緊急事態―都市封鎖は正当化できるのか?

マルクス・ガブリエル(哲学者・ボン大学教授)
マルクス・ガブリエル

 政治家は新たな科学信仰に陥っている

 それゆえ、突如として多くの政府が同じ見解に到達している。つまり、例外状態や緊急事態法案、そして、私たちの健康を完全に監視するためのデジタル化の無制限の加速が、コロナ危機に対処するための唯一の方法だというわけだ。数週間のうちに、ポスト真実的な放心状態とアイデンティティ・ポリティクスという精神的ウイルスは、世界を席巻するこうした政策で克服されたかのようである。ニューヨークの私の友人は、こうした政策を「科学を信奉する北朝鮮」と呼んでいたが、ともかくも政府は生物学的実在論から新しい政治的客観主義を引き出している。しかし、ここにこそ、最大の疑念がある。
 だからこそ、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンや技術預言者のユヴァル・ノア・ハラリが、現在の可能性の一つであるディストピア的展開を示すべく、声をあげたのだった。

 アガンベンは、自身の近代の解釈を引き合いに出し、「剥き出しの生」に人々を還元するために、「例外状態」がたびたび発生させることがまた起きていると指摘する。疫学的感染モデルや健康保健システムのデータのひとつの「点」に、私たちは突然なってしまったのだ。そのために犠牲になったのが、私たちの最も重要な社会的慣習(友情、抱擁、宗教的行事やコンサートなど)だ。アガンベンにとって、コロナ危機は、私たちがディストピア的なサイバー独裁に向かっていることを確証するものである。

 ハラリは、21世紀の技術的な可能性(人工知能、フェイクニュース、デジタル医療)が私たちの社会を根本的に変え、私たちの行為を完全に予測可能で操作可能なものにするだろうと、ずいぶん前から指摘してきた。実際、近いうちにヨーロッパのスマートフォンにコロナアプリがインストールされ、人々の交流がウイルス感染の場としてみなされるようになり、その動きが通信会社や保健当局によって完全に監視されるようになることが考えられる。それは自由民主主義の終焉になるだろうが、逆説的にも科学の成功によって始まったものなのである。

 現代政治のダブルスタンダード

 必要なのは、いろいろな次元との関係性を維持する、差異化された考察である。ウイルス学的命令を現実の残りのものから切り離して考えるなら、その命令に従わなければならないことになるが、そのこと自体も問題なのだ。というのも、現在の政治が提供している科学的信頼性は見かけほど真正なものではないからである。

 この問題は、あちこちで起きている。国境閉鎖、2人以上の集会の禁止、観光や世界的な生産チェーンの規制は、ごく最近まで米国やEUでは不可能なことだった。経済的な打撃に耐えて倫理的命令に従うことなど、不可能だったのだ。しかし、冷静に見ても、気候危機は人類全体の存続を脅かすものであり、コロナ危機よりも危険に分類できるということは、科学的に裏付けられた事実でもある。だが、そうであるとすれば、なぜ気候危機に対抗する非常事態が宣言されないのかという疑問が生じてくる。

 突如として、自然科学的、疫学的モデルが、政治的決断のための唯一無二の論拠として用いられるようになった。疫学的モデルは、コンピュータ・シミュレーションを用いて新型コロナウイルスの拡散についての様々なシナリオを計算する。とはいえ、モデルは現実のコピーではなく、パターンを特定するためのデータセットを単純化したものにすぎない。疫学的モデルがどれほど優れていても、統計モデルから政治的命令が直接に出てくるわけではない。

 要するに、疫学的モデルの感染拡大の論理に、公共的生活やあらゆるミクロレベルの意思決定を従わせる絶対的な命令は、多くの政治的決定を覆い隠している。自然科学的事実の政治的解釈は、それ自体としては自然科学的事実ではないので、ウイルス学的命令は自明なものではない。だからこそ、啓蒙の弁証法で訓練された社会学者、政治学者、哲学者たちが必要となるのである。科学と医学の進歩だけでは、科学と技術の進歩によって引き起こされる問題を解決することはできないのだ。

 もちろん、ウイルスは社会的に構築されたものでも、中国の生物兵器でもない。ウイルスは、どのような形で生まれてきたにしても、実在しており、いずれにせよ非常に危険である。データセットはウイルス学的モデルを最適に使用するにはまだ十分ではないので、どの程度危険か正確には誰も知らない。どのような行動の選択肢があるのかを明らかにするためには、自然科学的・医学的研究が不可欠である。生き残るために欠かせない事実を可視化してくれる。それは間違いない。

 しかし、ウイルス学的命令だけで民主的公共圏を弱体化させる措置が(たとえ一時的であっても)正当化されるわけではない。なぜなら、今の状況で無視されがちだが、少なくとも同じくらい重要な医学的および安全技術上の命令が他にも存在する。

 外出禁止令によって起こる経済ショックによって医療制度が危機に瀕する。これをどうするのか。孤独に暮らす依存症の人々にどう対応するのか。庭のある安全な家に引きこもる余裕などなく、外出禁止令によって家庭内暴力や虐待に直面している人々については、どうだろうか。また、いきなり仕事をオンライン会議に移した場合、容易に盗聴されてしまう可能性があるわけだが、セキュリティ機器にはどのようなリスクがあるのか。

 新しいウイルスに脅かされている命を救おうとする間に、古い問題が消えてしまうわけではない。それどころか、これらの問題はむしろ深刻化しており、私たちは、コロナ危機が終われば、すぐにその問題に直面することになるだろう。

 暗い時代に何をすべきで、何をすべきでないかは、自然科学的事実だけに基づいているのではない。道徳的洞察も必要となる。道徳的・哲学的反省と批判政治理論の適度なそよ風を通して道徳的事実が明らかにされる。それが啓蒙の核心である。社会的な距離を置く外出禁止令などによって人類は生命を維持しているが、それと同様に、この啓蒙の核心を短期的な計算のために、犠牲にしてはならないのだ。

 

(翻訳:斎藤幸平)

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プロフィール

マルクス・ガブリエル
1980年生まれ。
史上最年少でボン大学哲学正教授に抜擢された天才哲学者。『なぜ世界は存在しないのか』、NHK『欲望の時代の哲学』などでメディアの寵児に。『未来への大分岐』は5万部を超えるベストセラー
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