ギリシャ思想:もうひとつの潮流
前回紹介したプラトンとアリストテレスは、労働を理性ある人間に相応しくない行いであるとし、それを奴隷に押し付けるのは善いこと・正しいことだと主張していました。しかし、それと異なる見解を持つ哲学者も存在しました。キュニコス派と、そこから派生したストア派です。両派は「自然に従って生きる」ことを重視し、すべての人間は自然によって平等に理性を授けられているために、生まれながらの奴隷も貴族も存在しないと主張しました。彼らの新しさは、労働=苦(ponos)を不名誉ではなくむしろ徳の源泉として捉えた点にあります[^1]。もとは「ストア派の」という意味の英単語だった「ストイック(Stoic)」が、哲学の文脈を離れて「禁欲的」という意味で使われるようになったのは、ストア派の考え方が由来です。
キュニコス派で最も有名な思想家・シノペのディオゲネスは、街に放置された樽に身ひとつで住んでいました。彼は好んでその暮らしを選び、野良犬のような貧乏暮らしと労働こそ、身体と魂を鍛え、勤勉という徳へ向かう道であると説きました。そしてストア派は、人間の相互依存・社会的使命・義務によって社会が成り立っていると考え、「労働崇拝」とも言われるほどに労働を高く評価しました[^2]。キュニコス派・ストア派は、労働を単なる受動的な苦役から、自分を律して何かを成し遂げる積極的な力の行使へと格上げしたのです[^3]。
しかし労働を価値ある行いと認めたとしても、奴隷制を批判するかどうかは別の話でした。たしかにストア派の「自然に従って生きる」という教えは、そのように生きるための理性は奴隷であれ市民であれ自然から与えられているとして精神の平等を主張しました。しかし他方で社会において各人は自然がもたらした運命に従い、割り振られた場所で役割を果たす義務があるとして、奴隷制をむしろ擁護する思想でもあったのです[^4]。
ストイックな古代ローマ人
ギリシャはその後紀元前2~1世紀にかけてローマに征服されました。しかし、ローマの詩人ホラティウスが「征服されたギリシャは、野蛮なローマを征服した」と評したように、ローマは思想面でギリシャから大きな影響を受けました。そこではアリストテレス・プラトン的な労働観と、キュニコス・ストア派的な労働観の双方がともに引き継がれ、発展することになります。
ストア派の教えは、勤勉を好むローマ知識人にとっての一般常識となりました。紀元前1世紀の政治家・弁護士・哲学者であったキケロは、若者は心身の訓練として肉体労働に励むべきだと主張しています[^5]。肉体労働だけでなく精神労働に対しても「たとい、学ぶことは快楽というよりむしろ苦行だとしても、できるかぎり心を労し苦行を重ねて修業の完成につとめ」なければならないと、まさにストイックな考えを持っていました[^6]。
また、2世紀のローマ皇帝マルクス・アウレリウスの日記『自省録』では、労働が次のように評されています。「足が足の分をなし、手が手の分を果すかぎり、手や足の労働は自然に反することではない。同様に人間が人間の分をなすかぎり、人間として人間の労働は自然に反することではない。もし人間の(内なる)自然に反することでないならば、彼自身にとっても悪いことではない」[^7]。これはストア派の見解そのものです。
このようにローマでは、ギリシャと比べて労働に道徳的評価が加わりました。しかし、あらゆる労働が平等に格上げされたわけではありませんでした。若者に肉体労働を勧めていたキケロでさえも、同じ文章の別の部分では「買われるのはその労力であって技術でない傭人」が受け取る給料を「奴隷性の証拠金」と呼んでいます。さらには「卑俗なわざに従っている」「手職のひと」、「ひとの快楽に仕える商売〔…〕魚うり肉屋料理人、腸づめつくりにさかな取り」などの仕事を「卑しくきたない」生業と批判しており、この点ではギリシャの労働蔑視が残されています[^8]。
古代ローマ流・リタイアのすすめ
閑暇を至高の時間とする考えもまた、ギリシャからローマに引き継がれました。政治家であり哲学者でもあったセネカが西暦49年ごろに書いた『人生の短さについて』は、義父であり友人でもあった食糧長官パウリヌスに向けて、多忙な仕事から離れ閑暇な生活を得ることを勧めています[^9]。セネカは、無知な大衆だけでなくアリストテレスら知識人までもが「人生を生きるための備えも整わないうちに、人生から見捨てられてしまう」と嘆くことに反論します。「だが、われわれが手にしている時間は、決して短くはない。むしろ、われわれがたくさんの時間を浪費しているのだ」。セネカによる時間を浪費する人々の描写は、人間の生き方が2000年くらいでは変わらないことを教えてくれます。
ある者は飽くことなき貪欲にとりつかれ、ある者は無益な仕事に懸命に汗を流す。ある者は酒びたりとなり、ある者は怠惰にふける。ある者は政治への野心を抱くが、他人の意見にふりまわされ続けて、疲れ果てる。ある者は、商売でもうけたい一心で、あらゆる土地とあらゆる海を、大もうけの夢を見ながら渡り歩く。ある者たちは、戦をしたくてうずうずしている。そして、四六時中、他人を危ない目にあわせようと画策したり、自分が危ない目にあうのではないかと心配したりしている。また、感謝もされないのに偉い人たちにおもねり、自分からすすんで奴隷のように奉仕して、身をすり減らす者たちもいる。
次々に見知った顔が浮かんでくるような文章です。セネカによれば、人がそのように生きてしまうのは、他者と共にありたいという積極的な理由からではなく、自分自身と共にあることに耐えられないという弱さのためなのです。
「有力者たちが名前を覚えてもらえる理由を、問うてみるがいい。あなたは気づくことだろう。彼らが特別な存在であるのは、次のような事情によるのだ——あの人は、あの人のことばかり気にかける。この人は、あの人のことばかり気にかける。そして、だれひとり、自分のことは気にもかけない」。多くの人々が自分自身の生に向き合えないために、具体的な功績や人となりをよそに名前ばかりが知られる「有力者」なんてものが生まれてしまうのだ、とセネカは冷静に観察しています。
つまりセネカの言う「閑暇」とは、単に仕事をしない時間ではありません。「彼らは、自分の別荘や寝床の中でひとりきりになると、ようやくすべての人から自由になったというのに、今度は自分自身がわずらわしくなるのである。そんな人たちの生活を、閑暇な生活と呼ぶべきではない。むしろ、怠惰な多忙というべきだ」。
「怠惰な多忙」の中を生きる人たちを、セネカはじつにユーモラスな筆致で批判します。「理髪店で何時間も過ごす伊達男たち」、「前の晩に生えた毛を抜いてもらったり、髪の毛の一本一本について相談をしてみたり、髪の乱れを直してもらったり、薄くなった髪を、あちこちから前のほうに寄せ集めたりしている」伊達男たちに対してセネカは言い放ちます——「こんな連中の中に、自分の髪が乱れないことよりも、自分の国が乱れないことを大事と考える人がいるだろうか。自分の頭がきれいであるかよりも、自分の頭がまともであるかを心配する人がいるだろうか。より格好よくなることよりも、より気高くなることを望む人がいるだろうか」。
別の人は高価な銀食器や豪華な食事で飾った宴会を開いて「品格があるとか、趣味がいいとか言った評判を手に入れようとする」けれど、やがて悪習が生活全体に行き渡り「飲んでいるときも、食べているときも、それを人に見せびらかすようになる」。「映える」生活を続けなければならないことによる「SNS疲れ」を考えてみれば、現代にこそ「怠惰な多忙」はありふれています。
ラジオパーソナリティーとしても知られる社会学者・鈴木謙介は、「SNS疲れ」の背後に、実際にいま孤独であるかどうかにかかわらず「孤独であると気づくのが怖い・他人から孤独だと思われるのが怖い」という孤立不安を煽られて、SNSを「見させられてしまう」構造があると指摘しています。「じっくりとソーシャルメディアを見る時間があるときというのは、いわば自分以外の人が、自分とは無関係に盛り上がっているのを嫌でも目にせざるをえない時間でもある」ために「ソーシャルメディアは個人の孤立感を強く煽る設計になっている」のです[^10]。
ここで問題にされているのはまさにセネカが批判した、自分がひとりでいることに耐えられず「あの人は、あの人のことばかり気にかける。〔…〕そして、だれひとり、自分のことは気にもかけない」という生き方そのものです。セネカが見た古代ローマ人と同様に、現代人の生活も「多忙」と「怠惰な多忙」ばかりで占められていると言えるでしょう。
英知は永遠の生を与える?
では、セネカが勧める「閑暇」とは具体的にどのような生き方なのでしょうか? それは、過去の哲学者たちから英知を学ぶ生き方です。
すべての人間の中で、閑暇な人といえるのは、英知を手にするために時間を使う人だけだ。そのような人だけが、生きているといえる。というのも、そのような人は、自分の人生を上手に管理できるだけでなく、自分の時代に、すべての時代を付け加えることができるからだ。彼が生まれる以前に過ぎ去っていったあらゆる年月が、彼の年月に付け加えられるのである。
今を生きている人たちは皆多忙ですが、ソクラテスやアリストテレスら過去の哲学者たち(セネカから見ても数百年前の人たちです)は「夜であろうが昼であろうが、すべての人間が、彼らのもとを訪れることができる」し、多くの財産を気前よく与えてくれます。しかもその財産は与えれば与えるだけ、つまり他の人へ伝え広めるほどに増えていく性質をもっています。だからやがて「閑暇」は、わたしたちに永遠の生をも与えてくれるだろう、とセネカは言います。
名誉の称号とか、記念碑のようなもの〔…〕は、いずれは滅び去る。長い年月がすべてを破壊し、変化させてしまうのだ。
これに対して、英知の力で神聖になったものは、傷つけることができない。そのような神聖なものが、ある時代に滅んだり、衰えたりすることはないのだ。次の時代、その次の時代と、時がたてばたつほど、ますます尊敬されることだろう。なぜなら、近くにあれば嫉妬心が生まれるが、遠くにあれば素直な気持ちで賞賛できるのだから。
実際に過去の哲人たちから学び、そのために2000年後の今もなお「生きている」セネカが言うと抜群の説得力があります。
「だからこそ、俗人たちのもとを離れなさい、親愛なるパウリヌスさん」とセネカは呼びかけます。「あの、もっと平穏で、もっと安全で、もっと大切な仕事に戻りなさい」。そうでなければ、年老いて仕事を退職したあともなお働き続けたいと苦しむことになってしまうから、と。当時のローマには50歳や60歳での定年制度がありましたが、現代人と同じく古代ローマ人にとっても定年後にどう生きるかは難題であったようです。「まったく、そこまでして、多忙の中で死にたいというのか」とセネカはぼやきます。「人間は、法律の力で暇になるよりも、自分の力で暇になるほうが難しいわけだ」。
そうならないためには、今のうちに過去の哲人たちに学び「神聖で崇高な事柄」の英知に近づくことが必要です。「あなたは、地上を離れ、精神の目を、こうした事柄に向けなければならない。血気盛んな今のうちに、元気をふりしぼって、よりよい方向に向かうべきだ」とセネカは言います。「そうした種類の人生の中にこそ、たくさんのすばらしい生き方が、あなたを待っている。あなたは、徳を愛して実践し、欲望から解放され、生きることと死ぬことを知り、深い静寂の中で生きるのだ」。はるか昔のローマで語られたセネカの教えは、この先も生き続けることでしょう。
古代キリスト教の労働観
古代ローマの時代は、その後の西洋を支配するキリスト教が生まれ定着した時代でもありました。キリスト教はこつこつ真面目に働くことを奨励する宗教であるというイメージは、世間一般だけでなく教会自身の自己認識でもあります。たとえば後の教皇レオ13世であるジョアッキーノ・ペッチ枢機卿は1877年に、古代のギリシャやローマでは「労働はつねに軽蔑されてきた」が、「キリスト教が社会全体に浸透してはじめて、それが終わった」と言いました。しかし実際は、このような歴史観は19世紀後半以降、世俗化の波や社会主義の台頭に対して教会の正当性を示すために後から作り出されたものにすぎません[^11]。
実際の古代におけるキリスト教の労働観は、善悪の両面性を持っていました。神が6日間の「仕事」によって世界を創造したことや、アダムとイブがエデンの園を「耕し、守る」役割を与えられていたことは[^12]、労働が神意にかなう尊い行いである証とみなされました。
またギリシャ・ローマの哲学もキリスト教の形成過程にも影響を与えており、キュニコス派の思想からは清貧の教えが[^13]、ストア派からは神が作った第一の自然に対する人間の労働が作り出す「第二の自然」という考えが発展しました[^14]。
教父アウグスティヌスが5世紀初頭に著した『神の国』では、人間の精神が第二の自然において成し遂げた成果を、数多の例を挙げながら称賛しています。「人間の勤勉さは何とすばらしい、何とおどろくべき衣服を仕立て、建築物を建てるに至ったことであろうか。農業や航海術における進歩はどうであろうか。陶器や彫像や絵画は何とさまざまに工夫され、つくり出されたことであろうか〔…〕個々についてくわしく述べようとしたなら、だれが語りつくしうるであろうか」[^15]。
しかし結局、アウグスティヌスの称賛は次のように締めくくられます。「わたしたちがいま語っているものは、この世の可死的な生を飾る人間的精神の自然本性についてであって、あの不死なる生に至るべき信仰と真理の道についてではない」。つまり、勤勉に働いて神に与えられた精神を最大限に活用することは素晴らしいけれども、よく働いたからといって神に救われるわけではないのです。
労働は楽園にも存在したとはいえ、そこに苦しみは無かったはずです。われわれが知る労働——「顔に汗を流してパンを得」なくてはならず「生涯食べ物を得ようと苦しむ」——が、アダムとイブが知恵の実を食べてしまったことの罰である側面は、やはり否定できません[^16]。
くわえてプラトン・アリストテレス的な、労働から解放された思索の生活こそが最高であるという考えも引き続き影響力を持っていました。たとえば下記の新約聖書におけるマルタとマリアのエピソードは、労働よりも精神活動が重要であるという意味で理解されました。
イエスを招いた家の姉妹・マルタとマリアのうち、マルタだけがもてなしのために働き、マリアはイエスの話を聞いてばかりいた。マリアも働くよう命じてほしい、と頼むマルタにイエスは言った。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」[^17]。
キリスト教は、「働かざる者食うべからず」という格言も生み出しました。新約聖書の使徒パウロによる一節「働きたくない者は、食べてはならない」が由来です[^18]。しかしそこに込められている意味は、現代の「働かねば生きていけないのは当然だ」という意味とは少し違っています。パウロは、終末が今にも来ると考えて日常の労働を放りだし、乱暴狼藉に及ぶ信者をたしなめるためにそう言ったのです。中世における聖書解釈の権威、トマス・アクィナスは『神学大全』において、パウロがそう命じたのは第一に「盗みの排除のため」であり、働く義務が生じるのは「労働以外に生活の資を調達し得ない場合や、施与が掟になる〔施しの義務がある〕状況で施与の資を別途に有しない場合」のみである、と解釈しています[^19]。
古代のキリスト教における労働観をまとめると次のとおりです。「いかなる固有の価値も、いかなる独自の尊厳もいまだに労働には認められていなかった。もし労働が、何らかの精神的尊厳を持つとすれば、それは例外的に、価値ある目的のための手段としてのみである。労働それ自体は、何の価値も重要性も持たないのである」[^20]。つまり労働は、怠惰や盗みを避ける手段や、施しを与えるための手段、神が人の精神に込めた善性を示すための手段としては評価された一方で、働くことそれ自体が素晴らしいとか万人の義務であるという発想は、誰にとっても未だ思いもよらぬものでした。
不自由としての労働
現代では労働していないと真人間と認めてもらえませんが、古代ではむしろ「労働なんてまともな人間のすることではない」とみなされていました。そこまでではないにせよ、多くのばあい労働は望ましい積極的な行いではなく、消極的に手を染めねばならない代物でした。
こうした古代ヨーロッパにおける労働観を元に独自の労働論を主張したのが、ナチスが政権を掌握したドイツからアメリカに亡命し、暗い時代における人間の生について考え続けたユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントです。アーレントは、古代ギリシャの哲学が近代に至るまでヨーロッパの思考法を規定してきたと主張します。
われわれの政治思想の伝統は、プラトンとアリストテレスの教えに明確に端を発する。〔…〕その始まりはプラトンが『国家』の洞窟の寓話において、人間社会の領域を――人間が共通する世界で共に生きることに関わるすべてを――真の存在を追求する者が、永遠のイデアの澄み渡った空を発見したいと望むなら、背を向けて捨て去らねばならない暗闇・混乱・欺瞞として描いたことにある。[^21]
ここで言われている「人間社会の領域」における営みの最たるものが労働です。プラトンやアリストテレスが、労働は幸福な生の邪魔にしかならないと考えていたのは既に見たとおりです。そうまで労働が軽蔑されていた理由は、労働が必要性に屈服する営み=自由の欠如として捉えられていたからだ、とアーレントは言います。
古代において労働と仕事が軽蔑されたのは奴隷だけがそれにたずさわっていたためであるという意見は、近代歴史家の偏見である。古代人は逆に考え、生命を維持するための必要物に奉仕するすべての職業が奴隷的性格をもつから、奴隷を所有しなければならないと考えていたのである。奴隷制度が擁護され正当化されたのは、まさにこのような根拠からであった。労働することは必然〔必要〕によって奴隷化されることであり、この奴隷化は人間生活の条件に固有のものであった。人間は生命の必要物によって支配されている。だからこそ、必然 〔必要〕に屈服せざるをえなかった奴隷を支配することによってのみ自由を得ることができたのであった。[^22]
古代ギリシャ人が労働を隷属的であり不自由であり人間に相応しくない行いだと考えたのは、単に労働者が主人や客に従わなければならないからではありません。より根本的なレベルで、たとえ一人でやりたいように働いていたとしても、「お金を稼がなければ生きていけない」という必要への隷従である、とみなされたのです。そのような隷従は、理性を持つ人間ではなく、本能に支配された動物(あるいは奴隷)にふさわしい立場であると考えられていました。
このように労働をもっぱら「必要への隷従」としてのみ考えるならば、労働からの解放は、初回で紹介したアンティパトロスの詩がうたったように、まったく喜ばしいものだということになります。しかし現代人は、AIが全ての必要な仕事をやってくれる社会、という未来像にどこか不安を感じます。アーレントによればその不安の原因は、現代人のほとんどを占める労働者たち自身が「労働からの自由を手にするのに値する労働以上に崇高で有意味な他の活動力についてはもはやなにも知らない」ために、労働から解放された社会を「労働のない労働者の社会」としてしか描けない点にあります[^23]。
そのような「労働者の社会」が成立したのは近代になってからです。しかしそのためには、古代における「労働」の方法や価値から、われわれが知る「労働」のそれらへと近づく変化が、前もって起こっている必要がありました。次回は中世におけるそうした労働の変化を扱います。現代では自明の前提と見なされる「時間通りの労働」も、中世の発明品なのです。
(次回へつづく)
参考文献
アウグスティヌス(n.d.=1991)『神の国(五)』服部英二郎・藤本雄三訳、岩波文庫
マルクス・アウレリウス(n.d.=2007)『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫
トマス・アクィナス(n.d.=1996)『神学大全 第24冊』竹島幸一・田中峰雄訳、創文社
ハンナ・アーレント(1958=1994)『人間の条件』清水速雄訳、ちくま学芸文庫
キケロー(n.d.=1961)『義務について』泉井久之助訳、岩波文庫
鈴木謙介(2013)『ウェブ社会のゆくえ――〈多孔化〉した現実のなかで』NHKブックス
セネカ(n.d.=2017)『人生の短さについて 他二篇』中澤務訳、光文社古典新訳文庫
アドリアーノ・ティルゲル(1929=2009)『ホモ・ファーベル――西洋文明における労働観の歴史』小原耕一・村上桂子訳、社会評論社
山川信也(2008)『哲学者ディオゲネス――世界市民の原像』講談社学術文庫
Applebaum, Herbert. (1992) “The Concept of Work: Ancient, Medieval, and Modern”. State University of New York Press.
Arendt, Hannah. (1961) “Between Past And Future: Six Exercises in Political Thought”. The Viking Press.
Lis, Catharina and Hugo Soly (2012) “Worthy Efforts: Attitudes to Work and Workers in Pre-Industrial Europe”. Brill.
註
[^1]: Applebaum (1992)§2
[^2]: Applebaum (1992)§2
[^3]: Lis (2012)§2
[^4]: Lis (2012)§2
[^5]: キケロー(n.d.=1961)§1.34
[^6]: キケロー(n.d.=1961)§3.2
[^7]: アウレリウス(n.d.=2007)§6.33
[^8]: キケロー(n.d.=1961)§1.42
[^9]: セネカ(n.d.=2017)§1
[^10]: 鈴木(2013)§1.2.1
[^11]: Lis (2012)§3
[^12]: 「創世記」(新共同訳)§1-2
[^13]: 山川(2008)§13
[^14]: Lis (2012)§3
[^15]: アウグスティヌス(n.d.=1991)§22.24
[^16]: 「創世記」(新共同訳)§3
[^17]: 「ルカによる福音書」(新共同訳)§10
[^18]: 「テサロニケの信徒への手紙二」(新共同訳)§3
[^19]: アクィナス(n.d.=1996)§2.2.187.3 アクィナスがこの箇所で論じているのは「肉体労働」についてであり、削らず厳密に引用すれば「肉体労働以外に生活の〔…〕」と言っている。しかしアクィナスは同じ問答において「肉体労働によって理解されるのは、人々が生活の資を合法的に調達する一切の人間業務であって、それが手足や口舌で行われることを問わない」とも言っており、すなわちここで言われる「肉体労働」とはすなわち「労働」一般とみてよい。
[^20]: ティルゲル(1929=2009)§5
[^21]: Arendt (1961)§1
[^22]: アーレント(1958=1994)§3.11 注は訳者による
[^23]: アーレント(1958=1994)§0
プロフィール

あいかわけい 生活保護受給者。30代、無職、職歴無し。不登校による高校中退後、大学で社会学・哲学に没頭するも留年を重ね除籍。古代哲学から現代社会論までを横断する、歴史に根ざした生活の思想を展開している。note(https://note.com/kei_aikawa)においても、本連載を補足する記事を執筆している。


相川計





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