「公式」の研究 第1回

「公式」とは何か

稲田豊史

運営母体+正典=公式?

 「公式」という言い方がある。数学の公式のことではない。

 アニメやマンガや映画などの作品、アイドルをはじめ芸能活動を行うアーティスト、あるいは各種のイベント。それらの運営・宣伝・管理の権限を正当に有する組織体は、昨今「公式」と呼ばれるようになった。特に、作品やアーティストやイベントに多くの支持が集まってファンダム(熱心なファンによるコミュニティ)が形成されているような場合、ファンは擬似的な人称代名詞のようなニュアンスを込めて「公式が言ってたけど」「最近の公式、怠慢だよね」などと口にする。

 「正規の制作元・運営元から提供されたコンテンツ」や「正式に発表されたアナウンス」など、素材や情報そのものを指して「公式」と呼ぶこともある。また、アニメやマンガの二次創作者が本家本元たるオリジナルを指して「公式」と呼んだりもする。

 言ってみれば、宗教における正典(カノン)だ。信者が従うべき教義の規準や信仰生活の規範となる書物(に表象されるもの)、それが「公式」である。そこには、ある種の規範性、絶対性、ヒエラルキーの上位として従うべき存在、といった香りも漂う。

 ちなみに、広辞苑 第七版(岩波書店)における「公式」の項目には

①おおおやけに定めた方式。おもてむきの儀式。

②数や式の間に成り立つ関係あるいは法則を表した式。

 と記載されており、運営組織や正典を想起させる説明はない。

 他の辞書はどうか。岩波国語辞典 第八版(岩波書店)、三省堂国語辞典 第八版(三省堂)、新明解国語辞典 第八版(三省堂)、明鏡国語辞典 第三版(大修館書店)、旺文社国語辞典 第十二版(旺文社)もほぼ同様で、運営組織や正典を意味する説明はない。

 ただし、現代新国語辞典 第七版(三省堂)には、数学の公式の説明の次に「公式サイト。また、その会社の広報・宣伝部」と“組織体”を指す記述があり、例文として「公式からの発表を待つ」が載っている。「対ファンダム」的なニュアンスが見いだせなくもない。

 他方、イラスト・マンガ・小説の投稿プラットフォーム「pixiv」が運営するピクシブ百科事典における「公式」の説明抜粋は以下だ。

「本家本元。その作品の権利を持つ者によって作られたもの」

「漫画やアニメ、ゲーム作品では作者&製作者が作った一次作品のことを『公式作品』と呼ぶことが多い」

 これらを踏まえた使用事例をいくつか挙げてみよう。

「公式が有能」

新規の描き下ろし絵やアーティストのオフショット映像などを頻繁に供給してくれる、スタッフや演者やアーティストのコメントをまめにアップしてくれる等、ファンのツボを的確に突いた素材出しにぬかりがない様子を褒める言い方。派生として「公式の供給が尊い」。

「公式が無能」

作品の新展開やアーティスト出演スケジュールなどの情報出しが遅い・乏しい・不正確など、ファンが満足いくような「仕事」ができていないことを非難する言い方。あるいは、作品やアーティスト周りでのトラブルや炎上に対する対応が悪手すぎて見ていられない、といった状況下でも浴びせられる。

「公式が最大手(さいおおて)」

おもに二次創作界隈での使用。オリジナルたる原作内に、ファンが喜ぶ同人的要素(例:BLを彷彿とさせるカップリング描写など)がすでに描かれていることを好意的に表した言い方。あるいは、公式がファンの欲望を十全に満たすという意味で最良の供給元であるという賛辞。なお「最大手」とは、同人誌即売会においてトップクラスの人気を誇る著名サークルのことを指す。

「公式に聞いてくる」

発表情報の細部に不明点があったり、他メディアで報じられた情報(不祥事なども含む)が公式サイドからは未発表だったりした場合、ファンがSNSの公式アカウントや問い合わせフォームなどを通じて直接問い合わせようとする際の言い方。

「公式にそんなこと言わせるなよ」

イベント等におけるファンのマナーの悪さなどを公式がサイト等で注意喚起した際、別のファンがマナーの悪いファンをたしなめる言い方。「そういうことは私たちが自制すべき。公式さんの手を煩わせちゃダメ」。

「公式はそんなこと言ってない」

作品の設定解釈やアーティストの意向などについて、誰かが推測に基づいた断定を行った場合、懐疑とともに飛びかう非難めいた言い方。「出典を明示しろ」「エビデンスを示せ」にほぼ等しい。

 このように現代語としての「公式」は、定義と使用例だけでも非常に広がりと膨らみがある。ジャンルによって、あるいは話者の立ち位置や当該コンテンツとの関わりの深さや抱く愛の種類によっても、「公式」が何を指すのかは変化し、距離感も信用度も畏(おそ)れかたも一様ではない。公式の機嫌を損ねないようなファンのムーブもあれば、公式を厳しく批判したり、運営方針の改善を積極的に求めたりというムーブもある。実に興味深い。

公式にまつわる最近の“事件”

 ここで、公式の機能・性質・役割を考える上で示唆に富む最近の“事件”をいくつか紹介したい。

①『ズートピア2』ジュディとニックのフィギュア問題

 2025年12月に公開されたディズニーアニメ『ズートピア2』公開直前のこと。主人公のジュディ(ウサギの新米警官、女性)がニック(キツネの元詐欺師でジュディの相棒、男性)に抱きついているフィギュアの写真に、あるファンからX上で物言いがついた。抱きつかれているニックの目がハートになっていることが納得できないというのだ。このフィギュアは前作『ズートピア』(2016年公開)の1シーンを元にした正規ライセンス商品だが、たしかに元になった絵でニックの目はハートではなかった。「改変」されたわけだ。

ほ、ほ、ほ、ほんまに無理や…解釈違い甚だしい………………

こんなのが映画10周年記念?????本当に公式…?????????

誰ですかこれ通したのありえない本当に公式が勝手に言ってるだけすぎる

(@28ren_nico25のXへのポスト/2025年11月26日)

 この感情には説明が必要だ。前作『ズートピア』は、ジェンダー不均衡の告発や人種間分断への問題意識喚起がストーリーに盛り込まれており、非常にリベラルな先進性を志向した作品として高い評価を受けていた。それゆえに、作中で描かれたジュディとニックの関係も、男女の枠組みを超えて信頼し合う崇高なバディ(相棒)として描かれ、安直な恋愛感情に基づいたものではなかった(と解釈するファンが多かった)。だからこそ投稿主は、「一番大事な所をわかってない!」と憤ったのだ。公式がこの商品にOKを出しているだけに、憤りというよりは激しい失望のほうが上回っているかもしれない。

 このポストは5000万以上のインプレッションを獲得し、多くの同意が集まったが、ここでのポイントは、ファンは公式が認めたからといって、必ずしもそれに賛同するわけではないということだ。すなわち、ここにおいて公式は、先述した「規範性、絶対性、ヒエラルキーの上位として従うべき正典」ではない。

 そのことは「公式が勝手に言ってるだけ」という、なかなか香ばしい物言いに込められている。公式が作者とイコールであるか否かは今後の連載回でじっくり考えるとして、原則論として「同じ船に乗った利益共同体」であることは、間違いなかろう。であれば、作品および作品派生物のクリエイティブ決定権もまた、公式が正当に有していると考えるのが自然である。

 しかし投稿主は、作品とはそれを“正しく”解釈するファンのものであって、公式が“勝手に”決めるべきではない――という主旨の主張をした。これは、なかなか面白い現象だ。かつて知り合いのラノベ編集者に聞いた話を思い出す。ある作品の最新巻を読んだ熱心なファンが、作者本人のアカウントにこんなリプを飛ばしたそうだ。

「あのキャラは絶対こんなセリフを言いません!」

②『名探偵コナン』灰原哀ヒロイン扱い問題

 青山剛昌による漫画『名探偵コナン』のヒロインはコナン(工藤新一)の幼なじみである毛利蘭である。しかし劇場版をはじめとしたアニメシリーズでは、蘭よりも灰原哀(宮野志保/「黒ずくめの組織」の元研究員)のほうが、コナンとカップル的に扱われることが多い――と感じている蘭派のファンが、「公式が蘭を冷遇している」「(公式に含まれる)アニメスタッフの暴挙」などと不満を漏らし続けていた。その不満が2025年11月、あるXのポストによって燃え広がった。

 ここでも『ズートピア2』と同じく公式不信が可視化されているが、論点は少し異なる。公式と原作者について、ファンがどのように考えているかだ。

 灰原哀のヒロイン的な扱いに不満を持っている蘭派ファンの多くは、青山剛昌の原作を至高の正典と捉えているため、灰原哀による「コナンの彼女ヅラ」は、正典から外れるものとして許容できない。しかしよくよく考えてみれば、アニメシリーズは原作者の許諾が取られている(はずの)「公式」作品のため、普通に考えれば原作者――正典たとえで言うなら、さしずめ教祖――の意に沿うように作られている(はずだ)。しかし蘭派は、公式に含まれているアニメスタッフの暴走であり、教祖の意思を無視していると考える。

「教祖のご意思」を信者たちがそれぞれに想像し、アウトプットとしての教義や儀式が「ご意思」と矛盾していないかどうかを議論し、激しくぶつかり合う。それこそ教会の分裂や分派同士の闘争さながらの事態だが、面白いのは、この手の議論のほとんどが、教祖すなわち作者が不在で行われるという点にある。

 X上では、「原作にない映画内での設定は公式設定と言えるのか」「原作なんて知らない。アニメの話をしている」「青山先生もヒロインは蘭だと言い切っている」といった丁々発止が繰り広げられていたが、中でも傑作だったのが、原作者の青山が新一と灰原のカップリングを否定している発言があるというポストに対し、ある投稿者が以下のような“暴言”を吐いたことだ。

作者程度じゃ、哀さんがどんだけ

ヤバいメスかわかってないってだけでしょ?

作者がキャラのことぜんぜん解ってないとか良くあるのに

何勘違いしてるんでしょうね

(@monikas821のXへのポスト/2025年11月29日)

 「作者程度」「作者がキャラのことぜんぜん解ってない」ときた。ロラン・バルトのテクスト論(いったん書かれた文章は作者から切り離され、自律的なものとなってさまざまな読まれ方をする)すら思い起こされるが、作品―公式―作者の関係性、作者は公式に含まれるのかどうかなどを考えるうえでは、非常にクリティカルな“暴言”もしくは“迷言”であったと言える。

③『ぼっち・ざ・ろっく!』脚本家炎上問題

 ファンにとって公式が「どこまでの関係者を指すか」は、ことあるごとに議論の的となる。記憶に新しいところでは、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!(ぼざろ)』のシリーズ構成・脚本を担当した吉田恵里香氏の発言の「炎上」だ。

 同氏は2025年9月に都内で行われたイベントの席上で、『ぼざろ』の女性主人公が水風呂に入るシーンについて、原作では裸になっているところアニメでは水着を着せた点に言及。「ぼざろがそういう描写が売りの作品ならいいと思いますが、そうではないと思いますし、覇権を狙う上ではそうした描写はノイズになると思ったんです」(KAI-YOU「『ぼっち・ざ・ろっく!』『虎に翼』の脚本家 吉田恵里香が語る、アニメと表現の“加害性”」より)と発言。この記事は、「原作ありきのアニメ作品なのに、リスペクトすべき原作での描写を、いち脚本家がノイズ扱いして改変するとは何事か」といった反発を招いた。

 しかし、吉田氏の「改変」は当然ながら作品のプロデューサーや監督にも承認された、いわば「公式お墨付き」の改変だったはずである。「ヒロインに水着を着せること」は、公式の大いなる意思だった。もっと言えば、アニメ制作スタッフのひとりである吉田氏も「公式の一部」である。

 ややこしいのは、同じイベント内で吉田氏が「公式側が『さぁ搾取してください!』と言わんばかりにばら撒くのは抵抗があるんです」と発言したことである。取りかたによっては「脚本家は作品公式の大いなる意思に必ずしも賛同せず、時に抵抗することもあるのだ」とも解釈できる。

 吉田氏を批判した人たちは、吉田氏個人に腹を立てている―のだとすれば、吉田氏の「改変」を許容した公式にも怒りを差し向けるべきだが、そういう空気にはならなかった。これはどういうことか。今はひとまず、自我を匂わせる個人(吉田氏)は叩かれるが、自我を感じさせない構造体(公式)は叩かれにくい―と仮定しておこう。

④公式に問い合わせちゃう問題

 昨今、公式の「中の人」から苦笑いを交えながら吐露されることがある。出版社あるいは作者、すなわち公式に直接、「二次創作していいですか?」といった許可を求める人が増えているというのだ。たとえばこんな感じである。

「主人公とその親友をカップルにしたBL作品を即売会で売りたいのですが、描いていいですか?」

「お気に入りキャラのアクスタ(アクリルスタンド)を自作したいのですが、問題ないでしょうか?」

 当然ながら、真正面から問い合わせされて回答を求められれば、公式としては断るしかない(それゆえ良心的な公式は「回答しない」という方法をとる)。作品やキャラクターには商業上の権利が発生しており、キャラクターを使用してコンテンツなり商品なりを作り、あまつさえ販売して利益を得るためには、契約を交わしてライセンスを取得する必要があるからだ。そもそも許可申請を「了承」などしてしまったら、正式にライセンスを受けているグッズ制作メーカーなどの企業(ライセンシー)に対して顔向けができない。

 従来、二次創作は「公式に黙って、内輪で勝手にやるもの」だった。公式としても、大きくビジネスの邪魔になっていない限りは、推奨はしないまでも黙認あるいは見逃していた。そこには、作品のファンが作品を盛り上げるためにやっている、それもまた、長い目で見ればビジネスにとってプラスになる――といった温かい目線も含まれていただろう。倫理上看過できない内容の二次創作について注意喚起はするものの、基本的には温情的な放置が基本姿勢だったわけだ。だからこそ、日本の同人誌文化は数十年にわたって育まれた。

 ところが昨今では、SNSなどを通じて「許可」をカジュアルに求めてくる。この背景に何があるのかは、実に考察のしがいがある。白黒つけなければ気がすまない世相、あるいは世代の問題なのか。単にSNSの登場によって問い合わせしやすくなっただけなのか。あるいは、オタクと呼ばれる人たちに「新種」が登場した結果なのか?

 なんにせよ、「公式への直接問い合わせ」は良い結果を生まない。その一例が「大沢たかお祭り」終息問題だ。

 2025年、実写映画『キングダム』シリーズで王騎将軍を演じた大沢たかおに対する人気の高まりから、王騎将軍の画像を使ったネタ投稿的なムーブメントがスレッズ上で発生した。ところが、あるユーザーが公式に二次創作的な遊びの“許可”を求めてしまったため、ムーブメントは勢いを欠いてしまう。

大沢たかお祭り。

「オフ会やりたい!王騎将軍マタニティキーマークや顔ハメパネルを作りたいので公式に許可申請しました!」

と暴走する人が出て、公式が苦言を呈したらしく、タグ発祥地のスレッズではブーム終了宣言が出ていた。

祭りの終焉はいつもこうなんだな…

(@masaki77によるのXへのポスト/2025年5月11日)

 現代の多くの公式はファンダムとの良好な関係性を保つべく、四角四面なルールを無慈悲に振りかざすことなく、「なあなあ」の部分をなるべく残そうとする。ファンも、その一線を超えない範囲での活動を心がけさえすれば、快適な推し活を行える。

 しかし公式は、どこまでいってもビジネスの運営主体だ。良好な関係性の水面下には、普段は可視化されない法的な縛りが確固として鎮座している。誰かがそれを破ろうとするなら、公式は阻止せざるをえない。なあなあ的な均衡は、そこで一気に崩れてしまう。

⑤アニメ専門誌の原稿“監修”問題

 2025年2月12日、当時TVアニメシリーズが放送中だった『戦隊レッド 異世界で冒険者になる』の公式サイトにおいて、【ご報告とお詫び】と称したリリースが掲載された。内容は、同年2月10日に発売されたアニメ専門誌「アニメージュ 3月号」に掲載された、同作の監督・川口敬一郎氏のインタビューが「未監修」のままで掲載されてしまったことをお詫びするもの。文末の署名は「異世界レッド製作委員会」名義、つまり「公式」だった。

 通常、雑誌やウェブなどの媒体にインタビュー原稿が載る場合は、①媒体側がライターを決め、②媒体側が聞きたいことをライターを通じてインタビュイーに聞き、③媒体側が載せたいと思う発言を原稿化し、④原稿の事実関係が正しいかどうかをインタビュイーに原稿チェックしてもらったのち、掲載する。

 ところが「アニメージュ」の川口監督インタビューでは、原稿チェックと思われるプロセスを『戦隊レッド 異世界で冒険者になる』の公式が「監修」と呼んだ。そのうえで、公式サイトにはお詫び文とともに、載ってしまった監修前の「間違った」原稿と、監修後の「正しい」原稿が比較できるように並べられ、該当箇所がわかりやすく赤字で示されていた。

 論点はいくつかある。まず、「監修」とは何かということだ。

 「監修」からイメージされるのは、たとえばこういうことではないか。「公式がライセンスを渡してキャラクターグッズ制作などを行うメーカーに対し、その制作物が作品の世界観やキャラクターイメージに合っているかどうか、品質が水準に達しているかどうかをチェックし、監督すること」。つまり監修とは、そのコンテンツを世に出す責任と権限を持っている役割を指す。監修者のOKが出ない限りそのコンテンツは永遠に世に出ない。言い換えるなら、監修者はコンテンツの生殺与奪権を握っていると言っても過言ではない。

 その意味で「アニメージュ」の記事は、異世界レッド製作委員会という「公式」に生殺与奪権を握られていたわけだが、そもそも「アニメージュ」は『戦隊レッド 異世界で冒険者になる』という作品の広報誌でも宣伝媒体でもない。徳間書店という出版社が発行し、編集部が編集権を有する、独立した雑誌のはずだ。

 短絡を承知で言うならば、果たしてここにジャーナリズムは存在するのか。アニメ業界において公式とは、媒体に対してこれほどまでに「強い」存在なのか。

 もうひとつの論点は、監修によって「修正」が入っているという事実を、読者がどう受け止めたかということである。

 【ご報告とお詫び】ページを確認すると、修正は誤字脱字や事実誤認の微細な訂正というよりは、言い回しを変えたり、元々の原稿では言っていなかったことが追記されていたりする印象を受けた。監修前原稿の段階では落とされてた川口監督の発言が監修によって「復活」したのか、監修によって「創作」されたのかは、知るよしもない。監督の実際の言葉に近づいたのか、遠ざかったのか。あるいは、そうではない「公式が決めた方向性」に倣うように整えられたのか。監督がインタビューの現場で「実際にどう言っていたのか」は気になるところだ。

 しかしそれよりなにより、この件がアニメファンの間でそれほど大きく受け止められていなかったことが、筆者としては驚きであった。

「え? インタビュー原稿って、インタビュイー側からこんなにも修正が入るものなんだ。私たちが本人の言葉だと思って一言一句信じてきた今までの記事って一体……」といった感想が漏れてもよさそうなところ、そういう所感は優勢ではないように感じた。要は、特に問題になっていなかった。というよりも、「問題になどならない」という確信が公式側と「アニメージュ」側にあったからこそ、このようなリリースを出した―と考えるのが自然だろう。

 筆者の過去の体験と照らし合わせるなら、川口監督インタビュー記事レベルの監修(という名の大規模修正)が入るのは、アニメ関係記事では特に珍しくない。が、その当たり前とされている慣習にこそ、あるいは読者がそれを問題視していない状況にこそ、公式、アニメ専門媒体、アニメファン各々の役割や関係性が象徴されているように思える。

 この件は今後の連載回で深堀りするが、ひとつ予告的に述べておくなら、監修という名の原稿チェックを「公権力による検閲」に例えるのは、ある種の思考整理ではあるものの、実はそう単純なものでもなさそうだ。このあたりに、公式が周囲からむしろ「期待されている」機能が凝縮されているのではないか。

 以上、①〜⑤の“事件”の発生事由や発生背景を考えるのは、公式とは何かを概念レベルで突き詰めることにも等しい。本連載が回を重ねるにつれ、その解像度は少しずつ上がっていくことだろう。

このきわめて奇妙な概念体

 「公式」が広辞苑以外の意味を獲得し、その意味での使用がそれなりに普及したのは、比較的最近のことだ。「公式」を組織体としても定義した先述の現代新国語辞典 第七版の発行は2024年1月。その編集方針は、三省堂のサイトによれば「高校生が使う教科書に載っている言葉、用法を採録している」。つまり、この意味での「公式」がどちらかといえば若年層に浸透しつつある「若い言葉」であることがうかがえる。

 あくまで参考程度だが、Googleトレンドで「公式」のWEB検索頻度を直近15年で調べると、2019年ごろから上がっている。その背景にいわゆる「推し活」の普及があることは推測できるが、筆者としては、もっと大きな時代の気分が作用していると踏んでいる。

「公式」という言葉のここ数年の浸透は、日本社会の「何か」を示している――と仮定して、複数の方向からその実態と本質を明らかにしていくのが、本連載の狙いだ。その過程では、以下のような疑問をひとつずつ解いていく必要があるとみる。

・なぜ公式の示す範囲や定義は界隈のジャンルや話者の立場によって異なるのか。

・公式に求められている役割は「正解の提示」か、そうではない何かか。

・公式は信者を統べる絶対的存在か、信者に寄り添う連帯者か。

・公式がジャーナリズムや批評を「殺す」とは、どういうことか。

・なぜ公式に抱く印象が世代によって異なるのか。

・現代的な意味での公式は、いつ、どのようにして誕生したのか。

・公式のどこが日本(人)的なのか。

・結局のところ、公式とはなんなのか?

 答えの鍵はおそらく、実際に公式に関わっている人たち―各界隈のファン、および公式の「中の人」たち―が握っている。本連載では彼らへのヒアリングを手がかりに、令和日本という時代の気分、あるいは〈どうしようもなく日本的なるものの正体〉を、公式という、このきわめて奇妙な概念体の中に発見できればと思う。

 しばし、探究の旅にお付き合いいただきたい。

(次回へつづく)

「公式」の研究

推し活がビックビジネスになりつつある昨今。とりわけ、アニメ、アイドル、お笑い分野はかつてない活況を呈している。 それと同時に、かつては存在しなかった言葉がファンの間で流通し始めた。それが「公式」である。作品の制作者の意図、アイドルの世界観、番組の意図などその言葉の使われた方はさまざま。共通するのは「公式の判断が絶対視」されていることである。なぜユーザーたちは「公式」を絶対視するようになったのか? 日本のメディア・消費の変化の最前線を取材し続けてきた著者が、「正解」や「絶対者」を超えた欲望をあきらかにする。

関連書籍

本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形

プロフィール

稲田豊史

いなだとよし  1974年、愛知県生まれ。ノンフィクションライター、編集者。映画配給会社、出版社を経て、2013年に独立。著書『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ―コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)が新書大賞2023第2位。その他の著書に、『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新書)、『このドキュメンタリーはフィクションです』(光文社)、『ぼくたち、親になる』(太田出版)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『「こち亀」社会論 超一級の文化資料を読み解く』(イーストプレス)などがある。近著は『本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(中公新書ラクレ)。

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