郷里の北海道で遭難
志水南洲の話に戻る。彼は1921年北海道・留萌沖の焼尻島で志水要次郎の七男として生まれる。南洲の名は西郷南洲(隆盛)にあやかったのかと思ったら、父親は長男要
以外の男子6人にそれぞれ東西南北の1字を付けて命名していたという。
後の韓国大統領朴正煕も満洲軍官学校から編入している陸軍士官学校五十七期を南洲は卒業し、1944年7月に前述した機動輸送隊補充隊付として櫛浜に配属された。敗戦時は陸軍中尉。無事復員して帰郷したが、47年、上京するために焼尻島から北海道本土に渡ろうとした小船が遭難して急逝する。27歳の若さだった。自身が神経内科医師であり新陰流剣術の武道家でもある祥介は、南洲が家族から医師になるよう望まれた人だったと知って以来、強い関心を抱いたという。
その短い生涯を追う僕と祥介の共同作業が始まった。何度も電子メールをやり取りしながらお互いが文献を調べ、仮説を出し合うところから始めた。櫛浜はかつての徳山市であり、記者としての最初の赴任先は徳山支局だった。周南コンビナートの炎のごとく、僕もやみくもに青春の炎を燃やした懐かしい街だけに土地勘はある。7月には上京して九段下の千代田図書館で初めて彼に会って取材し、8月15日を期して「暁部隊所属の大叔父 戦時下の消息追う」という中国新聞の記事に仕立てた。
11月には彼が広島を訪れる。お昼は新天地のお好み焼き店「元祖へんくつや」で腹ごしらえをして「ユニクロ発祥の地」辺りを案内した後、旧帝国銀行広島支店(現在は広島アンデルセン)や日赤などの被爆遺構を見てもらい、路面電車で宇品海岸の旧陸軍桟橋や船舶司令部「凱旋館」跡の碑を巡った。ここには「空も港も夜は晴れて」で始まる唱歌「港」の碑もある。残念ながら広島には暁部隊の資料館・記念館はなく、遺構もひっそりたたずむだけだが、祥介は静かに南洲の遺影を広島湾に向けて掲げた。
夜は京橋川河岸のイタリア料理店「トラットリア・リオコルノ」で歓迎の小宴を開き、顔なじみのママに彼を紹介すると「ファミリーヒストリーですね」と的確な受け答えがあった。広島だからといってことさら「反核」「反戦」を言挙げしなくてもいい。人が生きる「よりどころ」を探し求める旅。それで構わないと思う。
一夜明けて2日目はマイカーで主たる目的地である機動隊輸送補充隊の跡地櫛浜を訪ねたが、ここは遺構どころか、碑も案内板もないボートレース徳山。戦後の自治体財政を潤してきた公営ギャンブルだが、これも「平和」の証しなのか。笠戸湾に静かに南洲の遺影を向けた祥介の胸中は分からない。
徳山港からフェリーに乗って大津島の人間魚雷回天の訓練基地跡まで足を延ばした。周防灘もこの辺りまで来ると、前方に島影も見えず、その先は豊後水道である。沖縄に向かう戦艦大和が最後の航跡を描いた海域でもある。南洲はこの海で何を見たのだろう。

陸士五十七期の明と暗
残念ながら南洲の軍歴の記述はそっけない。加えて日記なども残されていないため、手掛かりは乏しい。まずは陸士五十七期の線から当たってみたところ、祥介が国会図書館にある『終戦時帝国陸軍全現役将校職務名鑑』の機動輸送隊補充隊の名簿に隊付中尉だった南洲の名前を見つけ、さらに『散る櫻 陸士第五十七期戦没者記録』にある同じ機動輸送隊補充隊の隊付中尉江頭政直の逸話に南洲と思える名前を見つけた。
それは1944年10月の「海上挺進戦隊の発動」に際して江頭や「清水」らは残留することになった――というくだりであり、先の名簿に「清水」姓は見当たらないため「志水」の誤記ではないかという。海上挺進戦隊はマルレの実戦部隊。この時期の「発動」であれば、編制された戦隊長、中隊長、船舶特幹一期生らの多くがフィリピンで戦死している。同月に宇品からフィリピン方面へ出撃した海上挺進戦隊は十二戦隊から十六戦隊までで、基地大隊を含めて壊滅した。
先の『散る櫻』によると、江頭は原爆投下後の広島へ救援に入り、敗戦後、櫛浜で不発弾の事故により死亡、戦死とされている。陸士で同期の南洲と江頭はともにマルレで出撃することなく残留した。ならば南洲も江頭のように広島へ救援に入った可能性がある。そして江頭も南洲も戦争は終わったというのに不慮の死を遂げた。被爆者健康手帳の交付制度は旧原爆医療法に基づいて1957年に創設されているため、2人には被爆の証しとなる記録がない。
だが南洲の軍歴にわずかながら手掛かりもある。陸士卒業後の見習士官名簿に「船練分遣」「一九 七進級」と小さく記されていたのを祥介が見つけた。これは「船舶練習部分遣」の略で1944年7月に南洲が少尉に昇進していたことを意味する。
1944年7月といえば陸軍船舶司令部がマルレの要員の検討を始めた頃だ。船舶練習部第十教育隊の軍医だった内田正男の『鎮魂 幸の浦から広島へ』(たいまつ社、1976年)には「基礎教育をやっているときではない。もと船長の軍属の講義は、もう不要だ」という意見が将校の間にも出てきた、とある。航海術を学んでも切迫した戦況には間に合わないぞという空気。7月には教育や研究の要員は船
舶練習部を去り、内田も宇品から幸ノ浦に異動している。大きな編制替えがあったようだ。
船舶特幹一期生だった弁護士の儀同保・著『陸軍水上特攻隊ルソン戦記 知られざる千百四十名の最期』(光人社NF文庫、2003年)によると、マルレの戦隊長は陸士出身の大尉と少佐から選ばれ、兵科の違いも特攻志望の有無も問われることなく指名され「任務の中身は聞くな。ただちに小豆島へ行け」と命じられたという。
戦隊長の次の指揮官に当たる中隊長にはまず、陸士五十七期のうち船舶練習部で訓練を受けて少尉に任官し、同時に小豆島の船舶特幹に配属されていた60人のうち50人が充てられた。この60人という数字はほかでも出てくる。陸士五十七期で海上挺進第三戦隊第三中隊長だった皆本義博も、戦車兵と工兵から「60名」が新設兵種の船舶兵に任じられた、戦車兵については戦車の製造が間に合わなかったからであり工兵については船舶兵の本家に当たるからである――とインタビューに答えている(特攻隊戦没者慰霊顕彰会「特攻」2011年8月号)。また『㋹の戦史(改訂・増補版)』編集主幹だった中溝二郎の「特攻」掲載の手記には五十七期の船舶兵は「六十五人」とある。
軍歴に「船練分遣」とある南洲はこの60人あるいは65人の1人だったが、マルレの中隊長には起用されなかったと推測できる。それはなぜか。「一九 七進級」とは戦死による二階級特進を前提にしていたかもしれないが、今となっては知るすべもない。陸士出身者を全て特攻要員とすることに歯止めをかける動きも少しはあったのだろうか。生死は紙一重だったことだけは確かだ。

プロフィール

(さたお しんさく)
1957年、島根県出雲市生まれ。ジャーナリスト。大阪市立大学文学部卒業。
広島を拠点に取材活動45年。現在は中国新聞客員編集委員、日本ペンクラブ会員、宮本常一記念館運営協議会委員。
著書に『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』(集英社新書)
『宮本常一という世界』『風の人宮本常一』、共著に『われ、決起せず 聞書・カウラ捕虜暴動とハンセン病を生き抜いて』(いずれも、みずのわ出版)など。
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