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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第十二章 荷風教授、三田山上を去る

 丘の下の性的俗人としての荷風教授

  これまで三田山上にあって、フランス語や近代フランス文学、文学評論について講義し、学生たちに小説や詩を書くことを奨め……と、いわば「山上の聖なる教育者」としての慶應義塾文学科教授永井荷風の真面目と振る舞い(パフォーマンス)について詳しく記述を進めてきたわけだが、ここで三田山上から降りたあと、すなわち俗世間的地上の世界における、永井荷風の振る舞いについて見ておくことにしたい。「山上の聖なる教育者」と、山の下の「俗なる性的人間」と、二つの相反する人間を、「文学」というパスポートを手にして、自在に行き来していたのが、慶應義塾文学科教授時代の永井荷風の生きざまであり、この矛盾を同時に視界に収めたうえで、記述を進めていかないと、大学教授でありつつ、文学者でもあったこの時期の永井荷風の本質が見えてこないからである。
 第7章の「三田山上に捲き起こった荷風旋風」で詳しく見たように、明治43年4月、慶應義塾大學部文学科教授に招聘され、「三田文学」の編集主幹として文芸雑誌の編集・発行の仕事に就いたことは、新帰朝者文学者として、あるいはまたモダニスト文学者として、『あめりか物語』や『ふらんす物語』、『監獄署の裏』、『狐』、『新帰朝の日記』、『深川の唄』、『すみだ川』……と立て続けに反自然主義的小説を発表し、日露戦後の文学界において、反自然主義の旗手として、時代の寵児になりつつあるかにみえながら、その実、真正モダニズムを受け入れようとしない日本の擬似近代的社会や人間関係、文化風土になじむことができず、文学者として立ち、生き延びていくことの絶望的不可能性に直面、文学的危機に立たされていた永井荷風にとって、まさに天から差し伸べられた神の救いの手に等しいものであった。すなわちそのことによって、荷風は、一時的避難の場(シェルター)と猶予(モラトリアム)の時間を与えられ、文学者として己の立つべき地点と進むべき道を見直したうえで、大正という新しい時代において、『腕くらべ』を書くことで、小説家として復活することができたという意味で、重要な意味を持つものであったからである。
 この猶予の時期において、山の下に生きる世俗的社会人として、永井荷風がなした最初のことは、初めは小説を書くことに強く反対し続けながら、荷風の日本帰国後は「仕方がないか……」というあきらめの気持ちで、大目に見るようになっていた父親の久一郎と、大学教授、それも慶應義塾という社会的に優越する記号として認知されていた大学の教授に就任したことで和解出来たことであった。和解は、単に永井家の惣領として父親を安心させ、満足させたということだけでなく、自分が文学者として立ち、社会的に認知されるまで自分が望む方向(落語家や歌舞伎作者、そして小説家など)に進むことにことごとく反対し、妨害して来た父親が、結局最後は文学の道に進むことを許してくれたことに対する感謝の気持ちと、漢詩人としての父親の素養に対する認知と崇敬の念に根差したものであった。
 こうして父親との激しく、長期に及ぶ戦いに決着をつけた荷風は、慶應の教授に就任し、月々の収入を得ることで生活を立てていく目途がついたのと、そろそろこの辺で身を固め、子供も作り、父親と母親を安心させたいという気持ちが働いたのであろう、大正元年(1912)年9月、東京本郷区湯島の材木商斎藤政吉の次女ヨネと結婚することになる。だがしかし、荷風にとって結婚は、父親と母親、親族、ひいては世間に対して体裁を取り繕う儀式、あるいはパフォーマンスでしかなく、結婚生活は半年ともたず、翌2年2月には早くも離婚することになる。
 さてそれなら、なぜ荷風は、取ってつけたように結婚し、離婚し、堅気の素人娘を傷つけるようなことをしてしまったのか……。実は、荷風は、それより2年ほどまえから、新橋の芸妓屋翁屋の妓女富松と馴染み、また慶應義塾文学科教授に招かれた43(1910)年の5月、すなわち「三田文学」が発刊された月には同じ新橋巴屋の妓女八重次(本名金子ヤイ、のちに藤蔭静枝)と出会い、富松から乗り換える形で交情を深め、翌44年2月には、父親の死を待つようにしてヨネを離縁。一年半後の大正(1914)年の8月には、歌舞伎役者の市川左団次の媒酌で八重次と結婚する。しかし、二度目の結婚も長続きせず、大正4年2月、八重次の方が家出をして離婚……と、荷風の二回に及ぶ結婚生活はいずれも短期間で破綻に終わることになる。
 十代のころから新吉原の遊郭に出入りし、アメリカやフランス滞在中は街娼婦と夜な夜な枕を交わし、日本帰国後は、新橋芸妓と浮名を流し……と、明治末期から大正期にかけてドンファンを演じ、女と性の表と裏を知り尽くしていた荷風と、江戸の名残を留める東京本郷の商家の次女として生まれ育った堅気の、処女の娘との間には、夫と妻の間で共有すべきものは何もなかった。あまりにも早く終わった新婚生活を通して、荷風が得たものは、自分には社会的に認知された男と女の性的対関係性、すなわち結婚生活を堅気の娘と続けることは不可能だという苦い認識であったはずである。
 このように、三田の山の上の「聖」なるキャンパスでは、文学科主任教授としてフランス文学や文学評論の講義を謹厳に行い、学生たちの信望を集め、また学生たちに小説や詩を書くことを奨励していたものの、一旦山を下り、下界の世俗世界に降り立つに及んでは、永井荷風は放埓な性的世俗人に豹変し、わがままな振る舞いを通していたわけだが、そのことを不誠実だとして一方的に批判し、切り捨ててしまうことは、日本の近代文学史において永井荷風が文学者として成し遂げたものを見落としてしまうことになる。すなわち、一回目は堅気の処女と、二回目は恋愛、あるいは性愛遊戯にかけては年季を積んだ商売女と、短期間の間に結婚と離婚を繰り返したことは、荷風にとっては、文学者としての己自身の本分を見極め、将来的に「性」と主題とした小説を書く文学者に成り上がっていくうえで避けて通ることのできない関門、あるいは通過儀礼として、不可欠の意味をも持つものであったからである。
 このことについてもう少し具体的に書くと、ヨネという社会の内側の規範に従って生きる「素人」女性との新婚生活が半年にも満たないまま破綻を来たしたこと、そしてまた八重次という良識的社会の外側にあって、擬似的恋愛と性愛行為、そして歌舞音曲を売り物にして生きる「商売女」との共同生活を、結婚という社会的に認知された制度の内側に持ち込むことにも失敗したことで、荷風は、文学者としての自身の資質が、反社会的な性的人間、すなわちギリシャ神話において、半獣半人の奇形児として生まれたがゆえに、神の天上界から地上の人間界に追放、あるいは流謫されながら、人間世界からも奇形性のゆえに、忌避・追放され、社会の外、あるいは周辺と底辺に生きていかざるを得ず、それゆえに「性」という生殖本能を満たすことを許されず、結果として森や海辺のニンフを追いかけざるを得ない牧神(パン)に他ならないことを思い知らされたということである。
 荷風にとって不幸だったのは、江戸の遊女の名残を留めた富松や八重次といった芸妓は、ニンフとみなすにはあまりに前近代的にすぎたことであった。明治の末期から、大正の初めにかけてのこの時代、「牧神」が性的欲求に駆られて追いかけ回す対象としてのニンフ、すなわち近代的風俗の衣装をまとい、性的規範意識から解き放され、自身の自由意志に従って男を誘惑する新時代のニンフと、彼女たちが群れ集う性的風俗装置、あるいは施設としてのカフェとかキャバレー、バー、ダンスホールなどはまだ、時代の性風俗の表舞台には登場していなかったからである。


 教授たちから忌避されたスキャンダラスな振る舞い

 永井荷風教授の、三田山上から下界に降りたあとの、性的俗人としての行いと振る舞いは、荷風教授の一挙手一頭足に目を光らせ、怠りなく(時には尾行までして)監察の眼を光らせていた文学科の学生たちの好奇心を掻き立てずにはおかなかった。いやむしろ、荷風は、大学教授という鎧をまとって学生たちに接することに窮屈なものを感じていたのかもしれない。だから、荷風は、しかつめらしい大学の教授先生とは自分は違い、下界の俗情、とりわけ性的風俗の世界にも通じ、新橋の芸妓を囲い込み、交情を深めていることを意図的に学生たちに探知させ、その噂が三田山上の「象牙の塔」と呼ばれる「聖」なる空間に密かに広がり、汚染していくことを密かに喜んでいた。そしてそのことで、ある意味で屈折した隠微な優越感に浸っていた。そこには、大学という知的権力体制を、「性」によって内側から揺さぶり、解体しようという「無政府主義者」永井荷風の不遜な、本能的意志が働いていたといってもいいかもしれない。
 一方、20歳になるかならないかの学生たちにとって、丘の下の下界における荷風教授の「性」をめぐるスキャンダラスな振る舞いは最大の関心事であり、荷風が、ある種の遊戯性を伴って芸妓と交わりを深め、交情を続けていけることは、せいぜいが下宿先のお嬢さんに恋情を捧げることくらいしか出来なかった学生たちにとって羨望の的であり、山の上ではフランスの近代文学を講じ、山の下では小説を書くかたわら、性的風俗の世界に生きる女と自在に情を交わす形で、「知」と「性」、あるいは「聖」と「俗」の世界を縦横に往還する文学者永井荷風の生き方そのものが、学生たちを理屈なしに惹きつけたのである。
 だが、荷風のスキャンダラスな性的振る舞いは、学生たちを喜ばせはしたものの、謹厳実直で、権威意識の強い教授連、特に慶應義塾の「顔」といってもいい理財科の教授たちからは忌避され、「荷風はいかん」とか「慶應の恥だ」といった声が高まり、大学当局からも有形無形の圧力がかかってくることになる。さらに、他の文芸雑誌よりは特段に高い原稿料を払い、「三田文学」を毎月発行し続けていくことによる経済的負担も、大学当局にとっては頭痛の種となっていた。
 さらにまた、「三田文学」発刊半年後の明治43年9月号に掲載された、谷崎潤一郎の短編『飆風』が内務省から発禁処分を受け、さらに翌44年6月号に掲載された江波文三の短編小説『逢引』も発禁処分を受けたことで、学校当局や理財科の教授連から荷風に対する風当たりが一層強くなってくる。くわえて、八重次が置手紙を残して、一方的に家出し、離縁したころから、胃腸を悪くし、大学の授業も休講がちになったことなどが重なり、荷風は、大正5(1916)年2月限りで教授の職を辞し、「三田文学」編集の仕事からも手を引くことになる。


 荷風、文学科教授の職を辞す

 これまで、荷風が文学科教授のポストを辞したのは、大学当局からの風当たりが強くなってきたことと、体調の不良が理由であるとされてきた。しかし、そうした理由よりさらに深いところで、大学でフランス文学について講義をしたり、発禁処分にあわないように当局に気を使いながら、「三田文学」の編集に携わることは、文学者としての自分本来の仕事ではない。自分は小説を書かなければならない……という思いが強くなってきていことも見落とすわけにはいかない。
 『夢の女』における「お浪」や『あめりか物語』や『ふらんす物語』の諸短編における街娼婦や踊子、『すみだ川』における「お糸」、さらには『腕くらべ』における「駒代」……と、永井荷風は、時代の性的風俗の最底辺、あるいは最先端を生きる女性、それも芸妓や娼婦を主人公に小説を書いてきた。日本の近代文学史において、荷風ほど数多く、社会の底辺、あるいは周辺、外側で「性」と歌舞音曲の技を売ることを生業とする女性を主人公にし、彼女たちを「ミューズ」あるいは「ニンフ」に見立てて小説を書いた小説家はいないといっていい。であればこそ、荷風は、常に、時代の性的風俗の最先端に生きる「ミューズ」や「ニンフ」を、小説を書くうえで欠くべからざるキャラクターとして探し求め、彼女たちを見出せないときは、小説が書けなくなっていた。
 事実、慶應義塾の大学科の教授の職を全うしていた明治43年4月から、辞任する大正5年2月までの間、荷風は、大きな仕事としては、フランスの象徴詩の訳詩集『珊瑚集』を籾山書店から刊行したのと、「三田文学」に『紅茶の後』と『日和下駄』などの随筆を連載した以外、小説では大きな仕事は残していない。すなわち、明治45年2月1日発行の「三田文学」に短編小説「掛取り」を発表して以降、「妾宅」、「若旦那」、「風邪ごゝち」、「浅瀬」、「名花」、「松葉巴」など、のちに『新橋夜話』に収められることになる、いわゆる花柳小説と言われる短編小説しか書いておらず、『夢の女』における「お浪」や『すみだ川』における「お糸」のような、荷風にとってはミューズ、あるいはニンフに相当する風俗の世界に生きる女性をヒロインにした長編小説は書いていない。
 このように『すみだ川』において「お糸」というニンフを書き上げてしまっことで、小説のヒロインたるべきニンフを見失ってしまった荷風は、それに代わるものとして、新橋の芸妓屋に生きる二人の芸妓、すなわち新翁屋の富松と巴屋の八重次と交情を深め、そこでの経験と見聞をもとに上述したような花柳小説の短編を書くことで、次なる長編小説のヒロインたるべきミューズの出現を待ち受けることになる。そして、富松と八重次という二人の芸妓とのもつれ合った交情の体験と、斎藤ヨネとの新婚生活が失敗したことに対する痛切な自己批判意識に基づいて、『すみだ川』におけるニンフ「お糸」が7年後、新橋の売れっ子芸妓に成長した姿として、「駒代」という名の新橋芸妓をミューズとヒロインに仕立てて『腕くらべ』を、荷風が慶應義塾文学科の教授の職を辞してから半年後に、井上唖々や籾山庭後とともに創刊させた文芸雑誌「文明」に連載することになる。
 このように慶應義塾文学科教授辞任に至るまでと、辞任後、『腕くらべ』を書き上げるまでの一連の経緯を、時系列で追ってくると、荷風は、『腕くらべ』を書き上げることに時間とエネルギーを集中させるために文学科教授を辞職した、あるいは辞めたことで時間と精神的余裕ができ、結果として『腕くらべ』を書き上げることができたということなのかもしれない。


 辞任後の永井荷風と慶應義塾の関係

 大正5年2月,文学科教授を辞任したあと、永井荷風は二度と三田山上に戻ることはなく、また「三田文学」にも、大正5年2月号に『花瓶(承前)』を寄せたのを最後に、直接的関係は途絶え、大正7年の新年号と2月号に『松の内』と『書かでもの記』を、翌8年の5月号に『断腸亭尺牘』を、11年8月号の「森鷗外先生追悼号」に「鷗外先生」を、14年の2月号と4月号に「久米秀次君を悼む」を寄稿、さらに昭和の時代に入ってからは昭和6(1931)年8月号掲載の「夜の車」と戦後の34(1959)年6月号掲載の「書簡9通」と、断続的に短い作品を発表するに止まっている。
 とは言っても、荷風は、慶應を去ったのちも、自分が教えたことのある学生や教えてはないものの、自分の文学を慕って慶應に入学し、のちに小説家として立つに至った小島政二郎や邦枝完二などとは適度の距離を保ちつつ交わりを持ち、偏奇館に出入りを許し、銀座のカフェでの神代帚葉との談笑の席にも侍らせ、さらには自作の出版に当たっては、書店との取次役に使ったりもしている。
 そうしたなかで、荷風が特に目をかけたのが、わずかに半年余り、荷風の講義は聴講しなかったものの、遠く日本を離れ、メキシコやスペイン、ベルギー、フランスなどで異国生活を続けながら、フランス近代詩の翻訳や自作の詩を「三田文学」に送り続けた堀口大学で、前章「『三田文学』から飛び立った荷風門下生」のなかで記したように、堀口が最初に刊行した訳詩集『昨日の花』や処女短歌集「月光とピエロ』、アンリ・ド・レニエの小説『燃え上がる青春』の翻訳と、3冊もの訳詩集と短歌集、翻訳小説の出版に当たっては、心のこもった序文を書き贈っている。これに対して、堀口の方は、荷風を生涯の文学上の恩師として仰ぎ、荷風が関心を持ちそうなフランス語の詩集や小説を、折に触れて寄贈し、それが、生涯を独身で通し、時として精神的にブレークダウンしそうになる荷風を励まし、文学精神を堅持させるうえで、重要な意味を持ったことは特筆しておかなければならない。
 また、邦枝完二は、荷風を慕って慶應の文学科に入学したものの予科の学生のまま退学してしまったせいで、正規に荷風の講義は聴講してない。にもかかわらず、母方の叔父が浮世絵の収集家で、江戸の戯作文学に通じた趣味人であったせいでその影響を受け、浮世絵に造詣が深く、自身も収集していた。そのため、当時、荷風が江戸浮世絵や歌舞伎、戯作文学に関心を深め、浮世絵や歌舞伎についての文章を「三田文学」や「中央公論」に発表したりしていた関係で、荷風から可愛がられ、講義が終わったあと、連れ立って麻布市兵衛町の「藤木」という浮世絵商の元に足を運び、浮世絵を探したりしていた。そのため、邦枝の浮世絵や江戸時代の人情風俗に対する研究心と造形の深さは、荷風をして驚嘆させるものがあった。
 結局、邦枝は慶應を中退し、一時期荷風を助け「三田文学」の編集に関わったのち、帝国劇場に入社。戯曲を書いたりしていたが、昭和の時代に入ってから、少年時代から培った江戸の浮世絵や歌舞伎、戯作文学についての知識と理解を生かして、『東洲斎写楽』とか『歌麿』といった、浮世絵師を主人公に、江戸市井の生活風俗・人情にエロチシズムを加味した新聞小説を立て続けに発表して名声を挙げ、一家をなすに至る。そうした意味で、邦枝完二は、荷風が「三田文学」に持ち込んだモダニズムと反モダニズムという相反しあう志向性の内、反モダニズム性を継承し、独自の小説文学を打ち立てたことで、久保田万太郎と並ぶ存在であった。
 しかし、万太郎の描く浅草の前近代的世界が、明治末期から大正、昭和初期にかけての、今まさに失われていこうとする時代の浅草の風俗・人情の世界であったのに対して、邦枝は、すでに失われてしまった江戸の世態人情・風俗の世界を描き、そこに独自の表現世界を打ち立てたところに、荷風の当時の趣味、あるいは志向性にかなうところがあり、荷風から好感をもって高く評価された理由があった。
 荷風は、昭和11年9月、新日本社から刊行された『邦枝完二代表作集』の「内容見本」に寄せた「今や大成の功を収む」のなかで、邦枝完成二の時代小説について、「思想才芸今やまさに円熟大成の境地に到達しようとしてゐる」と称えたうえで以下のように、絶賛の辞を呈している。荷風門下生のなかで、著作の刊行に当たって、荷風からこのような賞賛の辞を寄せられたのは、邦枝完二と堀口大学をおいて他にない。

 歳月は矢の如く去つていつか二十年を経た今日、井川君は既に亡き人の数に入り、わたくしは年々老いの迫るを悲しむ身とはなつた。独(ひとり)邦枝君のみ中年に至つて精力毫も昔日に異る所なく、思想才芸いまやまさに円熟大成の境地に到達しようとしてゐる。其近業にして今汎く世に迎へられるものは、専江戸市井の風俗世話を描写した生活であつて、既ち喜多川歌麿、八代目団十郎、笠森おせん、其他遊女伊達者等の事蹟を資料とした長編の諸作である。わたくしはこれらの諸作を見る時、そゞろ君と相携へて麻布に残った武家屋敷の長屋に浮世絵商を訪ねたことを想い起さざるを得ない。君が近年の創作はその由来するところ実に二十年の昔に在りと謂ふべく、今日に至つて大成の功を収めたのも、蓋し怪しむに足りないと思ふ。

 このように、永井荷風は慶應文学教授の職を辞したあとも、自分の講義を聴きに来た学生や、「三田文学」に小説や詩を載せてあげた学生たちとは、適度の距離を保ちつつ関係を続け、上述したように堀口大学や邦枝完二の著作刊行にあたっては、心のこもった序文を書き贈っている。さらにまた、大正14(1925)年1月1日、久米秀治が死去したおりには、「久米秀治君を悼む」という追悼文を「三田文学」に寄せるなど、人嫌いで酷薄だと言われてきた荷風としては意外なほど、心を許した教え子に対しては、恩愛にあふれた態度で接していたことも見落としてはならない。
 ただそれとは反対に、「早稲田文学」には負けないようにと、「三田文学」の売れ行きが伸びることばかり期待し、そのくせ資金援助は渋る、しかもせっかく出した雑誌が発売禁止処分にあうと、それ見た事かとばかり荷風を非難し、「慶應の恥だ」と難癖をつけ、荷風のスキャンダラスなゴシップには顔をしかめ……と、蔭に日向に圧力をかけ、最終的に辞任に追い込んだ理財科の教授連や学校経営者に対して、荷風は、ある意味では、怨念に近い反対感情を持っていたようで、相当意地悪く、批判的な言辞を書き残している。
 たとえば、『濹東綺譚』の「作者贅言」のなかで、荷風は、昭和の時代に入って、銀座のカフェで酒を飲み、酔っぱらった客が、グループをなして銀座の表や裏通りを、大声をあげて怒鳴ったり、高歌放吟しながら千鳥足で傍若無人に練り歩き、狼藉を働くようになったのは、昭和2(1927)年に、野球の早慶戦が終わったあと、慶応の学生、あるいは卒業生が銀座に繰り出し、酒を飲み、酔っぱらって隊伍を組み、商店やカフェを襲い、荒らし歩いて以来のことであるとし、学生たちの蛮行が今も続いているのは、学生たちの父兄や学校当局が看過・放置しているからであると苦言を呈している。
 自分自身がかつて慶應義塾で教壇に立ったことがあるだけに、よけい気になるのだろう、荷風は、「曽(か)つてわたくしも明治大正の交、乏を承けて三田に教鞭を把つた事もあつたが、早く辞して去つたのは幸いであつた。そのころ、わたしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門に負けないやうに尽力していたゞきたいと言われて、その愚劣なるに眉を顰めたこともあつた。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視てゐたのであつた」と記し、かつての自分を忌避し、常に実利を尊しとして圧力をかけ、辞任に追い込んだ学校経営者に対して、抜きがたい反対感情を露わにしている。


 永井荷風が慶應に残したもの

 永井荷風が慶應義塾大学部の文学科教授として、学生たちに教え、かつまた「三田文学」の編集主幹として雑誌の編集・発行に当たったのは、明治43年4月から大正6年の2月まで5年と10か月と、短い期間であった。しかも、その間、後半は健康を害したことも重なって、休講がちであった。にもかかわらず、荷風は、一旦学生たちの前に立つと、謹厳実直に講義を進め、モダンな風貌と洗練された個性的なファッションとで学生たちを魅了し、かつ学生たちに小説や詩を書くことを奨め、優れた作品は「三田文学」に掲載し、のちに文学史に名を留める小説家や詩人に大成するきっかけを用意した。
 さてそれでは、荷風辞任から100年以上経った今日、永井荷風が慶應義塾に残したものは何かという視点から、荷風教授が三田山上で成し遂げた仕事の本質的意味を振り返ってみると、ポイントは以下の諸点に絞られると思う。

• 教師が専門的に研究してきたテーマについての知見を、教壇の上から一方的に教え聞かせるという形で行われてきた、日本の大学文学部の文学教育において、荷風は、欧米での実生活体験を通して読み込んできたフランスの近代文学について、欧米の文明・文化の根底に流れる伝統や個我の精神についての深い理解に基づき、それぞれの作品の持つ本質と今日的意味にまで言及しつつ、講義を行った。

• 東京帝国大学や早稲田大学における外国文学研究と教育の主流が英文学とドイツ文学で占められていた時代に、日本において初めて慶應義塾文学科にフランス近代文学の研究と教育を骨子とする教育体制が創られる基礎を固めた。

• さらにそのうえで、荷風は、教師と学生の壁を越えて学生のレベルに降り立って、学生たちと文学談義を交わし、小説や詩を書くように励まし……と、いわば学生に作品を「読む」という受動的な形でなく、「書く」ことによって文学に能動的にかかわることを教え、学生たちの創造力を伸ばそうとした。そうした意味で、荷風は、アメリカ風の「クリエーティヴ・ライティング」と呼ばれる教育法を、日本で初めて実践したことになる。これは、当時、東京帝国大学や早稲田大学で行われていた、講義中心の文学教育、たとえば、東京帝国大学文科大学講師として、夏目漱石が行っていた『文学論』の講義などと比べてみても、決定的に新しく、革命的であった。

• その結果、久保田万太郎や水上瀧太郎、佐藤春夫、堀口大学ら荷風から直接教えを受けた学生たちは、大いに創作意欲を燃やし、それぞれの作品が「三田文学」に掲載されたことで、新進の大学生小説家、あるいは詩人として認知され、将来的に日本の近代文学史に名を残す小説家や詩人に大成するきっかけを掴み取った。

• 自然主義文学の牙城となり、日露戦争後の近代文学空間を席捲していた「早稲田文学」に対抗する形で、「三田文学」を創刊し、反自然主義とモダニズムの方向性を鮮明に打ち出し、文学界に新風を吹き込み、かつ、大学文学部の機関文芸誌として100年を越える歴史と伝統の礎を築いた。

• 東京帝国大学文学部出身の森鷗外や夏目漱石、上田敏、谷崎潤一郎、志賀直哉、芥川龍之介、さらには「早稲田文学」創始者の坪内逍遥や早稲田大学文学部卒業の国木田独歩、正宗白鳥、島村抱月といったような、著名な文学者を一人も出していなかった慶應義塾の文学部の歴史において、在任期間は短かったが、荷風は、反自然主義文学の牽引車として、極めて個性的、独創的な小説やエッセイ、評論、さらには日記文学を書き残したことで、文学部の学生及び卒業生から慶應文学部の精神的バックボーンのようなものとして受け入れられ、有形無形の励ましと啓示を与え続けた。さらにまた、そのことによって、日本の近代文学の発展・進化の歴史において、慶應文学部と「三田文学」のプレスティージ(名声、威信)を上げるうえで大きく貢献した。

• 慶應義塾文学科教授として在任中、荷風は、欧米遊学中に身に着けたモダニズムを、日本において貫徹することの不可能性を悟った結果、浅草や深川の娼婦や新橋の芸妓と交情を深める一方、江戸の名残を留める浅草や新橋、本所、洲崎など隅田川下流域の性的風俗空間に身を沈潜させ、江戸の戯作者文学や浮世絵、歌舞音曲の世界に傾斜を深めていった。その結果、『掛取り』とか『色男』、『昼すぎ』、『妾宅』など、荷風本来のモダニズムとは正反対の花柳小説を「三田文学」に発表する一方で、のちに『江戸芸術論』にまとめられることとなる「浮世絵の鑑賞」とか「鈴木晴信の錦絵」、「浮世絵の山水画と江戸名所」、「ゴンクールの歌麿並北斎伝」、「浮世絵と江戸演劇」、「狂歌を論ず」、「江戸演劇の特徴」などを「三田文学」に連載。「三田文学」に単なる文学雑誌だけでなく、総合的な文芸雑誌としての広がりと深みをもたらした。それはまたさらに、荷風の教え子であり、荷風辞任後に「三田文学」の編集に携わった沢木四方吉が、美術史の専攻であり、ヨーロッパに留学したのち、母校で美術史を教えていたことなどと重なり、美術史の研究と教育が充実し、慶應義塾文学部にあって、美術史科が文学科と並ぶ重要な学科に成長する礎を築いた。

• その文学生涯を通して、荷風は、「性」を拠点に、国家や軍部といった全体集合的権力と批判的に対峙し、国家や権力、軍国主義と戦争の悪を徹底的に批判・糾弾した。また、社会的敗者や落伍者、あるいは弱者の側に立って低く生きる姿勢を堅持した。さらに、戦前、戦時中に、多くの文学者が大政翼賛的な言辞を弄して文学的に転向していったなか、荷風一人が、発表の当てもなく『踊子』とか『問わずがたり』といった「性」を主題にした小説や日本日記文学史上稀有の達成といってもいい、『断腸亭日乗』を密室的書記空間にあって営々と書き続けた。そして、それらが戦後堰を切ったように続々と発表されるに至って、文学者永井荷風は不死鳥のように蘇る。その結果、荷風は、天皇を頂点とする軍国主義的独裁国家による絶対支配体制下にあって、国家や戦争といった全体集合的共同性の対極に位置する「性」をよりどころにして小説や日記を「書く」ことを通して、独裁政治や軍国主義、ひいては侵略戦争の悪を批判・指弾し、「非戦」の思想を貫いた、ほとんどただ一人の文学者であったことを証明した。それは、敗戦によって打ちひしがれていた少なからぬ文学者、特に、それまで文学的な意味で精神的バックボーンを持ってこなかった慶應文学部出身の文学者に誇りと勇気を与え、慶応文学部、あるいは「三田文学」の歴史に精神的バックボーンという太く、強い柱を打ち立てることとなった。

 永井荷風は、「性」をめぐる禁忌や規範性から免れた、新しい時代の女性を主人公にした小説を数多く書き残しながら、夏目漱石のように、「性」に関して不自然に倫理性や規範性を作品世界に持ち込もうとしなかった。そのため、夏目漱石とその文学が小宮豊隆らの門下生によって神格化され、そのイメージが漱石文学研究者や一般読者、とくに漱石文学に倫理性を求める読者層に受け継がれ、ますます確固不動のものとして増強され、そのことが文学的意味で、漱石文学論空間に不毛性をもたらしているのに対して、生涯を無頼で通し、稀代のけちで、無類の好色文学者として、スキャンダルな存在であり続けた荷風とその文学は、神話化の対象となりえなかった。その結果、以下に記すように、基本的に文学者永井荷風とその文学にオマージュを捧げつつ、荷風文学の特性と可能性、ひいては限界性を批判的に検証しようとする荷風論や作品論、評伝の類が、少なからず慶應出身の小説家や評論家の手によって書かれることを可能にした。

    * 佐藤春夫     『小説永井荷風伝』       1960年
    * 小島政二郎    『小説永井荷風』        2007年
    * 遠藤周作     『留学』、その他        1965年
    * 野口富士夫    『わが荷風』          1975年
    * 江藤淳      『荷風散策―紅茶のあとさき』  1996年
    * 安岡章太郎    『わたしの濹東綺譚』      1999年
    * 草森慎一     『荷風の永代橋』        2004年
    * 持田叙子     『朝寝の荷風』         2005年

 以上見てきたように、永井荷風によって打ち立てられた文学精神は、荷風にとっては孫の世代に当たる戦後の慶応義塾出身の文学者たちによっても受け継がれ、小説では、荷風の文学精神を最も正統的に受け継ぎ、その文学的生涯を通して低く生き、低く柔軟でしぶといまなざしを持ち続けた安岡正太郎や、荷風の弟子水上滝太郎の血筋を引き、サラリーマン小説の世界に新機軸を打ち立てた坂上弘、詩の世界では堀口大学の血筋を引く吉増剛三、評論の世界では、『朝寝の荷風』で、荷風文学にしたたかな抵抗精神の発現を読み取ろうとした持田叙子のような文学者を生み出すことを可能にした。
 文学者永井荷風は、生涯を通して低く生き、映画監督の小津安二郎のような低いまなざし(ロー・アングル)で人間(特に女性)を見つめ、低い姿勢で小説やエッセイ、日記を書き続けた。そして、文学者として低く生きる荷風の姿勢とモラルは、慶應義塾出身、あるいは「三田文学」出身の文学者に、意識的、無意識的とを問わず、共通して受け継がれ、そこに基本的には理財科/経済学部や法学部、商学部、工学部、医学部と実学が優越するブルジョワ大学でありながら、そうしたイメージとは一線を画して、独自に柔軟で、屈折性に富み、かつまたしたたかで、しぶとい「三田文学」派の文学者に特有の文学精神を培うことを可能にしたと言っていいだろう。
 ただしかし、こうした精神的伝統が、荷風文学への一方的追随とか、賞賛、模倣という形で形成されたものでないということも見落としてならないだろう。世に永井荷風のエピゴーネンは掃いて捨てるほどいるというのに、慶應義塾/「三田文学」系の文学者に限って、荷風のエピゴーネンは一人もいなかった。いや、荷風を気取った慶應出身の文学者はいたのかもしれないが、そうした模倣者が、日本の近・現代文学に名を残すことはなかった。つまり、それぞれが、有形無形の形で、荷風という存在とその文学精神に影響されたり、感応したりはしながら、それぞれの文学的志向性と主題、技法に従って、それぞれに独自の文学を追求し、固有の表現領域を確立したということ。その意味では、堀口大学の「師は乗り越えるために選び給へと。師恩は酬ゆべきものではない。背くべきものである」という戒めは、慶応義塾出身の文学者に限っては守られとおしたということになる。


 永井荷風の空襲体験と原民喜の原爆体験

 永井荷風が慶應義塾文学部と「三田文学」に残した最後のものとして触れておきたいのは、昭和20(1945)年の春、荷風が、米軍機の空爆による未曽有の大空襲によって被災し、偏奇館を焼かれ、蔵書の全てを焼失し、着の身着のまま焼け野原をさまよったことと、それより5か月後の8月6日、昭和7(1932)年に慶應の英文学科を卒業し、詩や小説を「三田文学」に発表していた原民喜が、疎開していた広島市内の実家で、同じく米軍機による人類史上初めての原爆投下で被災し、家を焼かれ荷風と同じように着の身着のままで、焦土化した市内をさ迷い歩いたことで、二人が共に地球の終焉を思わせる地獄を体験したこと。そして、それぞれの悲惨を極めた体験・見聞とそのときに抱いた思念や感懐を、荷風は日記『断腸亭日乗』に、民喜はカタカナ書きの詩『原爆小景』や小説『夏の花』に書き残したことで、二人の文学は、一瞬ではあるものの交錯し、まさに文学的というしかない、光芒を戦後の文学空間の上空に鋭く光放っていることである。
 永井荷風と原民喜は、原が慶應義塾大学文学部に入学したのが大正13(1924)年と、荷風が慶應義塾文学科教授を辞任したときより8年ほど遅れているので、直接的師弟関係はない。さらにまた、荷風は生涯を通して、社会の周辺/底辺、あるいは外側に生きる芸妓や娼婦、私娼婦とのみ性的関係を有し、前述したように慶應義塾の文学科教授時代に、二度結婚するもののいづれも失敗・離婚し、以来一度も結婚しなかった。これに対して、原は、見合い結婚ではあるものの、同じ広島県出身の永井貞恵という女性(のちに文芸評論家となる佐々木基一の姉)と結婚、深い愛の関係で結ばれ、貞江が、昭和19(1944)年、糖尿病と肺結核で死去するまで献身的に看病に努め、臨終を看取るなど愛の関係を貫き、死後、「私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかつたのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻」(「死と愛と孤独」より)・貞恵との思い出を『忘れがたみ』、その他に書き残したことで、二人は、決定的に違う。
 だがしかし、「鎮魂歌」で「僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕を貫け。帰るところを失った僕を貫け。突き放された世界の僕を貫け」と詠い、帰るところのない孤独な世界に耐えて生き、詩や小説を書き続ける決意と覚悟を自他に表明した原民喜の、ただひたすらに「書く」ことで生きようとする精神は、孤独な世界の深みにあって堪え続け、小説や日記を書き続けた永井荷風の文学精神とつながるものであった。
 文学者が文学者たるゆえんが、そして文学者が人間に対して、人類に対して果たすべき使命が、この世に現出した地獄にも等しい悲劇を自身で体験し、冷徹、かつ透徹したまなざしで見据えた現実とその奥にあるものを言語によって書き残すことにあるとするなら、荷風と民喜はまさにその使命を果たした文学者であった。少し大げさな言い方になるかもしれないが、日本民族を滅亡させたかもしれない二つの大惨禍の現場に、永井荷風と原民喜という慶應義塾とかかわりの深い文学者が、歴史に対する証言者として立ち会い、そこでの正に九死に一生を得るに等しい体験・見聞を後世に書き残してくれたことで、日本の文学は救われたといってもいいかもしれない。
 このように、昭和20年の春から夏にかけて、荷風と民喜は、「空襲」と「原爆」という「負」の体験を共有することで、それぞれの文学的生の軌跡を一瞬交差させるものの、それからあとの戦後の時空間においては、再び別の軌跡をたどり、永井荷風は、昭和34(1959)年4月30日深夜、孤独に息を引き取り、79歳で天寿を全う。一方、原民喜は、昭和26(1951)年3月13日、45歳の若さで泥酔の果てに鉄道自殺を遂げ……と、対称的な生の軌跡を描いた二人の文学者の「生」と「文学」が本質的に意味するものについて、私たちは、もっともっと深く受け止める必要があるだろう。


 「しなやかなラ・マルセイエーズ」

 以上見てきたように、戦後、新文学台頭の機運が澎湃と盛り上がるなか、奇跡的に復活した永井荷風は、それでも新時代の寵児としてもてはやされることを避けるようにして、浅草のストリップ劇場の楽屋に出入りし、裸体の踊子たちに囲まれてにこやかに談笑し、舞台の合間にはお汁粉をおごり、終演後は食事に連れ出し……と、自在に老いの「生=性」を楽しみ、昭和34(1959)年4月30日深夜、胃潰瘍による吐血と心臓発作が原因で、千葉県市川市八幡町4丁目1228番地の自宅で、看取るものもなく孤独に息を引き取り、冥界に旅立っていった。
 文学者永井荷風は、最晩年に及んでは、前歯が欠け、シャープでモダンな風貌とダンディなファッションで装われた風采は無残に失われ、正に遠藤周作が、『新潮日本文学アルバム・永井荷風』に寄せた「『荷風ぶし』について」の最後の一節で、「晩年、歯が欠け、バンドのかわりに紐を使っていた彼の写真は恐らく本書にも掲載されているだろうが、そこには小説家、荷風ではなく、彼の文学を裏切った一人の老人のイメージがあるだけだ。年齢を取るのは実に悲しいことである」と嘆いたように、老残をもさらす形で晩年を生き、死んでいった。だがそれにしても、老残をさらして生きる最晩年の荷風について、「彼の文学を裏切った一人の老人のイメージがあるだけだ」という遠藤の指摘は、相当に冷酷で、意地悪く、批判的に聞こえる。
 確かに、永井荷風は、最晩年において老残をさらした。だが果たして、「書く」ことへの意志の最後の最後の一滴まで絞り切って、死の前日、『断腸亭日乗』に、「四月廿九日。祭日。陰。」と書き込み、無残に死体をさらしたまま、死んでいったことが悲しいことなのだろうか? 歯が欠け、紐でズボンをくくっていた荷風の写真が、果たして荷風の文学を「裏切った」と言えるのだろうか……。
 1879年生まれの荷風より80年遅れて、1959年この世に生を享け、慶應義塾大学大学院修士課程と、国学院大学博士課程を単位修了され、荷風と同じく独身で生涯を終えた折口信夫の研究に携わるなか、中央公論社刊の『折口信夫全集』の編集に携わった持田叙子さんが、その著書『朝寝の荷風』(人文書院)の「あとがき」の最後のところで、以下のように記したように、小説家永井荷風は、齢80歳になろうとしても、孤独な生との引き換えで「自由」であること選び、そのことを喜び、そして「老残」をも受けいれ、日記の最後に「四月廿九日。祭日。陰。」と記し、深夜、一人で絶息、冥界へと旅立っていったのである。

 朝寝ぼう。枕元にフランスの雑誌の散らかるベッドの中で、熱くて甘いショコラをすする荷風。きらびやかに化粧し装う女性を見て、自分もああなりたいと憧れてしまう荷風。買物籠にネギを入れ、時雨の中をとぼとぼと歩く荷風―だらしない? しどけない?情けない?そうかもしれない。けれど彼の生き抜いたのが、はじめは立身出世に狂奔する明治国家主義の時代、ついでは国民に強さの連帯を要求する軍閥政治の世であることを考える時、それはとてつもなく稀有で大胆なだらしなさでありしどけなさだと思うのだ。

 持田さんは、このように荷風最晩年の「だらしなさ」と「しどけなさ」を「とてつもなく稀有で大胆な」ものとして受け入れ、そのうえで、「今、私にはそこからしきりに、人を押しのけ弱肉強食に突き進む日本近代社会への、第一級の抵抗の詩が聞こえてくる。荷風流のこのしなやかなラ・マルセイエーズにもっと耳を傾けよう」と、呼びかけている。
 荷風没後60年が経とうとしている今、荷風の門下生の孫の孫にあたるくらいの世代に、荷風が逝去した昭和34(1959)年に、荷風と入れ替わるようにして生まれ、長じては慶應の文学部に学んだ一人の女性文学研究者から、荷風の「だらしなさ」と「しどけなさ」が、このように優しく受け入れられ、掬い上げられていることを、私は、荷風のために喜び、祝福したい。

 

(2018年6月19日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。