『国家と記録 政府はなぜ公文書を隠すのか?』 瀬畑源著

ダメなものはダメ

武田砂鉄
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 小学生の時、点数の悪いテストをどうやって隠したかと振り返れば稚拙なもので、「なんか、算数のテスト、返ってこなかった」の一点張りだった。「そんなはずはない」との母からの𠮟責に、ものの数分で泣きながらテストを差し出したものだが、このところ、国を動かす人たちの隠蔽ときたら、そんな小学生時代の自分にとても似ている。それどころか、泣きじゃくることもなく、「ありません」「いや、ありました」「でも、隠したわけではありません」と澄まし顔なのだ。

 学校法人「加計学園」の獣医学部新設に関する「総理のご意向」文書について、菅官房長官はまず「怪文書みたいな文書じゃないでしょうか」と述べた。その後、文書が文科省で見つかると、「怪文書という言葉だけが一人歩きしたのは極めて残念」という謎めいた逃げ方に切り替えた。むしろ、言葉を歩かせたのはそちらなのに。

 私たちはこの数年で、公権力が文書を隠し、捨て、開き直る光景に慣れてしまった。官公庁全体に〝断捨離〟ブームが到来している状態だが、こちらの断捨離は必要なものまで丸ごと捨てるスタイル。公文書は国民が権力を監視するにあたって極めて重要な基本情報だが、金融庁の報告書について麻生太郎財務大臣が「政府の正式見解ではない」と言い逃れたように、その意義を無理やり薄めようとする。

 国民に伝える言葉や情報を権力が選べるようになるのが最も危うい。「文書の効率化」を謳い、隠蔽するつもりはなく、スリム化をしただけ、と言い張る。いつのまにか、国民もその姿勢に乗っかり、しつこく迫っていく姿勢を煙たがり、ちょっとした隠し事くらいしょうがない、と大人ぶる。

 本書をめくるたびに、すっかり忘れていた事案が顔を出す。国家が記録を破棄する。ならば何によって国家像を象っているのかといえば、気合や覚悟といった類たぐい。好き嫌いや損得に付随する感情で国を動かしてしまう。それはダメですよと著者は諭す。ダメなものはダメ。当たり前だが、これが今、失われかけている視座なのだ。

 

たけだ・さてつ●ライター

(2019年 青春と読書11月号「本を読む」より)

 

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