対談

災厄と想像力――3.11は私たちに何をもたらしたのか

哲学者と社会学者の対話 戸谷洋志×田村あずみ
戸谷洋志×田村あずみ

2011年3月11日、東日本大震災に伴い、福島第一原発事故が発生しました。2021年は事故からちょうど10年の節目となります。

複雑なシステムを組み込んだ社会で、私たちは予測できない未来をどうやって思考し、破局を回避するための行動をとるのか――。

『原子力の哲学』の著者・戸谷洋志さんは、ハイデガーやアーレントら7人の哲学者の思想を整理しながら、原子力という科学技術にひそむ脅威の本質と、それがもたらしうる破局の意味に迫りました。そして、自然科学的な専門知の限界を前にして、哲学者たちが構想する倫理や政治の条件について論じています。

一方、『不安の時代の抵抗論:災厄後の社会を生きる想像力』の著者・田村あずみさんは、原発事故後に現れた市民運動に、こうした政治実践の可能性を見出します。そこには、イデオロギーではなく、混乱から生じた怒りや後悔を路上で表現しながら、不可視化されてきた他者とつながろうとする試みがありました。

哲学的思索と路上の実践という異なる切り口から、私たちの現在地について、そして未来について、ともに考えてみましょう。

※2月6日、GACCOH主催のトークイベントを記事化しました。

 

 ■哲学者たちは、原子力をどう論じてきたのか

戸谷 昨年12月に、著書『原子力の哲学』という本を上梓しました。

 これは、世界の哲学者が、原子力についてどのように論じてきたのかを紹介している本です。マルティン・ハイデガー、カール・ヤスパース、ギュンター・アンダースなど、主に20世紀を生きた7人の哲学者たちが原子力の問題をどのように受け止め、そこからどのように自らの哲学を展開していったのかを解説しています。

 この本における根本的な問いは、大きな災厄が起こるかもしれないにもかかわらず、なぜ人類は原子力に頼り続けているのか、ということです。広島・長崎に原爆が投下され、核戦争になれば人類は絶滅するとまでいわれているのに、世界から核兵器はなくならない。あるいは、チェルノブイリや福島の原発事故があっても、少なくとも今日の時点では世界から原発はなくなっていません。

「なぜなのか」と問いかければ、おそらく返ってくる答えは「もっとも合理的だから」というものでしょう。その根底には、人が原子力をコントロールし、災厄を予測して避けることができるという確信があります。しかし、こうした発想を取っている限り、災厄を回避することはできないと私は思いますし、本で取り上げた哲学者の多くもそう考えています。なぜなら災厄というのは、予測不可能だからこそ災厄なのです。

 なぜ災厄を予測することはできないのか。アンダースやジャック・デリダ、ジャン=ピエール・デュピュイは、「災厄は人間の予測を超えているから」だと言います。たとえ原発事故そのものをある程度科学的に予測できたとしても、事故の後どんな風景がそこに現れるのか、どんな音が聞こえるのか、そこに立つ人々がどんな表情をしているのかということを、我々は正しく想像することができず、それは予見不可能である、というわけです。

 つまり、災厄は人間にとって表象不可能なものなので、人間はそれを現実として受け止めることができない、それゆえに災厄を予測することはできない、ということです。こう考えていくと、科学的にリスクを計算していけば災厄も予測可能であるというのは、あまりにも科学的な理性を信じ切った傲慢な態度であると言わざるを得ません

 

■災厄を避けるための方策とは

戸谷 では、災厄を避けるためには、我々は科学を放棄して原始的な生活に戻るしかないのか。もちろんそんなことはなくて、本書の中でも大きく分けて三つの具体的な解決策が提示されています。

 一つは「想像力を拡張する」ということです。災厄が人間の想像力を超えたものであるのなら、想像力のほうを拡張していくことが必要なのではないか。そのために、たとえばアンダースは「優れたSF文学を読む」ことの重要性を述べ、デュピュイは「毎週少なくとも1冊の本を読み、1本の映画を見ること」を求めます。フィクションの力を使って、災厄に飲み込まれつつある現実を理解することが可能になるのではないか、と言っているわけです。

 二つ目、「領域横断的な対話をする」ことが重要だと主張している哲学者もいます。原子力の問題というのは、一部の科学者など専門家だけに議論を委ねるのではなく、多様な人との対話の中で当事者として問題を理解していくことが重要なのではないか。ときには自分とは立場や考え方が違う人とも意見を交わしていくことが必要なのではないかというわけです。

 そして三つ目は、ハイデガーなどが言うように、性急な判断をせず「落ち着きを持つ」こと。「原発推進か脱原発か」といった拙速な二者択一の議論に飲み込まれるのではなく、落ち着きを保って熟考していく必要があるのではないかと、ということです。

 しかし、この哲学者たちの「三つの解決策」については、私自身まだ分からないところがいくつかあります。

 たとえば、一つ目の「想像力を拡張する」ですが、想像というのは主観的なもので、一人ひとりその内容は異なる。しかも原子力のような表象不可能なものについては、どちらが正しいかという答えは出てきません。そうすると、それは二つ目の「対話をする」ことと両立するのだろうか。原子力について語っているのに、イメージしているものが違うためにまったく話が噛み合わないようなことが往々にして起こるのではないかという疑問があります。

 また、「領域横断的に話をする」といっても、原発推進派と脱原発派の間できちんと言葉を通わせられるような場をデザインすることはできるのか。少なくとも今の日本においては、それはほとんど絶望的なのではないかと思わざるを得ません。

 今日はそうした課題についても触れられればと思います。

 

■現代における「抵抗の不可能性」

田村 昨年の6月に、博士論文をもとにした著書『不安の時代の抵抗論:災厄後の社会を生きる想像力』を出版しました。

 私が「抵抗論」を研究しようとしたそもそもの出発点は、今の日本社会でこれだけ多くの人が生きづらい思いをしていながら、なぜその現実を変えようとする人があまり出てこないのか、ということでした。

 たとえば60年代の学生運動のときには多くの人が、目の前の現実とは違う「別の可能性」を想像し、それを実現しようとしていたと思います。ところが今は、そもそも人々が「別の可能性」を想像できないようになっているのではないか。だから、苦しい現実を逃れようとするときの手段が、一方では自殺になり、一方では無差別殺人やテロなど現実を暴力で強引に破壊するような行為になってしまうのではないかと思うのです。

 1章と2章では、この「抵抗の不可能性」について論じました。現代の私たちは、「敵」が見えなくなっているのではないか。先行き不透明な社会の中で、多くの人が生活の安定を得るために会社の理不尽な要求に従うなど、自発的に「隷従」しているような感じがある。敵は自分の外にいるのではなく、すでに自分の中に取り込まれてしまっているのが今という時代なのではないかと思うんですね。

 そういう時代には、抵抗や連帯の政治思想が生まれてきづらい。ぎりぎりの生活の中では、他者の苦しみに共感して連帯することが難しく、そこから絶望的な諦めや無関心、冷笑的な空気が生まれてきているのではないか。そこを脱して、今の時代に即した抵抗論を見つけ出していきたい。それも、誰かが提案する「答え」に安易に飛びつくのではなく、自分自身が感じている絶望の底にまずは降り立って、そこから希望を探求していきたい。そんな思いから、この本は生まれました。

 

■「情動」に倫理性はあるか

田村 第3章以降では、2011年の福島第一原発事故以降の、主に首都圏での反原発運動を取り上げています。

 原発事故という災厄は、私たちの日常に突如生じた亀裂のようなものだったと思います。そしてその亀裂によって、既存の秩序や権威への信頼が崩れたとともに、そこから不可視化されてきた他者の存在が現れた。それは福島の人々や原発労働者、あるいは未来世代など、自分たちがリスクを押しつけてきた他者でした。そうした「他者」と自分の存在とがリンクしたときに、自己のアイデンティティが揺らぎ、それまでになかった新たな想像力が要求されるようになった。3・11後の反原発運動は、それへの応答の一つの形だったと思うのです。

 そして、事故の後、最初に人々を動かしたのは「情動」だったと思います。参加者へのインタビューでも、混乱や不安で「居ても立っても居られなかったから路上に出た」と話す人が何人もいました。混乱の中で生まれた情動が政治的な行動のモチベーションになり得るというのが、まず一つの発見だと思います。

 こうした情動と政治的行動との接続には、不寛容や無責任さが助長されるなどという批判もあります。しかし私には、路上で反原発を訴える人たちは、原発事故によって露呈した人間の不完全さを受け入れた上で、なお倫理的に行動するための技法を模索しているように見えました。その一つが、災厄という亀裂によって見えてきた「他者」から目を背けず「開いている」ことです。デモ参加者の語りの中には、「放っておいたら自分は事故のことをすぐに忘れてしまうから、戒めとしてデモで他者の言葉を聞く」というものがありました。自分の日常を完全に閉じてしまわず、たまにでも外に開くための場という意味も、デモにはあるのかなと。

 また、「デモの頭数になりに来た」「世の中をよくするための礎になりたい」といった言葉も印象的でした。そして、そういう人たちの多くが、同時に「この場にいることが心地いい」「自分のためにやっている」という、自己満足とも取れる言葉をも口にするのです。

 ここには、自分の人生が周囲の環境に制約を受けることを受け入れつつ、なお「自分のために」行動するという、受動と能動が重なり合うような響きがあります。そこでの「自分」とは、独立した個というよりも運動の中に溶け込んだ「個」。そうした「溶けた個」として、社会に変化をもたらすことのできる自己に誇りや喜びを感じている──。それは今までにない、非常に特徴的なアイデンティティのあり方であって、そこにも倫理性があるのではないかと感じました。

 本の中でも引用したのですが、ジョン・ホロウェイという社会学者が、抵抗というものについて「道をたずねながら、われわれは歩く」のであって、そこには「正しい答えなどない、あるのは何百万もの実験だけだ」と言っています。その「何百万もの実験」を繰り返すことを可能にするような知性を、反原発運動の参加者たちは育んできたといえるのではないか。そんなことを考えながら、この本を書きました。

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原子力の哲学

プロフィール

戸谷洋志×田村あずみ

戸谷洋志(とや ひろし)

1988年東京都生まれ。哲学研究者、大阪大学特任助教。法政大学文学部哲学科卒業、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現代ドイツ思想を軸に据え、テクノロジーと社会の関係を研究。著書に『Jポップで考える哲学――自分を問い直すための15曲』『ハンス・ヨナスを読む』『原子力の哲学』、共著に『僕らの哲学的対話 棋士と哲学者』、『漂泊のアーレント 戦場のヨナス――ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路』がある。

 

田村あずみ(たむら あずみ)

1980年生まれ。立命館大学国際関係学部卒業後、新聞社勤務を経て、英国ブラッドフォード大学大学院博士課程修了。現在、滋賀大学国際交流機構特任講師、立命館大学国際地域研究所客員協力研究員。著書に『Post-Fukushima Activism: Politics and Knowledge in the Age of Precarity』(Routledge, 2018)、『不安の時代の抵抗論:災厄後の社会を生きる想像力』(花伝社,2020)がある。

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