緊急事態―都市封鎖は正当化できるのか?

マルクス・ガブリエル(哲学者・ボン大学教授)

マルクス・ガブリエル
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コロナ対策をめぐって、世界では奇妙な現象が生じている。ヨーロッパのリベラル民主主義の国々が、右派ポピュリストばりの国境封鎖・都市封鎖を行い、市民行動の監視をするようになっているのだ。疫学的な見地からすれば、断固とした措置が必要である。とはいえ、果たして、都市封鎖と監視は倫理的に正当化されるのだろうか。この危機の時代に何を犠牲にしないといけないのか。マルクス・ガブリエルは言う。これは科学信奉だけでは答えはでない問題だと。この点についても、『未来への大分岐』でガブリエルは指摘していたが、倫理学で言う「トロッコ問題」に世界はまさに直面しているのだ。以下は、Neue Zürcher Zeitung というスイスの新聞にガブリエルが寄稿したコラムの翻訳である。前回の寄稿とともにお読みいただきたい。 

 斎藤幸平(『未来への大分岐』編著者)

         

 ◆緊急事態―都市封鎖は正当化できるのか?

 新たな掟が発令されている。ウイルス学的命令である。この命令は、人間社会が感染の連鎖であることを前提に行動せよという、すべての人へのお達しだ。個人は道徳的な行為者、つまり、人間としての尊厳の担い手としてはみなされず、むしろ、ウイルスの保菌者としてみなされているのである。人類は「群れ」としてみなされるようになり、「群れ」に対しては、対人間の距離についても厳格な規則を課すことが必要というわけだ。新型コロナウイルスの拡散を抑えるためである。

 突如として、ほとんどの人がこのような社会工学の流れに乗っかっているのだが、それは気づかれないうちに、倫理学で有名なトロッコ問題の緊急の応用事例になっている。

 例をあげよう。線路のポイント切り替え係をあなたが担当していると想像してみてほしい。突然、トロッコが勝手に動きだして、誰にも止められない。一方の線路には子どもがいて、もう一方の線路には老人がいる。あなたは、どちらの命を犠牲にするかを選ばなければならない。どちらを選んでも、いずれにせよ「負ける」ことにしかならないが、では、どのようにその選択をおこなうのか?

 戦争のレトリックは誤りを生む

 ヨーロッパでは時に、思い切った人命救助の措置がとられることがあるが、それはあらゆる人の自由の構造に介入することを意味する。つまり、それによって、私たちは他のリスクを受け入れることを意味しているのである。この点について、より深く考えることが必要となる。

 まず、人と人との距離を十分に取ることで感染の連鎖を断ち切るのが、今、選択すべき正しい道の一つである(もちろん、それは間違いない!)。しかし、外出禁止令が唯一の有効かつ適切な手段なのだろうか? 一つはっきりしているのは、倫理・政治的な決断は、危険な未知のウイルスの拡散という論理だけで、結論づけられないということである。

 しかし、政府にとっては、すべての人を隔離し、連鎖を断ち切ることがウイルス学的に不可避な命令だ。一方、そのような政府の決定を批判しようとする人たちは、ただちに猛反発をくらっている。今は連帯を危険にさらすべきではない、私たちは皆同じ船に乗っている、と。今、文句を言っている余地はない。私たちは無条件に政府を支持しなくてはらならない。だって、私たちは戦争状態にいるのだから、と。

 しかし、「目に見えない敵との戦争」というのは間違いだ。なぜならウイルスは私たちの敵ではなく、宿主である私たちにつきまとう匿名の生物学的構造である。ウイルスは私たちの細胞内で増殖し、繁栄する。ウイルスは私たちがどうしようが気にしない。ウイルスにとって、私たちは敵ではなく、生息地なのだ。

 ウイルスは私たちを攻撃しているわけでない。ウイルスなりの計画的な行動を繰り出しているだけで、それはウイルス学的・疫学的には検知可能なものだ。だから、私たちが戦争状態にあるというのは、簡単にバレる政治家の嘘だ。非常事態体制はもちろん、民主的に規定されているものだ。ドイツでは感染保護法、スイスでは疫学症保護法に基づいている。しかし、感染症に向かって開戦することはできないのである。

 コロナウイルスは科学の否定者を暴露する

 ここにパラドックスがある。先日までは、自由民主主義の価値観はポスト真実の時代の趨勢によって脅かされているように見えた。科学的客観性とそれに対する批判は、ドナルド・トランプ以降、繰り返し政治化されてきた。混乱した形而上学の名のもとに、左派と右派のポピュリストたちは、客観性の否認や、自然科学的事実の存在を否定するという擁護できない科学批判という立場をどちらも共有しているのである。

 右派ポピュリズム的否定は主に米国ではびこっているが、福音派原理主義のキリスト教徒が長年にわたって科学や医学に反対してきたブラジルでもはびこっている。というのも、ブラジルにおいては、聖書の方がダーウィンよりも、種の起源をうまく説明していると信じられているからである。一方、左派ポピュリストによる否認は、真実と現実を社会的構築物とみなし、その背後には権力的利害関係が潜んでいるため、それを暴露し、戦わなければならないと考えている。とりわけ、ジェンダーと人種の分野において、アイデンティティ・ポリティクスを擁護する人々はそのような主張を掲げているのだ。
 しかし、科学哲学に熱心な進歩的な知識人たちは、近年、希望のない形而上学的相対主義に身を投じている。フランスの社会学者ブルノ・ラトゥールは、そのなかで最も著名な代表者である。ラトゥールは、結核の病原体が発見されたのが19世紀であったのでラムセス2世の死因は結核でなかったという不条理な主張まで行っている。これは形而上学的な不条理である。コロナ禍でいえばこういうことだ。つまり、ラトゥールによれば、もし我々がCovid-19の研究のためにウイルス学者を介入させなかったなら、新型肺炎の病気は存在さえもせず、蔓延もしなかった、というのである。

 新型コロナウイルスは、私たちの社会の土台を現実という隕石で破壊しつつある。私たちの生存が脅かされているというのに、事実の現実性を否定し続けることはできないだろう。

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プロフィール

マルクス・ガブリエル
1980年生まれ。
史上最年少でボン大学哲学正教授に抜擢された天才哲学者。『なぜ世界は存在しないのか』、NHK『欲望の時代の哲学』などでメディアの寵児に。『未来への大分岐』は5万部を超えるベストセラー
 
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