/外に学びしこともなし」と、デカダンスな生活を送るなか、詩や文学評論を「三田文学」や「スバル」などに発表。大正2(1913)年9月慶應義塾大学部文学科を退学したのちも、「我等」、「処女」、「星座」などの雑誌に詩や評論を発表し続ける。しかし、小説を書かなかったため、決定的な出世作や代表作がなかったことで、名を挙げることができず、したがって原稿料で生活を立てることもできないまま、一時は筆を断つことも考えたが、大正7(1918)年、谷崎純一郎の推薦で短編小説『李太白』を「中央公論」に発表したことで、ようやく文壇に知られるきっかけを掴むことになる。

 ちなみに、佐藤春夫は、それよりまえ、大正3年12月、22歳のときに、芸術座の女優川路歌子と同棲生活に入り、本郷区追分町に新居を構えている。しかし、思うように執筆活動がはかどらず、原稿も売れず、出世作もないまま知名度も上がらず、くわえて自由気ままな川路歌子との諍いにも神経をすり減らし、極度の睡眠障害に陥ってしまう。そうした精神上のストレスが募る一方の都会生活から逃れ、安眠できるところ、すなわち「田園」を求めて、大正5年5月、佐藤春夫は、東京多摩川の向こう側、神奈川県都築郡中里村字市尾の朝光寺に転居。同年7月には同じ中里村字中鉄に再び転居する。そうしたなか、川路歌子との同棲生活は破綻を来たして別離、すぐに再び女優の米谷香代子と同棲するなど、女性関係でのいざこざが続き、執筆も思うようにはかどらないことからくる鬱屈を晴らすように、洋画、特に油絵による自然描写に熱中し大正4(1915)年には「自由像」、5年には「猫と女との画」、6年には「上野駅停車場付近」などが二科展に入選している。

 このように、不眠症に苦しみながら、東京と神奈川の間を流れる多摩川の向こう側に広がる「田園」で二人の女優と、決して幸福とは言えない同棲生活を続けるなか、佐藤春夫は、自分が何を、いかに書くべきかがようやく見えてき始める。すなわち、絵画的な視覚印象や、聴覚印象と、そこから生起してくる意識や思念を、「時間」の流れに沿って記述するという、ある意味では映画的手法とも呼ぶべき斬新な手法によって、自身の「田園」における不調和な生活体験に基づいて小説を書き始めるようになる。その最初の成果が、大正6年1月、「星座」に発表した短編『西班牙犬』であり、「黒潮」に発表した『病める薔薇』であった。そして、谷崎潤一郎の励ましを受けて、大正8年、初めての本格的小説として、『田園の憂鬱』を完成させ、雑誌「中外」に発表したことで、佐藤春夫の名は一気にブレークし、時代の先端を行く新進作家としての名声と地位を確保、文学者佐藤春夫の生はようやく軌道に乗るようになる。

 国木田独歩の『武蔵野』や徳富蘆花の『自然と人生』を読めば分かるように、武蔵野という自然的空間は、明治日本の近代文学の表出空間において、東京という近代化が進む不自由で、人工的な生活空間と対比される形で、都会生活に疲れ、時間に追われて生きる人間に安らぎと精神的解放感を与える癒しの空間として意味づけられていた。そのことを念頭に置いて、『田園の憂鬱』が発表されてから100周年に当たる今年の冬、ほぼ半世紀ぶりにこの作品を読み返してみて、ある驚きと共に発見したのは、都会での生活や文化に同調できない、ということは都会という共同性に自らの存在をゆだねることのできない書き手が、中国古代の魏晋南北朝期の詩人、陶淵明が「帰去来の辞」で「帰りなんいざ、田園まさに蕪れなんとす胡(なん))ぞ帰らざる」と詠って以来、東洋の精神文化の歴史において、人間を人間本来のあり方において受け入れ、様々な束縛・不自由から解放してくれるはずの「自然」(=自然的外部世界)のなかに入って行っても、自己の存在を委ね得る共同性を見出すことができないまま、そのことによってヒリヒリするような不安や焦燥の心理や意識に苛まれる……いわば、都市生活者としての近代人が本質的に抱え込み、苦しまざるを得ない精神の「病」を、心理小説的な手法によって、形象化してみせたことであり、そこに20世紀文学者としての佐藤春夫の新しさがあったということである。

 小説『田園の憂鬱』によって作家的地位と名声を確保した佐藤春夫は、それ以降、小説家としては大正8(1919)年8月から「改造」に『美しい町』を連載。大正11(1922)年1月からは「婦人公論」に『都会の憂鬱』を一年間連載し、翌12年1月に新潮社から単行本として上梓。14年には谷崎潤一郎とその妻千代子と佐藤自身の三角関係をテーマにした未完の長編小説『この三つのもの』を刊行、さらに歴史上の大人物の生涯を取り上げた歴史小説、あるいは伝記の分野では法然上人の事績を描いた『掬水譚』と『法然上人別伝』や『山田長政』、『コロンブス』などを刊行、日本近代文学者の評伝としては『小説高村光太郎』や『小説知恵子抄』、『詩人島崎藤村評伝』、『わが龍之介像』、『小説永井荷風傳』などを書いて、多彩、かつ旺盛な筆力を示していく。

 一方、詩人としては大正10(1921)年に『殉情詩集』を刊行、12年には文学上の友人谷崎潤一郎の妻、千代子に対する恋情を、ペーソスと半ば自嘲の口調で詠った詩「秋刀魚の味」を「人間」に発表、この詩は、谷崎とその妻とをめぐる三角関係が、新聞や雑誌で大きく報じられたこともあり、広く人口に膾炙し、佐藤春夫の名は一層全国的に知られるようになる。さらに、日中・太平洋戦争中は、正に檄文に等しい戦争賛美、戦意高揚の詩をこれでもかこれでもかといった感じで詠み続け、文学者佐藤春夫の文名に汚点を残すことになる。

 このように、小説家として、そして詩人として文学的キャリアを確立した佐藤春夫であったが、江藤淳が、小説よりも文学評論の方でより高く評価しているとしているように、日本の古典文学から明治・大正・昭和期の近代文学まで、広いジャンルにわたって縦横無尽に文学評論の筆を揮っていくことになる。すなわち、森鷗外が、明治37(1904)年2月、日露開戦に当たり、2年余り、第二軍軍医部長として従軍出征し、遼東半島と台湾を転戦した際に詠んだ新体詩や短歌、俳句などを集め、戦後出版した『歌日記』に初めて光を当て、その同時代的意義について解説・論評した「陣中の竪琴―森林太郎の『歌日記』に現れたる日露戦争」(「文藝」、昭和9年3月)に始まり、永井荷風や島崎藤村、谷崎潤一郎、芥川龍之介など同時代の小説家の作品に関する作品論や評伝、あるいは「好色文学論」などのような文学論、さらには、中国六朝時代から明清時代までの女流詩人32人の漢詩を、唐詩選を俳句に詠みかえた正岡子規に倣って現代詩に詠み換え、昭和2年自殺した芥川龍之介の霊に捧げる鎮魂詩集とした刊行された『車塵集』のような訳詩、あるいは中国の近代作家魯迅の『故郷』や『孤独者』などの翻訳……さらに加えて、洋画の分野でも余技の域をはるかに超えた作品を数多く残す。

 中村真一郎が『新潮日本文学(12)・佐藤春夫』の解説で、「近代日本文学史上、佐藤春夫ほど広い範囲の活躍をして、そのいずれにも成功した例は珍しい」としたように、一つの主題なり、一つの方法に専心しながら芸を深めていくことが尊重される日本の文学風土にあって、佐藤春夫のマルチメディアな領域における成功は正に「稀有の達成」であった。それはまた、小説や詩、散文、紀行文、史伝、戯曲、翻訳、日記、音楽論や美術論、絵画……と、様々な分野で、様々な主題と手法で倦むことなく作品を書き続けた、マルチメディアな文学者永井荷風の後を追うものでもあった。


 恩師永井荷風との愛憎相半ばする関係

 このような佐藤春夫の多岐にわたる脱領域(クロスオーバー)的な文学的営みと成し遂げた仕事の量と広がり、そして深さを念頭に置いて、恩師永井荷風との関係性において、春夫がなしたことを振り返ってみると、何より大きなこととして挙げられるのは、春夫が荷風を生涯の恩師として感謝とオマージュを捧げたこと、そしてまた、昭和12(1937)年7月4日付の東京朝日新聞に掲載された「荷風先生の文学―その代表的名作『濹東綺譚』を読む」を皮切りに、昭和21年10月号「展望」掲載の「永井荷風」、21年6月号「文藝春秋」掲載の「最近の永井荷風」、昭和26年6月号の「三田文学」掲載の「永井荷風研究」、昭和26(1951)年1月から3月にかけて創元社から刊行された『永井荷風作品集』(1~6巻)に寄せた解説、昭和29(1954)年3月、「明治大正文学研究」に掲載された「永井荷風の詩情」、同じく29年3月、「世潮」に掲載された「わが永井荷風―その人その作品その他に関する随筆」、昭和34(1959)年3月、修道社刊行の『世界紀行文学全集・月報』掲載の「荷風文学の精髄」、さらにそれらの集大成として昭和35年、新潮社から刊行された『小説永井荷風傳』など、日本の近現代文学者のなかでは、圧倒的に数多く荷風小説の作品論や荷風文学論、評伝の類を新聞や雑誌、全集本の月報に発表し、荷風文学の本質を一般読者に理解せしめるために、少なからぬ貢献を成し遂げたことである。

 佐藤春夫は、慶應義塾の文学科予科の学生時代に、荷風の講義は高々一年余り傍聴しただけではあったものの、その文学的生涯を通して、荷風と荷風の文学にオマージュを捧げ、荷風文学の作品論や作家論、さらに評伝を書き残し、また自身の小説や詩においては、永井荷風と「三田文学」が標榜していたモダニズム志向を、堀口大学と並んで最も正統的に受け継いだ文学者であった。しかし、同時に佐藤春夫が、20世紀の日本文学にとって、最大、かつ不幸な主題とでも言うべき、国家と個人、ひいては国家の悪の極限的現前としての戦争との関係性において、永井荷風と180度真逆の方向性に立つ文学者であったことも、見落としてはならないだろう。

 具体的に言えば、佐藤春夫は、昭和9年3月、前述の「陣中の竪琴―森林太郎の『歌日記』に現れたる日露戦争」を「文藝」に発表したころから、愛国主義的戦争翼賛の詩歌を詠い募っていくこととなる。すなわち、昭和2年5月の山東出兵や3年5月の済南事件に端を発し、6年9月の満州事変、7年1月の上海事変、8年3月の国際連盟脱退、11年2月の2.26事件、11月の日独防共協定成立、12年7月の日中戦争勃発、13年5月の国家総動員法の成立、7月の国民徴用令の発布、14年(1939)年9月1日の第二次世界戦争の勃発、15年10月の大政翼賛令の発布、16年12月8日の真珠湾奇襲攻撃と大東亜戦争の勃発、そして20年8月15日の日本の無条件降伏と敗戦……まで、軍部の独裁体制が確立し、日本全体が軍国主義化し、大東亜共栄の旗印を掲げて、中国に対して植民地主義的侵略戦争を仕掛けていこうとするころから、佐藤春夫は、愛国的熱情に駆られた詩歌を詠うことを通して、天皇を頂点とする軍国主義国家日本と侵略戦争を翼賛する姿勢をあらわにしていく。

 こうして、日本全体が、戦争という狂気の全体集合的共同性に押し流されていくなかで、佐藤春夫は、「この決戦時にあって文学も亦決戦体制にあるべき理論に誰が反対しよう」(「愛国百人一首小論」、「改造」、昭和16年)とし、戦時体制に積極的に協力していく決意を表明し、「興亜行進曲」とか「亜細亜の夜明けを謳う」、「落下傘部隊礼賛」、「あつつ島玉砕部隊礼賛」、「流星爆弾歌」といった戦意高揚を目的とした激越な戦争詩歌や、新聞・雑誌記事を、何かに憑かれたように書きつのっていったのである。

 そうした佐藤春夫のファナティックな愛国詩人としての言辞と振る舞いは、昭和初期の「エロ・グロ・ナンセンス」の時代状況を背景に、銀座や玉の井のカフェの女給や私娼婦との性的対関係性を主題にした性的風俗小説、すなわち、佐藤春夫の言葉を使えば「好色小説」を書くことで、あるいは『断腸亭日乗』という日記のなかでの密室的記述を通して、国家権力や軍部の強権的支配の力学をはぐらかし、「大東亜共栄」とか「八紘一宇」といった軍国主義的国家理念の虚妄を、厳しく批判し弾劾した永井荷風の反国家的な「抵抗」の文学とは、真逆の方向を向いたものであった。

 おそらく、永井荷風の方は、佐藤春夫のそうした豹変を、文学者にあるまじきものとして冷めた目で見ていたはずで昭和16(1941)年3月22日付の『断腸亭日乗』の以下のような記述を読めば、荷風が、文学者としての本分をかなぐり捨てて、愛国的翼賛歌や詩を詠いつのる佐藤春夫に対して、侮蔑と憤りの感情に駆られていたことが分かる。

 三月廿二日。日本詩人協会とか称する処より会費三円請求の郵便小為替用紙を封入りして参加を迫り来れり。  会員人名を見るに蒲原土井野口(蒲原有明と土井晩翠と野口米次郎のこと。筆者註)あたりの古きところより佐藤春夫西条八十などの若手も交りたり。趣意書の文中には肇国の精神だの国語の浄化だの云ふ文字多く散見せり。抑々(そもそも)この会は詩人協会と称しながら和歌俳諧及漢詩朗詠等の作者に対しては交渉せざるが如く、唯新体詩口語詩等の作者だけの集合を旨となせるが如し。今日彼等の詩と称するものは近代西洋韻文体の和訳若しくは其の模倣にあらずや。近代西洋の詩歌なければ出でありしものならずや。その発生よりして直接に肇国の精神とは関係なき者、又却て国語を濁化するに力ありしものならずや。(中略)佐藤春夫の詩が国語浄化に力ありとは滑稽至極といふべし。これ等の人ゝ自ら己を詩人なりと思ヘるは自惚れの絶頂といふべし。木下杢太郎も亦この会員中に名を連ねたり。

 荷風は、分かっていたのである。「肇国精神だの国語の浄化」などという、歯の浮くような言辞を書き連ねて、詩人たちが国家に奉仕し、戦争を翼賛しようとしても、それは文学の本旨にもとる恥ずべき行為だということを。一方、佐藤春夫の方は、荷風が昭和12(1937)年の『濹東綺譚』以降、『踊子』とか『来訪者』、『問わずがたり』などの小説や『断腸亭日乗』を、発表の当てもなく書き継いでいたものの、それらは活字化されることがなかったため、荷風が、戦前、戦中を通して文学者として抵抗の意志と姿勢を堅持し、佐藤春夫も含めて大方の文学者が、文学者としての本分を忘れ、国家という全体共同的なものに同調し、戦争を翼賛していくことを厳しく批判していたことは知りようがなかった。

 ところが、日本がポツダム宣言を受諾、無条件降伏し、言論の自由が回復し、荷風が戦中に書きためた小説や日記が次々と公開され、永井荷風が「書く」ことのなかで、日本を戦争へとミスリードしていった政治権力や軍部を批判し、非戦の姿勢を貫いたことが明らかにされ、新時代の文学者として奇跡的に復活・復権を遂げるに及んで、佐藤春夫は、時代の潮流に乗り遅れまいとするかのように、荷風文学論を書き始める。そして、戦前のある時期、自身がいかに荷風から信頼され、個人的に親しく交わり、銀座出遊のおりなどの荷風の行実や語ったことを自分だけが知っているという口調で書き散らすようになるのである。昭和12年7月14日、「荷風先生の文学―その代表的名作『濹東綺譚』を読む」を唯一の例外として、佐藤春夫の荷風文学論や評伝のほとんどが、敗戦後に書かれていることが、そのことを如実に物語っている。

 このように戦前、戦時中は、軍部に積極的に協力し、愛国的翼賛詩歌を詠うことで、軍国主義的、大政翼賛的全体共同性に同調し、戦後は手のひらを返したように反軍国主義、民主主義といった新時代の全体共同性に同調して、永井荷風とその文学にオマージュを捧げる文章を盛んに書まくる……と、常に時代の全体共同性に同調し、そのお先棒を担いできたところに、佐藤春夫の軽さというか、節操のなさがはしなくも表れていたわけで、荷風はそうした佐藤に不信感を懐いていた。そして、おそらくはその不信感に原因があったのだろう、荷風は、昭和11(1936)年、三笠書房から刊行された『永井荷風讀本』の編集を佐藤春夫に手伝わせた際に、春夫が印税をネコババしたというような話を、晩年の荷風の元に親しく出入りしていた「K」に語り、そのことが荷風の死後、耳に入るに及んで、春夫は激怒する。そして読売新聞の夕刊に連載中だった「詩文半世紀」のなかで、「妖人永井荷風」という一章を立てて、荷風の人としての不実さを強く詰り、「決して誠の無い人であつた」、「思ふに永井荷風は妖人であつた。わが生涯の崇拝像を、わが晩年に到つてかう呼ばなければならないのは、いかにも口惜しいが、それが事実ならば是非もあるまい」と、恨みがましく、荷風から裏切られたことを嘆くことになる。

 それにしても、佐藤春夫はなぜ、「ああ、また先生がいつもの……」と、笑ってすますことができなかったのか……。今回、本稿を書き進めるために、「妖人永井荷風」を読み直して見えてきたことは、日記という密室的書記空間のなかでのこととはいえ、「書く」ことのなかで非戦を貫いた永井荷風と戦争翼賛詩を書き散らした佐藤春夫とでは、文学者としての精神、志の高さと強さが根本的に違うということ。それと何より決定的な違いは、国家と個人との間の「逆立」する関係性が佐藤春夫には見えていなかった。つまり、中学生時代に、文芸講演会の前座として、自然主義文学について講演し、その中で、社会主義や無政府主義について言及したことで、学校当局から問題視されて無期停学処分を受け、さらに明治44(1911)年1月、天皇暗殺の嫌疑で、26人の社会主義者や無政府主義者が無実の罪で逮捕され、処刑された大逆事件の被告のなかに父親の友人であり、春夫自身も面識のあった大石誠之助がいたことで、追悼・抗議の詩「愚者の死」を書いた佐藤春夫ではあったものの、国家権力は本質的に個人に優越し、必要とあれば、えん罪事件をでっち上げてでも、個人の思想・表現の自由を圧殺してくるという冷厳な事実を、佐藤春夫は見抜けていなかった。

 前述したように、永井荷風は、明治38(1905)年の秋、セントルイスを訪れ、同地で開かれていた万国博覧会を視察した折に、ロシア展示館のガイド嬢と懇意になり、連日、口説き落とそうとするが、相手の女性から「あなたの母国の日本と私の母国のロシアが戦争をしているから「ダメよ!」と断られたことを、友人の西村恵次郎に報告した絵葉書のなかで、「毎日ひやかしに行つて大分こんいになりましたよ。国家と個人はどうしても一致せぬものです」と書いている。そう書いたことで、荷風が言おうとしたことは、国家と個人は、「性」を介して「逆立」する関係に立つということであった、。

 これに対して、佐藤春夫の方は、欧米での生活体験がなく、したがって、欧米の女性と恋愛、あるいは性的関係を結んだこともなかった。それゆえに、欧米の市民社会の根底に流れる、個人の自由、特に表現の自由は国家権力より優越するという理念と原則を十分に理解し、それを文学者として生きていくうえでのモラルとして受け入れていなかった。そのせいで、日本が戦争という非常事態に陥るまえまでは、独立した個人として、そして文学者として、佐藤春夫は自由気ままに振舞い、思うことを思うように書きつづってきたわけだが、日本が中国やアメリカに対して本気で戦争を仕掛けるという事態に到るに及んでは、国家という全体集合的共同性に逆転的に同調し、個人としての存在を国家に預け、あまつさえ戦争賛美、戦意高揚の詩歌を声高に詠うようになってしまったのである。

 それにしても、なぜ佐藤春夫は、そのような変身を遂げてしまったのか?……考えられるのは、春夫が、徳川御三家の一つで、幕末・維新戦争の際には、佐幕陣営の一方の雄でもあった紀州藩の領内にあった新宮の出身で、代々儒者と医師を務める家柄の出であったことで、佐藤春夫もまた、森鷗外や正岡子規、国木田独歩がそうだったように、佐幕派の子弟として生を享け、それゆえに明治新政府から登用される門戸を閉ざされ、やむを得ず自由民権運動や新聞・雑誌などのジャーナリスティックなメディア、あるいはさらに進んで文学表現をよりどころにして、鬱屈した心情を反政府的言説や文学的表現を通して表白していく道を選ばざるを得なかった、明治・大正期の佐幕派文学者、それも遅れてきた佐幕派文学者の一人であったということである。

 そうした佐幕派の文学者は、拙著『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年8月)や『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)のなかで記述したように、平時においては国家に対して、批判的言辞を弄しながら、一旦戦争という国家の非常事態が現出するに及んでは、国家との全体共同性を逆転的に回復させ、戦争翼賛体制に同調し、愛国的戦争詩歌や小説、論説を書くことで、「失われた全体共同性」を回復させようとする、日本近代文学者の精神構造の根底にトラウマとしてわだかまる亀裂、あるいは陥穽、すなわち「逆転する精神の構造」から、佐藤春夫もまた免れていなかったということである。

 そうした意味でも、佐藤春夫は、永井荷風と「三田文学」が体現していたモダニズムを表層において受け入れ、継承したものの、その根底に流れる、個人の存在と思想、ひいては個人の思想表現の自由という、欧米の近代社会の根底に貫く根本理念と原則とは無縁の文学者であった。佐藤春夫が、日本民族を滅亡の瀬戸際まで追い込んだ戦争において、ファナティックな国家主義や軍国主義に同調し、幾多の戦争翼賛的詩歌を詠ってしまった理由がそこにあると言っていい。


 堀内大学が三田山上で聞いた「天使の声」

 三田山上のヴィッカース・ホールで、永井荷風の講義を聴き、荷風から「何か書けたら見せてください、『三田文学」に載せてあげましょう」と励まされ、それが契機となって懸命に小説や詩を書き上げ、「三田文学」に掲載されたことで、文学者として立つ気持ちを固め、のちに日本の近現代文学史に名を残す仕事を成し遂げた文学者の内、ここまで久保田万太郎と水上瀧太郎、佐藤春夫について記述を進めてきたわけだが、最後に永井荷風が、文学的な意味で水上瀧太郎と並んで最も高く評価していたと思われる詩人の堀口大学について、永井荷風と「三田文学」とのかかわりを中心に、記述しておきたい。

 堀口大学は、昭和33年、慶應義塾創立100周年を記念して、慶應義塾大学応援指導部からの委嘱で、祝典曲「幻の門」を作詞したときの経緯を記した「祝典曲を作詞して」(「三田評論別冊」、昭和33年4月)のなかで、「世間的には三田出身の文人で一応通用しているが、実質的には僕は塾とは案外縁の浅い人間なのだ。正しくは三田文学出身の文人というべきかも知れない」と断ったうえで、自身と慶應義塾とのかかわりについて、「なにかの場合、学歴を問われると、慶大文科中退と書いたり、言ったりしているが、そしてこれは決して嘘ではないが、この中退、実質的に言うと、甚だおぼつかない中退なのだ。それかあらぬか、書いたり、言ったりするたびに、自分ながら、僭越の沙汰だという気持ちを禁じないのが常だ。それもその筈、僕は正確に数えるなら、たった二学期分しか塾生としての授業料は収めていないのだ。(中略)四十四年三月学年試験を経て、目出度く予科二学年へ進級したが、そのまま外国へ行ってしまった」と記している。

 年譜によると、堀口大学は、明治43年の9月に文学科予科に佐藤春夫と共に補欠で編入学し、二学期と三学期通学、といっても授業はさぼりがちで、学年末の試験ではフランス語は不可。それでも「スバル」に短歌を発表しているからという、担当教師(広瀬哲士)の温情でかろうじて予科2年に進級している。しかし、第二学年に進級するとすぐに、堀口は、外交官だった父親が赴任しているメキシコに渡るべく、横浜を出港し、太平洋を東の方へと消え、爾来、途中二年余り日本に帰国していたのを除いて、12年間も日本を不在にしている。この間、「三田文学」には自作の詩やフランス近代詩の翻訳を発表し続けているが、大正14(1925)年3月に日本に帰国してからも、慶應には復学していない。つまり、慶應に籍を置き、学費を払って通学したのは半年だけだということを考えると、堀口が、「慶大文科中退」と書いたり、言ったりすることが「僭越の沙汰だ」と感じるのも無理からぬことと言えそうである。

 ただ、堀口大学が慶應義塾の文学科予科に間違いなく籍を置き、約半年間第二学期と第三学期だけとはいえ、三田のキャンパスに通い、永井荷風の講義を聴き、荷風から詩が書けたら見せてくれたまえ、内容が良ければ「三田文学」に載せてあげるよと励まされ、その一言が、堀口大学をして詩人としての「長い道」を歩む決意をさせた、つまり、詩人堀口大学の人生に決定的な意味を持ったことを考えると、そしてまた、慶應文学部の教授たちが、後年、堀口を「特選塾員」に推し、慶應文科中退の堀口にお墨付きを与えたことを思うと、「三田山上から飛び立った荷風門下生」の一人に堀口大学を加え、本稿で記述を進めることに誰も異存はないはずである。

 さて、堀口大学は、明治25(1892)年1月8日、外交官堀口九萬一と妻政子の長男として、東京市本郷区森川町一番地(現在、東京都文京区本郷、あるいは西片の当たり)に生まれている。父親の九萬一は、幕末の戊辰戦争で、幕府側について参戦した信州長岡藩の藩士として従軍し、戦死した堀口良治左衛門の長子だったことで、堀口大学は佐幕派子弟の子として生まれたわけである。しかし、九萬一は、そうした出自にまつわる不利を乗り越えようと、帝国大学の法科を卒業し、第一回目の外交官試験を首席で合格し、外務省に出仕し、外交官の道を進むことになる。堀口大学は、この父親がまだ帝国大学の学生として、本郷のキャンパスに通い、帝国大学正門前の本郷区森川町に妻の政子と共に住んでいたときに生まれたことで、「大学」と命名されたという。恩師永井荷風の本名、「壮吉」に、荷風出生当時は内務官僚であった父親久一郎の、ゆくゆくは意気壮大な男子に成長し、官界に雄飛してほしいという願いが託されていたように、堀口大学も、外務官僚だった父親の期待を背負って生まれ、育った世継ぎの長子であったわけである。

 こうして父親の大きな期待を背負って生まれてきた堀口大学ではあったが、3歳の時に二つ、早くも大きな不幸に襲われる。一つは、母親の政子が肺結核で、23歳の若さで早世してしまったことである。そのとき、堀口はあまりに幼さなかったがゆえに、母親の面影は全く記憶から消えてしまったという。それでも堀口は、「美しい母だった」と聞かされた母親の面影を探し求め、「たった一度でいいから、母の顔が見たいと僕はたえず思い続けて育った」という。後年、すなわち昭和34(1979)年5月13日付の「新潟日報」に掲載されたエッセイ、「母を語る」によると、堀口は、母親代わりに自分を育ててくれた祖母に「うるさいほどしつっこく」母親の顔かたちを聞き出そうとしたという。しかし、祖母の思い出話も、大学を満足させることはできず、ついに「面影との再会不可能だ」と知った大学は、今度は母の声を聞きたいと思い、それを自身の「耳の奥」に探したという。そして得た詩が以下のような、哀切を極めた「母恋」の詩であった。

 母よ
 僕は尋ねる
 耳の奥に残るあなたの声を
 あなたが世に在られた最後の日
 幼い僕を呼ばれたであろうその最後の声を。
 
 三半規管よ、
 耳の奥に住む巻貝よ、
 母のいまわの、その声を返えせ。

 昭和22(1947)年に詠まれたこの詩を、おそらく堀口大学は、フランスの詩人で、自身も親交のあったジャン・コクトーが、1920年に刊行した短詩集『ポエジー』のなかの第5詩に詠われた「私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ」という短い詩、あるいは、昭和5(1930)年に刊行された三好達治の第一詩集『測量船』のなかの「郷愁」という詩の一節「―海よ、僕らの使ふ文字では、おまえの中に母がある。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある」を想起して詠ったのかもしれない。堀口大学は、三半規管の奥に広がる暗い海の底に潜む「巻貝」を幼い自身に、そして海底の空間を「母胎」に見立て、母胎に包まれて、幼い大学が聞いたはずの「母の声」を聴き取ろうとするが、その声は聞こえてこない。代わりに聞こえてきたのは、少年堀口大学の「母親の声を返えせ」という悲痛な叫び声だけであった。

 少年時代に母親を失った日本近代の詩人として、私たちはもう一人自由俳句の先駆者のひとり、山頭火を知っている。知られているように、山頭火の母親は、山頭火が10歳のときに、夫の芸者遊びなどを苦にして、屋敷内の井戸に飛び込み、自殺している。山頭火はその時、死体となって井戸から引き揚げられた母親の死に顔を見てしまい、それが生涯のトラウマとなって残り、山頭火は家庭を捨て、社会を捨て、托鉢しながら山野を放浪。堀口大学とは反対に、母親の死に顔の記憶を打ち消そうとするかのように、山奥の清らかな水の流れや温かな水の湧くところ、すなわち温泉を探し求め歩いた。

 ただ、山頭火の場合は、幸か不幸か、母親の面影は記憶に残っていたわけだが、堀口大学の場合は、まったく消えてしまっていた。そのため、大学は、顔の記憶をよみがえらせえることはあきらめ、「三半規管」の奥に潜む海底に失われた母親の「声」を蘇らせようとしたわけだが、それも徒労に終わる。もしかすると、堀口大学の詩は、永久に聞こえてこない母親の声を、せめて詩的言語表現の世界で回復させたいという願望によって書かれた詩なのかもしれない。

 幼い大学を襲った二つ目の不幸は、朝鮮の京城の領事館に領事館補として赴任していた父親の九萬一が、明治28(1895)年10月8日に起こった閔妃暗殺事件に連座し、日本に送還され、逮捕・収監されてしまったことである。閔氏暗殺事件というのは、日清戦争に勝利したあと、朝鮮国王の高宗の父親であり、開国派の柱だった大院君を復権させ、清国から独立させ、親日的政策を取らせようとしていた日本が、三国干渉によって日本の影響力が停滞した隙をついて、クーデターを起こし政権に復帰していた閔氏(高宗の妃で、政治的実権は彼女が握っていた)とその一党を排除するために、時の朝鮮公使の三浦悟楼の首謀の下、日本軍守備隊や、日本領事館警察官、日本人壮士、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使ら数十人が、閔妃が政務を執っていた景福宮に乱入し、閔氏を惨殺したというもので、事件は、外国人の目撃者がいたことで国際問題化し、日本政府は実情調査のため、小村寿太郎外務省政務局長を京城に派遣。三浦梧楼公使以下、事件に関与したとされる日本人外交官には免官処分が下され、日本に送還されることになる。広島の軍港宇品に上陸した堀口九萬一ら外交官は、広島第五師団の軍法会議にかけられ、起訴され広島監獄未決に収監されるものの、証拠不十分で全員無罪放免され、外務省への復帰が認められ、九萬一は清国の沙市に赴任することになる。

 ところで、角田房子の『閔氏暗殺』(新潮社、1988年)のエピローグを読むと、「閔妃事件に関与したことは、その後の彼らに何の悪影響も及ぼさず、かえって"箔"をつけて出世街道を走らせたようである」と記されているが、事が堀口九萬一に関するかぎり、出自が佐幕派であった長岡藩であり、父親が戊辰戦争で官軍と戦い戦死していただけに、「出世街道」を走ったようには思えない。第一回外交官試験に首席で合格した有為の人材ではあったとはいえ、九萬一がその後辿った外交官人生を追ってみると、ブラジル、メキシコ、オランダ、ベルギー、スウェーデン、スペイン、ルーマニア、ブラジル、メキシコ……と、イギリスやフランス、ドイツ、ロシア、アメリカなど欧米の一等国を避けるようにして臨時代理公使や公使とを歴任、その間に何度か新しい赴任先が決まるまで日本に一時帰国しているものの、本格的な本省勤務は一度もなく、しかも、ベルギー女性と再婚し、二児を設けたこともあり、イギリスやフランス、ドイツ、アメリカなどの一等国に赴任したことがないまま退官、その意味で外交官としては裏街道を歩んだことになり、けっして「出世街道」を走ったとはいえないだろう。

 ただしかし、外交官としては有能だったようで、日露戦争開戦前、二等書記官としてブラジル公使館に勤務していた九萬一は、ロシアがアルゼンチンの軍艦を購入する動きを見せていることで、日本政府の命を受け、ブエノスアイレスに赴き、アルゼンチン政府高官と直接交渉し、日本政府が買い取ることに成功、のちに日本海海戦に参戦した「日進」、「春日」の二艦は、そのときに買い取った軍艦であった。また、臨時代理公使や公使として、トータルで10年間も在ブラジル日本公使館に在勤し、日本人のブラジル移民を奨励し、ブラジルとの交易を広げ、日本とブラジル間の通商、人的交流、友好関係の促進に大きく貢献している。

 さらにまた、九萬一が、イギリスやフランス、アメリカなど一等国を避けるようにして外交官人生を全うしたことで、堀口大学は、ヨーロッパ近代文学の中心たるフランスの近代詩歌を自身の詩心の中核とする一方、ヨーロッパの周辺諸国の自然や人々の生活、言語、文明や文化の多様性に目を開き、自身の詩人としての感性を一層豊かにし、資質に磨きをかけ、詩的想像力と詩的言語表現能力を多彩、かつ飛躍的に向上・深化させることが可能となった。くわえて九萬一は、明治政府に出仕した官僚としては類を見ないほどの読書家で、和漢の詩文の教養は言うまでもなく、フランス近代の詩人や小説家の作品も読みあさり、モーパッサンの小説を読むことを大学にすすめるなど、大学にとっては文学上のメンター(導き手)の役割をも果たしていた。そうした意味でも、父親九萬一の存在が、堀口大学をして日本近代詩文学史において、稀有の詩人たらしめたうえで、きわめて重要な意味を持ったことを見落としてはならないだろう。

 さてここで、堀口大学の生い立ちをもう少し辿ると、2歳のときに父・九萬一が朝鮮の仁川領事官補として赴任したため、母親や祖母、妹らと共に家郷の新潟県長岡に移り住み、母が死去したあとは祖母にそだてられ、長岡に17歳まで住むことになる。小学生時代は野球少年だったそうだが、旧制長岡中学校に入学する頃から、文学書に親しみ始め、自ら俳句や短歌を作り始める。明治42(1909)年、中学校を卒業し、一高受験のために東京に出るものの、前述したように受験には失敗。翌年もう一度一高を受験するため、東京にとどまり浪人生活を送ることになる。そうしたなかで、「スバル」に投稿した短歌が掲載され、与謝野鉄幹・晶子夫妻が主宰する短歌の結社「新詩社」に入り、鉄幹から短歌の指導を受け「君は詩を書いた方がよい」と勧められる。その結果、現代詩を書くようになり、「ねむり」とか「カナリア」、「たそがるゝ室」、「詩二篇」、「朱の後」といった作品が「スバル」に掲載され、詩人の道を歩みたいという気持ちが強くなってくる。

 大学としては、不合格とはいえ、二度も一高を受験したことで、父に対して申し訳は立った。であれば、文学、それも詩の世界に進む方向で自身の進路を決めても文句は言われないだろう……というふうに思ったのかもしれない。たまたま永井荷風を主任教授に迎えた慶應義塾の文学科が補欠編入生を募集しているということなので、自分も受けてみようと思い、与謝野鉄幹に荷風宛の紹介状を書いてもらい、佐藤春夫を誘って共に慶應の入学試験を受け、今度は無事に合格したことは、すでに述べたとおりである。

 かくして堀口大学は、永井荷風が慶應文学科の教授に就任したその年に入学した3人の学生(そのうち一人は4月に入学した生方克三)の一人として、三田山上のキャンパスに通うことになる。堀口大学が予科に入学した当時、荷風の手によって創刊された「三田文学」がいかに慶應の学生たちにとって「晴れやかなひのき舞台」であったかについて、「恩師永井荷風」(『所輪文学全集5』、角川書店、昭和28年)のなかで、大学は以下のように振り返っている。

 荷風先生はよく、自分を慕って「三田文学」の周囲に集つた後進や学生のめんどうを見て下すつた。その頃「三田文学」といへば、文壇で一番晴れやかな檜舞台だつたが、先生は当時まだ習作時代の無名の新人の作品を、次ぎ次ぎに、この晴の舞台にのせて下さつた。水上瀧太郎、久保田万太郎、松本泰治、久保秀治等の所謂三田の新人軍が、月々その新作を競ふたのは、文壇に前例のない一種の壮観だつた。

 このように、「文壇に前例のない一種の壮観」を呈していた、慶應義塾の三田山上の文学科空間に、堀口大学は、佐藤春夫共々おずおずといった感じで入っていったわけだが、久保田万太郎が「フランス文学専攻の学生は地方出身が多かった」と書いたように、大学もまた地方出身の新入生であり、お坊ちゃん学生の多い慶應の気風というか空気になじめなかったのだろう、同じく地方出身の新入生佐藤春夫とつるんで、予科の授業はさぼりがちだったという。ただ、永井荷風の講義だけは熱心に傍聴するなか、年が明けて、明治44年の冬のある日、大学は永井荷風と決定的な出会いを遂げる。後年、永井荷風から受けた「師恩」について深く感謝の思いを込めて書かれた「師恩に思う」(『堀口大学全集6、小沢書店、昭和57年)によると、その出会いは以下のようであったという。

 塾監局と呼ばれている教務兼教員室と教室のある建物とは、渡り廊下でつながれていたが、或る日、いつも一緒の佐藤春夫君と僕は、そこの腰板によりかかって、日向ぼっこをしていた。たまたま通りかかられた荷風先生は、僕らがそこにいるとごらんになると、立ちどまりになって、あの持ちまえの、露したたらんばかりと形容したいほど、温情のこもった微笑と一緒におっしゃったものだ、 「君たちは『スバル』に書いているんだってね。今度何か出来たら見せてくれ給え、『三田文学』にものせたいから。(中略)。こうして僕らの幼稚な詩文が、こともあろうに、当時の文壇の檜舞台、『三田文学』に掲載されたりしたのである。五十年を過ぎた今日、僕があの時の先生のお声を、空から落ちてきた天使の声にように、大切に耳の奥にしまっているのに不思議あるまい。春夫君とて、おそらく同じ思いであろう。(下線引用者)

 堀口大学はそのときの永井荷風の声を「空から落ちてきた天使の声のように」聞き、50年を超える長い詩人としての人生を通して、決して忘れ得ぬものとして「大切に耳の奥にしまっている」という。詩人堀口大学の原点が、耳の奥の奥深く失われた「母の声」を蘇らせることにあったとすれば、そのとき荷風の口から発せられた言葉は、まさに「母の声」ではなかったろうか……。

 こうして、永井荷風からかけられた言葉を「天使の声」と受け止め、その声に応えるために、「薄情の女の目の色は/うすら明かりの銀の罐/ついとさすよなしみるよな/ねぎのにほいの咽ぶよな/うすらかりの銀の罐」で始まる5連31行の「女の目と銀罐と」と「おかる勘平と人魚と」、「さぼてんの花」の三つの詩が、予科の第二学年に進んですぐに、「三田文学」の6月号に掲載されたこと、さらに第二学年に進級するとすぐに、メキシコに赴任中の父親の元に渡るべく、太平洋を東に向かう船の上の人となったことで、堀口大学の「長い」詩人としての人生がスタートすることになる。

 ただしかし、「スバル」と「三田文学」にいくつか詩が掲載されただけで、詩人としての実績も名声もない20歳にも達していない青年が、日本を去ってしまうことは、その存在がそのまま忘れられ、消えてしまいかねない危険をも意味してもいた。その危険から堀口大学を救ったのもまた、永井荷風であった。なぜなら、荷風は、海を渡って送られてくる堀口大学の詩はすべて、何らの注文も付けず、そのまま「三田文学」に掲載し、大正5(1916)年2月に慶應義塾の文学科教授と「三田文学」編集主幹の職を去ったあとも、後任の沢木四方吉に、大学の詩は無条件ですべて掲載するようにと、言い残しておいてくれたからである。かくして、大学の詩や翻訳詩は、「三田文学」に掲載され続け、それによって堀口大学の名は、モダンで分かりやすく、それでいていうに言われぬエロスの香りとあふれるばかりのロマンチックな詩魂を宿し、かつ音楽的歌謡性とリズム感と言葉の遊戯性にあふれた詩を詠む詩人として、そしてまたフランス近代詩の名翻訳者として認知されるようになっていったのである。

 このように永井荷風が、20歳になるかならないかで、わずか2学期と3学期だけ自分の講義を聴きに来ていた青年詩人堀口大学に特別の計らいをしたのは、自分と同じように地球を東周りで太平洋を横断し、「遠い国」メキシコやベルギー、スペイン、フランスにあって、異邦人生活を送るなかから湧き出てきた詩を送ってくる年若い詩人のなかに、かっての自分自身を見ていたからであった。さらにまた、メキシコに着いてから詠まれた「わが夏わが夜」とか「夜」、「暮れ行く窓」といった「スバル」に掲載された詩作や、明治45年四月号の「三田文学に掲載された「空しき心」といった詩に、荷風自身が太平洋とアメリカ大陸、さらには大西洋を横断し、ニューヨークやフランスのリヨン、パリで異邦人として生活したときの深く、絶対的な孤独と悲哀の感覚が詠み込まれていること、あるいは「浴衣の頃」とか「奥の金歯」、「爪を磨く女」、「青い婦人」、「唇」、「みもさの花」といった詩作に、自身の異国遍歴に基づいて書いた『あめりか物語』や『ふらんす物語』を貫く根本テーマとしての「エロス」の香気が得も言われぬ柔らかく、モダンな詩語と言い回しで表出されていることを読み取り、そこにモダニスト堀口大学の並々ならぬ近代詩人として才能と可能性を認めていたからであった。


 永井荷風から賜った三つの序文

 以上から言えることは、永井荷風は、自分が教え、「三田文学」に作品が掲載され、それが契機となって、のちのち小説家としてあるいは詩人として立つに至った四人の門下生、すなわち久保田万太郎と水上瀧太郎、佐藤春夫、堀口大学のうち、文学的資質と将来性において、堀口大学を最も高く評価していた。であればこそ、荷風は、堀口大学が、大正7(1918)年4月、26歳の若さで世に問うた最初の訳詩集『昨日の花』(籾山書店)に始まり、処女短歌集『月光とピエロ』(籾山書店、大正8年)、アンリ・ド・レニエの長編小説『燃え上がる青春』(新潮社、大正13年)の翻訳と、三つもの著作のために、堀口大学の言葉を使えば「慈父の情にあふれ」た序文を書いたのである。

 そもそも、永井荷風は義理や人情で序文を書くような文学者ではなかった。それでも、これはと思った人のために書いた序文や追悼文は、例えば、森鷗外が大正11年7月9日に逝去したあと、「三田文学」が組んだ「鷗外先生追悼号」に」寄せた荷風の「鷗外先生と観潮楼」を読めばわかるように、荷風は、これ以上の名文章はないと思わせられるような、格調高く、真情にあふれた文章を書いた。その荷風が、荷風の四人の門弟のなかで、堀口大学だけには3回も序文を書いた……このことだけをもってしても、荷風の大学に対する期待がいかに大きかったかがうかがわれる。

 今、荷風の三つの「序文」が、いかに詩人堀口大学とその詩文学に対する深い理解と共感に基づいて書かれているかを知ってもらうために、『昨日の花』に寄せた荷風の序文「詩集昨日の花のはじめに」を、少しく長くなるが全文紹介しておこう。

 何故に昨日の花とは名づけたる。昨日の花とはつみとりてその色いさゝか変わるともその香はながく残りて失せじとのこゝろか。そもこの詩集はいく年月べるじつく(ベルギー)にふらんす(フランス)に又めきしこ(メキシコ)にいすぱにや(スペイン)に何れも美しき羅典語系の国々さまよひ歩みたまひける若き詩人わが堀口大学君そのさすらいの道すがら新しき仏蘭西の詩の中に取りわけても新しき調をかなでたるものをとりてわが国の言葉に移しかへられしを集めて一巻とはなしけるなり。その君は此の年月かれ等西欧詩家の住みける都と同じく住みて朝な夕ねにその人々の眺めうたひたる同じき雲と水と同じ御寺の塔と町の花園とをまた同じき近世の悩みと歓びとを以て打眺めたまひし詩人なり。西詩の翻訳いかに難しとするとも君が手によりてこれをなさばなどか其のまゝの面影をつたえずと云うふことあらんや。異なるものは唯その言葉とその形とのみその心とその調にいたりて更に変わるところなき恰も美酒の味その移し入る甕の形によらざるにひとしかるべし。げに君は久しくかの国にありてその思ふ所その見る所感ずる所のものをかの国々の新しき詩に託して漂泊の悲しみを慰めたまひき。その選びとりて翻訳せられしものおのづからその折々の君が心にいと近くいと親しきものなりしや言ふをまたず。然りとすれば此の翻訳一巻の詩は君を知るわれ等にとりては豈只に尋常一様の翻訳詩とのみ看過すべきものならんや。昨日の花はまことにこれ君が深き思出の花ならでやは。

 永井荷風は見抜いていたのである。この詩集に収められたフランスの近代詩が、単に日本語に置き換えられただけの詩ではなく、詩人堀口大学の詩心によって存分に消化され堀口大学自身の詩として、日本語で書かれた詩であることを。そしてここに外国詩を日本語の詩に変身させるうえでの、最も理想的な成就が成し遂げられていることを。このように、自分と同じように異国をさすらい、同じような自由であるが故の喜びと孤独、絶望的悲哀の感覚を共有する恩師永井荷風が、自分が翻訳したフランスの詩を深く読み込み、そこに表出されてくる詩心を正面から受け止め、「豈只に尋常一様の翻訳詩とのみ看過すべきものならんや」と評価してくれたことを、堀口大学がいかに歓び、救われ、勇気を得たかは想像に難くない。

 昭和34年6月、「三田文学」の「永井荷風特集号」に寄せた「賜った序文」で、堀口大学は、「去る四月三十日急逝された永井荷風先生から、僕は二十代に三つの序文を頂いている。有難ともなんとも稀有なことだと思う。今は亡き先生の「日記」を繰って、当時を思い、御鴻恩を偲ぶよすがにする」と書き出し、『昨日の花』と『月光とピエロ』と『燃え上がる青春』の巻頭に掲げられた「序」をそれぞれ全文紹介し、最後に以下のように記して、荷風の並々ならぬ恩愛に深く感謝の念を捧げている。

 以上賜った三序文。そのいずれにも慈父の情に溢れている。海のものとも山のものともまだ知れない青二才の未熟な仕事に、他の何人がこのような冒険的な正札を署名入りで貼ってくれるだろうか? 僕は知らない。
 先生の死後、国中十数種の週刊誌は、筆を揃えて、先生の奇行の人、冷たい人としての面を拡大し、誇張して伝え過ぎたようだ。だが、久しく先生を知る僕らは、これとは逆に、先生は温情と義理固さの塊だったと知っている。この事実を実例によって示したくこの文章をそうした。
 先生にはこんな温かい面もあられたのだ。

 堀口大学は、実に恩謝の思いにあふれたこのような追悼の文を永井荷風の霊に捧げた。だがしかし、その一方で、大学は、昭和24年4月「文学集団」に寄せた「文学志望者に與へる言葉」のなかで、年若い文学志望者が守るべき教訓として、八つの心構えを挙げ、その最後で、「第八に君に告げる。師は乗り越えるために選び給へと。師恩は酬ゆべきものではない。背くべきものである。之は君が地獄まで背負って行くべき永久の負債だ。それがいやなら師はもつな」とアドバイスしている。堀口大学は、永井荷風の師恩に酬いるために、詩の「長い道」を歩き通したわけではなった。師を乗り越え、師に背き、自らの詩の頂点を求めて歩き通したのである。堀口大学は、永井荷風が死ぬまで、折に触れて荷風が興味を持ちそうなフランスの詩集や小説などを送ること以外は、佐藤春夫のように師である永井荷風に接近しようとしなかった。荷風の文学についても、佐藤春夫のようには作品論や文学論、評伝を書こうとしなかった。にもかかわらず、永井荷風は、堀口大学を最も深いところで、文学上の門弟として、いや同志として信頼していたのである。

 以上見てきたように、永井荷風と堀口大学は、共に佐幕派子弟の子であるにもかかわらず、一方は内務官僚、もう一方は外務官僚として国家に出仕し、子供に社会的に立身出世してほしいと強く願う父親、しかも漢詩文に通じ、読書を愛した父親の長子として生まれている。そして長ずるに及んでは、共に一高受験に失敗し、荷風の場合は東京外国語学校清語科を、大学の場合は慶應義塾大学部文学科を中退。父親の要望(命令)で共に東周りで、アメリカ、ヨーロッパでの長い異邦人生活を経て地球を一周。その間に、荷風はニューヨークで、大学はブリュッセルで銀行勤めをし、長い欧米での異国生活を通してまがい物ではないモダニズムを身に着け、フランス文学から吸収した文学的感性と精神、主題としての「性」、あるいはエロス、音楽への志向性、女性や花へのオマージュ、生涯を文学に捧げつくしたそれぞれの生きざま、……と重なり合うものを少なからず共有していた。

 その一方で、永井荷風は小説、エッセイ、劇、日記とマルチなメディアに書くことを広げ、日本近代文学の歴史において、きわめて特異な、それでいて20世紀の世界文学に届く作品を少なからず残したのに対して、堀口大学は詩歌とフランスの詩と小説の翻訳の二本に絞り、それぞれにおいて日本近代文学の展開に対して不滅の貢献を成し遂げた。つまり、堀口大学は、荷風が深入りしなかった詩歌やフランス文学の翻訳の分野に、自身の文学的営みの範囲を限定したうえで、「師」を「乗り越え」、「師」に「背く」ために営々として詩人としての「長い道」を歩みとおしたことになる。


 恩師永井荷風を裏切って詠われた戦争詩

 このように少なからぬ共同性を永井荷風と共有しつつ、堀口大学は、文学的表現の世界においては、「師」永井荷風に追随することを潔しとせず、結果として、いい意味で小説家永井荷風を裏切る形で、詩人として「長い道」を歩き通したわけだが、戦時中、及び戦前のある時期、「師」荷風に背く形で、「国家」という全体共同性に同調する戦争翼賛の詩を作ったことがあった。すなわち、昭和7年3月、「発表誌不詳」として、小沢書店刊行の『堀口大学全集・9』(昭和62年)83ページに掲載されている「新日本頌」という詩で、大学は、「東海国あり 武勇の民すむ/その名は日本 われ等が祖国/千個の伝統 犠牲の精神/日の御子まもりて 日にいやさかに」と天皇讃歌の詩を詠ったのを皮切りに、昭和20年5月「文藝」掲載の「歳暮―長谷川巳之吉に―」を最後に、日本が日中、太平洋戦争に突き進み、原子爆弾の投下とボツダム宣言の受諾で、無条件降伏し、敗戦するまでの間、堀口大学は、佐藤春夫や高村光太郎のように数は多くないものの、「少年の夏」、「妹の四月のたより」、「明日への発足」、「征途」、「すめろぎの歌」、「呼びかける」、「暁の出征」、「必死」、「伊太利戦線離脱」、「興津朝思」、「あとひと息だ」、「十五女性に寄す」、「歳暮」……と、戦争詩を詠う。それらの詩のなかで、例えば昭和19年10月20日、河出書房刊行の『詩集大東亜』に収められた「あとひと息だ」という詩で、大学は以下のように詠っている。

 国運賭けたみいくさに
 しこのみ盾と戦つて
 命ささげた増荒男の
 不滅のてがらわすれまい

 東亜を興す大使命
 いまの痛みは生みの苦だ
 鬼畜米英ないあとは
 民十億の楽園だ

 敵もさるものさればとて
 邪はそれ正に勝ちがたい
 勝つときまつたみいくさだ
 あとひと息だ頑張らう

 このような詩を、太平洋戦争が始まった昭和16年1月元旦から、日記『断腸亭日乗』の年号表記を日本暦から西暦表記に書き変えた永井荷風が、例えば、昭和16年の5月31日の項で、大政翼賛会を「慾簒会といふ怪物」と書き換えて、西洋人には見えず、日本人だけに見える怪物だとして、痛烈に揶揄・批判した記述や昭和20年5月3日の「新聞紙にヒトラームソリニの二凶戦破れて死したり由報ず」といった記述を念頭に置いて読むとき、なぜ堀口大学ともあろう詩人が……という思いにとらわれるのは私だけではないだろう。なぜ堀口大学は、詩人としての人生に汚点を残すこのような詩を詠んでしまったのか……。こうした疑問に立つとき、自ずから立ち上がってくるのは、佐藤春夫の項で詳しく見たように、堀口大学もまた佐幕派の系譜に属する詩人であったということである。

 つまり、戦争という国家非常時の事態に遭遇したことで、堀口大学は、それまで失われてきた国家という全体共同性に初めて関わることができた。そしてその国家が全力を挙げて戦争を遂行しようとしているとき、自分もまた国家と戦争を翼賛する詩歌を詠わなければならないという使命感に駆られて、堀口大学もまた戦争翼賛、天皇礼賛の詩を詠ったのではないか。戦争という国家が個人に対して圧倒的に優越し、国家の要請や命令に絶対的に服従することを求めてくる異常事態にあって、精神を「反国家」から『親国家』へと一気に逆転させてしまう……すなわち、日本近代文学の根底にわだかまる深く、鋭い亀裂、あるいは陥穽とも言うべき、「逆転する精神の構造」から、堀口大学という詩人もまた免れることが出来なかったということである。

 ただここで見落としてならないのは、堀口大学の戦争詩を佐藤春夫や高村光太郎らの戦争誌と読み比べて、明らかな違いとして見えてくるのは、大学の戦争詩は、佐藤や高村のそれに比してはるかに激越性が低く、それまでの大学の詩に張り詰めていた生気や緊張、溌溂としたリズム感や歌謡性、大胆な飛躍、さらにはユーモアやエロスの感覚が欠けているということ。つまり、堀口大学は、日本の近代詩を代表する詩人の一人であるという立場上、こうした戦争詩も詠まなければならないという、已むを得ざる事情から、これらの戦争詩を詠んだのであり、もし「戦争詩歌用語辞典」のようなものがあるとすれば、そこから適当に用語を引いてきて並べて作られたのが、堀口大学の戦争詩ではないかという感じがしてくることである。

 であればこそ、堀口大学は、日本がボツダム宣言を受諾、無条件降伏し、平和的な民主主義国家として再生し、かつまた永井荷風が、戦前、戦中に発表の当てもないまま書き続けてきた、社会的規範が崩れてしまったあとの、男と女のより自由で放埓な性的対関係性を主題とした小説(例えば、『踊子』や『問わずがたり』)や、日記という密室的書記空間にあって、「書く」ことを通して国家権力の悪とその悪の究極的現前としての戦争の悪を徹底的に批判・指弾した『断腸亭日乗』が一気に公開され、それらを読んだことで、永井荷風が国家や戦争に批判的に対峙し、抵抗した文学者として、不死鳥のように蘇ってくるのを知った。そして自身があれらの戦争翼賛詩を書いてしまったことを痛切に恥じ、後悔し、自己批判したはずであった。

 そうした意味で、以下に引く、昭和45年11月に作られ 昭和46年1月元旦、産経新聞に掲載された「新春 人間に」と題された詩は、正にそうした堀口大学の悔恨と自己批判から生まれた詩であった。本当に優れた詩は、人類社会の未来を予言し、私たち人間が進むべき道を「啓示」するとするなら、正にこの詩は、今日私たちが生きる日本の悲惨な現実を予言し、そのなかにあって私たち日本人が何をなし、いかなる方向に進むべきかを教えてくれる「啓示」の詩であるといえよう。

  分ち合え
  譲り合え
  そして武器を捨てよ
  人間よ

  君は原子炉に
  太陽を飼いならした
  君は見た 月の裏側
  表側には降り立った
  意志まで持って帰った

  君は科学の手で
  神を殺すことが出来た
  おかげで君に頼れるのは
  君以外にはなくなった

  君はいま立っている
  二百万年の進化の先端
  宇宙の断崖に
  君はいま立っている

  君はいま立っている
  存亡の岐れ目に
  原爆をふところに
  滅亡の怖れにわななきながら
  信じられない自分自身に
  おそれわななきながら……

  人間よ
  分ち合え
  譲り合え
  そして武器を捨てよ
  いまがその決意の時だ

 堀口大学は、詩人として一生をかけて歩んできた「長い道」の最後に近く、この詩を書いたことで、永井荷風の文学精神を最も正統的に継承する門下生としてのクレデンシャルズ(資格証明書)を手に入れたことになる。

 

(2018年4月12日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。