生成AIの急速な進化が止まらない中、SNSやネット上には「最新のAI活用法」を紹介する投稿が目立つようになった。それらのお役立ち情報は、AIのアップデートとともに日々更新され、目まぐるしく上書きされていく。
矢継ぎ早にそれらの投稿を眺め続けていくユーザーは、どこか窮屈な想いを抱えているのではないだろうか。ITリテラシーを上げないと損するのではないか、更新されていく情報に付いていかないと情弱と思われてしまうのではないか……。投稿に付された煽り文句も相まって、便利になっているはずなのに、いつの間にか焦燥感を覚えて消耗してしまう。
ライター兼ポッドキャスターの速水健朗氏が、2026年3月に上梓した『機械ぎらい 機械音痴のテクノロジー史』では、表題通り上記の問題に言及している。本対談では、近著『置き配的』を上梓した哲学者で批評家の福尾匠氏とともに、技術革新が著しい現代とどう向き合っていけばいいのかを問い直す。

■人々のApple製品への愛情が揺らいでいる
速水 僕はグーグル・マップで迷ってしまったり、QR注文やセルフレジにまごついたりするので使いにくい機械やシステムについての本を書いたわけですが、実際は自分でポッドキャストを編集しているし新しいテクノロジーにも興味がある。だから、完全なる「機械ぎらい」ではないんですよ。だけど、使いにくい機械の使いづらさについて主張をすると、機械が苦手な人だと思われる。
そのジレンマをよく感じるのですが、福尾さんは機械が苦手か得意かでいうと、どちらですか。
福尾 どうなんですかね。僕も自分のホームページを自分で作ったりしているので、苦手意識があるわけではない。でもプログラミングができるわけではないし、カメラとかもわからないので……苦手なほうかもしれないすね。
速水 たしかに、いまは機械が苦手な人と得意な人の境界線がわかりにくいですよね。自分の友人でも、一見新しいテクノロジーが得意そうなのに、実際はテキストエディタと検索エンジンしか使わない人はけっこういます。
少し前までは、時計やラジオを分解できる人が、わかりやすく「機械が得意な人」でしたよ。僕はその種類の「メカ好き」に近いので、機械の仕組みとかには関心がある。
けれども、いまの時代のユーザーインターフェイスやソフトウェアは、むしろ苦手になってきているんです。いまの40から50代で機械音痴な人は、むしろメカ好きな人に多い気がしますね。
福尾 世代問わずいまの人たちは、ハードが更新されていくペースとソフトがどんどん入れ替わっていくペースのギャップを、なんとか埋めようとしている。でもそのハードとソフトのズレから、「デザインの敗北」と呼ばれるような、使いにくい機械が生まれているわけですよね。
たとえば初期のAppleは、ハードを新しくすることとソフトを新しくすることを同期させようとしてきたと思います。でも最近のAppleはもう、その思想を貫徹できていないですよね。
速水 最近はとくに、Apple製品の日本語入力はだんだん使いにくくなっているという意見がユーザーからもあがるようになってきています。もともと使いにくかったので、ようやく可視化されてきただけなのですが、以前は「Appleが作るものが完璧じゃないわけない」という信仰があったんですよね。
だからいま「俺たち何でそんなApple好きだったの?」ってAppleユーザーは、わけがわからなくなっているんですよね。今まで曖昧にされてきていたハードウェアの愛とソフトウェアの愛情が相対化されて、なにを愛していいかわからなくなっている。
福尾 僕にとっての最初のApple体験は、iPod shuffleなんですよ。小さくて、クリップで襟に留められて、ディスプレイがなくて物理ボタンだけがある。あれはまさにハードだけがそこにあって、ソフトが介在しているという意識が働かない。自分はハードをさわっているんだっていう感覚が好きでした。その感覚が仮にフィクションであったとしても、いまそうしたことを感じられるガジェットって、なくなってしまいましたよね。あのハードには一種のノスタルジーを感じます。
速水 単体機能のデバイスの良さですよね。
福尾 まさにそうなんです。いまレコードやカセットテープがリバイバルブームになっていますけどアナログなものにかぎらず、iPod shuffleみたいなデジタルな単体機能製品の良さもありますよね。

■日本語は使いにくいデザインをしている?
福尾 先ほどApple製品の日本語入力の話が出てきましたが、『機械ぎらい』を読んで僕が勝手に似ていると思った本にトーマス・S・マラニーの『チャイニーズ・タイプライター:漢字と技術の近代史』(比護遥訳、中央公論新社)があります。
この本は、タイプライターというもともとアルファベット圏に特化した機械を、中国語という何万文字も漢字があるような言語圏で実現するまでの悪戦苦闘を辿った歴史書です。
速水 僕もその本は大好きです。
福尾 やっぱりそうですか!僕は『機械ぎらい』を読んで、『チャイニーズ・タイプライター』的な問題ってやっぱいまだに解決されてないのではないかと思ったんです。一言でいうと、日本語自体がテクノロジーに向いていない、「機械ぎらい」な言語であるように感じました。
例えばローマ字入力で「東京」と打とうとしたときに、東京の公式のローマ字表記はTOKYOですけど、そのまま入力すると「ときょ」と出てきてしまう。だからわざわざ、TOUKYOUって打たなきゃいけないという、めちゃくちゃ変なことをいまだにわれわれはやっています。
明治期から漢字廃止論はありましたが、いまでも日本語と技術的な環境の相性の悪さは解消されていないのだなと思います。だからこそ面白いのですが。
速水 梅棹忠夫は1969年に『知的生産の技術』(岩波新書)を出したあたりから、キーボードやタイプライターを普及させるために漢字を廃止しろとか、ひらがなかカタカナのどっちかにしろということを、ずっと言っていたんですよね。
梅棹忠夫は2010年に亡くなったので、コンピュータが普及して、スマホが出てくるぐらいまでは社会を見ていた。そしてその頃から増えたので、キラキラネーム。キラキラネームをばかにするのはよくないという前提のうえの話ですが、もし梅棹が生きていたら「名前は社会の共通コードなのに読み方がわからないものが増えるのはよくない!」と激怒するはずです。
これは日本語という言語への感覚の問題で、名前に限らず、さまざまな名称において複雑な漢字を使うことを気にしなくなってきている。いまの人々は簡単に読み方がわからないことを問題に感じていなさすぎるんですよね。
1980年代から90年代までの日本人は、漢字をとにかくひらいてたんですよ。「走る」ですら「はしる」にしたり。いまは単純に変換できるからという意味で、漢字を使ったものが増えていますよね。
福尾 日本語は本当に暗号みたいな言語で、漢字単体の読みからはまったく想定できない読みを名前にあてたりするわけですよね。それでも、ひらがなとカタカナだけで使うのも現実的でもないですし、日本語の面白さがなくなる気もするんですよね。
単純に機械側を日本語に寄せるべしともいえないですが、工夫はもっとあっていいんじゃないかなと。その点、フリック入力は大きい発明だったなとは思います。

■日本人は国産のユーザーインターフェイスに厳しすぎる
速水 フリック入力派ですか。
福尾 スマホはフリック入力ですね。
速水 僕はたまに練習するんですけどフリック入力がまるでできないんですよ。もう、文章を考える回路が完全にキーボードに結びついているんです。フリックだと文面すら浮かばない。鉛筆でも、もはや少しそうですけど。だから、スマホとPCで入力方法を自然に切り替えられる人が、逆に不思議でしょうがない。それを下の世代に言うと、「え、フリック入力以外のスマホの入力方法ってあるんですか?」って聞かれるんです(笑)。
福尾 そもそも日本語にとって、キーボードは使いにくいんですよね。そもそもいまも主流のQWERTY配列のキーボードは、英語の文字の頻度分布にのっとって、よく使う字を打ちやすい位置に配列してる。だから英語だと打ちやすいわけですが、当然日本は打ちづらい。
そうなると、かな文字入力に最適化したキーボードを作る方向性もあるはずなんですけど、どこのメーカーも大々的にはやらないですよね。
速水 日本製のキーボードの歴史は、メディア史で一番面白いんですよ。日本のメーカー各社が、独自の入力方式を考えていたんです。例えば、富士通の親指シフトって知っています?
福尾 知っています。たしかにワープロ時代のほうが、いろいろな入力方式がありましたよね。
速水 そうなんですよ。日本語をどうコンピュータで扱うかという歴史は、かなりおもしろいんです。漢字コードや標準漢字を作った人たちは、単に技術仕様を整えていたわけではなく、日本語をこれからどう機械に乗せるのかという問題に向き合っていた。
そもそも初期のインターネットは、英語を前提にしていました。多言語化しなくてもいいという考え方も強かった。そのなかで、日本語がインターネット上で使えるようになったのは、漢字をコード化し、日本語を扱える仕組みを作った人たちの努力が大きかったと思います。
一方で、入力方式やパソコンの規格を見ると、日本独自の試みはかなり淘汰されていきました。90年代を通して、日本独自のパソコン規格は国際標準に飲まれていく。日本語はグローバルな情報環境の中で使えるようになったけれど、日本語に最適化された仕組みがそのまま残ったわけではない。だけど僕らはなぜか、国内のインターフェイスには厳しくて、海外のものには甘い。みんな楽天やソフトバンクが使いにくいと怒りがちですよね。僕もそう思ってしまうタイプなんですけど。
福尾 僕もまさにMacを使っているんですけど、Mac純正の日本語入力ソフトじゃなくて国産日本語入力ソフトのATOKをインストールしています。Macの予測変換ってちょっと使ってるとどんどん変な履歴を学習していって、わけわかんないことになっちゃうんです。
速水 僕もATOKずっと使っているんですけど、自分のTwitter(現X)を遡るとATOKの悪口が結構出てきます(笑)。先ほどの話でいうと、ATOKは数少ない国産の変換ツールだからこそ守っていかなきゃいけないはずなのですか、国産だとなぜか身近に感じて悪口を言いやすいのかもしれないですね。

■なぜカタカナ語が増えるのか
福尾 日本語の話でいうと、われわれがしゃべっている言葉の中にもカタカナ語とかが増えているわけで、ボタンが増えた機械に似てる気がするんすよね。「○○ハラスメント」とか「デジタルトランスフォーメーション」とか、外来語をそのままカタカナ語にして使っている文章って、ボタンだらけの機械みたいに見えるし、『機械ぎらい』で指摘していたような、みんなが新しいテクノロジーについて知ったかぶりしている状態に近い気がします。
なにかわからないままボタンぽちぽち押して、たまにまごついて、ちゃんとレジで支払いができなくなるように、なにかわからないまま新しい言葉を使っている。
速水 言語においても、無理にすべてのひとが同じ言葉を使う必要がないんですよね。
僕は『ケータイ小説的。』という、ガラケーの時代にそれだけでやり取りをする世代が出てきて、そこだけで使われる言語で小説を書き始めたことについて論じた本を20年前に書きました。
あの本は当事者たちだけが使える言語についてのメディア論なんです。
1990年代のポケベル世代は、完全記号化した言語でやりとりしていたんですよね。「あ」を「11」で表すみたいな、本当にザ・記号化みたいなことでやり取りをしていた。2000年代のガラケー世代も、自分たちしか理解できない暗号的な言語を持つことで自分たちのコミュニケーションのテリトリーを守るみたいなことをしていた。実はこういうことは、ひらがな文学の歴史からずっとやられていて、若者とそれ以外でちょっとコミュニケーション変えてきたんです。
だから実はみんなが同じ言語を使ってしまうこと自体が、結構やばいんですよ。例えばTwitterで18歳が友達に向かってしゃべっていることが世界中に発見されてしまって炎上するみたいなことがありますが、あれも違う言語でも使っていれば防げるわけです。
ひょっとしたら言葉のユーザーインターフェイスを難しくするっていうのは、若者たちが言語においても自然とやっているのかもしれません。だから、僕らの世代と20代は使ってる言葉の意味が違うぐらいがちょうどいいと思います。通じすぎないほうがいいんですよね。
福尾 日本語は、あらゆる界隈ごとにジャーゴンがすごく細かく住み分けされてる言語ですよね。そういう意味でも暗号っぽくて、だからこそ機械に収奪されきらない良さがあるのかもしれないですよね。

■21世紀以降に見落とされていること
速水 日本語とテクノロジーの関係でいうと、僕はWordをまったく使わないんです(笑)。マイクロソフトという会社自体は大好きなのですが、Wordだけは反応が鈍いし、ルビとかは打てるけど操作が複雑なんです。だけど、いまは完全に編集者の中でもWordを使うことを前提としてやり取りになっている。僕の世代が別のエディタ使わせてくれといっても、この流れは変わらないですよね。福尾さんは書くときになにを使われていますか?
福尾 僕はUlyssesっていうテキストエディタを使うことが、最近は多いですね。
速水 それはどういうメリットが?
福尾 すごくシンプルな見た目で、勝手にクラウドに書いたやつがどんどん保存されていくんです。僕はおもにMacBookとiPadを使って書くんですけど、そのどっちでもすごいスムーズに同期できるし、ウィンドウの大きさを自分で決めて行幅が可変で書きやすい余白を作ることができる。Wordは紙が並んでいるっていうデザインじゃないですか。あれがすごく苦手なんですよね。
速水 物書きって実はそれぞれ違う環境で書いているんですよね。例えば、ある時期までは山形浩生って自分がどのツールを使ったかのメタデータを全部書いてた時期があったんですけど、あるときからやめてしまった。
だけど僕らは昔の文学や哲学に触れるとき、誰がタイプライター最初に使ったか、誰が手書きで、誰が聞き書きだったかみたいなことはすごく重要じゃないですか。そうした記録はタイプライターの移行期の19世紀の半ばから後半ぐらいまでは残されてきたけど、21世紀に入ってからはテキストの生成状況を誰も何も残してないんですよね。だから山形さんの記録は歴史的に重要だったんです。
福尾 使っているツールが違ううえに、原稿が本になるまでに、いろんな人の手を渡りますよね。例えばゲラの校正も、今でも初稿をいったんゲラにして紙で著者校正をすることが慣習としてずっと残っていますけど、単純に効率の面で考えたら大きな修正をわざわざゲラでする必要はないですよね。反映するのも大変になるし。
速水 僕は1990年代に出版社にいた編集者なので、それまで写植だったものがDTPになった瞬間を編集者として見てきたんですけど、そのときの混乱を覚えています。デジタルだと際限なくデザイナーの負荷がかかるんですよ。みんな昔は初校、再校、色校ぐらいの3段階で全部段階的に直すのに、それが無段階になったんですよね。これはいつまでたっても仕事が終わらないと。だから結局、かつての初校、再校制度をもう一回復活させたんです。アナログのやり方をやったほうがこれは効率がいいことに気が付いたんですよね。
僕らもそのゲラを入れるときに、本1冊や雑誌の2ページ見開きとかだと、データとゲラで直し方も全然違うんですよね。僕ではないと思いますが、書籍のゲラは、いまもずっと紙に手書きで赤入れていますよね。

■シェア的な労働観が支配的になりすぎている?
福尾 たしかにそうですね。だから僕は、ものとものの間に人間がいて、ほかの人とかかわれる状態がすごく風通しがいい気がするんですよね。例えばゲラを直すっていうことでいうと、物体としてのゲラがまずあって、それをひとりで直したものを返すという、それぞれのターンがはっきりした状態の方がやりやすい。それがもしデータしかなくて、それをGoogleドキュメントのコメントみたいなものでみんなが同時にさわり合っているみたいな状態って、めちゃめちゃ息苦しくなりますよね。それはたぶんLINEの既読無視されてるときのいらだちに似ている。
でも、ちゃんとロールを明確にして、時間を割って、今は誰のターンかを明確にできることが気楽さみたいなものにつながっていると思います。
速水 労働がどんどんシェア型になると、自分のところで物理的に保存される期間が事実上ないということですよね。そうすると返信が早い者勝ちになるし、目の前で自分の意図とは違うものにどんどん変わっていくことにあらがえなくなっていく。メッセージのやりとりが早いLINEグループを見て、もうこの会話には入っていけないっていう感覚に近い。
福尾 だから、「仕事ができる人は返信が早い」みたいな言説がありますが、自分のところにホールドをすることも必要なのではないかと思います。とくに文章を書いたりとか、ゲラを直したりするときには、自分だけが仕事を独占できる状態が絶対必要なんですよね。
世にいわれている仕事術において想定されている労働観って、みんながリアルタイムにひとつのものを編集し合っているみたいな状態ですよね。でも、果たしてそれで組織としてうまくいくのか、生産性が上がるのかというのは、単純に疑問ですね。
速水 そうですよね。ただ、おそらく疑問の発し方がアンチテクノロジーに見えてしまうと、説得力がなくなってしまうんですよね。そこをどう伝わるようにするか。
福尾 そもそもいまの社会は、機械が使えないのはあなたが悪いみたいなことになってきていますよね。これを大きい言葉でいうと自己責任になりますが、そのときに言われている「自己」がなにかによって作られたものであることを認識すること大事だと思います。
『置き配的』で触れたフーコーの話に引き寄せるなら、自分の内面は外側のいろんなインターフェイスや機械とかによって作れたものであることを、ひとつひとつ認識することが自責の念にかられないためのスタンスなのかもしれませんね。
速水 いいオチな気がしました。

構成:佐藤隼秀 撮影:内藤サトル
プロフィール

速水健朗 (はやみず けんろう)
ライター、ポッドキャスター。1973年石川県生まれ。コンピューター誌編集者を経て、2001年よりフリーランスの編集者、ライターとして活動を始める。主な著書に『機械ぎらい 機械音痴のテクノロジー史』(集英社新書)、『1995年』(ちくま新書)、『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)、『ケータイ小説的。』(原書房)、『東京どこに住む?』(朝日新書)、『1973年に生まれて』(東京書籍)などがある。2022年よりポッドキャスト「これはニュースではない」を配信している。
福尾匠(ふくお たくみ)
1992年生まれ。哲学者、批評家。博士(学術)。『非美学――ジル・ドゥルーズの言葉と物』で紀伊國屋じんぶん大賞2025受賞。その他の著書に『ひとごと――クリティカル・エッセイズ』、『眼がスクリーンになるとき――ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』、共訳書にアンヌ・ソヴァニャルグ『ドゥルーズと芸術』がある。最新刊『置き配的』。
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