さまざまな場所で、管理や効率性が求められる昨今。この流れは、老若男女が集まり遊ぶ「公園」にも及んでいる。そうした状況をフィールドワークと「利他」という概念で論じたのが社会学者・批評家の北村匡平氏による著作『遊びと利他』(集英社新書、2024年11月刊行)である。時を同じくして、現代のSNSや共同体の問題を「庭」という思想と作品批評によって考えた著作が刊行された。批評家の宇野常寛氏の『庭の話』(講談社、2024年12月刊行)だ。
この2つの書籍の共通点は、デジタルプラットフォームが浸透した現代の問題を、人々が生きる現実の空間から考えている点にある。
本対談では、『遊びと利他』と『庭の話』を題材に、SNSや利他、そして現代日本の「場所」の在り方を考える。
プラットフォームの問題を「空間」を考える
宇野 北村さんの『遊びと利他』を読んで最初に感じたのは、『庭の話』との問題意識の近さです。この本には明示されていませんが、SNSをはじめとする情報プラットフォームの設計が「利他」の設計に失敗してきた、という問題意識が北村さんの中にありますよね。
インターネットプラットフォームの設計者たちは、人間が「いいね」をはじめとする承認欲求の奴隷になるだろうという、「刺激-反応モデル」に従ってプラットフォームを作っている。その結果、多くの人がもっとも簡単に快楽を得るために、SNSプラットフォームに支援されて、共同体に接続しています。具体的に言えば、敵を殴って味方から承認されようとしている。そんなものは共同体ではない、という人もいるかもしれないけれど、僕に言わせればSNS上では常に高速で共同体が立ち上がって瞬時に分解されている。だからネット論壇の「党派」からカルト宗教まで、共同体を持続しようとすると、常に「敵」を設定する必要があるし、その攻撃対象を定期的に変化させていくことが必要になる。SNSプラットフォームはむしろ共同体と親和的だというのが僕の立場です。その代表例が政治利用です。いま、社会的な実績のない人が「コスパよく」承認欲求を満たそうとすると、残念ながら政治的な投稿をすることがもっとも合理的です。ある陣営に勝たんし、敵対する陣営を叩くと「界隈」からインスタントに承認される。この快楽の中毒になってる人たちが、いわば現代的なポピュリズムの温床になっています。そこに利他的な姿はありません。
そんな中で北村さんは、環境工学的に人間を見つつ、その根底にある人間観を少し変えれば、利他の空間は作り得る、という強い確信のもとでこの本を書いていますよね。
そこで登場しているのが公園です。公園空間の試行錯誤の中に考えるべきものがたくさんあり、それを分析・抽象化することによって、利他が設計できることを丁寧に書いている。
本当は、『庭の話』を書く前にこの本を読みたかった。きっとたくさん引用していたと思います(笑)
北村 ありがとうございます。宇野さんが2020年に刊行された『遅いインターネット』(幻冬舎)では「遅さ」という「時間」が論じられていたのに対し、今回刊行された『庭の話』は「空間」が論じられていて、僕が『遊びと利他』で試みたアプローチと近い印象を受けました。この「空間」への着目は、どのようなきっかけがあったのですか。
宇野 『遅いインターネット』は、いま述べたようなSNSプラットフォームによるインスタントな承認の快楽の奴隷になる人々が多発する現実に対して、戦略的にプラットフォームからメディアに撤退することで情報への距離感や進入角度をはかり直すことを呼びかけました。
でも、その後もインターネットはどんどん速くなっていった。
そのとき、僕が考えたのは『遅いインーネット』は間違えていないけれど、やっぱりメディアの問題を、メディアの内部だけで解決する戦略じゃあ、足りないんだなということなんです。実空間も含めた総合的なアプローチが必要だと考え直した。僕は、ここしばらく都市開発や地方創生に関係する仕事が多かった。有楽町の再開発に関わったり、安宅和人さんの「風の谷を創る」プロジェクトに参加してきた。それらで得た知恵を使い、情報プラットフォームの外側から、こうしたプラットフォーム資本主義の問題を考えたのが『庭の話』です。だから、ここではケアとか民藝とか公衆浴場やごみ捨て場などの、小さくて身近な物事や空間を論じていて、その知恵の総合してプラットフォーム資本主義を内破していく方法を考えています。あくまで「内破」ですね。たとえばオリエンタリズム丸出しで、昔ながらの暮らしを維持する集落に出かけていって「ここに人類が忘れかけた暮らしがあり、これが未来へのヒントにもなる」みたいなことを港区的な暮らしを手放さずにドヤ顔で語る……みたいなのって、使い古されたブランディング以上のものに思えないんですよ。ロマンチックな外部を語ってあまりものを考えていない人を騙すんじゃなくて、しっかりと現場で試行錯誤している人と並走しながら試行錯誤することで、「内部」から変えていきたい。そんな思いがあります。
北村 なるほど。小さなことから大きな問題に接続することは、僕も書きたかったことなので、とても共感できます。
「利他」への疑問から「空間」に着目した
宇野 一方で僕は「利他」という言葉はあえて使わなかった。そもそも、僕は贈与的なコミュニケーションに懐疑的というか、慎重な立場です。たとえば2016年のアメリカ大統領選の民主党内でのヒラリー対オバマの構図で、ヒラリー側が要するに「自分たちのようなパワーエリートが経済成長を進めて、それを再分配するから、私たちの言うことに従え」というメタメッセージを結果的に発してしまったことに違和感を持ったんです。要するに強者のブランディングとしての「施し」の側面を感じさせる言説になっていた。
しかし、それがどれだけ、施される側の人々のプライドを傷つけたか。その言い方は、やはり与えられる側の尊厳を損なうことで、与えられる側の彼らを世界から遠ざけるものだと思う。「利他」という言葉はかなり慎重に、精密に使わないとこの罠にハマる危険性があると感じたので、安易には使えないなと思ったわけです。
北村 分かります。これまでの「利他」の議論は、どうやって与えるかという議論ばかりがされてきたので、受け取り手のことはあまり考えられていなかった。だから、僕も一般に言われている意味での利他に対してすごく懐疑的なんです。本にも書いたのですが、僕が「利他」に注目したのは大学の研究プロジェクトに入ることになったからで、ほとんど偶然なんです。どちらかといえば僕は利他主義の人間とは言い切れない、利己的な人間だという認識が強かった。
であれば、この「利他」という言葉の持つ不自由さを認識した上で、それを社会に組み込むことが必要だと思いました。それで、人ではなく、空間や環境に注目しました。偶然性に開かれていて、お互いに利己的にならないように、多様な人と出会うことができる空間を設計できれば、自ずと他者について想いを馳せる「利他」が生まれるんじゃないか。
宇野 僕も、その意味で「利他」を考えているというより、人間が世界とどう関わることができるのかを空間から考えている、といえます。
テーマパーク化する公園
北村 一方で、日本の公園を見ていると、この「利他的」な設計がどんどん無くなり、効率化が進んでいる気がします。公園での禁止事項がどんどん増えているんですよ。特に2000年代からその傾向は顕著になってきました。例えば、僕が一番嫌なのは、遊具に年齢別にシールが貼ってある公園ですね。年齢で遊ぶ人が区切られてしまって、多様性とは程遠い。
宇野 嫌な状況ですね。
北村 それに、最近は遊ぶ回数も指定されていたりします。ある公園では、人数制限と体重制限まで書いてあったりする。このブランコは3人まで160キロ以内ですと書かれていたりしました。海外の公園と比べると、これが異常だとわかります。デンマークやドイツにはそんなものは一切ない。親も一緒に遊具で遊んでいるぐらいです。
日本において、このままこうした遊びの空間を放置していていいのだろうか、という危機感をすごく抱いてますね。
宇野 僕が都市開発関係の仕事をしている中で感じたのは、良くない公園はそこをテーマパークにしてしまっている、ということなんです。たとえば、無自覚に階級的に閉じてしまった公園は少なくない。ジェントリフィケーションの帰結として、一番安い店がスターバックス、という世界になってしまう。道路一本挟めば昔ながらの個人商店や、もっと低価格のチェーン店があって……となればいいのだけれど、きれいに整理されてしまって一体がテーマパークみたいになってしまうと、一見緑が多くてシンプルおしゃれの和モダンな建物が建っていても、息が詰まるように感じてしまう。何が問題かといえば、今、僕らが公園を、目的を持った「閉じられた場所」にしようとしていることが問題だと思うんです。本来、公園は無目的でいてもいい場所のはず。僕の言葉でいえば「庭」的な場所であるべきなのに、そうでないのが今の「イケている公園」だと思うんです。
北村 階層や階級の話は、今指摘されて、はっとしました。僕は二子玉川に住んでいるのですが、確かに二子玉川の公園は、みんなモンクレールを着て、マダムがいる(笑)。そういう場所になっています。
同じような傾向は遊具にも見られますよね。本書でも触れたタコ遊具は、適度に死角ができるようになっていて、アジトのような空間が生まれます。さらに、遊んでいると誰に出会うか分からない「偶然性」に開かれています。けれど、今の複合遊具ではほとんど死角がない。
庭園の比喩でいえば、ルイ14世が権力を誇示するために造らせたヴェルサイユの庭園、いわゆるフランス式庭園がありますが、この特徴は、すごく人工的に形づくられた造形物が立ち並ぶトピアリーで構成され、規則性・装飾性が高く、シンメトリーになっている庭です。噴水も下から吹き上げて、重力に逆らう人間の力が表象され、自然に対して人間が超越することが表されています。
それに対抗するようにイギリス式庭園が出てきて——ストウヘッド庭園などが有名ですが、自然のかたちを生かす庭の在り方を作っていく。これは曲線や蛇行を主とした庭園で死角が多く、庭を歩いていると誰と出くわすかわからない。地面に掘り込まれた空壕・ハハ(ha-ha)などの技術は、外部の自然の風景と連続させるものです。
この対照的な庭のあり方は、公園の遊具の空間の使い方を考えるヒントをたくさん与えてくれます。タコ遊具は、非常にイギリス式庭園的です。死角があったり、蛇行した道があったりして、誰がどこにいるかわからないから、偶然知らない人と出会ってしまったり、ぶつかりそうになる面白さがある。そこで遊びが生まれる可能性があるんです。
けれど、今の公園はまさにテーマパークのようになっていて、それぞれの遊具が何をすべきか丁寧に解説があって、子どももその指示通りに遊ぶような空間になっています。いわば、遊び方を押しつけている。
監視と管理が広がる社会空間
宇野 僕は2023年に『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)という中高生向けの本を書きました。そこでカブトブトムシを取りに行く話を書いたのですが、カブトムシは人間界のルールと関係なく生きているので、人間の基準で探してもなかなか見つからない。生活する時間帯も違うし、場所も違う。ちょっと人間の基準からすると「なぜ、そこ?」と思うようなところにいたりするわけです。けれど、自然と関わるのは、そういったコントロールできないものと関わることなんですよね。
僕は、公園のような場所は、コントロールできないがゆえに、それが逆に快楽になることを覚える機能が大事だと思う。特に、それは子どもにとっては大事なんじゃないか。そうした回路を今の公園がどこまで提供できているのか、疑問です。
北村 僕もそう思いました。特に日本の公園を観察してると、とにかく人に迷惑をかけたくないという意識が親側にあって、他人とのかかわりを制御しようとしている。かつての公園は、そもそも親がそんなにいなかったと思うんです。子どもは勝手に遊び回っていたし、けがもいっぱいしていた。けれども、今は公園において「管理」することが普通になってきています。
こうした「管理」は社会の色々なところに広がっています。デヴィット・ライアンの議論をはじめとして2000年代は監視社会論が盛り上がったじゃないですか。
宇野 そうですね。
北村 まだ2000年代には監視カメラに対して反対する人が多かったのですが、それが明らかに2010年代に入って変わってきた。僕は、たまたま2010年代後半にマンションの理事になって、マンションの住人全員に監視カメラについてのアンケートを取ったんです。そしたら、未回答の一人を除いて、あとは全員が賛成だったんです。社会がすごく変わった。監視されるほうが安心だ、という意識が強くなりました。
子ども自体も管理されたがってますよね。僕は大学で教鞭をとっていますが、大学生を見ていると、やることを全て指示してほしい、何をやるのか誘導してほしいという意識がすごく強い。
宇野 僕自身今の大学生と話していて思うのは、とにかくSNSを見過ぎなんじゃないか、ということです。多分、監視カメラみたいな無機的な存在に監視されるよりも、ソーシャルメディアでの相互監視のほうが人々を縛ってるし、そこに息苦しさも感じながら依存もしてる状態が、相対的に物理的な監視カメラのことを気にさせなくしているんだと思います。
北村 その意見は面白いですね。
僕はこの本の中で、いくつかの幼稚園や公園を利他的な空間として紹介しているのですが、それらの公園では、大人が子どもを管理しすぎていない。全部コントロールするでもなく、逆に全部放棄するでもなく、中途半端な管理をしているんですよね。それが、すごく大事だと思っています。本当に危ない遊びをしている場合は止めますが、例えばけんかをしても、しばらくは見ている。
でも、普通の公園に行くと、親と子どもの物理的な距離はあったとしても、心はぴったりくっついている。何かトラブルになりそうだったらすぐに止めるし、親が子どもに近すぎる。「見守る」ことができないんですよね。親と子どもがある程度離れるような、親が関与しない空間の構築がすごく大事だと思います。
宇野 見守るスタンスが取れないのは、「自分の子ども」に対する過剰な思い入れがあるからだと思います。子どもは「親のもの」ではなく、「社会全体のもの」だと全員で共有する必要がある。新幹線の中で赤ちゃんが泣いて、うるさいと怒鳴るおじさんがいるのは下の世代を社会全体の財産だと認識することができないからですよね。「自分の子ども」という発想が強すぎるからそうなっている。
それを打破するには、まず自分の子どもを自分の人生の意味からもっと切り離すべきだと思います。別に親の人生を充実させるために子どもは生まれたわけじゃないわけです。
「子ども」や「幸福」を日本社会は考えてきたのか
北村 僕の本では、特に日本でそうした「子どもが遊ぶ場所としての公園」をみんなで担う意識が低いんじゃないかと書いています。
海外の公園に行くと、遊ぶ場の空間や遊具の在り方がぜんぜん違うんです。例えば、ドイツはシュタイナー教育の影響もあって、自然と人間が共生することの意識を公園から感じました。ドイツの公園は、本当に木が多いんです。それに、遊具も木でできた遊具が多い。日本だと維持管理の問題から、メンテナンスが大変な木ではなくて、プラスチックにガラスの繊維を混ぜ、弾性と強度を加えたFRP遊具がとても多いです。
それと、ドイツでは大きな砂場があって大量の水で泥遊びをしていたりする。日本の公園だと泥遊びを嫌がる親が多いですよね。小さい頃から毎日のように木と触れ合ったり、泥で遊んでいたら、世界とのかかわり方がすごく変わるんじゃないかなと思うんです。
宇野 子どもに対してどうコストをかけるのか、という社会的なコンセンサスの問題ですよね。人を育てることは社会そのものなんだから、無条件で最優先だという同意がまずあって、だから、子どもが泥遊びをしたいんだったら、それを重視すべきだという前提に立つことができる。
でも、日本は子どもを育てることが、コスト計算されてしまってるんです。その結果、壊れにくい遊具と汚れにくい砂場を置く選択になってしまう。子どもに対してコスト計算をすることは、明確に良くないと思っています。
北村 『遊びと利他』でも触れた羽根木プレーパークの世話人代表と初代プレーリーダーのトークイベントに行ったことがあるのですが、その時のお話しが印象的でした。羽根木プレーパークでは、夏場は滑り台にブルーシートをかけて、大きなウォータースライダーを作るんです。遊んでいる間、水をずっと出してるんですが、節水せずに使っていることが環境に良くないと思われるんじゃないかというジレンマがあるとおっしゃっていた。
でも、僕が訪れたドイツの公園では、ずっと水を出しっ放しにして遊んでいるんですよね。これは社会が子どもの遊びや成長において水遊びが重要だというコンセンサスが取れてるからだと思います。教育や子どもにかけるリソースに対する意識が全然違うと思いましたね。
宇野 もっと言うと、日本は幸福を最優先にしていないんだと思います。これは戦後社会の問題だと思っていて、もう戦後80年になるのに、高度成長からバブル、そして失われた30年という、対外的なプライドの話ばかりを、みんな考えてるんです。
でもそれは、自分たちが外向きにどう見られるかという自意識の問題で、国家や社会の目標は国民の不幸を減らすことだと思う。でも、自意識の話ばかりを日本は考えてしまっていて、幸福という社会の目標を忘れてしまっている。その問題が、公園の問題にわかりやすく露呈してるんだと思います。
(後編に続く)
構成:谷頭和希 撮影:内藤サトル
プロフィール
北村匡平 (きたむら きょうへい) 映画研究者/批評家。東京科学大学リベラルアーツ研究教育院准教授。1982年山口県生まれ。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了、同大学博士課程単位取得満期退学。日本学術振興会特別研究員(DC1)を経て、現職。専門は映像文化論、メディア論、表象文化論、社会学。単著に『遊びと利他』(集英社新書)、『椎名林檎論――乱調の音楽』(文藝春秋)、『24フレームの映画学――映像表現を解体する』(晃洋書房)、『美と破壊の女優 京マチ子』(筑摩選書)など多数。
宇野常寛(うの・つねひろ) 批評家。1978年生まれ。批評誌〈PLANETS〉編集長。 著書に『リトル・ピープルの時代』『遅いインターネット』(ともに幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)、『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)、『庭の話』(講談社)など。 立教大学社会学部兼任講師も務める。