さまざまなテクノロジーの発達も手伝い、善悪の基準がますます曖昧となっている現代社会。
ビジネス、道徳教育、生殖・医療、環境問題、AI、差別問題……。
現代社会で巻き起こるあらゆる倫理的な問題について、私たちはどう判断すればよいのか。
その答えは「カント」にあります。
哲学・倫理学における重要な古典としてつねに参照され続ける一方、難解と評されることの多いカントですが、本場ドイツでカント倫理学の博士号を取得した著者が、限界までやさしくかみ砕いて解説。
その上で、現代を生きる私たちが「使える」実践的な倫理として提示した一冊が、ドイツ在住のカント研究者・秋元康隆さんの『いまを生きるカント倫理学』です。
本書の刊行記念として、著者の秋元康隆さんと、聞き手としてゲストに文筆家、編集者の吉川浩満さんをお迎えし、カント倫理学のポイントや魅力、その現代社会における意義などを語っていただきました。
※2022年8月23日、代官山蔦屋書店にて行われた配信トークイベントの模様の一部を記事化したものです。
本当の入門書
吉川 秋元さんの『いまを生きるカント倫理学』を拝読させていただいて、大変刺激を受けました。まずは私のほうから、少し本の感想を述べさせていただければと思います。
最初の印象として、この本は本当の入門書だな、と思いました。本当の入門書というのはどういう意味で申し上げているかというと、ちょっと似た言葉に、解説書とか概説書という言葉がありますよね。ただ、いわゆる解説書というのは、どちらかというと、これからカントを勉強するぞ、という意志が固まっている人が読むものだと思うのですよ。
そうした解説書に対して、入門書というのは、もう少し別の役割が期待されているものだと私は思うのですよね。これからカントを勉強するぞ、という意志が固まっている人だけではなく、そもそも、なぜ、今あなたはカントを読むといいのか、というレベルの人。そういう人を対象にして書かれているものが、入門書のあるべき姿だと私は思っています。そういう意味で、この『いまを生きるカント倫理学』という本は、紛れもない入門書だな、と私は思います。
秋元さんがこの本の前に出版した『意志の倫理学』にも、「日本語で読めるカント倫理学の入門書はない」という趣旨のことが書かれていますね。カント倫理学についての研究書はたくさんあるが、一般読者向けの入門書はなかった。類書がないという点で、まずこの本は画期的だと思いましたね。
次に印象に残ったのは、秋元さんが本の冒頭で、「私はカント倫理学について、わざわざ私自身の生き方と切り離して説明することはしません」と、きっぱり断言されていることです。倫理学について書く以上、自分の生き方と本の内容を、全く別々のものとして書くわけにはいかない。そういう姿勢が、最後まで貫かれているのですね。
しかも、特にお父さんとのエピソードとか、子ども時代の勉強の話など、秋元さんのこれまでの歩みと絡まり合うように書かれている。もちろん、この本はカント倫理学の入門書であって、秋元さんの自伝ではないのですが、そうした記述はこの本の非常に美点だな、と感じました。
秋元 大変深く読み込んでいただき、ありがとうございます。今、吉川さんにご指摘いただいた通り、私は既にカントや倫理学に関心がある人に向けてではなく、まったくそうしたものに関心がなかったような人に読んでほしいと思い、この本を書きました。
ただ、この本がカント倫理学の入門書と言い切れるかというと、私個人としてはちょっと微妙なところもあります。なぜかというと、やはり哲学の入門書というのは、対象となる哲学者の思想をわかりやすく、正確に解説したものになるかと思うのです。ですが、私自身はカントにもおかしな点があると思っているため、本書の中でもそうした点について指摘をしています。ですから、その分、一般的なカント解釈からは、ずれている。そういう意味で、本書を一般的な意味での入門書と言ってもいいのかな、という思いはあります。
カント倫理学のアクチュアリティ
吉川 すでに『いまを生きるカント倫理学』を読まれた方は分かると思いますが、この本では序章に「カント倫理学の骨格」という、本の全体像を示すような、原理的な部分が書かれています。そして、それ以降は、第1章が「ビジネス倫理」、第2章が「道徳教育」、第3章が「生殖・医療倫理」、第4章が「環境倫理」、第5章が「AI倫理」、第6章が「差別に関わる倫理」という、歴史的な話としてではなく、まさに今現在の倫理問題を考えるための本になっていますね。
秋元 そうですね。あと、自分でもちょっと面白いなと思ったのは、私がこの本を執筆している頃は、カルト宗教のことは、あまり世の中の話題になっていなかったのですね。ところが、先日、安倍元首相が暗殺されるという大事件が起き、その文脈で統一教会というカルト教団に社会の注目が集まっています。
ですから、執筆時にまったく時事的なことを意識したわけではないのですが、奇しくもこの本の第2章で、カルト宗教について論じているのです。そのことに、偶然の一致というか、不思議な思いがしました。
吉川 まさに今日、私もこのイベントの会場に来る途中、電車の中で復習として本書を読んでいたら、カルトの話題が出てきて、ちょっとどきっとしましたね。そういう意味で、この秋元さんの本は、カントを歴史上の偉人として描くのではなく、極めてアクチュアルな、まさに今の私たちにとっても指針になるような倫理を説いた人物として書かれているな、と思いました。
哲学と生き方は切り離せない
吉川 『いまを生きるカント倫理学』のユニークな点として、目次などには全然表れていないのですが、「おわりに」で専門家への提言がバーンと出てくるところがありますよね。カント研究者は、自分自身の倫理学研究の成果を、一般の人にも分かるように伝える努力をするべきであるとか、自分が研究している倫理学が、己の生き方に反映されているかどうか自省するべきであるといった、非常に熱いメッセージが本の最後に書かれている。私は初めて読んだ時、まさかそんなことが最後に書かれていると予想していなかったので、心底びっくりしました(笑)。
でもこれ、すごくいいメッセージだと思うのですよ。こんなストレートなメッセージが最後に書かれている本は、ほとんどお目にかかったことがない。でも、私自身も倫理学って、本来そういうものじゃんって思って、すごく共感しました。
秋元 私も最初はそんなことを、最後に書くつもりはなかったのです。でも、新書という形態で本を出版できる機会なんて、この後一生無いかもしれない。そう考えたので、思い切って本音を書こうと。おそらく、倫理学とかカントを専門的に研究している人たちは「なんだこいつ。生意気なやつだな」と思うかもしれないけれど、それでもいいやと思って本音を書きました。
吉川 いやぁ、素晴らしいメッセージだと思いますよ。本の構成として考えても、面白い。最後まで読んできて、もう、あと1~2ページ読んで、本を閉じて、あとは寝るだけだなと思っているところに、急に熱いメッセージが出てくるから、また眠れなくなるみたいな。
秋元 私は本の構成で、最初と最後はとても大切だと考えています。
吉川 そうですよね。この本は、最初もいいのですよね。お読みになった方は分かると思うのですが、「はじめに」の1行目で、「私はカント倫理学について、すばらしい倫理学説であると思っています」と秋元さんが断言されているのですよね。「すばらしい」に傍点まで振ってある。1行目から、これですからね。普通、こんなインパクトのある出だしはないですよ。
カント倫理学のエッセンス
吉川 ここまでのお話で、『いまを生きるカント倫理学』の魅力は大分伝わったかと思うのですが、このイベントの視聴者の中には、まだ本を読んでいない方もいると思うので、秋元さんのほうから、そうした方々に伝えたいメッセージというのはありますか?
秋元 そうですね。まだ本を読んでいない方に向けて、少しカント倫理学の骨格をご紹介しておいたほうがいいかもしれませんね。
カント倫理学で一番大事にされているのは、動機です。カントは彼自身の用語として「善意志」という表現を使うのですが、彼は善意志からの行為には、道徳的価値があると言っています。
すごく簡単に言うと、善意志から、つまり利己的じゃなく、それが道徳的善であるからという理由で行為をすることに、道徳的価値があるとカントは考えているのですね。でも、そんな説明だけですと、抽象的すぎますよね。そこで、より具体的な概念として提出されるのが、定言命法です。
定言命法というものを、ごくごく簡単に説明してみましょう。ある行為原理を、自分だけではなく、みんなが順守した、そういう世界を思い浮かべてみてください。そして、それがみんなにとって望ましいと思えるものであるかどうか、考えてみる。そのとき、それがみんなにとって望ましいものであると言えるなら、それは道徳法則足りえます。このように思考実験をして、道徳法則を導く。その道徳法則を、己の利己的な都合によってではなく、それが道徳法則であることを理由として行為する。それが、カント倫理学的な生き方です。
善意志から行為するのに一部の人だけが有しているような能力や運などの偶発的な要素は必要ありません。それはただ「やろう」と意志さえすればいいのです。そして、それは誰もが必ずできるはずのことなのです。
また、そこから必然的に導かれる帰結として、目に見える行為だけから、その人の道徳性を決めつけることはできないということです。だから、自分に対しても、他人に対しても、内面に関心を寄せて、評価する姿勢が求められるのです。
結果主義の危険性
秋元 そうしたカント倫理学と正反対の思想が、結果主義です。私の肌感覚で言うと、日本は結果主義が行き過ぎた社会です。結果がすべて、というのなら、個々人の動機や内面はないがしろにされてしまいますから、私は「それはおかしいだろう」と思っています。
結果主義の顕著な例として、学歴主義や勤務している企業名へのこだわり、などが挙げられるかと思います。私はドイツで生活しているから余計そうなのかもしれませんが、日本人は異様に学歴や勤めている企業名にこだわっているように見える。そして、それにもかかわらず、「何でその大学に行くの?」「何でその会社を選んだの?」と聞いても、曖昧な答えしか返ってこないことがある。これって、おかしいですよね。
今年、医学部を目指していた高校生が、自暴自棄になって東大前で人を切りつけるという事件ありましたね。また、同じタイミングで、仮面浪人をしている女子大学生が、大学に受かる自信がなかったといって、カンニングをしたケースもありました。もちろん、犯人である彼や彼女らに、責任はあります。ただ、彼女らを駆り立てる、社会的な空気というものも、あると思うのです。もし、彼女らの周囲に、結果だけではなく、君たちの内面も大事だよという考え方を持った大人がいたならば、こんな事件は起こらなかったのではないか。
私の周囲にも、受験や就職の際にうまくいかなくて、心に傷を抱えている方がたくさんいます。たぶん、皆さんの周りにもいるのではないかと思います。そうしたことの原因は、行き過ぎた結果主義にあると、私は考えています。
内なる道徳法則に従え
秋元 カントは、自分の頭で考え、判断を下し、善意志から行動をすることは可能である、と主張しています。私たちは、非利己的に行為をすることができる存在なのです。
このように主張をすると、「そう言ったって、判断を誤ることもあるのではないか?」という批判をよく受けます。ですが、カントは少なくとも道徳的な善悪に関しては判断を誤ることはない、と断言しています。それはなぜか?
道徳法則について語るとき、カントは「内なる道徳法則」という言い方をします。これはつまり、道徳法則とは、自分の外にあったり、誰か他人が導くものではなく、自分で考え、導くものである、ということなのです。カントの考えでは、自分の内に存在する道徳法則が、自分にとって誤りであるということはあり得ない、となるわけです。
私もこの意見に、全面的に賛成です。そもそも道徳法則に、万人が則るべきという意味での正解、または不正解なるものを前提すること自体がおかしい。世の中には「みんなが道徳法則と言ったものが、道徳法則だよ」と言う人がいるかもしれません。でも、そんなものが本当にあるのですか? どうやったら導けるんですか? 教えてください、と言いたいですね。
ですから、道徳というものは、主観だけでも、客観だけでも、成り立つものではないのです。カントのすごいところは、その主観と客観を融合させようとしたところにあります。自分の頭で考えて、判断をする。これは、主観ですね。でも、それと同時に、カント倫理学では、いかなる行為原則が普遍性を持つかという、客観性もそこに担保されている。このカントの発想には、脱帽です。
日本の大学入試制度の問題点
吉川 まったくですね。先ほどの、学歴や職歴に振り回されないで生きるという哲学は、高卒で一度社会人を経験してから、改めて大学に進学されて博士号を取得したという、秋元さんご自身の生き方にも通じるところがありますね。
秋元 そうですね。私は今の日本の大学入試制度にも、疑問を持っています。私は高卒で就職し、何年間か一般企業で普通の会社員として働いてから、改めて大学の学部に入学した人間です。ですから、とても高いモチベーションをもって、思い切って勉強できるぞ! と勇んで大学に入学したわけです。ところが、大学に入って周囲を見回してみると、多くの学生のやる気がない。自分より学年が上で、留年したりしている人も、結構いるわけです。
そこでふと気がついたのですが、私は大学に合格した前年も受験をしていて、そのときは一校も受からなかったのですね。でも、私が不合格だった年に見事合格した人たちが、こうして留年して、私の同級生になっている。この全然やる気がない人たちが合格して、滅茶苦茶勉強したかった私が不合格というのは、一体何なのだと。日本の大学入試制度は、根本からおかしいのではないかと、そのとき強く思いました。
要するに、ペーパーテストでいい点が取れるのなら、内面なんかどうでもいいのだ、ということでしょう? でも、それって何か、根本的におかしくないですか? その疑問は当時も感じましたし、今でもそう思っています。
吉川 今の日本の入試選抜方法は、内面や動機を重視する、カント倫理学と正反対の世界ですものね。それに、有名大学に入学することそのものが目的化してしまうと、入った後に燃え尽きてしまいますよね。
秋元 そうなんですよ! 大体そういうのって、ネームバリューとか、みんなが「すごいね」と言うから、大学を選ぶわけでしょう。「入学して何を学びたいか」で選んでいるわけではない。自分で決めたルールじゃなく、他人の評価や名声に流されて生きている。そういう生き方は、物差しが自分のなかではなく、自分の外にある他律状態であり、行き詰る可能性が高いと思います。
吉川 そうした生き方は結果的に、自分も他人も不幸にするような生き方ですよね。
秋元 まったくです。
アイヒマンと植松死刑囚について
吉川 それでは、質問にも少しお答えしていきましょうか。
Q 欧米でポストトゥルースや、オルタナティブファクトが叫ばれて久しいですが、今、日本はものすごい虚言癖社会であることを、秋元さんはご存じでしょうか。新自由主義が社会の隅々まで浸透してしまっているせいか、政治家、役人、メディア、経営者といったあらゆる人々が、嘘まみれです。キリスト教的背景がない日本のこんな状況で、自分自身がカントの道徳的善に基づく価値判断をするのは、何か損をしてしまう気がします。一体どうすればいいのでしょうか?
秋元 これは要するに、正直者がばかを見るような現実があるから、そういう社会下ではカント的に正直に生きるのは難しいのではないかということですね。
おっしゃることの意味は、すごく私もわかります。実際、カント倫理はよく厳格過ぎる、または、禁欲的過ぎるのではないか、と言われるのですね。
そう言われる理由も分からなくはなくて、自分の利己的な都合を無視して、それが道徳的だから行為するというのは、口で言うのは簡単だけど、実践するのは難しい。そして、実際にそのように行動をして、正直者がばかを見るというケースもなくはないと思います。
ただ、私が自分自身に言い聞かせることなのですが、短期的には正直者がばかを見るように感じられるケースも、長期的に見るとそうでもないことが多いのです。
例えば、ビジネス倫理について、本の中でも書きましたが、真面目にビジネスをするのなら、長期的なビジョンというものが必要だと思うのですね。今年や来年の売り上げだけではなく、十年、二十年先の経営目標を、経営者は見据えなければならない。そして、そのように長期的に繁栄するために必要なのが、誠実さや信頼など、道徳的な部分だと思うのです。
正直に生きて、仮に短期的には損をするように見えても、実は道徳を大事にすることによって、長期的には繁栄していく。その際に、意図せずにおこなう、ということが大事です。長期的な利益を頭に入れて、そのために行動していたら、道徳的にならないわけですから。あくまでも自分の都合を捨象して、道徳的に生きる。そうしたら結果的に、将来は自分のためになることが多いのではないかと、私は思いますね。
Q 私は格率(Maxime)というものを、いわゆるマイルール、その人なりの行動原理と理解していますが、人が倫理的であるためには、格率が普遍的でなければならないとカントは言っています。でも、普遍性のある格率って画一的で多様性が乏しい印象を持ちますし、普遍性がある時点でマイルールというより、社会共通のルールのように思えます。ですから私は、格率とは矛盾なのではないかと思っています。倫理的でかつ個性的な、その人なりの行動ルール、格率とはどういったものなのでしょうか?
秋元 普遍性のある格率とは、画一的で多様性が乏しい印象があるというご意見ですね。これは、結局、道徳法則とは何なのだろうか、という話です。確かに、ある種のカント研究者の中には、道徳法則にはいわゆる正解みたいなものがあって、そこにたどり着かなきゃいけないのだという解釈をする人も結構います。
でも、私はその解釈は間違いだと思っています。だって、「そんなのどうやってたどり着けるの?」って思いますよね。そんなもの、たどり着けるわけないでしょう。それで、「そうしたゴールにたどり着けない以上、私たちは、道徳的善をなせないのですか?」という話になりますよね。能力や運があって正解を導ける人だけが道徳的善をなすことができるということであれば、その人個人の能力や運の良し悪しによって道徳性が決することになります。それはどう考えたって、おかしい。ですから、私はあくまで自分で考えて、自分で判断を下す。その際に、自分の行為が道徳的であるかどうかは、正解にたどり着けるかどうかではなく、根拠によると、私は考えています。根拠さえあれば、道徳法則というものは成り立ちます。どんな根拠を見出すか、何を道徳法則と見なすかという点には、その人の個性が表れると思いますよ。
ただ、そこでよくある疑問として、とんでもない格率を持った場合、それを道徳法則としてみなせるのか? という問題がありますよね。例えば、人を無差別に殺すという格率を持った人がいて、その動機が正当化されるならば、道徳法則たりえるのかという疑問です。私は、こうした反論はもっともだと思います。確かに、そうした格率を持った人間が生まれる可能性を理論的に完全に否定することはできません。
例えば、そうしたタイプの人間として、アドルフ・アイヒマンを想起することができると思います。アイヒマンというのは、第2次世界大戦中にドイツ軍の将校として、大量のユダヤ人を強制収容所に送る手配をしていた人です。彼は戦後、裁判にかけられて、自分は正しいことをしたと主張し、その根拠としてカント倫理学を持ち出すわけです。
アイヒマンは、カント倫理学に照らし合わせ、自分は確信を持って正しいことをしたのだと法廷で述べています。けれども、その一方で、自分は上司の命令に従っただけであり、個人的に判断をする権限などないのだから、無実であるといったような、まったく逆の主張もしている。結局、こうしたタイプの人間は、言動を追ってみると、大体、整合性がとれていない。後付けで理屈を考えているだけではないのか? と思えるケースが多いのです。
『いまを生きるカント倫理学』の中でも、相模原障害者施設殺傷事件の話を取り上げています。この事件の犯人である植松聖死刑囚は、社会の利益のために障害者を殺したのだと供述し、今でもそう確信していると言っています。ですが、その一方で、面会に来たジャーナリストに対して、自分は今まで社会の役に立たない人間だったけれども、障害者を殺したことによって、役に立つ側にまわれた、と微笑みながら語っている。ここに彼の本音であり、利己性が、口や表情に出てしまっているのです。
ですから、理論的には、どのような行為でも道徳的善になりえるというのはおかしいのではないか、という批判は分からなくはないのですが、現実的にはそのようなことは有り得ないと私は思っています。そうした場合は、話していると、不整合やら、利己性やらが出てくることになるのです。
吉川 植松死刑囚に対する分析は、この本の第6章の「差別に関わる倫理」で出てきますが、ある種、この本のクライマックスになっていますよね。
秋元 自分でも、ここの部分に関する論述は、カントの理論的説明を積み上げた上で、最後にそれを裏付ける形で植松の発言を紹介することにより説得力のあるものになっているのではないかと思います。
吉川 このイベントを視聴されている方も、ぜひこの第6章をお読みになっていただければと思います。秋元さん、今日は本当に長い時間、ありがとうございました。■
構成/星飛雄馬
プロフィール
秋元康隆 (あきもと・やすたか)
1978年生まれ。トリア大学講師、トリア大学附属カント研究所研究員。専門は倫理学、特にカント倫理学。高校卒業後に一般企業に就職するも、人生の意味について考えるようになり、受験勉強をし直し、一般入試を経て日本大学文理学部哲学科に入学。日本大学大学院の修士課程修了後、カント研究の本場ドイツに渡る。トリア大学教授でありカント協会会長であるベルント・デルフリンガー教授のもとで博士論文を執筆し、博士号取得。ドイツ在住。著書に『意志の倫理学――カントに学ぶ善への勇気』(月曜社)、『いまを生きるカント倫理学』(集英社新書)がある。
吉川浩満 (よしかわ・ひろみつ)
文筆家、編集者、ユーチューバー。1972年3月、鳥取県米子市生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、現職。晶文社にて編集業にも従事。哲学愛好家。単著に『哲学の門前』(紀伊國屋書店)、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新社)、『理不尽な進化 増補新版――遺伝子と運のあいだ』(ちくま文庫)など。共著に『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。――古代ローマの大賢人の教え』(筑摩書房)、『人文的、あまりに人文的――古代ローマからマルチバースまでブックガイド20講+α』(本の雑誌社)などがある。