「演劇鑑賞よりも勉強だ」と言われた時に何と答えるか?
青年劇場 おふたりのお話にもありましたように、今、教育現場は学科教育中心の傾向がどんどん強まってきており、私たちが長年行ってきていた高校等の現場での芸術鑑賞事業は減少してきています。スマホをはじめとしたデジタル機器中心の生活が多くなった今の子どもたちですが、公演で生の舞台に触れた生徒たちの集中力・創造力は素晴らしいです。そんな心揺さぶられる体験をしている生徒たちを見て驚く先生たちは本当に多いです。
ただ、鈴木さんや前川さんがおっしゃったことは、私たちの考え方の中にも相当侵食してきていて、たとえば、教育相談を受けた際に、「あっちの学校の方がいいよね」「あの塾の方が絶対成果があるよ」と言ってしまう人は少なくないだろうし、そんな人に「そんなことより演劇を見ろ」なんて言ったら怒られる。芝居なんかやると生活が厳しくなるし、将来の生活設計も立たない。そういう理由で演劇文化に接触させることを避ける傾向もあるような気がします。そんな人たちを説得するのはどうすればいいと思いますか?
鈴木 難しいですね。どうやって「演劇なんかやめろ、見るな。意味がない」という親を説得するのか……。僕には自分が師と思っている先生が3人いて、そのひとりが芸術をテーマに哲学したマキシン・グリーンという教育哲学者です。彼女の中では「想像すること」と「自由になること」が結びついている。想像することをやめてしまったら、新しい世界はあり得ないし、自分を抑圧するものに出くわして、それを自分自身の障害と名指しできてはじめて自由が見えてくる。そういう抑圧や壁を自分で認識できなければ、自由というものも無いと言っていました。その恩師は2014年に亡くなったんですが、青年劇場さん主催のシンポジウムに僕が呼ばれたのを知ったら、きっと喜んでくれると思います。
いまは人に余裕が無くなってきていて、想像するゆとりさえも無い。全部が費用対効果、タイパ・コスパになって、だからいまは本も読まれなくなっている。タイパがいいからと、ネット記事などちょっと切り取っただけの文章で理解した気持ちになってしまう。でも、自分で文章を書いたり、人の書いたものを読んだり、劇をやったり、音楽を聴いたり歌ったり、というのは、まさに人間が人間たるゆえんだと思うんですよ。なので、ゆとりや隙間の無いいまの社会だからこそ、人間性の復活が求められているんじゃないかと思うし、だからこそ、私たちは書き続けなくちゃいけないし、読み続けなくちゃいけないし、歌い続けなくちゃいけないし、演技し続けなくちゃいけない、と感じました。
前川 非常に抑圧的な環境が押し寄せてきて、先生たちはコスパ・タイパというもので評価されたり、子どもたちのテストの点数や、どれだけ有名大学に進学者を出したかといったことで評価されてしまう。でも、良い大学に行ったからといっても、その人が幸せになる保証にはまったくなりませんよね。
有名大学にたくさん合格させたなんてことが学校の評価になるのがおかしい。むしろ高校や中学の3年間でどれだけ充実した1日1日を過ごしたか。その中で自分の力でいろんなことを学んだり感じたり、心の豊かさや本当の賢さを身に着ける機会がどれだけあったか。そっちのほうがずっと大事だと思うんです。
要するに、人間にとって何が一番大事なの? ということなんですよね。月並みな言葉ですけれども、テストで点数を取ることじゃなくて、やっぱり豊かな人間性を培うことのほうがはるかに大切。そのためには、たとえば演劇はものすごく大事な文化だと思います。そういうものに触れる機会を18歳までの教育の中で、少なくとも1~2回くらいはあっても当然だと思うんですよ。そこからいろんな世界が広がってゆき、自分の人生や社会のあり方もそこから考えることができる。それがわからない教師が増えているのは、私はものすごく残念だと思います。

鈴木 「サービス提供者」と「カスタマー」という話を先ほどしましたが、そのカスタマーである保護者や生徒と、先生は敵対するばかりでもないと思うんです。昨日も千葉で講演をしていたんですが、不登校の子を抱える保護者の方も何人かいらしていて、その時「いま学校に来たくないのは子どもたちだけじゃありませんよ」と言ったんです。その場に来ていた教員の方々に「学校に行きたくない人?」と訊ねたら、みんな手を挙げました。つまり「いまの学校って窮屈じゃない? おかしくない?」と思っている教員はいっぱいいるし、保護者もいっぱいいる。もし、サービス提供者とお客様という新自由主義的な関係を強いられる人たちがそれを逆手に取って手を繋いだら、行政にとってそんなに怖いものはないんですよね。そこはひとつの希望ではないかなと思います。
前川 学校は「サービスの提供と受領」だけの場じゃないわけです。本来、そこは子どもと教師がつくるひとつの社会です。それが、子どもたちを上から統制するような社会なのか、子どもたちが主役になって作り上げていく社会なのか、ということが大事です。子どもたちが暮らしている学校そのものが民主的な社会でなければいけないわけです。そのためには、子どもたちが自分たちで自分たちの学びを考えることが大事だと思うんです。その子どもたちが自分たちで考える学びの周りに保護者や教師がいて、さらにその周りには地域の人たちがいる。そういう大人たちの中で子どもたちが自ら学ぶ環境をどうやって作るか。それが大事だと思います。
だから、お芝居に関しても、まず子どもたちの気持ちや意見が最優先されるべきだと思うんですよね。脱ゆとり教育が叫ばれる近年では、上から子どもたちを教える、訓練する、指導するという抑圧的で政治的な力が強まっているから、それをはねのけるのはなかなか難しい。けれども、学校のあり方そのものを見直して、子どもたちを中心にして大人たちがそれを支える学びの場なんだ、というところにもう一回立ち戻る必要があるんじゃないかなと思います。子どもたちの本当の幸せのために何が大事なのか、ということを教師が考えるところに戻る。お芝居の中には深い学びが潜んでいます。子どもたちにいいお芝居を見せてあげるためには、まずは教師たちにいいお芝居を見せてあげることが大事だろうと思います。
鈴木 子どもたちの幸せから始めるといういまの前川さんの話で、何が邪魔になるかと言うと、功利主義的な考えなんですよね。「何の役に立つの?」っていう。そこで思い出すのがアメリカを代表する教育哲学者ジョン・デューイの「教育とは人生の準備ではなく、人生そのもの」という言葉なんです。何の役に立つかということではなく、学ぶことそのものに価値があるんじゃないのか、ということです。
「演劇は何の役に立つの?」「読書が何の役に立つの?」という功利主義的なマインドから脱却する必要があると思います。「本を読んで、演劇を見て心が豊かになって、それで充分じゃないか」って。
そういうような隙間を繋いで、新たな社会を想像し得る空間を広げていくことが大事なんじゃないのかな、と思いました。
構成/西村章 撮影/新書編集部
※「稼げない、役に立たない人間は淘汰されても仕方がないのか?」
『崩壊する日本の公教育』の問題意識にも通じるテーマを扱った
青年劇場創立60周年記念公園「ホモ・ルーデンス─The Players─」は
3月27日まで青年劇場スタジオ結で上演中。詳しくは青年劇場チケットサービスまで。

プロフィール

鈴木大裕(すずき・だいゆう)
1973年、神奈川県生まれ。教育研究者。16歳で渡米し、1997年コルゲート大学教育学部卒業、1999年スタンフォ―ド大学教育大学院修了。帰国後、千葉市の公立中学校で英語教師として勤務。2008年に再渡米し、コロンビア大学教育大学院博士課程で学ぶ。2016年、高知県土佐町へ移住、2019年に町議会議員となり、教育を通した町おこしを目指しつつ、執筆や講演活動を行なっている。著書に『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』(岩波書店)など。
前川喜平(まえかわ・きへい)
1955年、奈良県生まれ。1979年に東京大学法学部を卒業後、文部省に入省。2016年文部科学事務次官、17年に退官。現代教育行政研究会代表、日本大学文理学部非常勤講師、福島市と厚木市で自主夜間中学のボランティア講師も務める。『面従腹背』『権力は腐敗する』(毎日新聞社)『前川喜平「官」を語る』(山田厚史氏との共著、宝島社)『日本の教育、どうしてこうなった』(児美川孝一郎氏との共著、大月書店)『政治と宗教 この国を動かしているものは何か』(島田裕巳氏との共著、徳間書店)など。