中世前期、ふたつの顔
ヨーロッパ史における中世とは、5世紀半ばに西ローマ帝国が滅亡してから、15世紀ごろのルネサンスまでの、およそ1000年間を指します。古代ギリシャ・ローマの知的遺産が失われ、ルネサンス期にイスラーム圏から再輸入されるまでの「中間の時代(Middle Ages)」として、1000年もの期間がひとくくりに中世と呼ばれています。しかし当然ながらその1000年間にも変化はありました。本稿では5世紀から11~12世紀ごろまでの中世前期と、11~12世紀からルネサンスまでの中世後期に分けて考えることにします。
中世前期における労働の姿は、ふたつの象徴的な出来事によって表せます。奴隷の減少と、修道院労働の誕生です。
中世前期――商業・技術の衰退
ローマ帝国の崩壊後、奴隷労働および奴隷人口そのものが大幅に減少しました。それは人道的な理由からではなく、もっと身も蓋もない経済的理由、すなわち小銭不足によるものです。小銭は人の手を渡っていくうちに擦り減り劣化していきますが、ローマ帝国亡きあと、新しく通貨を発行し流通させられるだけの力を持った国はもはや存在しませんでした。小銭がないということは、奴隷への賃金の支払いができなくなることを意味します [^1]。働き口がなければ、主人にとって奴隷はただ単に食事や住居を必要とするだけの厄介者でしかありません。782年にカール大帝が4500人もの捕虜を獲得した際には、奴隷にしたところで使い道がなかったため、単に殺して済ませたと伝わっています。
定住して農作業に従事する農奴は引き続き存在しましたが、それもやがて自由民に近しい立場へと変化していきます。農奴はウィラ(villa)と呼ばれる大規模な土地(村=villageの語源です)に住み耕作し、収穫のうちから一定量を慣習通りに支払い、残りは自分たちのために残しておくことが許されていました。それが許されたのもやはり人道的理由ではなく、過酷な労働を強制できるほどの公権力がローマ崩壊により失われたためです。結果として出来上がったシステムは、奴隷と主人の関係というより、農民が領主に税を収める関係に限りなく近づきました。10世紀にもなると、この仕組みはすでに「人々の目にはあまりに自然なものに見えるようになったので、ウィラで働く人々が元来奴隷であったことは忘れ去られ」ていたのです[^1]。
小銭がなければ商業もまた衰退します。村の生活や生存のための必需品を商人に依存することは、巡回の頻度や信頼性からみて、もはや不可能となりました。そのためそれぞれの村が自給自足の体制を整え、外部との接触が少ない閉じた共同体を形成していました[^2]。閉鎖的で変化の少ない社会においては必然的に、元から存在した権力が、より揺らぎなく確固たる地位を形成します。したがって先に述べた「奴隷解放」は、必ずしも農民の立場を改善したわけではありませんでした。
かつて労働・労苦全般を指していたlaborという語が、もっぱら農業を指すようになるほどの状況で、商人や職人という仕事や、かれらが持っていた知識は失われていきます[^3]。「鉄の時代」の古代ギリシャでは鉄の農具が利用されていましたが、ローマ崩壊後のヨーロッパでは、もっぱら木製の農具が使われることになりました[^4]。分業や技術が衰退した状況は、中世後期の幕開けまで続きます。
「祈り、かつ働け」――修道院の労働
農業以外の労働が実質的にほとんど消滅した中世前期において、唯一専門職的な労働が生き残った場が、新興のキリスト教組織である修道院でした[^5]。「プロフェッシオ」というラテン語がもともと修道士の誓いを意味していたことが象徴的に示すように、現代における「プロフェッショナル」な労働の方法や考え方の多くは、中世前期ヨーロッパでほとんど唯一の知的財産の保管場所であった修道院に起源を持っています。
そもそもなぜ、教会とは別に修道院という組織が生まれたのでしょうか? 修道院が生まれた5世紀ごろの教会は、西ローマ帝国で国教に指定されるほどの権勢を誇り、それに伴い組織や制度は肥大化・複雑化していました。それに反発し、イエスと原始キリスト教本来の精神に立ち返った生き方を求めた人々の組織が修道院です。少数の人々から始まった文化が、やがて広い支持を獲得し大衆のための存在になると、それを商業主義への堕落と捉え初心に帰るべしと主張する一派が生まれる、という流れは、歴史のいたるところで繰り返されています。身近なところでは、商業化したロックに対し初期衝動の表現に立ち帰ったパンクロックや、昔ながらの製法に回帰したクラフトビールの流行などがわかりやすい例でしょう。
修道士はイエスの生き方に倣って、ひたすら祈り、書物を読み、畑を耕し、写本を作る、というシンプルで貧しい生き方に身を置きました。そのような生活のための厳格な規則を制定したのが、529年に創立された最古の修道会であるベネディクト会の修道院です。ベネディクト会の戒律は、その後作られた修道院のほとんどに引き継がれました[^6]。
ベネディクト会では「祈り、かつ働け」という標語のもとに、すべての修道士たちに時間に従った規則正しい労働が義務付けられていました。当時の時間は日の出から日没まで、日没から翌朝の日の出までを、それぞれ12分割する不定時法によって計られました。夏の昼間の1時間は、冬のそれよりも長かったのです。そのため時間割も季節によって異なりました。たとえば4月ごろの復活祭から10月1日までの時間割は次のとおりです[^7]。日が昇る1時から祈り、それを終えたら4時まで労働をする。4時から6時までは聖書を朗読し、その後食事をとり9時までは休憩・読書時間とする。9時の祈りのあと、日没まで労働する。時間割は次の言葉で締めくくられています。「収穫作業に自ら当たらなければならないとしても、それに不満を抱いてはならない。私たちの先祖と使徒たちがそうであったが、自分の手を使い働くことにより生活して初めて真の修道士と言えるのである」。
働きたくない修道士たち
こう聞くと修道院ではいかにも労働が尊ばれていたように思えるかもしれません。しかし、言葉の上では祈りと労働が同等に並べられていたとしても、実際は両者が同等に尊敬されていたわけではありませんでした。そもそも修道院における労働の義務が設けられたのは、商業が衰退した中世で生きるためにはそうするしかない、という必要に迫られてのことだったと考えられます[^8]。そのため、祈りが救済への道であるのに対し、修道士が労働に期待していた宗教的な役割は二つだけでした[^9]。第一に、原罪を償う労苦を通して神へ服従する態度を身につけること。第二に、憎むべき七つの大罪のうち、修道士の生活に最も身近な怠惰を遠ざけること。祈りと違って労働に霊的な価値は存在せず、どれだけ労働したところで救いに近づくわけではなかったのです。
それでも、消極的にであれ肉体労働の価値が一応は認められたと言えるかもしれません。しかし実際には時代を経るにつれ、修道士たちの「肉体労働」は、儀式化され形骸化していきます[^10]。農業と同じく手を動かす写本や読書、さらには信仰の種を蒔き育てる説教や祈りまでもが、比喩的に「農業」とみなされるようになったのです。やがて修道士たちは、もっぱらその意味での「肉体労働」を行うようになりました。他方で自給自足に必要な本当の肉体労働は、やむを得ず修道院に身を寄せた貧しい出身の「半修道士」たちに押し付けられたのです。
中世前期の修道院の労働と現代の労働を比べると、積極的価値の有無以外にも大きな違いが存在します。それは技術や生産性の向上についての考え方です。現代において労働の効率化は絶対的な善かつ義務であり、それをしないのは怠慢かつ悪とみなされます。しかし、修道院においてそのような考え方は存在しなかったばかりか、むしろ明確に戒められてさえいたのです。ベネディクト会の戒律は言います。「彼らのうちに、自分がなんらかの利益を修道院にもたらしていると考え、その技工に関する専門知識について傲慢になる者がいたなら、その技工を活用することをやめさせ、彼が自らへりくだり、修道院長が再び許可を与えるまでは、再度その職に戻ることを許してはならない」[^11]。
現代の目線からはあまりにも不可解な規則ですが、労働が贖罪であるという前提から考えれば理解できます。神への償いをしながら、自分はそれを上手くこなして善きものを生み出しているのだ、などと楽しむのは確かに不敬といえるでしょう。
このような中世前期の状況において、技術の進歩は当然ながらきわめて限定的でした。第1回で水車を称える古代ギリシャ詩を紹介しましたが、10世紀の年代記によれば、修道士が作った水車は「われわれの時代にとって素晴らしい見世物」として、1000年近く前と同様に「ほとんど超自然的で、半ば魔術的な知の証拠」のように思われていたのです[^12]。
修道院労働の意図せざる結果
以上のように、中世前期の修道院における労働は、お題目に反して実際には必ずしも尊い行いではありませんでした。しかし修道院労働が、後のルネサンスや資本主義が推進し拡散する新たな考え方や働き方を、意図せざる結果として密かに準備していたことも確かです。
第一に修道士たちが「祈りの時間」と「休憩・読書時間」を挟みながら労働していたことは、それ自体がまったく新しい働き方でした[^13]。これは古代から中世前期までの一般的な労働における、ただひとつの仕事を一日中そして一生、疲れ果てるまで続けるという働き方とは、まったく異質なものでした。このような発想は、主人に雇われるのではなく自分たちで労働を組織し、また労働よりも大事な祈りのために体力を取っておかねばならない修道院でしか生まれ得ないものでした。
第二に、労働が祈りより劣位に置かれていたことは、よりよく祈るために労働で疲れすぎないよう工夫するモチベーションとしても機能し、徐々にではあれ労働の機械化が進められました。修道院で発明された水力や馬力を利用する機械がヨーロッパ全土へと広まり、やがて中世後期への転換を後押ししたのです[^14]。
そして第三に、修道士たちが説教や祈りまでもを「労働」に含めたことは、「頭脳労働」という新たな発想の源となりました。これは実質的に労働=農業であった時代において、まさしく革命的な発想の転換でした。このことは、すぐ後で触れる中世後期における大学の誕生において大きな意味を持ちました。
最後に、中世の序列において最高位の修道士たちが労働することただそれ自体が、社会の労働観を変える力を持っていました。それだけで十分に、労働が悪しく卑しい行いではない、という証明として機能したのです。たしかに修道士たちは、喜んで真摯に労働したわけではありませんでした。「けれども、その動機がいかなるものであれ、最も高度に完成されたキリスト教徒である修道士が、労働に専念するという事実そのものは、その社会的・精神的な威信を、労働という活動に跳ね返す」[^15]。修道士たちが労働している、という外面的な事実だけでも、同時代の人々には印象的な出来事であり、労働の社会的価値を向上させたのです。
豪奢な教会に背を向けて清貧の暮らしを目指していた修道院が、意図せずして資本主義を準備してしまうとは、なんとも皮肉な出来事です。しかもこの事態は、結果的にそうなった、という歴史の後知恵的解釈だけでなく、当時の人々の目にも明らかでした。というのも、信仰の下に規則正しく労働し技術を発展させていった結果として、ベネディクト会は大いに儲けて発展してしまい、修道士の贅沢な暮らしや教会堂の立派さが批判の的となっていたからです[^16]。それに失望した人々が、改めて原初の精神に立ち戻るシトー修道院を作り、やがてシトー修道院も拡大し、また新たな修道院が……。修道院の歴史は、基本的にこの繰り返しです。
社会学者のマックス・ウェーバーは、主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、中世の修道士たちを、感情や自然に従って生きるのではなく、目標に向かう意思によってみずからを制御する「合理的な生活態度」を最初に完成させた人々と呼んでいます[^17]。修道院で生まれた合理的生活は、のちにプロテスタンティズムへ引き継がれ、修道院外の世俗の生活もまた合理化されていくことになります。それがやがて資本主義の精神を生み出したのだ、というウェーバーの有名な主張については、次回詳しく取り上げます。
新約聖書には次の言葉があります。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」[^18]。敬虔な修道士たちをしても、この教えの遵守は難題であったようです。
中世後期――都市と商業の復活
狭く閉じていて、静止した社会。それが中世前期の村々のあり方でした。その静けさが打ち破られ、中世後期へと移行したのは11~12世紀ごろです。それは12世紀ルネサンスとも呼ばれるほどの大きな変化でした。その最大の要因は、三圃式農業の発明および水力や馬力の利用による、食料生産の飛躍的な増大と、それが引き起こした人口爆発です。あふれた人口は都市へ押し寄せ、商業の活発化と仕事の専門分化が起こりました[^19]。
この時代は宗教のあり方にも大きな変化がありました。世俗の権威である王と、宗教の権威である教皇の対立である、叙任権闘争の勃発です。その結果、宗教から分離された独自の領域としての世俗領域が形成されることになりました。宗教は引き続き巨大な権威と権力を持ったものの、世俗における独自の規則と存在意義が認められるようになったのです[^20]。
こうした時代の動きによって、社会における労働の位置づけもまた変化していきます。農民がより良い暮らしを求めて都市へ流出することを防ぐために、領主は長年の慣習を破り、農民により良い報酬と自由を与えざるを得なくなりました。これは領主が農民の肉体労働に価値を認めたということであり、画期的な出来事でした[^21]。また宗教と世俗の分離によって、ついに労働は、宗教・精神にとっての(無)価値とは別の、世俗・物質的な価値を主張することが可能になりました。つまりこの時代に至ってようやく、労働は富を生み出す手段として、また神が人間のために用意した自然世界を作り変える手段として、初めて積極的な価値が認められたのです[^22]。こうした自然観・労働観の転換は、中世後期における時間と知識の位置づけの変化を通して確認することができます。
時間は誰のものか?
13世紀末に、労働と時間の関係を決定的に変える発明がなされました。機械式時計の発明です。機械式時計以前の時間は、教会が日時計や水時計に基づいて鳴らす鐘が、全員にとっての基本単位でした。それは「急ぐ必要がなく、正確さに心を砕く必要もなく、生産性にやきもきする必要のないような時間」であり、季節により変動する大雑把な時間でした[^23]。しかしやがて広域の商業ネットワークが整備されていくと、移動や取引にかかる時間や労働時間などの、精密な計測と予測が求められるようになります[^24]。そこで商人たちは14世紀から、最新の発明を活かしてヨーロッパ中の大都市に機械式の時計塔を次々に建設しました[^25]。それまで時間は「聞く」ものでしたが、時計塔は時間をずっと細かく正確に「見る」ことを可能にしたのです。
教会の時間から商人の時間への転換は、計測方法や精密さの向上だけではなく、時間の所有権の移行でもありました。それまで教会が司っていた時間は、自然のリズムに基づく時間であり、すなわち自然を作った神が所有する時間でした。キリスト教で利子を取ることが禁止されていた理由は、「そうすることによって商人は時を売っていることになり、彼に属さないものを売る」罪を犯してしまうためです[^26]。この時間は売ることができず、規則的でも直線的でもなく、予測不可能な時間でした。
対する商人の時間は、1時間=60分という普遍的かつ予測可能な単位で計られる、利益を生み出すことが可能な、個人が所有する資源です。ここで重要なのは、神の所有物から人の所有物となってはじめて、時間は正しく扱わねば自分の手元から失われてしまう、という考えが可能になったということです。つまり、労働や商業の時間効率という考えが生まれたのです。
15世紀の哲学者であるレオン・バッティスタ・アルベルティは、人間が本当に所有できるものは、魂・身体・時間のみであると主張しました[^27]。このうち時間が最も貴重であり、有益な仕事に使うのではなく、「次々に時間を無為にすぎるがままにしておく者は、確実に時間を失う」と警告しています。やがて近代において絶対的真理となる「時は金なり」の先取りと言えるでしょう。
ついには教会も商人の時間に抗しきれなくなり、「時間を無駄にすることは罪である」と宣言するに至りました[^28]。現代においてはありふれたお説教ですが、それが言われるためには、時間が神から人の手に移される必要があったのです。
頭脳労働の誕生
中世後期には商業の活性化にともない契約や帳簿が重要性を増し、それまで聖職者階級にのみ独占されていた、文書の読み書き能力および学問が民衆にも広がりました。この時代には遠隔地貿易のため、権威が揺らぎつつある教会と世俗の調停のため、増大した都市生活者のために、資格を持った法律家や神学者や医者の需要が増大していました。しかし既存の教育施設ではそうした需要を賄いきれず、11世紀末に新たな高等教育制度として大学が誕生します[^29]。
大学制度の確立においては、利子についてと同様の問題が存在しました。すなわち、神の賜物である知識を売ってよいのか、という問題です。しかし、時間と知識からお金を得ることは、どちらも同じ論理によって正当化されるようになります。
その正当化は、新約聖書の「働く者が食べ物を受けるのは当然である」[^30]という言葉を、「働く者が〈賃金〉を受けるのは当然である」と解釈し直すことによって可能となりました[^31]。つまり大学の教師は知識を売っているのではなく、修道士と同様に頭脳労働の対価として賃金を得ているのであり、商人は時間を売るのではなく、損害の可能性に身を晒す労苦の対価として利子を得ているのだ、として正当化されたのです。この読み替えは、頭脳労働という概念の成立だけでなく、経済がそれまでの自然経済から貨幣経済へ移行しつつあったことも示しています。
大学の成立と同時期に、知識と労働の関係を変革した、もうひとつの出来事も起きていました。職人のための技術書の誕生です。これは、職人の手仕事は知識によって改善することが可能であり、またそうすべきである、という考えが生まれたことを意味しています。ここに到ってようやく、長きにわたって知識階級から軽蔑されてきた手仕事もまた、知識と関係する領域として認識されるようになったのです。
12世紀前半にドイツのベネディクト会修道士テオフィルスが書いた『さまざまの技能について』は、おそらく歴史上初めてであろう技術書です[^32]。前書きには「神の慈愛によって私に惜しみなく与えられたものを、謙虚に学ぼうと望む全ての人に惜しみなく提供する」と書かれ、この本が知的階級の興味本位や単なる記録ではなく、職人たち自身の技術向上のために書かれたことがわかります。そして本文では絵画の技法やガラス・金属の加工について、単なる外部からの観察にとどまらない、詳細で実践的な解説が行われていました。
テオフィルスは、職人が精神を鍛えることは、技術の向上や公共の利益に役立ち、そして神が作り出したものの偉大さを理解できるようにする、と考えていました。これまで単に軽蔑されるか、せいぜい贖罪の手段でしかなかった職人の手仕事がついに、自身の霊的救済にも他の人々にも役立つ、価値ある行いとして認められたのです。
各々の労働は天職である。では貴族は?
このように中世後期においては、それまでも比較的好意的に見られることがあった農民のみならず、職人や商人、そして教師などが、宗教的にも世俗的にも価値をもつ労働として理解されるようになりました。それぞれの仕事が、それぞれ異なる価値と役割を持つ、神から与えられた天職として考えられるようになったのです[^33]。
労働が、単なる贖罪ではなく誇りある天職とみなされるようになったことは、ふたつの意味で社会を揺るがしました。第一に、労働の価値が上昇したことにより、労働しない貴族の立場が脅かされ始めました[^34]。14世紀のイギリスにおいて「アダムが土地を耕し、エヴァが糸を紡いでいたとき、誰が貴族であったか」というスローガンとともに、農民による反乱が頻発しました。これまでほとんど無条件に高い地位を享受してきた貴族に対し、神から与えられた役割を果たさず、何も有益なものを生み出さない社会のお荷物として批判する視点が生まれたのです。このスローガンは15世紀に大陸でも広まり、そちらでも反乱の旗印となりました。この考えは後の宗教改革における、神に与えられた労苦こそが恩寵の証であり、貴族や聖職者ではなく自分たち農民こそが救いにもっとも近い存在である、という主張へと繋がっていきます。
そして労働に価値が認められたことは第二に、より多くの価値を生み出すため、本人の意思や必要性とは無関係に、より多くの労働が求められる時代の始まりでもありました[^35]。
中世後期の消費社会
このように中世後期を眺めると、資本主義が着々と準備されていたことがわかります。正確な時間の計測、人間のために利用されることを待っている自然の発見、より多くのものを自然から引き出すための労働の効率化、どれが欠けても資本主義は成り立ちません。
この時代における、資本主義に向かう重要な変化としてもうひとつ、顕示的閑暇から顕示的消費への移行が挙げられます。これらは社会学者のソースティン・ヴェブレンが『有閑階級の理論』において提示した、財産所有者が「妬みを引き起こさせるような栄誉」を獲得するための二つの方法です[^36]。
歴史の初期において、財産とは主に略奪によって得た奴隷でした。そのため財産の多さ、及びその背景にある戦いに勝つ勇敢さを周囲に証明し尊敬を得ようと思えば、可能な方法は限られていました。第一に、必要な労働を奴隷に任せて、自分は遊んでいる姿を見せびらかす、という方法があります(顕示的閑暇)。この方法が定着したことで、高貴な人間は労働を「下賤な職務」と見なすようになったのだ、とヴェブレンは主張しています[^37]。そして第二に、莫大な財産を浪費しているところを見せびらかすという方法があります(顕示的消費)。たとえば北部ネイティブ・アメリカンの部族間で行われたポトラッチという風習は、相手を威圧するほどの豪勢な宴会に招くこともあれば、多数の奴隷を殺す場面を相手に見せつけることもありました。それを受けた相手は部族の誇りにかけてより多くの「返礼」をせねばならず、互いに浪費を競い合っていました[^38]。
しかしやがて財産の主役が奴隷から貨幣に移行し、都市化によって社会の規模が拡大すると、見知らぬ他者にも一目で財力を証明できる顕示的消費の方が優れた方法となります[^39]。先にも取り上げた15世紀のアルベルティは、「これほど多くの貪欲で嘘つきの諂い屋の間に暮らし、また下劣で不誠実このうえない者たち、ラッパ吹きや楽師、ダンサー、道化、女衒、リボンやお仕着せやフリルをまとった馬鹿ども」に囲まれ、「資産を蕩尽すれば自らの栄光と幸福が得られると思い込」んでいる浪費家たちを、都市を破滅に陥れる「呪われた疫病」と呼び罵っています[^40]。
そのような消費を後押しする、現代人に馴染み深い「消費の美徳」という考え方も、すでにこの頃に生まれています。14世紀半ばにイギリスで書かれた『ためこみ屋とむだづかい屋の短き良き論争』という寓意詩を見てみましょう。そこでは「ためこみ屋」が「むだづかい屋」の宴会での浪費を批判しますが、「むだづかい屋」も反論します。「もしその財貨を使わないならば、それにいったい何の意味があろうか〔…〕貧しき人々に自分の銀を分け与えよ〔…〕もしキリスト教徒が君の幸運に預かるならば、それは、すべての財貨が長持の中に投げ込まれて隠されているよりも遥かに主の御心にかなうものである」[^41]。現代でも「投資のススメ」などとして聞き覚えがある理屈です。
まだ資本主義ではない
しかし、まだこの時代は資本主義社会ではありません。資本主義に不可欠な、合理性や正確な計算といった経済的観念が十分に発達していなかったためです。ウェーバーとライバル関係にあったドイツの社会学者ヴェルナー・ゾンバルトは、この時代の経済への考え方を「まずはじめに、支出がきまる。すると、それにしたがって収入が生まれる」支出経済と名付けています[^42]。この時代の経済を支配していたのは、階級にふさわしい暮らしという観念であり、領主は領主らしい暮らしに必要な分だけ課税し、庶民は庶民らしい暮らしに必要な分だけ働いていました。お金を貯めればもっといい暮らしができるとか、あれを買うためにしばらく質素な暮らしを送ろうといった考えは存在しなかったのです。
経済的観念の欠如については、商人でさえ似たりよったりでした。ゾンバルトは中世後期の大商人の「簿記」を引用しています。「手ぬぐいを入れた梱、私は、その値段がわからない。ある男がいて、それが私から上記の物品を買った。私には、一九グルデンの純益があった〔…〕私はその男の名を忘れてしまった」。現代人から見れば、子どものお小遣い帳のほうがまだ簿記らしく思えます。しかし「計算がどうしても『合わなく』てはならないというのは、とくに近代的な考え方である。以前のすべての時代には、財貨の価値を数量ではかることや、数に基づいた表現方式が新しいこともあずかって、つねに数量関係はおおよそ書き出される以上を出なかった」。大商人でこのありさまですから、取引の利益を緻密に計算して将来の計画を立てるなどということは、誰にとっても想像の埒外だったのです。
中世の人々について、ゾンバルトがゲーテの言葉を借りて言うには、「その大多数が、せいぜいたのしい生活のため必要とされる以上は働かないという理性的な感覚をもっている」。現代ではほどほどにしか働かない人は、やる気や向上心が足りないという評価を下されます。しかし、この時代においてはそれが「理性的」で、むしろどこまでも稼ぎ続けようとするのは、商人にとってさえ狂気の沙汰以外の何物でもなかったのです。
では、いかにして人々は「理性的な感覚」を失い、果てしなく労働するようになったのでしょうか? 次回はルネサンスから宗教革命の時代、近代のはじめにおいて、ついに労働が〈人間の条件〉とみなされるに至った経緯を見ていきます。
文献
レオン・バッティスタ・アルベルティ(1432-1434=2010)『家族論』池上俊一・徳橋曜訳、講談社
マックス・ウェーバー([1905]1920=1989)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫
ソースティン・ヴェブレン(1899=2015)『有閑階級の理論 増補新訂版』講談社学術文庫
アーロン・グレーヴィチ (1984=1992)『中世文化のカテゴリー』川端香男里・栗原成郎訳、岩波書店
ヴェルナー・ゾンバルト(1913=2016)『ブルジョワ――近代経済人の精神史』金森誠也訳、講談社学術文庫
ジョルジュ・バタイユ(1949=2018)『呪われた部分――全般経済学試論・蕩尽』酒井健訳、ちくま学芸文庫
ハンス・ヴェルナー・プラール(1978=1988)『大学制度の社会史』山本尤訳、法政大学出版局
ヌルシアのベネディクトゥス(n.d.=1993)「戒律」『中世思想原典集成5――後期ラテン教父』古田暁訳、平凡社
ルイス・マンフォード(1967=1971)『機械の神話――技術と人類の発達』樋口清訳、河出書房新社
ヤン・ルカセン(2021=2024a)『仕事と人間――70万年のグローバル労働史 上』塩原通緒・桃井緑美子訳、NHK出版
ジャック・ル・ゴフ(1977=2006)『もうひとつの中世のために――西洋における時間、労働、そして文化』加納修訳、白水社
Applebaum, Herbert. (1992) “The Concept of Work: Ancient, Medieval, and Modern”. State University of New York Press.
Lis, Catharina and Hugo Soly. (2012) “Worthy Efforts: Attitudes to Work and Workers in Pre-Industrial Europe”. Brill.
注
[^1]: ルカセン(2021=2024a)§13.3 次の段落まで同書に拠る。
[^2]: Applebaum (1992)§8.2
[^3]: ル・ゴフ(1977=2006)§6.2
[^4]: Applebaum (1992)§8.2
[^5]: ルカセン(2021=2024a)§13.3
[^6]: Lis (2012)§3.4
[^7]: ベネディクトゥス(n.d.=1993)§48
[^8]: マンフォード(1967=1971)§12.1
[^9]: ル・ゴフ(1977=2006)§9
[^10]: Lis (2012)§3.4
[^11]: ベネディクトゥス(n.d.=1993)§57
[^12]: ル・ゴフ(1977=2006)§6.3
[^13]: マンフォード(1967=1971)§12.1
[^14]: マンフォード(1967=1971)§12.2
[^15]: ル・ゴフ(1977=2006)§6.3
[^16]: マンフォード(1967=1971)§12.3
[^17]: ウェーバー([1905]1920=1989)§2.1
[^18]: 「マタイによる福音書」(新共同訳)§6.24
[^19]: ルカセン(2021=2024)§15.2
[^20]: Applebaum (1992)§9.1
[^21]: Applebaum (1992)§10.1
[^22]: Applebaum (1992)§9.1
[^23]: ル・ゴフ(1977=2006)§3
[^24]: ル・ゴフ(1977=2006)§2.2
[^25]: ル・ゴフ(1977=2006)§3
[^26]: ル・ゴフ(1977=2006)§2.0
[^27]: アルベルティ(1432-1434=2010)§3
[^28]: ル・ゴフ(1977=2006)§3
[^29]: プラール(1978=1988)§3.1 ル・ゴフ(1977=2006)§11.2.2も参照。
[^30]: 「マタイによる福音書」(新共同訳)§10.10
[^31]: ル・ゴフ(1977=2006)§9 「利子の正当化」についてはについては§2.3も参照。
[^32]: Applebaum (1992)§9.2
[^33]: ル・ゴフ(1977=2006)§9
[^34]: Lis (2012)§4.6
[^35]: ル・ゴフ(1977=2006)§0
[^36]: ヴェブレン(1899=2015)§2 ただしヴェブレンは中世後期の発展を無視しており、顕示的消費の優勢を、執筆された19世紀後半に特有の新しい現象とみている。本稿は、顕示的消費は都市化に伴う現象であるというヴェブレンの主張(§4)と、中世後期における都市化という事実によって、ヴェブレンの主張と分析をなるべく保持しつつ、歴史観に最低限の修正を加えている。
[^37]: ヴェブレン(1899=2015)§3
[^38]: バタイユ(1949=2018)§2.3
[^39]: ヴェブレン(1899=2015)§4
[^40]: アルベルティ(1432-1434=2010)§3
[^41]: グレーヴィチ (1984=1992)§4.4
[^42]: ゾンバルト(1913=2016)§0.2 後の2段落も同書に拠る。
プロフィール

あいかわけい 生活保護受給者。30代、無職、職歴無し。不登校による高校中退後、大学で社会学・哲学に没頭するも留年を重ね除籍。古代哲学から現代社会論までを横断する、歴史に根ざした生活の思想を展開している。note(https://note.com/kei_aikawa)においても、本連載を補足する記事を執筆している。
相川計





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