『テクノ専制とコモンへの道 民主主義の未来をひらく多元技術PLURALITYとは?』(集英社新書)の著者である哲学者・李舜志が、思想家で武道家である内田樹の道場「凱風館」を訪問。
武道に伝統芸能の稽古、そして学術セミナー等、多様な活動を行なっている凱風館を、内田氏は公共の学びの場「コモン」と呼んでいる。
そして内田氏の著書『ためらいの倫理学』に強い影響を受けた李氏。これからの日本でデジタル民主主義を実装するためにも、人々が「ためらい」を取り戻す必要があると考えている。ためらいとは何か。
巨大プラットフォームによるテクノ専制を批判し、多元性にひらかれたコモンへの道を模索する李氏が、日本人が失った知的態度である「ためらい」について内田氏に聞いた。全3回の第1回。
構成=高山リョウ

1 日本のデジタル庁は何をしたいのか?
内田 李さんのご著書は、今のテクノロジーと思想の状況についての実にていねいなマップですよね。マッピングってとても大事な仕事なんです。でも、自分の意見をあまり入れないで、「こういうテクノロジーにはこういうメリットがあって、こういうリスクがある」ということを中立的な視点から書く人ってあんまりいないんです。ですから、「こういう書き方をする人は信用できそうだな」と思いました。何かのプロパガンダではないなということがわかりました。
このところずっと、「新しい封建制」とか、テックジャイアントの話とか、その手の本が知り合いの編集者から送られているので、僕もそこそこ勉強しています。ピーター・ティールの『ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか』(共著、NHK出版)とヤニス・バルファキスの『テクノ封建制 デジタル空間の領主たちが私たち農奴を支配する とんでもなく醜くて、不公平な経済の話。』(集英社)を読んでテクノロジーのネガティブな面は大体わかったかなという感じでしたけど。
李 テクノロジーの問題意識は世界的に共有されていて、どちらかというと「ディストピアにまっしぐら」な印象を受けるのですが、オードリー・タンさん(元台湾デジタル発展省大臣)を象徴的な存在として、Plurality(プルラリティ)は「そうではないテクノロジーの在り方」を提示しています。台湾をはじめとして、国のサイズとしてはコンパクトなところから、デジタル民主主義の実例が出てきています。
内田 国民国家という政治単位を基礎にしては、この問題に取り組むことはちょっと難しいと思います。テックジャイアントたちは中規模の国家予算ぐらいの個人資産を持っている。その人たちの恣意で国家事業に匹敵できる程度の政策が実現できてしまうという状況ですから、本当に「封建制」「専制」に近い状況だと思います。トランプ政権のイーロン・マスクの暴走を見ていると、彼は「俺個人の意思で世界を変えることができる」くらいの全能感を持っているんだろうなと感じます。
ピーター・ティールの『ゼロ・トゥ・ワン』を読んだ時も、なんでこの人はこんなに偉そうなんだろうと思いました。でも、仕方がないですよね。相手はスタンフォードの学生たちで、自分は実際に事業で大成功した人間なわけですから、物言いが断定的にもなりますよね。
李 現在はイーロン・マスクのようなテクノクラシーや、ピーター・ティールのようなリバタリアンが、テックジャイアントとしてアメリカという強大な国家の中枢に入り込んでしまっている状況です。
内田 これから後、テックジャイアントの人たちは、国民国家の元首と同じぐらいのステータスで国際会議などに登場してくることになると思います。国民国家という政治単位がこの問題に関しては有効でなくなっているから。EUぐらいのスケールの政治単位でないとテクノロジー問題には対処できないという気がします。日本なんか、単体では何にもできませんからね。デジタル庁でしたっけ。あの人たち、どれぐらいきちんとした知識を持っていらっしゃるんですかね?
李 デジタル庁的な組織を作ること自体は、世界的な潮流に乗ってはいます。ただ、その内実や成員に期待できるのかと言われると……。「デジタル庁に全部任せよう。専門家だから委ねたら何とかなるだろう」という雰囲気に国民の気持ちが固まっていくと、うまくいかないと思います。
今回の本でも書きましたけど、テクノロジーをいかに草の根の「ボトムアップの活動」に活用していくかが大事なのであって、それをトップダウンで一部の専門家が牛耳るのは、本末転倒といいますか。
内田 何よりも「このテクノロジーで何をしたいのか」という宏大なヴィジョンが提示されてないことが問題だと思うんです。どうも自民党政府のやることを見ていると、中国のやっている国民監視システムの劣化バージョンを作ろうとしているくらいのことしか感じない。国民全員に大きな利便を提供し、日本のシステムをバージョンアップするというような野心がまったく感じられない。
2 「世代の分断」を生むマイナカード
内田 この間、河野太郎がぽろっと言っていましたけども、要するに「個人の資産状況を知りたい」わけですよね。日本には1400兆円と言われる個人金融資産が眠っているわけで、それをどうやって掘り起こすのかということが彼らの考えらしい。だから、一人ひとりの財布の中身を知りたい、と。それ、動機としてあまりに「せこい」と思うんですよ。そんな貧相な目的のためだと、仮に中に賢い人がいたとしても、「イノベーションをやろう」という気にならないんじゃないですかね。目的が国民監視とか、国民のビッグデータをつくって国民を管理しようとか、税金をもっと取ろうとか……。

李 本来、現代のテクノロジーって「透明性を確保する」ということが実現可能な技術なんですけど、一人ひとりの資産状況を透明化するとか国民の一挙手一投足を透明化することも使えてしまう。本当は逆で、政府の審議とか予算を透明化するということこそ大事になります。
もう一つ、デジタル庁の問題で考えるのは、マイナンバーカードの騒動です。健康保険証を紙に戻す、戻さないで、分断が生まれている。新しいテクノロジーについていけない高齢者の方々が多くて、そこで「紙の保険証に戻してほしい」というような要望が出たとしても、若い人たちから「デジタル化を妨害している老害」のように言われてしまう。デジタル庁が「世代間の分断」を率先して生んでしまっている。本当はそのような断絶を埋めるために、テクノロジーを使うはずなのですが。
内田 そうですね。オードリー・タンさんなどは、デジタル弱者を基準にして、「弱者を取りこぼさないように」という形でのテクノロジーの進化を考えていますね。これはすばらしいと思います。知識や情報の多寡で国民を分断したり、「ついてこられない者は不便を甘受することになるが、それは自己責任だ」といった進め方は本当によくないと思います。
日本のこの30年ぐらいの統治の劣化というのは、たしかにおっしゃる通り「透明性が欠けている」ことが原因だと思うんです。政策決定について、誰がどういうふうに関わっていて、何を求めて、どういうような成果を求め、どういう基準でその成否を判定するのか、それが全くわからない。ヴィジョンもないし、数値目標もないし、事後検証も、何もない。
統治機構における「意思決定システム」がどう機能しているのかを透明化していくことは最優先だと思うんです。その信頼性がないと、台湾のような「デジタル化」はできない気がしますね。
李 そうですね。オードリー・タンが台湾での実践を振り返って、釘を刺しているんですけど、「この試みが成功したのは最新のテクノロジーを入れたからではない。前提として市民と政府の間に信頼関係があったからだ」と。台湾ではある程度の個人情報を政府に預けても、「きっと自分たちのために使ってくれるだろう」という信頼があったから成功したのであって、「じゃあ日本でも」という簡単な話ではありません。
3 ディストピア物語の「効用」とは
李 内田先生も書いていらっしゃったんですけど、テクノロジーに関するディストピア的な話っていっぱいあるんですよね。シンギュラリティを提唱しているレイ・カーツワイルの「AIが人智を超える」みたいなSFチックな話には乗れないですけど、テクノ専制や監視資本主義といった「いかにテクノロジーが未来を暗くしているか」という現実的な話も読んできました。テクノロジーを全て捨て去ることはできないので、それをどう使うかを考えなくてはいけないと思っている時に、オードリー・タンたちの試みを発見したんです。
テクノロジーの未来を、単に楽観的に語るのではなくて、一回絶望を経由して、それでも明るい未来はあるかもしれないというビジョンに共感した。それが今回の本を書いたきっかけです。
内田 科学がもたらすディストピアを描くという伝統は、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』やジョージ・オーウェルの『1984』から始まって、アングロサクソンの文学的な伝統として確固として存在するわけです。ディストピアを物語として描いて、娯楽として消費することができるというのは、ある種の健全さの証だと思うんです。監視社会ができる話であったり、核戦争で世界が滅びるSFとかって、無数に作られていますよね。1945年から80年間僕たちは「核戦争で世界が滅びる話」や「人間が機械に支配される話」を娯楽としてたっぷり消費してきているわけですけど、幸い核戦争は起きていないわけです。僕はディストピア物語はディストピアの到来を阻止する実際的な効果があったと思います。物語には強い現実変成力がありますから。
「破滅のリスクを回避したい」という素朴な願いに駆動されて、「このようにして世界は滅びる」という話を事細かに書く。すると、さすがに物語と同じ道筋をたどって世界を滅ぼすという人はなかなか出てこないと思うんです。もう物語に書かれて、娯楽として消費されているのと同じシナリオでディストピアをもたらしても、あまりに独創性がない。せっかくならもっと違うことをやろうと思う。そうやって物語はディストピアの到来を先送りしてきた。僕はそんなふうに思っています。ただ現在の「テクノロジーがもたらすディストピア」については、これまでそういう物語がなかったんですよね。だから、どういうふうにディストピアが到来するのか、その道筋がよく見えない。よく見えないと阻止しようがない。
4 国連はなぜ破綻したのか
内田 200ほどの国民国家が基礎的な政治単位であって、それぞれが自国益を最大化するためにパワーゲームをしているというのがこれまでの標準的な世界理解だったと思います。だから、国民国家の上に「公共という審級」があれば、そこが理非の裁定を下すから、国際紛争は防げる。理屈ではそうなります。事実、そうやって近代市民社会は成立したわけですから。
「万人の万人に対する争い」のうちに巻き込まれると、誰一人安定的に自己利益を確保できない。だから、人間が本当に利己的にふるまうなら、「公共」を立ち上げるはずだというのが『リヴァイアサン』の理路でした。「公共」を立ち上げて、そこにみんなが私権の一部、私有財産の一部を供託する。メンバー同士の争いでは、公共が理非の裁定を下し、仮に非とされた人がそれを受け入れなかった場合には実力をもってこれを抑制する。それが近代市民社会の基本的なスキームだったわけです。だから、国際社会にそれをスケールアップしてみたのが国際連盟や国際連合の考え方だったわけです。でも、近代市民社会のモデルを国際社会に適用することに人類は失敗した。国民国家においては「政府」や「国家」が公共的に機能したのですけれども、国際社会における「国連」は「世界政府」としては機能しなかった。それはなぜか。
国連というのは近代市民社会における国家モデルをスケールアップしただけですから、理屈はみんなわかるはずなんです。でも、うまくいかなかった。ということは、近代市民社会というアイディアにはそれほどの普遍性がなかったということになります。ロックやルソーやホッブスが言ったことは、国民国家レベルには適用できるが、国際社会には適用できないのではないか。でも、それに代わる「新しい公共」のアイディアはどこからも提出されてこない。そんな敗北感や不全感を何となくみんなが感じている。国際社会の様々な紛争、現在のガザであったりウクライナで起きているようなことを効果的に抑止できる国際機関があれば本当にいいのだけれど、そういう仕組みを誰も思いつけないでいる。
李さんのような若い人は、国連という文字列を見ても「ユニセフ」とか「ユネスコ」とかいうような友愛組織だと受け止めるんじゃないかと思います。だから、国連総会決議といっても「まあ、実効性のないきれいごとだよね」くらいの受け止め方だと思うんです。でも、僕が子どもの頃、60年代だと、「国連」という二文字を見ると、ちょっとワクワクするというか、すばらしい機関があるなあと仰ぎ見るという感じでした。ニューヨークの国際連合のビルがあるじゃないですか。あそこに各国の国旗が並んで立っている風景を映画の画面で見るたびに、「国連のおかげで戦争が無くなるかもしれないなあ」という淡い期待がありました。
李 僕、実はアメリカのコロンビア大学で研究員をしている時に、ニューヨークの国連に行ったことがありまして。あそこって看板の表示が英語とフランス語で、僕もまだ何も知らない状態だったので、「国連って結局、西洋文明の機関なんだ」って結構驚きました。

内田 国連ってもともとは枢軸国と戦ったthe Allies(連合軍)のことですからね。それがUnited Nations と呼称が変わったわけですけれども、第二次大戦の戦勝国がつくった機関ですから、ドイツ語や日本語は公用語に入れてもらえなかったんじゃないですかね。ロシア語や中国語の表記はありました?
李 なかったです。英語とフランス語だけ。同時通訳のチャンネルはたくさんあって、ロシア語も中国語もありました。日本語はなかったですけど。
内田 日本語ないんですか? かつて国際連盟のときは常任理事国だったのに、ずいぶん落ちぶれましたね。
李 僕がいたのは「人権研究所」という所で、世界各国から一人ずつ研究員を集めて、各地の紛争とか平和促進について研究する機関でした。他国の人たちは自分の国の言葉で聞けるのに、僕だけ英語で悲しかったです。
話を戻すと、「どうやって世界的な平和をつくっていくか?」という問いに対して、これだという答えは言えないんですけど、近代市民社会との延長線上で考えた場合、少なくとも平和って「みんなが仲よくしている状況ではない」と思うんです。意見が合わなかったり、気に入らないんだけど、「ここら辺で妥協しておこう」という。
内田 そうですね。落としどころを見つける。全員が同程度に不満な解に落とすことだと思います。「誰かが大いに満足して、誰かがきわめて不満である」という結果をもたらしても、それは平和とは言えない。「成熟した民主主義」においては、選挙が終わった後に全員が不満な顔している(笑)。それはみんなが同程度に不満なところを選挙民が選んだということですからね。
5 「ためらい」を取り戻したい
内田 これは僕の個人的印象なんですけれども、欧米の社会には「仲裁」とか「調停」ということについて、あまり成熟した文化がないんじゃないかという気がします。どちらかが真でどちらかが偽か、どちらが善でどちらが悪かという二元論的な発想なので、どちらの言い分にもそれぞれ一理あるから、「どうですこの辺でナカとって」という裁量が働かない。
仲裁については、法社会学の川島武宜先生の『日本人の法意識』(岩波新書)という名著がありますけど、その中で川島先生は「日本人には真偽の判定をしないで、あいまいな調停に持ち込む文化がある」という話をしています。例に上がっていたのが歌舞伎の「三人吉三廓初買」です。お嬢吉三とお坊吉三という盗賊が、夜鷹から奪った百両を巡って斬り合いになっている。そこに三人目の和尚吉三が現れて、まあ収めてくれと百両を五十両ずつに割り、「半分ずつでは御不満だろうから、俺の両手を斬って一本ずつ差し上げるので、それで収めてくれまいか」と提案する。これを聞いた二人が感動して、和尚吉三を兄貴分と頂いて義兄弟の契りを結ぶ……、という話なんです。
これは「仲裁」ということの本質に触れていると思うんです。仲裁人というのは、両方にとって同じぐらい不満な落としどころを見つけるだけでなく、自分も何かを犠牲に差し出さなければいけない。仲裁人は身銭を切らなきゃいけないんです。別にそんな義理もないのに。この不条理を呑み込んでもらわないと調停とか仲裁ということはできないんじゃないかと思います。
現在の国際紛争を見ていると、「うまい調停案を出す」という叡智的な課題にみんなが取り組んでいて、「自分が何を犠牲にすれば、同じ程度に不満な解にたどりつけるか」という仲裁の本質が理論化されていない気がするんですね。
李 たしかに。今のようなお話は、内田先生が2001年にまとめられた『ためらいの倫理学』(角川文庫)の冒頭にもありまして。
内田 みんな二元論に居着いて、真偽の判定にこだわり過ぎだと思ったんです。それよりは「決めかねてためらう」というのでいいじゃないか、と。
李 『ためらいの倫理学』は、僕が「もっと勉強したい、研究したい」と思うきっかけになった本なんです。先生はたとえばフェミニズムについて、フェミニズムにも反フェミニズムにも「どちらにも与しない」という態度を取っていらした。日本的な空気では「どちらかの側に立つ」というのが普通だと思うので、結構勇気が要ったと思うんです。先生はどうして、判断を留保する「ためらいの境地」に至ったのですか?
内田 どちらの言い分もよくわかるからでしょうね。フェミニズムの言い分はよくわかる。一方フェミニズムは「ちょっと正しすぎる」という反感を感じる人の気持ちもよくわかる。フェミニズムがめざしている「正しい目標」を実現するには、この「正しすぎることに対する反感」を解除しなければならない。そのためには「正しすぎる」過剰な部分はすこし抑制した方がいいんじゃないか。

フェミニズムってものすごく切れ味のいい社会理論ですからね、何でも切れちゃうんです。そして、人間って切れ味のいい論理的な利器を手にすると、つい「そこまでやらなくてもいいところ」まで切っちゃう。これも切れる、これも切れると。理論の過剰適用の誘惑に屈してしまう。
だから僕は「フェミニズムが間違っている」と言ったわけじゃないんです。「ちょっと我慢してください」と申し上げただけなんです。そんなに「正しさ」を振り回しすぎると、そのうちバックラッシュが来るから。フェミニズムに論破された人たちってやっぱり、屈辱感や敗北感を覚えるわけで、その「負けたことのトラウマ」はそのうち別の形で症状として回帰してくる。これは確かなんです。フェミニストが批判したパターナリズムはそのうち全然別の形をとって、より病的な形で回帰する可能性がある。だから、それはしないほうがいい、と。
そうではなく、あまり論争相手に屈辱を与えずに、相手の理論の毒性をゆっくりと時間をかけて希釈してゆく。その方が手間はかかるけれど、最終的には目標に近づけると思ったんです。でもね、正しいことを言っている人に向かって「その正しさをすこし抑制してくれませんか」と言ったって、そんな理屈通りませんよね。「正しいことを言っている人間に、正しいことをすこし控えてくれってどういう了見だ」ってフェミニストから猛攻撃をくらいました。
李 そうだったんですね。『ためらいの倫理学』は、対立が先鋭化している今こそ読むべき本だと思います。というのも今の若者って、人類史上初めての「マスメディアはあるけどマスコミが存在しない」、マスコミが力を失った時代に生きていると思うからです。
6 エコーチェンバー
李 昔だったらラジオとかテレビで同じものを見ていたと思うのですが、今は情報は大量にあるけれど、みんなバラバラなものを見ている。そういった状況で何が起こるかというと、「エコーチェンバー」という現象が起きています。
「自分と同じような意見に囲まれる」みたいな似たような概念でフィルターバブルというのがありますが、フィルターバブルは自分以外の意見が見えない状態。だからエビデンスを示したり論理的に説得すると、「そうか自分は間違っていたんだ」となる可能性がありますが、エコーチェンバーは、自分とは違う意見がすごく歪んだ形で入ってくるんです。「あいつは反日だから話を聞かなくていい」というように。そうすると「自分が間違っていた」と気づく機会がどんどん減っていきます。
SNSを使っているとエコーチェンバーの問題が大きくなってきて、「ためらい」が失われていくんです。「自分たちが正しい、対立する意見は聞かなくていい」みたいな空気が支配的になる。

内田 それはカール・ポパーが『開かれた社会とその敵』(第1巻上下、第2巻上下、岩波文庫)で書いていたことですけれど、科学的な推論というのは、まず仮説を出し、その仮説が適用できない反証事例に遭遇したらそれをも説明できるようなより包括的な仮説に書き換えていく。そういう連続的な仮説の書き換えのことですよね。
本来の知性の働きというのは、自分が仮説を立てた後に、その仮説の正しさを証明する事例よりも、その仮説の反証事例を探すことだと思うんです。科学的知性の本当の光栄は、自分提出した仮説の間違いを、他人に指摘されるより先に発見することにあるんです。エコーチェンバーというのは、絶対に反証事例が入ってこない圏域のことですからね、そこにいる限り、仮説の書き換えというのは起こらない。つまり、科学的であることをはじめから放棄しているわけで、これは端的に「反知性主義」と言っていいと思うんです。
李 そうですね。この状況が進めば、矛盾した言い方ですけど、「知識はたくさんあるけれど無知」みたいな人が増えていくのではないでしょうか。(中編に続く)
プロフィール

(うちだ・たつる)
1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授、神戸市で武道と哲学研究のための学塾・凱風館を主宰、合気道師範(合気会七段)。専門は20世紀フランス文学・哲学、武道論、教育論。 主著に『ためらいの倫理学』(角川文庫)、『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)、『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)など著作多数。近刊に『日本型コミューン主義の擁護と顕彰 権藤成卿の人と思想』(ケイアンドケイプレス)などがある。

(リ・スンジ)
1990年、神戸市生まれ。法政大学社会学部准教授。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。学術振興会特別研究員、コロンビア大学客員研究員などを経て現職。著作に『ベルナール・スティグレールの哲学 人新世の技術論』(法政大学出版局)。