お店に行くときにはオンライン予約が当たり前になり、注文はQRコードのみ、決済はモバイルオーダーやセルフレジ……。このような光景は2020年代以降珍しくなくなった。しかし、必ずしもすべてのシステムが「使いやすい」わけではない。
技術革新が加速すると、なぜ息苦しさを感じてしまうのか――。こうしたジレンマを共有するのが、ライター兼ポッドキャスターの速水健朗氏と、哲学者で批評家の福尾匠氏だ。
お互いの近著『機械ぎらい 機械音痴のテクノロジー史』(集英社新書、速水健朗)と、『置き配的』(講談社、福尾匠)を引き合いに、現代社会に蔓延る「モヤッとした違和感の正体」に迫る。

■あらゆる変化はコロナ前に起こっていた?
速水 福尾さんと僕はお互いの語彙やバックボーンは全然違うんですけど、関心事はかなり近い気がしています。
僕は『機械ぎらい』でQRコードの注文やネット予約について書いていて、福尾さんは『置き配的』で物流システムやUber Eatsを論じている。これらはどれも、コロナ禍以降に定着した仕組みですよね。
福尾 そうですね。僕が『機械ぎらい』を読んで改めて思ったのは、コロナがさまざまな口実として使われているということです。
速水さんはあらゆるものに予約が必要になったことを「予約社会」と呼んでいますが、それがやってきたのは実はコロナ禍前なんですよね。たとえば、ディズニーのファストパスが園内で取得する形式から、アプリによる予約になったのが2019年だったということを速水さんは書いています。
『置き配的』でもファミレスが深夜営業をやめたり、喫煙席をなくしたことについて書いたのですが、これらも2019年ごろの出来事、つまりコロナ直前の変化なんです。
でも多くの人は、ファミレスが夜中まで開いていなくなったのも、美術館に行くために予約が必要になったのもコロナがきっかけだからしょうがないと思っているはずです。自分たちが強いられてるシステムを、コロナを口実に納得してしまっているんですよね。
そもそも、コロナ禍の話を誰もしてなくなっていることへの問題意識が前からありました。『置き配的』でも、その時期の話を積極的に取り上げていますが『機械ぎらい』に通底する問題意識があるとすれば、コロナ禍直前のシステム変化に対する違和感なのではないかと思います。
速水 まさに僕も『置き配的』を読んで、そのことを感じていました。夜中の2時にデニーズ行ったり、深夜1時に代官山蔦屋書店に行ってもまだ多くの人が書店やスタバにいた社会は、2019年ごろに途絶えているんです。実は2010年代にはナイト・タイム・エコノミーが注目されて、東京都知事時代の猪瀬直樹が2013年に渋谷・六本木間のバスを24時間営業にしたりしていた。
2010年代後半には、観光客が増えているから深夜営業を増やそう、という議論もあったんです。
僕自身は夜型ですし、深夜帯に働いている人が多い東京では、夜中にお店が開いていたほうがいいだろうなと思っていました。しかし、コロナ禍に入るとなし崩し的に終夜営業のお店は減っていき、ナイト・タイム・エコノミーの構想も立ち消えになってしまいました。
コロナ禍をきっかけとして、すべての人が同じ時間帯に生きる社会のほうがいいという価値観が大多数になってしまったのだと思います。
福尾 感染対策という名目で「いていい場所」と「いちゃいけない場所」が分割されてしまって、空間の在り方がドラスティックに変わってしまったんですよね。
飲食店の予約も事前に「この時間にはここにいていい」という承認をもらうシステムですし、ネットのサービスにしても煩雑な2段階認証を経ないとログインができなくなっている。
自分がどの場所にいるかを常に確定しなければいけないシステムが、都市空間にもデジタル空間にも広がっているように思います。

■いまの社会は「予約」を内面化している?
速水 最近、20代から30代の人たちとご飯を食べにいったときに気がつくのは、彼ら彼女らは集合時間前についていたとしても店の前で待っていることが多いということです。どうやら予約より先にその場所にいると居心地が悪いそうなんです。システムやルールが変わると、時間や場所の感覚も変わる。これももしかしたら、予約社会のひとつの側面かもしれないですね。
福尾 僕も先に1人でお店に入る気まずさはわかります。それは、「現地集合現地解散」的な気楽さがなくなったっていうふうにも言い換えられるのかもしれません。
もしかしたらホモソーシャル的なものかもしれませんが、来るやつは来るし、来ないやつは来ないみたいな「抜けのいい」コミュニケーションの場所がどこにあるのか、わからなくなっていますね。
速水 いまは人と会うときに事前に「調整さん」とかでスケジュールを調整して、人数を確定したうえで、お店を時間予約することが当たり前になっていますけど、僕は誰かと飲んでるときに、来る予定がなかった人に途中で「暇だったら来なよ!」って気軽に言えるコミュニケーションが好きなんですよね。むしろ事前に決まっている飲み会は、当日に行きたくなっちゃう。でもいまそういうことは、嫌われるわけですよね。レストランや居酒屋でも、すでに人がいる卓にお客さんが増えると嫌がります。
だから最近、僕はフードコートを使うことにしてるんですよ。フードコートは人数が増えても平気ですし、どこのお店のものを持ち込んでもいいし、ドリンクがマストということもなく、水を飲んでいてもいい。こんないい場所ないんです。
これはある意味、セルフサービスを前提に設計されているから、接客されないで済むという気軽さなのかもしれません。人の存在を感じずに一方的にサービスを受ける「置き配的」なコミュニケーションともまた違って、食事は水も取りに行かなければいけない。もしかしたら「フードコート的」な在り方の可能性もある気がします。

■モバイルオーダー時代の「いい客」とは何か?
福尾 なるほど。僕は「置き配的」をネガティブなものとして位置づけているんですけど、例えばフードコートだったり、スターバックスやマクドナルドのモバイルオーダーとかの気楽さは好きなんです。
だから、人間的な手触りを感じられない「置き配的」なものがすべてだめっていうことでもなくて、そこにもそれなりの風通しのよさは感じるんですよね。
速水 その意味で僕も「機械ぎらい」という言葉をかなり両義的に使っています。そもそも新しい機械があればいち早く手に入れる側だし、ポッドキャストの編集や仕事でも人よりも多分、10倍使えている気もするのですが、事前に予約しないとイベントやレストランにも行けないような社会になりつつあることに関しては明らかに苦手なんです。
自分がどっちの立場にいるかが明確であれば、「機械ぎらい」という言葉もわかりやすいんですけど、本を書きながら「あれ?テクノロジー批判をしたいわけじゃないんだよな」という逡巡があって。
だから、福尾さんが使う「置き配的」という言葉も、消費者と労働者の区別がつかなくなるという意味ではネガティブな言葉として扱われていますが、ユーザーとしてプラットフォームに乗っかることの気楽さにも触れられていますよね。
福尾 例えばスタバでモバイルオーダーするときって、アプリで頼んだものをお店に取りに行くという点では、Uber Eatsの配達員がやっていることと同じことを客としていますよね。LUUPを返却するときに撮影するよう指示される写真はAmazonの配達員が撮影する置き配完了写真とまったく同じです。。
これはある意味でいまの人々はすべてがギグワーカー的になっていて、ユーザーがプラットフォームに縛りつけられていることにより、不自由になっているとも言えます。ただ、それだけ言っていてもしょうがないなと。
『置き配的』では、これを「ピック」と「ドロップ」という言葉で表現していますが、ピックしドロップするだけで済むことが気楽さに繋がっているところもある気がします。
速水 僕は仕事をスタバやマックですることが多いのですが、サービスを受ける主体としてスタバやマックを利用しているのではなくて、場所の利用者としてお店にいるという感覚はわかります。
ただ、その楽さに慣れすぎちゃっていて、自分が消費者として100%消費して、サービスを受けることが苦手になってきているように思います。
逆に単なる客ではない距離感になっている人がいるのも面白いと感じます。僕が近所のチェーン店で仕事をしているときに、いつも会う人が2人いるのですが、1人は完全に誰とも話さないで黙々と仕事をしていて、もう1人は店員全員と仲いいんですよ。店長やバイトからも覚えられていて、誰かが新しくバイトでくるたびに挨拶されているんです(笑)。大事なのは、どちらにとってもここが重要なサードプレイスではあるというところです。
福尾 そういう時代になってくると、いいサービスを定義するというより、いい客であるっていうことをどうやって定義できるのかが気になりますね。
菊地成孔さんが以前どこかで、自分はこの世界にいいお客さんとして死ぬまで過ごしたいんだということをおっしゃっていて。レストランに行くときも、服を買うときも、その場その場でいいお客さんであるってことを常に意識しているそうなんです。
もちろん単にお店に課金すれば、いい客というわけではないと思うんです。だからこそいま、いい客としての生き方って本当にできるのかなと。
速水 僕はむしろ、確かにいい客でいたいっていうのは、客以上のものにならなくていいと思うことが重要な気がしますね。いい客であろうとすると、いい振る舞いをする人間として演じなければいけないわけじゃないですか。もうちょっと消費者ってわがままでいいと思うんですよね。

■マジョリティーの感覚をいかに考えるか
速水 商業出版の話でいうと、いまは本の書く人と読む人の垣根もなくなっていますよね。かつては読者の側の人が本を出すハードルが高かったわけですが、自分でZINEを作ったりすることもできる。僕もブログ出身のライターなので、その垣根がなくなって混濁していること自体はおもしろいのですが、逆に書き手側も作る側にしか届けなくていいやと思いはじめている。そうなると、そもそも産業としての出版を維持することができないのではないかと危惧しています。
製紙業や運送業や書店などの大きいインフラがあって、実はそこに効いていた規模の経済こそが出版産業の成立基盤なのに、その規模は要らないという方向に向いている。産業を軽視しすぎてはいないか、と思いますね。
福尾 誰でも書き手になれるっていうことと、それぞれの界隈がすごく小さくなっているということは切り離せない問題だと思っていますね。
『機械ぎらい』と『置き配的』で共通した点があるなと思ったのは、マスやマジョリティーをどうやって再定義するかについても考えているということです。
『機械ぎらい』ではセルフレジにちょっとまごついたりしてしまう人のことをマジョリティーとして捉えて、そこの実感から論を進めていますよね。『置き配的』も、リベラルと保守の共依存的な対立のような「密」な言論に参与しているひとは実際には少ないはずで 、その外側に膨大なサイレントマジョリティーがいる「疎」な空間があるという認識から出発しています。
速水 そうかもしれません。『機械ぎらい』は、人類学者のデヴィッド・グレーバーの議論から着想を得ているんです。実は彼の議論もマジョリティーの感覚に根差しているんですよね。一番有名な『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)は、みんなが不満を持っていることの事例集みたいな感じですし。
その前に書かれた『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』(以文社)は、『ブルシット・ジョブ』の根底にある末端の話からネットワークとテクノロジー、国家の礎である官僚制の理論に行きついている。
『機械ぎらい』も素直に自分が苦手な機械とか、なんで自分だけがまごついているかのようになっているんだろうという疑問からはじまっている。そして途中で、ほかの人たちは機械得意なふりしているだけで、実は多くの人がかなりめんどくさいと思っている装置 が横行していることに気がついた。そこからグレーバーの議論を参照しながら、機械音痴国家の話まで本の最後には辿りつくわけですが、AIやテクノ専制だけではなくて目の前にある使いにくい端末に順応させられることも権力だよねということが言いたかったんです。
福尾 たしかにそうですね。『機械ぎらい』のなかで、エレベーターボーイは最初エンジニアも兼ねてる職種だったのに、どんどん機械が洗練されていくにしたがって単なる行きたい階を訊いてボタンを押すサービス係になっていったという話がありました。AIを使えば自然言語でプログラミングをできてしまうように、いまの社会はそれがすごく極端なかたちになっているのかもしれません。
僕たちはインターフェイスの手前に常に居させられ、その向こう側にいけるのは本当にごく一部の人になっている。これからは機械をさわること自体が、人間からさらに離れていくのかもしれません。
(後編につづく)

(左:速水健朗氏 福尾匠氏)
構成:佐藤隼秀 撮影:内藤サトル
プロフィール

速水健朗 (はやみず けんろう)
ライター、ポッドキャスター。1973年石川県生まれ。コンピューター誌編集者を経て、2001年よりフリーランスの編集者、ライターとして活動を始める。主な著書に『機械ぎらい 機械音痴のテクノロジー史』(集英社新書)、『1995年』(ちくま新書)、『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)、『ケータイ小説的。』(原書房)、『東京どこに住む?』(朝日新書)、『1973年に生まれて』(東京書籍)などがある。2022年よりポッドキャスト「これはニュースではない」を配信している。
福尾匠(ふくお たくみ)
1992年生まれ。哲学者、批評家。博士(学術)。『非美学――ジル・ドゥルーズの言葉と物』で紀伊國屋じんぶん大賞2025受賞。その他の著書に『ひとごと――クリティカル・エッセイズ』、『眼がスクリーンになるとき――ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』、共訳書にアンヌ・ソヴァニャルグ『ドゥルーズと芸術』がある。最新刊『置き配的』。
速水健朗×福尾匠







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西村章