『MotoGP最速ライダーの肖像』(西村章・著/集英社新書)発売を記念して、これまで今季のMotoGPと、そこで戦うライダーの実像をお届けしてきたが、今回は、前回お届けしたここ20年の中で最も劇的だったレースとは違う意味で、二輪の魅力を見せつけた一戦、超人2人のハイレベルな戦い(今回もクライマックス映像付き)をお届けする。
どんなスポーツや競技にも、後年まで語り草になるような名勝負がある。MotoGPの世界でも、いくつもの戦いがすぐに思い浮かぶ。たとえば、2009年カタルーニャGP最終ラップでのロッシvsロレンソの攻防。あるいは、2012年のチェコGPで、緊迫感に溢れながらも徹底してクリーンに戦い抜いたペドロサvsロレンソの対決も印象的だ。また、冷たい雨が降りしきる10月のツインリンクもてぎで、ドヴィツィオーゾとマルケスがまるでドライコンディションのような緊密な接近戦を最後まで続けた2017年の日本GP。彼らふたりは、ほかにも〈名勝負数え歌〉といっていい数々のバトルを世界各地で繰り広げた。
先日、当サイトの記事でも紹介をした、オーストリア・レッドブルリンクで5台のマシンが入り乱れるようにトップを争った第11戦の決勝レースもそのひとつだ。ただ、あのときのレースは、天候変化とそれに伴うフラッグトゥフラッグルールという外的な条件が選手たちのレース戦略を錯綜させたために、いわばバトルロイヤルのような大混戦になった、という要素が大きい。
そのときと比較すれば、9月12日にスペインのモーターランド・アラゴンで開催された第13戦アラゴンGPで、フランチェスコ・バニャイア(Ducati Lenovo Team)とマルク・マルケス(Repsol Honda Team)のふたりが繰り広げた戦いは、ふたりのライダーの意地と技術が互いに一歩も退かず正面からぶつかりあう、文字どおりの真っ向勝負だった。その意味で、このふたりの〈真昼の決闘〉は、冒頭に紹介したいくつかのレースとも比肩しうるほどの、後年まで語り草となるくらい強烈な印象を残すレースだった、といっていいだろう。
日曜の午後2時に始まった全23周の決勝で、バニャイアとマルケスは、序盤で3番手以下の選手たちをあっさりと引き離し、ほかの誰にも邪魔されずに一対一の勝負をする環境を作り上げてしまった。しかし、全23周の20周目までは、トップを快走するバニャイアの直後にピタリとマルケスがつけたまま、緊迫した静謐な状態を保ちつつ周回数が経過していった。
ポールポジションからスタートしたバニャイアは、開始直後からこの20周目まで、一度も前を譲っていない。ちなみに、彼が土曜の予選でポールポジションを獲得したときのタイムは、誰も塗り替えることができずにいたマルケスのオールタイムラップレコード(1分46秒635:2015年)を6年ぶりに更新するという、堂々のパフォーマンスだった。
一方、マルケスはこのモーターランド・アラゴンを誰よりも得意コースとしている。最高峰クラスに昇格した2013年から2019年(2020年は負傷欠場)までの7回で、5回の優勝を飾っている。もともとマルケスは、以前から左周り(反時計回り)に周回するコースを得意としている。
このアラゴン以外も左周りのコースでは、ドイツのザクセンリンクサーキットで全勝、アメリカ・テキサス州のサーキット・オブ・ジ・アメリカズでは、2019年に転倒して自滅した以外は無敗、という記録を持っている。今回の土曜予選でバニャイアに更新されるまで、アラゴンの最速タイム記録を保持していたという事実も、ここでの強さをよく示している。
それだけに、バニャイアのコンマ数秒背後にピタリとつけて淡々と走り続けるマルケスの姿からは、相手の走りを冷静に観察しながら虎視眈々と機を窺っていることが感じ取れた。
バニャイアは、最高峰クラス3年目の24歳。バレンティーノ・ロッシの主宰するVR46アカデミー出身で、2018年にMoto2クラスのチャンピオンを獲得して、翌年から最高峰へ昇格した。高い資質を買われてドゥカティの有力サテライトチームに所属し、2年目の2020年には活躍も期待されたが、8月に右脚を骨折という不運にも見舞われた。だが、翌月の復帰戦では、いきなり2位表彰台を獲得。今年からはドゥカティファクトリーへ抜擢され、開幕戦早々に3位入賞を果たしている。
マルケスは、昨シーズンを棒に振った右上腕骨折から第3戦ポルトガルで9ヶ月ぶりに復帰。成績やパフォーマンスにはそれなりに波がありながらも、6月のドイツGPでは、得意のザクセンリンクサーキットで復帰後初優勝を達成した。だが、世界最高峰のカテゴリーで二輪ロードレースの頂点を極めた選手たちとギリギリの鎬を削りあう超人的なレベルの争いを展開する、という意味では、右腕や肩のコンディションはまだ完璧な状態に戻せきっていないようだ。
過去に数々の奇跡的な転倒回避をしてきた超人的運動神経の持ち主である彼にとって、肘を使えないことは、まだ完調ではないことの証でもある。バイクのフロントタイヤが切れ込んで、どう見ても転びそうな角度になっている状態でも、過去の彼ならほぼかならず路面に肘をついて立て直し、あり得ないようなリカバリーを何度も見せてきた。しかし、今回のレースウィークの練習走行では、いつもの彼なら肘を使って転倒を回避しそうな状況で、右肘を張らずそのまま重力に屈して転倒し、バイクとともに路面を滑走していく場面が見受けられた。
しかし、肩や肘に極限の負荷をかけることができるほど身体組織が戻っていないとはいっても、レースを戦う戦闘能力そのものに関してはほぼベストの状態であることは、トップを快走するバニャイアの背後で冷静に隙を狙っている様子からも明らかだった。さらに客観的な事実をいえば、この日の総レースタイムは41分44秒422で、当地の記録を更新している(過去の最速総レースタイムは、41分44秒933:2015年)。バニャイアとマルケスの戦いが超人的な水準であったことは、この数字を見れば明らかだろう。
さて、ずっとバニャイア―マルケスという位置取りのまま静謐な緊迫感をはらんで周回数を経過していったレースは、終盤になって大きく動きはじめた。
ラスト3周で、ついにマルケスがバニャイアのインを突いた。しかし、次のコーナーでバニャイアがすかさず前に出る。コース後半区間の左に小さく旋回してバックストレーターに向かう15コーナーでマルケスがイン側を突いて前に出るものの、コーナー立ち上がりでは、ふたたびバニャイアがトップを奪い返す。
「考えていたのは、ひとつのコーナーでもやりたいようにはやらせない、ということ。すでにタイヤが消耗していたので、前に出してしまうとオーバーテイクはさらに厳しくなる」
レース後に、バニャイアはこのときの心境をそう振り返っている。アタックを開始したときから、最終ラップのコース前半区間までに、マルケスは計6回、バニャイアに勝負を仕掛けている。しかし、そのたびに上記のとおり、バニャイアは即座に反応して前を奪い返した。つまり、この3周ほどのあいだにふたりはポジションを12回入れ替えたことになる。このラスト3ラップでのふたりの緊迫感に充ちた攻防は、YouTubeで無料視聴できる(https://www.youtube.com/watch?v=6Fze9TiDpEo)ので、世界最高峰のバトルに興味のある向きは、ぜひいちどご覧いただきたい。
ちなみに、マルケスがバニャイアに対してバトルを挑んだ箇所は、1コーナー、5コーナー、15コーナーなど、すべて左コーナーばかりだ。右で勝負せず、常に左旋回で仕掛けていったのは、上記のとおり、右肘と肩にまだわずかな不安要素を残しているからだろう。
「ブレーキングは自分より深いし、しっかりバイクを止めて、立ち上がり加速も良かった。右コーナーは苦労したけど、左コーナーではわずかに自分のほうが速い場所があったので、そこでトライをしたけど、そのたびにラインがはらんでしまい、ペコ(バニャイアの愛称)が即座にいいスピードで挽回していった」
そうマルケスは述懐している。
「どこが速くてどこが弱点なのか分析しようとしたけれども、弱点はなかった。どこもかしこも速かった」
そうも述べている。
「最後にトライする前は、『2位で充分だな。アタックする余裕はないか』と思っていた。ペコはミスなくとてもうまく乗っていたし、隙を狙えるコーナーもなさそうだった。でも、自分はこういう人間なので(笑)全部忘れて勝負を仕掛けてしまった。最後まで全力で攻めて、最終ラップでは彼に並んでもきっとバックストレートで抜かれてしまうだろうとわかっていたけど、やるだけのことはやった」
そう振り返るマルケスは、バックストレートまで少し手前の12コーナーで、バニャイアに対して7回目のアタックを仕掛けた。しかし、コーナーの進入でリアが流れてゆくマルケスのマシンは理想的なラインを外れてオーバーラン。きれいに左から右へ切り返してコーナーを駆け抜けてゆくバニャイアと、これで決定的な差が開くことになった。
「12コーナーでは1回だけトライしたけど、(コーナー進入の)ブレーキで踏ん張るとリアが耐えられずに流れていって、それでライン上に残ることができなかった」
マルケスは、このときの状況をそう説明する。一方、8回の世界タイトルを獲得してきた地上最強のライダーが仕掛ける勝負をすべて真っ正面から受けて立ち、互角以上の内容で競り勝ったバニャイアは、ラスト3周の駆け引きを以下のように振り返った。
「レース後半にタイヤの状態が落ちていくことを考えると、(前にいるのは)守りやすいしベストの位置取りだったと思う。マルクは終盤にきっと来ると思っていたし、彼はブレーキが強いので、ブレーキング勝負を挑まれるとブレーキで再度オーバーテイクするのは簡単ではないだろうと思った。後ろから狙うと走行ラインがワイドになりやすいし、じっさいに彼が勝負してきたときには、リアタイヤが厳しくなっているのでワイドになっていた。だから、ずっと前にいたのはベストの位置だったと思う。後方につけていたら、この場所(1位)を守れたかどうかはわからない」
ドゥカティとホンダの激突、ということについては、冒頭でも軽く紹介したとおり、アンドレア・ドヴィツィオーゾとマルケスの間には、数々の〈名勝負数え歌〉がある(詳細は拙著『MotoGP最速ライダーの肖像』第9章などをご参照いただきたい)。
今回のバニャイアvsマルケスの対決は、これらの名バトルに新たな1ページを加えたといっていい。それにしても、それらのレースと比較したときにひときわ鮮やかな印象を与えるのは、ドヴィツィオーゾが「ドゥカティのDNA」と評してあれだけ苦労し続けてきたデスモセディチの「曲がらない」特性をバニャイアはものともせず、この日のレースではいとも容易く旋回させていた、という事実だ。
「ドヴィツィオーゾとは、今までに何回もバトルをしてきた。ペコはドビと同じだけど、さらに高いコーナースピードがある」
というレース後のマルケスの短評は、バニャイアに対する最大限の賛辞といっていいだろう。
表彰式では、優勝を飾ったバニャイアとともに、チームの代表としてチーフメカニック、クリスチャン・ガッバリーニが登場してトロフィーを受け取った。ガッバリーニは、ドゥカティに初の世界タイトルをもたらしたケーシー・ストーナーのチーフメカニックを担当した人物でもある。
今回のレースでは、Moto3クラスで日本人選手の佐々木歩夢(Red Bull KTM Tech3)が3位表彰台を獲得したことも追記しておこう。
佐々木は2016年に15歳でレッドブル・ルーキーズカップのチャンピオンを獲得し、17年からMoto3へのフル参戦を開始した。物怖じしない愛嬌のある性格で、パドックでも国籍を問わず多くの人々から愛される若者だ。現在20歳。5年目のシーズンとなる今年は、高い結果を期待されながら、惜しいところで表彰台を逃したり転倒でチャンスを失ったり、ということが続いた。5月末のイタリアGPでは、予選で転倒に絡み、同じアクシデントに巻き込まれた選手が死亡するという痛ましいできごとがあった。
佐々木はその後数戦を欠場し、夏休み期間が明けた後半戦に復帰を果たしたものの、表彰台には届かないレースが続いた。とくにイタリアGPでのアクシデント以降は、肉体的にも精神的にも辛く苦しい期間が続いたであろうことは想像に難くない。そのような時期を経て今シーズン初表彰台となったアラゴンGPの3位は、レーシングライダーとして非常に重みのあるものになったようだ。
「自分自身のケガ、ということだけではなく、ムジェロ(イタリアGP)では素晴らしいライダーを喪うことになってしまいました。自分の人生でも、最も辛く苛酷なできごとでした。復帰後も厳しいレースが続きましたが、諦めずにがんばり続けて、ようやくここに戻ってきて3位表彰台を獲得できました。だから、この表彰台はうれしいというよりも、むしろほっとした気持ちのほうが強いです。自分自身を強く保ち、表彰台に戻ってくることができたことを、なにより誇らしく思います」
この佐々木の例にかぎらず、モータースポーツ、とくに二輪ロードレースでは危険な事象が発生することがある。ときにはそれらの偶然が最悪の形で積み重なって、命に関わる事態に発展してしまう場合もある。
一般的にはそのようなイメージが抜きがたくつきまとうせいか、この競技に対しては「危険を顧みない」「命知らず」といったことばで形容されることも少なくない。だが、当然の話だが、身を捨ててまで最速を競おうとしている選手はだれもいない。彼らはけっして、蛮勇の持ち主でもなければ無謀な向こう見ずさを競っているわけでもない。MotoGPをはじめとする二輪ロードレースは近代スポーツである以上、生命に関わる可能性のある危険は、競技環境の整備とルールの拡充で可能な限り最大限に排除する取り組みが続いている。しかし、それでも競技の特性上、深刻なアクシデントが発生する可能性を完全に払拭しきることまではできない。
だからこそ、安全に競技を行うことは選手や競技各関係者の間で至上命題として最重要視されている。逆説的だが、本来的に危険を拭いきれない側面がある競技だからこそ、二輪ロードレースに関わるすべての人々は生命の大切さを強く認識している、ともいえるだろう。
そして、ときに避けようのない不測の事態が発生したときに、その辛く耐えがたい試練をくぐり抜けた選手や関係者たちの姿は、見る人たちの心を強く動かす。
その意味で、今週末9月19日(日)に決勝レースが行われる第14戦サンマリノGPは、サーキットの名称に名前を冠せられたマルコ・シモンチェッリと親交の深かったバレンティーノ・ロッシを初めとする大勢のイタリア人選手たち、息子の遺志を継承すべく父パオロ・シモンチェッリが立ち上げたチームSIC58 Squadra Corseに所属する鈴木竜生(詳しくは『MotoGP最速ライダーの肖像』第8章)、そして、2010年のMoto2クラス決勝レースで悲劇に見舞われた富沢祥也の親友でありライバルであった中上貴晶(LCR Honda IDEMITSU)にとって、かけがえのない会場で誰よりも好結果を目指したいにちがいない、なによりも重要な一戦になる。
プロフィール
西村章(にしむら あきら)
1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。