序論
オードリー・タン氏とグレン・ワイル氏らによって提唱された「Plurality」の構想は、テクノロジーを活用した民主的な熟議空間の新たな設計理念として注目に値する。本稿では、筆者もパネル討論に参加した2025年5月の「Plurality Tokyo Namerakaigi」における議論と、筆者が1990年代以降に実践してきた熟議創造の経験をふまえ、日本におけるPluralityの展開可能性と課題について論じる。
1. 日本におけるデジタル民主主義の実践と課題
1.1 ネットを活用した政策形成への市民参画の先行事例
1996年、筆者は慶應義塾大学SFCにおいて藤沢市と連携し、日本初となるインターネットを用いた公共政策討議プラットフォーム「市民電子会議室」立ち上げに慶應SFCの金子郁容教授と共に関与した。
2000年には、総理官邸主催の教育改革国民会議に際し、オンライン上の「教育改革ラウンジ」を立ち上げ、そこでの熟議の成果を、金子郁容主査を通じ、政策提言に反映させた。
これらは、日本におけるインターネットを活用した公共圏の形成の萌芽と位置づけられる。
1.2 政治家による直接の情報発信と課題
2001年(You Tube開始の4年前)、筆者は「すずかん.TV」というインターネット放送局を国会議員として初めて開設し、参議院議員会館の事務所から動画の生配信を行い、政治活動や政見の広報を開始した。放送は延べ300回を超えた。2007年には、メタバース空間「セカンドライフ」上に、国会議員として初めて仮想事務所を開設した。
その後、SNSやYou TubeやWeb配信の普及によって、既存メディアを介することなく、政治家が市民に向けて直接に情報を発信する広報活動が一般化した。
2013年には、選挙運動においても、インターネット活用を解禁する公職選挙法改正を超党派議連の共同座長として実現し、政治家がコストを抑えながら、直接かつ広範に有権者に訴える環境が整った。
一方で、SNS時代の到来以降、誤情報の拡散、感情的対立の先鋭化、エコーチェンバーの形成といった問題も顕在化し、健全な政治言論空間の維持が困難になっている。とりわけ、商業メディアやSNSプラットフォームは「炎上」を敢えて煽る傾向があり、公共的対話を劣化させる構造的課題を抱えている。
1.3 政府による熟議型政策創造の制度化と頓挫
2009年、筆者が文部科学副大臣に就任後、政策創造エンジン「熟議カケアイ」を文部科学省Web上に設置し、加えて、全国各地での数百回に上るリアル熟議も開始し、熟議民主主義による政策創造が文部科学政策の分野で大々的に展開され、炎上も回避し、いくつも具体的な成果を上げることができた。また、全国の学校現場において「こども熟議」「中学生熟議」を展開し、民主主義教育の基盤形成にも寄与した。
2010年、内閣官房も「政策コンテスト(36万件のパブリックコメントを収集)」や「討議型世論調査(年金、エネルギー政策)」などを実施し、国民が直接参加する政策形成の試みがなされた。
しかし、ネットの議論の参加者の知識層への偏り、リアル参加者の時間的負担などの課題も明らかになった。
ただ、これらの試みは、2012年の自民党政権への政権交代によって、いずれも頓挫することとなり、いまだに復活の兆しすら見えていない。
2. Plurality構想と実現可能性
タン氏、ワイル氏による「Plurality」は、多元的な価値観・意見・主体が対話や熟議を通じて政策を共創していくことを目指している。その実装においては、以下のような有力なイニシアティブが始まっており、これらは従来の課題への有効な対応策になりうる。
・Generative Facilitation Mechanism(GFM)
訓練を受けていない市民でも、自身の問題意識を構造化し、他者と共有可能な「物語」として伝えることを支援する。
・Fact Check Platformの整備
熟議の前提となる「事実」の共有と検証を担保するメディア・インフラを整える。
・AIエージェントによる熟議への参加支援
情報格差や知識的制約を超えて市民の参加を補助し、発言へのハードルを引き下げる。
3. AIエージェントにおける公共哲学的設計の要請
Pluralityにおいて、特に、AIエージェントによる熟議参加支援は、多様な価値観を理解・提示・融合する「公共的対話の媒介者」として大いに期待される。筆者は、ユーティリタリアン、リベラリズム、リバタリアン、イガリタリアン、コミュニタリアン、カント主義などの有力な公共哲学の立場に立ったAIエージェントがそれぞれの価値原理に基づいた論点整理や対話支援ができる設計がなされ、また、トレードオフの可視化、合意形成に至る過程の透明化などがなされれば、熟議の質と参入のしやすさは大いに向上すると考えている。公共哲学的知見を内蔵したAIエージェントによる民主的な熟議空間を整備することの意義は極めて大きい。
結論
Plurality Movementは、デジタル・テクノロジーの活用にとどまらず、ハンナ・アーレントなどが主張してきた思想なども融合させた大変有望な試みである。過去20年以上にわたる実践を通じて様々な経験をしてきた筆者も、このムーブメントに積極的にかかわっていきたい。
今後、Pluralityの日本社会への導入・普及を図るためには、ノーマル・マジョリティの巻き込みが欠かせない。政治家の設定する言論空間は炎上などによって、政府が設定する言論空間はその知識的能力と時間的負担の壁によって、ノーマル・マジョリティにとっては、そのどちらにも近寄り難いものとなっている。この克服にまずは注力していくことが不可欠である。
同時に、デジタル民主主義の発展にエネルギーを傾注する社会的リーダーのモチベーションの確保も重要な課題となっている。
多くの市民の応援と勇気によって、これらの問題が改善され、デジタル民主主義が進展することを強く期待している。
プロフィール

(すずき・かん)
1964年生まれ。東京大学教授、慶應義塾大学教授、社会創発塾塾長。東京大学法学部卒業後、通商産業省に入省。資源エネルギー庁、国土庁、産業政策局、生活産業局、シドニー大学、山口県庁、機械情報産業局などで勤務。慶應義塾大学SFC助教授を経て2001年参議院議員初当選。文部科学副大臣、文部科学大臣補佐官、日本サッカー協会理事などを歴任。著書に『「卒近代」宣言』(エッセンシャル出版社)、『クリエイティブ・ラーニング:創造社会の学びと教育 』(慶應義塾大学出版会、共著)、『熟議のススメ』(講談社)などがある。