4月17日に刊行された星野博美さんの『野馬追で会いましょう 相馬の馬文化と震災後の日常』は、福島県相馬地方に伝わる祭事「相馬野馬追(そうまのまおい。2026年度は5月23~25日に開催)」を通して、日本の馬文化のいまと原発事故の影響が続く人々の暮らしを描きだすノンフィクション。星野さんと、スポーツニッポンの競馬記者で琉球競馬「ンマハラシー」に造詣の深い梅崎晴光さんの対談後編では、在来馬の現状と馬がもたらしてくれるものについて語り合います。
構成/前川仁之 撮影/織田桂子

──星野さんは1月に沖縄で念願の琉球競馬「ンマハラシー」をご覧になったとか。実際に見られていかがでしたか。
星野 サラブレッドによる競馬は本当に血統重視で、ものすごい資本をかけて、速さで勝ち負けを競う世界じゃないですか。それとはぜんぜん違う、平和的な競馬で、幸せな気持ちになれました。子どももたくさん出ているし、馬の多くが日本在来馬の、小さな与那国馬です。本来は左右同じ側の前肢と後肢が同時に前に出る「側対歩」という歩き方で美しさを競うんですけど、いまはそれができる馬がほとんどいないので、ふつうの速歩で、とにかく駈歩になったらダメなんです。だけど、広場に設けたコースを行って戻ってくると、下り坂で馬はやっぱり駈けたくなっちゃうんですよ。それを観客が「走っちゃダメ、走っちゃダメ」って言いながら見ているのがすごくかわいくて、平和な競馬だなあと思いました。
梅崎 琉球競馬もやはりもともとは士族が始めたものですが、相馬野馬追と決定的に違うのは、武装解除されていたということなんです。近世の琉球は、非武の文化と言いますか、武力がまったくない文化だったんですね。だから競馬も軍隊的な強さとは無縁で、美しさを見せるところからスタートしたんです。
星野さんは、ンマハラシーを見るために、まず久米島の牧場に行って、馬といっしょに本島の会場に移動されたそうですね。そこからして、さすがです(笑)。アプローチの仕方がやっぱりちがう。
星野 2024年に出した単行本『馬の惑星』(集英社)にも登場する、いっしょにワールド・ノマド・ゲームズ(遊牧民オリンピック)を見に行った松岡さんという友人が、実は与那国馬関連の人たちと80年代から昵懇で、私はその人にお任せで、「琉球競馬見に行く前にできたらちょっと乗りたいな」みたいな話をしていたら、久米島に誘われたんです。さらに久米島から本島まで、馬といっしょに船で渡りました。乗り手たちは飛行機で移動したんですけど、私はぜったい馬といっしょに行きたくて。
梅崎 何時間かかりましたか?
星野 4時間くらいかかりましたね。でも馬が小さいので、改造した軽トラック1台に3頭乗るんです。前日にみんなで囲いを手作りするのを手伝って、馬を載せるところから全部同行させていただいて、すごく楽しかったです。港に行くと、職員の方たちが馬にかまいに来るんです。かわいいな、これこそ「馬の在り方」だなと思いました。
梅崎 また星野さんは勘がいいですよね。ンマハラシーに馬を使うところは沖縄県内に何か所も施設があるんですけど、星野さんが行かれた久米島の馬牧場はちょっと抜けて優れていて、そういうところにすっと入っていけるのがさすがです。野馬追で「平本家」の方々と出会われたのもそうですが。
星野さんがおっしゃったように、第二次大戦中にいったん途絶えてしまったので、いまやっている琉球競馬は昔の姿とは違います。野馬追と同じで、伝統と現代の融合を模索しているわけです。私はわりと原理主義者なので、主催者である「沖縄こどもの国」のメンバーが出す方針に、これは違う、あれは違うと意見を出してしまいます。
星野 私がいちばん改善したほうがいいなと思ったのは、採点の仕方です。観客が紅白の旗を上げて採点するのは、絶対やめたほうがいいなと。
梅崎 どうしてですか?
星野 観客席で見ていたんですけど、大応援団が来ているチームがわかっちゃうんです。遠くの久米島からは誰も応援団が来ていないので、久米島の子たちが上手くても、会場の採点では大応援団がついている本島のチームが勝っちゃう。
梅崎 なるほど。組織票が入っちゃうんですね。
星野 そうそう。1人の騎手につき親戚じゅう、20人ぐらい応援団が来ているんですよ?
梅崎 もともとは審判の白旗・赤旗だけだったんですけど、「観客参加型にしたい」という話が出て、いまの形になりました。3人審判がいて、会場全体が4人目の審判という形でやっているので、採点に占める割合としては4分の1になるわけですが。一票になってしまうのは事実ですね。
星野 まあその方が真剣に見るし、盛り上がりますからね。私は琉球競馬の中では外様で優秀な久米島派だったので、ちょっと忸怩たる思いでした。
在来馬の活躍

梅崎 70年間途絶えていた琉球競馬をもとに戻すにはどれだけ時間がかかるか。かなり厳しいかもしれません。
その一方で、沖縄の場合、在来馬は生き残ったんです。相馬野馬追に関しては、文化は続いているけれども、出ている馬たちはサラブレッドが主で、在来馬ではありませんよね。もともと野馬追を実践していた馬たちはもうこの世にいない。種が途切れているので。
星野 在来馬でやれていたのは江戸時代、それこそ相馬藩があった時代までです。明治政府の方針で、質のよい軍馬を量産するために馬匹去勢法(明治34年[1901年])が出され、在来馬は駆逐されてしまったので。その代わり、農耕に使われていた、ペルシュロンなどのいわゆるばん馬が主体になって野馬追をやっていた時期が昭和30年代まで続きました。
梅崎 やはり馬匹去勢法が出されたのが大きいですね。沖縄に適用されたのはだいぶ遅れて大正6年(1917年)で、もちろん影響は甚大でしたし、その後には馬たちも軍役に駆り出されて斃
れてゆくのですが、離島が多かったこともあって、かろうじて在来馬が残りました。ですから、ンマハラシーの伝統は途絶えても、復活させるための資源=琉球馬はあったんです。戦前は宮古馬中心でしたが、いまは与那国馬が活躍しているので、厳密に昔と同じではないのですが。
星野 絶滅の危惧もあった与那国馬が沖縄じゅうにひろがって、その子孫たちが年に一回競いにンマハラシーに集まるのは、大河ドラマっぽいところがあって感動しました。
ただ、あの馬体の小ささでは、大人が出場するのはなかなか難しいかなぁ。ンマハラシーの出場条件は沖縄県内の牧場の馬であることなので、在来馬以外も出られるけれど、大人が乗る馬は大きくなきゃ無理です。つまり在来馬でやろうとすると、子どもの大会になっちゃう。それが現実です。または、みんな武豊騎手みたいな体形になるか。そこが、今後琉球競馬が定着するかどうかの課題だと思いました。
梅崎 『馬の惑星』でお書きになっていたモンゴルのナーダムの草競馬も子どもたちが騎乗するんですよね。
星野 ナーダムは走行距離が長いので、馬に負担をかけないようにしているんです。馬の年齢によって距離が決められていて、一番長いレースが30キロ。その距離をモンゴル馬が全速力で走る場合、乗せられるのは子どもだけなんです。
30キロというのはもともと、モンゴル帝国がジャムチという駅伝制を作った時に決めた距離でした。当時の馬が人を乗せて全速力で走って死なない距離。そこまで走ったら別の馬に乗り換えて、最初の馬は休ませて、回復したらまた別の誰かが乗る。要は現代のカーシェアリングのようなことをやっていたんですね。
駅伝制はイスラム帝国もペルシャも持っていたけど、みんな距離がちがいます。どこも、統治者が「うちの馬は何キロまで走れるから」と経験によって決めているから。本当にその土地の馬のことを知り尽くしていないとできません。
プロフィール

(ほしの ひろみ)
ノンフィクション作家、写真家。1966年、東京生まれ。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞、『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第63回読売文学賞「随筆・紀行賞」・第2回いける本大賞、『世界は五反田から始まった』(ゲンロン)で第49回大佛次郎賞受賞。主な著書に『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『みんな彗星を見ていた』『謝々! チャイニーズ』(文春文庫)、『馬の惑星』(集英社)など。

(うめざき はるみつ)
1962年、東京・高円寺生まれ。1986年、スポーツニッポン新聞(スポニチ)東京本社入社。1990年からJRA中央競馬担当。2022年の定年後もスポニチ東京レース部専門委員として記者活動を続けている。『消えた琉球競馬 幻の名馬「ヒコーキ」を追って』(ボーダーインク)で、2013年度JRA賞馬事文化賞、沖縄タイムス出版文化賞正賞を受賞。2025年、同書の増補改訂版を刊行。2024年には絵本『おきなわ在来馬ものがたり』(沖縄在来馬保存事業実行委員会 事務局・琉球新報社発行)を著した。


星野博美×梅崎晴光








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