新自由主義と国家主義は親和性が高い
青年劇場 いまのお話を受けて、「これで良いのか、教育行政」ということで、次は教育行政に長らく携わっていらっしゃった前川喜平さんです。よろしくお願いいたします。
前川 私は大裕さんと違って、現場の経験は無いわけです。教育現場は外から見ているだけでした。文部科学省の人間は教育のプロだと思っている人も多いかもしれませんが、本当はそうではないのです。私自身は文部科学省で「自分は教育のプロではない」と思って仕事をしてきました。文部科学省は教育行政をするところであって、教育をするところではないのです。だから私は文部科学省で「自分は教育行政のプロでなければならない」と思って仕事をしていました。ただし、教育行政の仕事をするためには、教育を誰よりも深く理解していることが必要です。教育を理解せずに教育行政はできないのです。
しかし、文部科学省で学校教育を担当する役人の中で、私のように思っている人間は実は少数で、「文部科学省こそが教育の大本山だ。文部科学省が日本の教育をやっている、現場の学校は文部科学省の言った通りにやれば良い」と思っている人たちのほうが多数です。彼らが日本の教育を動かそうとするツールは、まず学習指導要領です。加えて、教科書検定や教員研修。そういった手段を通じて、文部科学省が考える通りの教育を全国の学校でやらせようと考える。つまり、教育と教育行政を分けて考えるのではなく、教育行政こそが教育の原点だ、と考える人たちが文部科学省の中にはたくさんいるんです。
これは明治以来のDNAだといっていいでしょう。明治中期の1885年に内閣制度ができて、森有礼が初代文部大臣になったころから、日本の教育は国家のためにある、学校は国家に役立つ人間を育てることが目的だという国家主義の教育行政が確立されていきます。1890年には教育勅語が発布されます。ちょうどその頃1891年に、文部省の最初の頭文字「文」の字が学校を表す地図記号になった。つまり学校は文部省の出先機関だということです。それ以来、いまだにこの「文」が学校を表す地図記号になっています。
私は教育行政と教育は別だと考えなくてはいけない、と思っています。1947年にできた最初の教育基本法がそういう書き分けになっていたんです。この教育基本法の第10条は1項と2項に書き分けられていて、第1項は「教育は」という主語から始まり、第2項は「教育行政は」という主語から始まる。そしてその第1項では、「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」と書いてあり、第2講では、教育行政はこの自覚のもとに条件整備に努めなさい、と書いてあった。

私自身は、1947年の教育基本法の第10条第2項に忠実に仕事をしていたつもりなんですよ。教育と教育行政は違うものだ、教育についてしっかりと理解したうえで、その教育が不当な支配に服してはいけないんだ、と。「国民全体に対し直接に責任を負」うとは、間接民主制の権力のもとに置いてはいけない、ということなんです。どんな政治家が選挙で選ばれても、その政治家が教育の中身を決めちゃいけない。東京都で小池百合子が決めちゃいけない、国で文部科学大臣が決めちゃいけない、ということなんですよね。
にもかかわらず、文部科学省にしても各地方公共団体にしても、政治の力が教育に及んできている実態があって、その政治の圧力によって大裕さんが訴えてこられた新自由主義がいま、学校にどんどん押し寄せてきています。
その新自由主義と非常に親和性が高いのが、国家主義なんです。新自由主義と国家主義は一見すると相反する考え方のように見えるんですけれども、実は非常に仲が良い。新自由主義は国家が決めたルールですべてにおいて競争させるという考え方なので、教育に対する国の介入と新自由主義は、むしろ表裏一体になって進んでいると言ってもいいんです。そのために、学校は子どもたちにとっても教職員にとっても、居心地の悪い抑圧的な空間にどんどんなってきたということが言えると思います。
私は1979年に文部省に入って2017年に辞めたんですけれども、おおむねその前半の20年間はゆとり教育の時代、後半の20年間は、脱ゆとり教育の時代です。「ゆとり教育」という言葉は、当時の文部科学省の路線を批判する人たちが使った言葉なので、どちらかというと悪口なんですが、この言葉はわかりやすいので、それを使わせてもらいます。
私はゆとり教育派なんですよ。ゆとり教育とは、子どもたちのかけがえのない1日1日を大事にしよう、という考えかたです。その中で、子どもたち自身が自ら学び考える力をつけていく。この自ら学び考える力を獲得した子どもたちは、学校の外でも自ら学んでいくし、卒業した後も自ら考えていきます。そういう人たちこそ、本当に良い社会を作っていく人たちだし、本当に良い人生が送れる人だと思います。
1980年代や90年代は、文部科学省も真っ当な方向を向いていたと思うんですよ。生徒にも教師にもゆとりが必要だということで、授業時数もずいぶん減らしました。教え込む内容は、基本的なところに留めておこうと、精選し、厳選しました。小学6年生を例にとると、ゆとり教育の時代は、年間授業時数を945時間まで減らしたんです。
しかしその後、ゆとり教育に対するバッシングが起きた。「ゆとり教育で日本の子どもたちの学力が低下する!」と言われ、政治家たちもそれに乗っかったせいで、授業時数もドーンと増えた。いまは小学校6年生でも年間1015時間、授業をしなければならない。コロナ禍の2020年度が、まさに1015時間に増えた年だったんですよ。そして時の政権の誤った政策によって何か月も一斉休校が行われた。しょうがないから、休校があけた後に8時間授業をやるようなことまで起きたわけです。文部科学省が定めている標準授業時数が金科玉条になってしまっている。最近も川崎市で、1015時間に5時間とか10時間とか足りなかったということが問題化して、春休みに授業をする学校があったんですけれども、子どもたちにしてみればいい迷惑ですよね。
要するに、標準授業時数を満たしていないと文部科学省に怒られる、文部科学省が決めたとおりに教育をしなければならないということが行動原理になって、政治と行政の圧力が教育の現場に押し寄せ、学校が上意下達の世界になってしまった。そのために、学校が子どもたちにとっても教職員にとっても楽しい場所でなくなってしまった。
新自由主義の教育政策には、株式会社立学校の容認、学校選択制の推進、公設民営学校の制度化、学校教育の民間委託の拡大、教員の人事評価システム、学校評価システムなどがありますが、中でもその最たるものは全国学力テストだと思います。1つの評価基準で評価して競争させれば成果が上がるはずだ、という勝手な思い込みがものすごく広まっているんですよね。
全国学力テストが始まったのは2007年、第一次安倍政権の時代です。その準備は小泉政権から始まっています。新自由主義では、すべてのものの価値は市場価格で決まる。人間の価値も金銭で評価するんですよね。価格の高いものが価値の高いもの。だから、たくさん稼げる人間が価値の高い人間なんだということになって、人間の価値の高低が稼げる能力で決まってくる。市場メカニズムが働かない教育の場では、テストの点数を貨幣に代わる評価の手段にしようとする。国語と算数・数学の2教科のペーパーテストだけで学力を測ることなんかできないはずなのに。そこでは点数を稼げる生徒が価値の高い生徒だということになってしまう。
人間にはしかし、お金で買えない価値がたくさんあって、むしろそっちのほうが人間の価値なのに、稼げる人間の価値が高いということになると、イーロン・マスクが世界で一番価値ある人間ということになるわけです。「自ら学び自ら考える力」とか「生きる力」とかいうものはペーパーテストでは測れません。偏差値が75でも全く生きる力のない生徒もいるのです。貨幣価値やテストの点数で人間の価値をきめる、そういう価値観に、いまは社会全体が支配されていると思います。
私自身の反省を込めて言いますが、文部科学省がそういう新自由主義の価値観を吹聴してきたことは事実です。しかし、本当に悪いのは文部科学省よりもその上にいる連中だと思ってください。文部科学省というのは実はあまり主体性の無い役所で、その上には常により強い権力があるんです。これは明治以来そうなんです。明治時代は文部省の上には内務省がいて、内務省文部局などと揶揄された。1930年代以降になると、今度は陸軍省が上にいて陸軍省文部局になった。戦後は日本が独立するまでGHQがあったので、GHQ文部局になった。この時代は文部省も一生懸命民主的な教育を推進しようとしていて、組合(日教組)とも非常に仲が良かったんですよ。
しかし、日本が独立を回復すると、戦前に戻りたい人たちが権力を握って、教育も戦前に戻そうとする。1958年に道徳の時間を始めたのは岸信介内閣です。戦前の修身科を復活させようという動きですね。この頃にできたいわゆる55年体制はその後長く続きました。55年体制下で自民党が政権を握っていた間は、文部省は自民党文部局だったんですね。そして最近は経済産業省文部局になっています。つまり、新自由主義でゴリゴリと押していく、そういう役所が文部科学省まで支配しているわけです。
大学も稼げと言われるし、スポーツも文化も、学校教育も稼げる産業にしていく。しかし、人間社会は市場経済だけじゃなくて、市場経済の外にもっと広い社会があるわけで、むしろ市場に乗らないようなものの中にたくさんのいろんな価値があるわけです。すべてを市場に任せていくと、その市場に乗らない価値がどんどん失われていくわけですよね。
先ほど大裕さんが、学校には生活を支える機能があるんだとおっしゃいました。いまは学校給食の無償化が議論になっていますけれども学校給食には子どもたちの健康と成長を支える重要な役割がある。学校には養護教諭さんがいて、保健室もある。部活動で文化やスポーツに親しむ機会も提供されている。子どもたちの健康で文化的な最低限度の生活を保障する機能を、学校が強く担っているわけです。
もちろんそのすべてを教師が担う必要はない。教師以外の人が学校に入ってきて、学校を舞台にして、学校活動の一環として、いっしょにさまざまな活動をするシステムは、日本の学校が築き上げてきた良いものだと思うんです。体育館が劇場になり、今日ここでお話をしているような青年劇場さんの演劇に親しむことができる。これ、ものすごく大事な機能で、無くしてはならない部分だと思います。それがいまは痩せ細ってきている。学力テストの成績向上につながらないからです。
もう1つ、学校には民主主義の担い手を育てるという大事な機能があります。教育基本法にも「平和で民主的な国家及び社会の形成者としての国民の育成」が教育の目的として掲げられています。お互いの人間としての尊厳や自由・平等を尊重しつつ、話し合いながら学校という社会を自分たちで作り上げることができれば、その子どもたちは大人になって今よりもっといい社会を作ることができるでしょう。新自由主義のもとではそういう機能が捨て去られてしまうのです。新自由主義は、学校がもともと持っていたそういう公共的な機能を奪うのです。この新自由主義的な考え方を猛反省して、学校を作り直す必要があると私は思っています。
もうひとつ、国家主義の教育政策について言えば、いま大々的に起きているのは道徳教育の教科化です。従来の道徳の時間では駄目だ、戦前の修身科のように教科にする必要があると考えた政治家たちが推し進めた教育政策です。国が定めた国民道徳を義務教育を通じて子どもたちに押しつける政策です。国家が国民の道徳を決めるなんて行為は思想・良心の自由を保障する憲法19条が禁じていることですが、学習指導要領道徳編こそは国家が定めた国民道徳なのです。教科化によって文部科学大臣が検定した教科書を使う義務が課されました。政治家たちが狙っているのは、事実上の修身科の復活です。試しにお子さんやお孫さんが使っている道徳の教科書を開いてみてください。どの教材も子どもたちを1つの「正解」に導こうとするものばかりです。しかし、道徳に唯一の正解などないのです。
私は道徳を学ぶことを否定しているわけではありません。しかし「これが国民の道徳だ」と一方的に教え込むなんて教育ではなくて洗脳です。道徳はひとりひとりの子どもが悩みながら学ぶべき課題です。たとえば演劇を通じて「本当に正しい生き方ってなんだろう」とか、「本当の幸せって何だろう」「正義とは何だろう」と考えるような、そういうきっかけを与えることの方が大事、それこそが本当の道徳教育だと思います。
私の言いたいことは、新自由主義に抗って人間性と公共性を取り戻すこと、国家主義に抗って自由を取り戻すこと、それがいま日本の学校に必要だということです。
プロフィール

鈴木大裕(すずき・だいゆう)
1973年、神奈川県生まれ。教育研究者。16歳で渡米し、1997年コルゲート大学教育学部卒業、1999年スタンフォ―ド大学教育大学院修了。帰国後、千葉市の公立中学校で英語教師として勤務。2008年に再渡米し、コロンビア大学教育大学院博士課程で学ぶ。2016年、高知県土佐町へ移住、2019年に町議会議員となり、教育を通した町おこしを目指しつつ、執筆や講演活動を行なっている。著書に『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』(岩波書店)など。
前川喜平(まえかわ・きへい)
1955年、奈良県生まれ。1979年に東京大学法学部を卒業後、文部省に入省。2016年文部科学事務次官、17年に退官。現代教育行政研究会代表、日本大学文理学部非常勤講師、福島市と厚木市で自主夜間中学のボランティア講師も務める。『面従腹背』『権力は腐敗する』(毎日新聞社)『前川喜平「官」を語る』(山田厚史氏との共著、宝島社)『日本の教育、どうしてこうなった』(児美川孝一郎氏との共著、大月書店)『政治と宗教 この国を動かしているものは何か』(島田裕巳氏との共著、徳間書店)など。