Plurality(プルラリティ)を読み解く④

Pluralityは憲法論である!
駒村圭吾

Pluralityは憲法改正に匹敵する

 『PLURALITY』を一読した感想を述べる。

 はっきり言おう。Pluralityという改革構想は憲法改正に匹敵する。否、今の日本の憲法改正論の水準に照らせば、はるかにラディカルであり、ずっと検討するに値する提案だ。
 本来、憲法改正に先立って、≪この国の将来像をどのように構想するか≫というクリエイティブな議論が行われるべきである。そのようなクリエイティブな社会構想がまずあって、次に、それを実現するためには憲法のどこを改める必要があるのか…という順序でことは進むべきなのである。Pluralityはそのようなクリエイティブな改革提案の有力候補だ。まず、これを真正面から議論して、憲法が定める統治上の約束事を変えなければならないとなれば改憲をし、そうでなければ憲法は放っておけばいい。

 今の改憲論は、まるで、病状も明らかにしないまま、患者のウェルビーイングも脇に置いて、「まあ、とにかく手術しましょう」と勧める医者みたいなものである。病気を治すために手術(改憲)するのではなく、手術するために病気を探しているのである。Pluralityはそうではない。病状を特定し、社会のウェルビーイングのかたちをしっかりと提示し、テックの力を借りて自然治癒力(自己統治能力)をまずは鍛えてみて、どうしても必要なら手術(改憲)をやりましょう……。こういうことである。これこそ、本当の意味で統治のあり方を根本的に考えることであり、真の憲法論ではないか?

政治はオワコンになりかけている

 では、Pluralityの目指す方向性がいかに憲法的に重要なのか?それを明らかにするには、まず今のデモクラシーの現状を確認することから始めなければならない。

 ここでも、また、はっきり言いたい。政治はもうオワコンになりかけている。政局にならないと何も動き出さない。現金給付2万円のニンジンをぶらさげればウマは喜んで食いつくと見くびられている。立候補すれば、スキャンダルを暴かれ、突かれ、捏造され、不倫疑惑を否定しても「認めない限り疑惑は晴れない」という不条理にさらされ、あの手この手で金を集め、違法すれすれの危ない橋を塀の向こうに落ちるのを覚悟で渡らされ、感謝しても口先だけと言われ、謝罪してもうわべだけと言われる。政治家になったらなったで上からも下からも理不尽な要求を突き付けられる……。こんなんで、いったい誰が政治家になろうと言うのか。もうこうなると罰ゲームである。ロシアンルーレットである。この世に未練のない人くらいしか挑戦しなくなるのではないか?

 今の政治家は、「大衆」という、どす黒い「波」のうねりをサーフィンするようなものだ。うまく波に乗ればスターになり、一歩間違えれば海のもくずとなる。こうなると、政策論議も長期構想も夢も希望もない。一発勝負の自己実現ゲームとなる。とにかく目立てばいい。奇矯なことを言い立てて炎上し、アテンションを集めれば勝ちだ。

 こうして、意図的に「分断」が創り上げられる。「分断」こそが支持者を集め、自陣に固定化するワザであるから、毎回、より刺激的な扇動を行って、「分断」をどんどん強化していく。しかも、ネット上の仮想空間だけでなく、現実空間も仮想化できると考える人が増え、デマが真実となり、真実がデマとなる。ポスト・トゥルースがあふれ、協調と利害調整という生活の必要に根差したリアルな政治など、どこかに吹っ飛んでしまう。

分断の再生産で疲弊していく社会

 オードリー・タンとグレン・ワイルが目指すのは、この「分断」状況を見据えた上で、「連帯」の可能性を模索することである。もう少し正確に言おう。Pluralityは「分断」の解消を安易に約束するわけではない。対立する両当事者をテック的に「橋渡し」しようとするのである。「橋渡し」によって何が生まれるのか。それはやってみなければわからない。しかし、この試みを私風に翻訳すれば、新たな「市民」というステータスを立ち上げようとするプロジェクトと言っていいだろう。温暖化や食の安全、シャッター商店街問題、いじめや労働環境の改善、等々は、性別や政党や国籍やイデオロギーに関係なく、みなが連帯して取り組める争点である。

 政党や利益団体やイデオロギー団体によって「タテ」に仕切られた構造しかない社会は、結局、分断の再生産で疲弊していく。哀れな破壊的末路はもうすぐそこまで来ている。この国は、どこかで「タテ」の構造を「ヨコ」に開くチャンネルを設けないと、対立と憎悪と混沌によって崩壊するほかない。オードリーとグレンの挑戦はそれを救うかもしれないのだ。

憲法的「不断の努力」のためのプラットフォーム

 私は、2023年に『主権者を疑う』(ちくま新書)を発表した。その中で、「デモでは誰も名刺交換はしない」というある市民運動家の言葉を引用した(同書247頁以下)。名前も地位も分からない見ず知らずの人たちとともに歩む、これが市民社会の原風景だと思ったからである。Pluralityは、このような原風景を、政策形成や合意調達という政治的次元において、どうにか実現させようとする冒険である。

 ところで、日本国憲法12条は次のように定める。

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

 自由や権利はタダではない。「不断の努力」によってメンテナンスしなければならないのだ。しかも、自由や権利は「常に公共の福祉のために利用」せよ、と憲法は言っている。「分断」の拡大再生産はこの条文に反する。他方で、Pluralityはこの条文の要請を果たすためのプラットフォームを提供しようとしている。これは、やはり、憲法的である。

関連書籍

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主権者を疑う——統治の主役は誰なのか?
テクノ専制とコモンへの道民主主義の未来をひらく多元技術PLURALITYとは?

プロフィール

駒村圭吾

(こまむら・けいご)
1960年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。白鷗大学教授、慶應義塾大学法学部・同大学院法務研究科助教授を経て現職。法学博士。専攻は憲法学。ハーヴァード大学ライシャワー研究所・憲法改正研究プロジェクト諮問委員会委員。
著書編書に『インターネット・オブ・ブレインズの法』(日本評論社)、『宗教・カルト・法: 旧統一教会問題と日本社会』(共著、高文研)、『プラットフォームとデモクラシー』(編者、慶應義塾大学出版会)、『主権者を疑う 統治の主役は誰なのか?』(筑摩書房)『Liberty 2.0 自由論のバージョン・アップはありうるのか?』(弘文堂)、『戦後日本憲政史講義』(法律文化社)、『憲法訴訟の現代的転回』(日本評論社)などがある。

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