『マハティール 百年の思想 イスラーム、日本、脱植民地主義への道』 マハティール・モハマド 久志本裕子 編・訳著

マハティールが照らす、日本外交の現在地

三牧聖子

「戦後最も厳しい安全保障環境」が語られるいま、日本外交は岐路に立っている。高市政権は防衛力強化と武器輸出拡大を進め、年末の安保戦略三文書改定で非核三原則を堅持するかも曖昧にしている。8月15日の全国戦没者追悼式では、昨年、石破首相が13年ぶりに用いた戦争への「反省」が再び消え、日本は「インド太平洋の輝く灯台」になれると述べた。
 しかし、アジアを照らす「灯台」を掲げながら、アジアの人々の目に日本がどう映ってきたかという視点が、私たちから失われてはいないか。NHKの戦後80年の世論調査では、先の戦争を「日本の侵略戦争」と考える人は35%にとどまり、「わからない」が48%に達した。
 だからこそ、いまマハティールの言葉に耳を傾けたい。彼が最初に出会った日本は、1941年、少年だった彼の暮らすマラヤに侵攻した日本軍だった。以来、日本軍に殺された若いイギリス兵を何度も思い出し、戦争への嫌悪感を募らせてきた。日本占領の終結を心から喜び、列強に自国と民族が翻弄された歴史を、不名誉と屈辱として振り返る。
 その彼は戦後日本を高く評価した。焼け跡から立ち上がり、勤勉や規律、技術によって繁栄した日本は、ルックイースト政策のモデルとなった。だが彼が日本に見出した価値は経済発展だけではない。侵略戦争を拒否する憲法を「非常に優れた憲法規定」と呼び、「世界中のすべての国の憲法に盛り込まれるべき」だと語る。被爆国の経験も、より公正な世界に生かせると期待する。
 戦後日本の平和の理想は、マレーシアやASEANの経験と交わる。マハティールは紛争を戦争ではなく交渉、仲裁、司法で解決すべきだと説く。マレーシアは領土問題を国際司法裁判所(ICJ)に委ねてきた。国際司法は、犠牲を生まずに紛争を解決する現実的な道である。この立場は、「法の支配」を掲げ、ICJや国際刑事裁判所(ICC)を重視してきた日本外交とも重なる。
「法の支配」は今、危機に瀕している。8月、米国は赤根智子・ICC所長を制裁対象に加えた。同盟国が国際司法を脅かすとき、日本は法による平和を守れるのか。アジアの「灯台」に必要なのは軍事的な強さよりも、強国にも法と平和を語る胆力だろう。日本占領を経験したマラヤに生まれ、戦後日本を見つめ続けてきた101歳の政治家は、日本が何によってアジアから信頼されてきたのか、その選択を手放して本当によいのかと問いかけている。

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プロフィール

三牧聖子

(みまき せいこ)
同志社大学大学院教授。1981年生まれ。専門は米国政治外交史。著書に『Z世代のアメリカ』(NHK出版新書)、『戦争違法化運動の時代 「危機の20年」のアメリカ国際関係思想』(名古屋大学出版会)、共著に『私たちが声を上げるとき』『自壊する欧米』『アメリカの未解決問題』(集英社新書)等、編著に『「アメリカの戦争」と世界危機 イラン侵攻は何をもたらすのか』(岩波新書)がある。

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