自民党の研究 動乱の保守政治に迫る 第九回

森山𥙿と日中外交 『小異を残して大同につく』

森 功

 悪化したままの日中関係。高市政権下で対中外交が停滞するなか、自民党きっての中国通として知られる森山𥙿前幹事長は「国交回復の原点を忘れてはならない」と語る。田中角榮、周恩来、二階堂進らが築いた日中国交正常化の舞台裏から森山が受け継いだ外交哲学とは何か。その証言を通して、日本政治が失いつつある「保守」の本質に迫る。

習近平を激怒させた一枚の写真

 高市早苗政権が誕生してほどなくすると、かつて当人の発した言葉が話題になった。1995年3月16日の衆議院外務委員会における先の大戦に触れた一言だ。
「私は当時の戦争の当事者とはいえない世代ですから、戦争の反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」
 国民から国の舵取りを負託されている国会議員の答弁とはとても思えない。ただし、彼女が心酔してやまない安倍晋三もまた、2015年8月の戦後70年談話で日本の侵略戦争について似たような発言をしている。
「将来世代にまで謝罪を背負わせるべきではない」――
 二人ともに自らの後ろ盾である支持層を意識した発言なのであろう。しかし、その前にかの戦争の歴史検証がきちんとなされているか、為政者が胸を張って答えられないところに問題の根深さがある。やはりどちらも妄言というほかない。
 台湾有事の発言以降、冷え込んだままとされる高市政権の対中外交は、巷間に伝えられているよりもっと深刻である。日中友好議員連盟会長の森山𥙿は私の取材に「習近平国家主席ご自身のマターになっているから厄介なんです」と語った。いっこうに解決できない日中外交の根っこは、高市が自ら投稿したXの写真にあったという。高市は首相になって間もない10月末、韓国・慶州で開かれたアジア太平洋協力(APEC)会議に出席し、そこで中国国家主席の習近平と言葉を交わした。そのときに撮った写真だ。本人にしてみたら、よかれと思ってにこやかに談笑するシーンを投稿したつもりだったのであろうが、日本政府の内閣広報が正式に撮影して掲載したものではない。いわば高市がプライベートに撮ったツーショットを個人のXに投稿したわけである。本来、首脳同士の写真は互いの政府が了承して初めて掲載される。ところが中国側の了承なく掲載されたため、かの国の独裁者の怒りを買った。挙句に日中関係についてチャイナ7と呼ばれる側近たちでさえ容易に触れられなくなっているという。外交儀礼に外れたあまりに軽いノリが墓穴を掘った帰結ともいえる。

2025年10月31日APEC首脳会談で習近平とあいさつを交わした高市首相=31日、韓国・慶州(高市首相のXから)
https://x.com/takaichi_sanae/status/1984142101911892197?s=20

 一方、この事実を指摘する森山は逆に高市の支持者から「媚中派」と敵意をむきだしにされる。だが、日中関係がこのままでいいはずはない。いまや中国はロシアや北朝鮮と徒党を組んで日本を「新型軍国主義」と責め立てる。おまけに事実上、イランとの戦争に敗れた米大統領のトランプは、9月下旬の習近平の訪米に支持率回復の望みを託して中国に近づこうとし、11月の中間選挙のために北朝鮮の金正恩との首脳会談実現に向けて盛んに秋波を送っている。ロシアにも気遣い、ウクライナへの支援もはっきりさせない。
 そんな世界情勢にあって日本の高市政権は孤立し、蚊帳の外というほかない。表向き「対話の窓口は開いている」と言いながら、対中外交の戦略を立てることなく、何もしない。森山でなくとも、まともな自民党議員なら危機感を抱くのはあたり前である。

日中友好議連会長、森山𥙿という政治家

 そこで中国のことを最もよく知る自民党議員の一人である森山に改めて意見を聞いた。森山は開口いちばん、日本と中国は意外な接点がある、と話し始めた。

森山𥙿衆議院議員、自由民主党前幹事長   写真提供:小学館

「日本国内ではあまり知られていませんけれど、東電の福島第一原発事故があったときにも中国企業が活躍しています。メルトダウンした原子炉を冷やすため、地上60メートルの高さから放水したでしょ。もともとあの機械は湖南省の長沙にある中国の建設機械メーカーがつくり、向こうにしかなかったそうです。中国大陸にはかつて三菱重工の組み立て工場があり、今でも工業建設機械メーカーがたくさんあります。それでああいう放射線量が高くて容易に近づけないような非常事態に、長沙の機械技術が役に立ったわけです。おかげで日本の消防庁もずい分助かったと思います」
 東電福島第一原発事故における中国の対応でいえば、日本の水産物輸入停止問題ばかりがクローズアップされてきた。一方で、原発事故は日本だけでなく世界の重大事であり、海外の多くの政府や企業が手を差し伸べようとした。ときの民主党の菅直人政権はあろうことか、日本の原子力発電所の機密漏れを恐れ、米軍の申し出を断ったとも伝え聞く。事故当時は、東京消防庁が「屈折放水塔車」と呼ばれる放水車から3号機に水を投入していた光景を何度も目にした。そこに中国企業が貢献していた事実はなぜかあまり知られていない。
 そんなエピソードを明かす森山は、政界きっての苦労人として知られる。鹿児島県鹿屋市出身の自民党衆議院議員だ。地元の中学校を卒業して鹿児島県立鶴丸高校の定時制課程夜間部に通い、日新高校が発足されたあとの1965年に卒業する。19歳だった。そこから1975年に鹿児島市議会議員補欠選挙に当選、市議会議員として7期務め、1998年の参議院議員選挙に立候補して国会議員になる。
 自民党では旧経世会橋本派に入り、小泉純一郎政権で財務大臣政務官を務めたあと、2004年4月の山中貞則の死去に伴って施行された区割り見直し前の衆議院総選挙区の鹿児島5区補欠選挙で、衆議院議員に鞍替えした。自民党内屈指の財政規律派議員であり、2005年7月、郵政民営化関連法案の衆議院本会議採決で造反して反対票を投じた。造反議員という烙印を押されて無所属で出馬したこの年の9月の衆議院議員総選挙で自民党の公認の新人候補者を破り、2006年12月、自民党に復党する。
 以来、自民党内で農水、国対族議員として鳴らし、総務会長や選対委員長、先の石破茂政権では党ナンバーツーの幹事長に昇りつめた。2025年10月の高市政権の誕生に伴って幹事長の役を解かれたが、多くの歴代幹事長が務めてきた「日中友好議員連盟」の会長はそのまま続けている。
 周知のように高市政権では公明党が連立から離れたため、中国とのパイプが細った。いまや中国と話ができる組織は、森山の率いる日中友好議連と河野洋平が会長を務めてきた「日本国際貿易促進協会」(国貿促)ぐらいといわれる。そのうち国防促会長の河野が2026年6月に他界し、予定していた同月の訪中が延期された。河野の死後、国貿促の会長は石破茂の側近である前外相の岩屋毅があとを継ぎ、中国との関係が深かった橋本龍太郎の次男である会長代行の橋本岳が改めて岩屋の訪中を模索してきた。
 その橋本は8月末、中道改革連合広報委員会委員長の伊佐進一や公明党参議院議員の川村雄大を引き連れて訪中した。これが岩屋の年内訪中の前捌きだとされたが、三人の訪中議員の団長格だった橋本は、中国共産党の窓口である中央対外連絡部副部長と会うこともせずに帰国する。めぼしい訪中の成果はあげられずじまいだった。
 公明党が連立政権から外れ、事実上、日中外交が途絶えてからおよそ1年、もう一人の中国とのつなぎ役である森山もまた、ずっと中国要人との面談を模索してきた。対中外交は極めて複雑でセンシティブであり、森山は議連の会長になる前からそこに深くかかわってきたという。森山の選挙区は生まれ故郷の鹿児島県鹿屋市を含む鹿児島4区で、日中外交については同郷の二階堂進から直接薫陶を受けてきたとされる。
 森山が二階堂との知遇を得たのは1975年から98年まで23年務めた鹿児島市議会議員の時期にあたる。すでに二階堂は木曜クラブ(田中派)の重鎮であり、田中角榮の懐刀だった。
「私自身、二階堂先生の選挙区に近いところで生まれ育っているもんですから、ずい分かわいがってもらいました。政界を勇退なさった平成8(1996)年の明くる年、二階堂先生が最後の訪中をされました。そのときのことが今も忘れられません。日中国交正常化の立役者だった孫平化(元中日友好協会会長)さんがまだお元気な頃で、『これが最後になるから』と私も誘われ、二階堂先生に近い人たちといっしょに中国に行きました。あのときは江沢民さんが国家主席で、釣魚台で盛大な宴を開いて迎えていただきました。そこで江沢民さんは二階堂先生に『毛沢東、周恩来、田中角榮、大平正芳、二階堂進と会談をした記録は残っているけれど、詳しい会議の内容がよくわかりません。あのときはいったいどういう合意だったんですか』と質問されたのです。私は、すごいことを聞くもんだな、と耳をそばだてていました」
 二階堂進は1909(明治42)年10月に鹿児島県高山村に生まれ、旧制志布志中学を経て米国に留学して10年間当地で暮らした。米国留学時代に太平洋戦争が勃発し、大学生の二階堂はひどい排日運動を体験する。その経験が日本で政治家を目指すきっかけになったとされる。
 南カリフォルニア大学大学院を卒業したあとに帰国して外務省の嘱託職員となり、終戦を迎えた。1946年の衆議院選挙に立候補して初当選し、以来、旧全県区で1回、中選挙区時代の鹿児島旧3区で15回も当選を重ねた。佐藤榮作内閣で科学技術庁長官・北海道開発庁長官として初入閣し、そのあたりから田中角榮に仕えるようになる。1972年の田中内閣発足時には官房長官として大平らとともに訪中し、日中国交正常化を果たした。

「小異を残して大同につく」という智恵

 森山は鹿児島市議会議員としてこの二階堂に心酔してきたという。1997年に訪中したときの二階堂と江沢民との会話に話を戻す。
「江沢民さんは『ご存命なのは二階堂先生お一人ですから、教えてください』という枕詞で先生に質問されました。日中国交回復の要件について当時の日本のマスコミは、小異を捨てて大同についた結果だと報道していたけれど、『それは違います』と江沢民さんはおっしゃいました。『あのときはむしろ小異を残し、大同につこうという合意だったのです』と。そばで『どういう意味なのか』と首をひねりながら聞いていると、江沢民さんは『日中国交回復の話し合いがほぼ終わりかけたとき、田中総理が周主席に尖閣の問題はどうしますか、と聞かれたでしょう。あのときの周主席の答えが小異を残そうという話なんです』と続けました。つまり、日本と中国の関係は古い古い関係だから、尖閣の領土問題を含めて小異はあるけれど、それは自分たちの世代ではなく、われわれよりもっと頭のいい若い人たちに任せよう、という発想です。二階堂先生もあのときのことをよく覚えていて、江沢民さんに同じようにそう答えていました」
 政府が尖閣諸島と呼ぶ日本固有の領土である東シナ海の島は、中国側が魚釣島と称し、「わが領土だ」と主張して譲らない。繰り返して説明するまでもなく、日中の首脳が互いに尖閣諸島の領土問題を小異と認識し、今すぐに議論する必要はないから、次世代に問題解決を委ねようとしたわけだ。

1972年9月27日、北京で会談する周恩来、毛沢東、田中角榮。写真:Legacy Images/アフロ

「田中角榮先生と周恩来さんとの日中国交回復の話し合いでは、尖閣の共同開発まで提案なされました。事実上、二階堂先生がその検討を進めていった。江沢民さんと二階堂先生の会談は1997年ですから、私がこのことに接したのは72年の国交回復からだいぶ経ったあとです。けれど、田中先生や二階堂先生の築かれた国交回復のそういう話が連綿と伝え残されてきました。訪中は孫平化さんの招きだったかもしれません。日中は非常にいい関係でした」
 森山がつけ加えて言う。
「私が平成10年に参議院議員になる直前で、鹿児島市議会議長の頃です。鹿児島の県会議員や志布志町の町長、中国と貿易をしておられる経済界の方々もいっしょでした。『土産にはどんこという鹿児島特産の分厚い干ししいたけが喜ばれるだろう』と二階堂先生がおっしゃられ、北京に持参したのを覚えています。二階堂先生はアメリカにも留学しておられましたから、中国以外にアメリカとの関係も大事にしておられました」

長沙から続く、中国との縁

 二階堂進は「趣味は田中角榮」と広言してはばからなかったと伝えられる。田中角榮本人とは古くからの縁がある。佐藤榮作内閣で初入閣したあと、田中を担いで木曜クラブを旗揚げした張本人だ。1976年のロッキード事件では「灰色高官」と名指しされたが、1980年に自民党総務会長として木曜クラブ会長となり、その後も闇将軍を支えて田中による自民党支配を強めていく。
 本連載でも触れてきたように、二階堂は木曜クラブから飛び出して創政会を立ち上げた竹下登や金丸信と自民党総裁の椅子を巡って対立する。田中が脳梗塞に倒れたあと、田中が急速に求心力を失い、二階堂も総裁選の立候補を断念した。
 ところが時代はここから急展開した。首相になった竹下もまたリクルート事件で1989年6月に失脚し、日本の政界は小沢一郎や橋本龍太郎らが中心となり、政界再編時代が到来する。永田町の激しい政局の渦のなか、もはや田中も二階堂もそこで泳いでいけなかったに違いない。1990年に田中が政界から去ったあとの96年、二階堂自身も衆議院議員選挙の出馬を断念し、政界の表舞台から去った。日中外交は、そのあと木曜クラブ出身の二階俊博や森山𥙿に引き継がれていった。
 森山と中国のかかわりには古い歴史がある。もとはといえば、鹿児島市議会議員の頃からだと話した。森山が東電福島第一原発事故のときに活躍した中国湖南省長沙製の放水車のことを知ったのも、そんな長い中国との付き合いからだという。
「中国との関係のはじまりは、私が30歳を過ぎて昭和57(1982)年に鹿児島市議会議長に就任する前の年でした。鹿児島市が湖南省の長沙市と友好都市盟約を結ぶため、事前交流を始めたのです。私の前の市議会議長と助役が向こうに行くというので、前日に議会運営委員会の委員長だった私たちと壮行会を開きました。市内の繁華街である天文館で一杯やったそのとき、少し酔いが回ってきた議長がとつぜん『森山、おれは長沙にだけは行きたくない』と言い出すではないですか。明日にも出発しなければならないのに驚きました。『議長、何てこと言うのですか』とご本人に聞くと、『おれは陸軍中野学校出身で、戦時中に長沙作戦に参加していたんだ。だから、向こうに行ったらもう帰ってこれん』と明かすのです」
 長沙作戦(第一次)とは、日中戦争さなかの1941年9月から10月にかけて中国湖南省の長沙周辺で実行された日本陸軍による戦闘を指す。中国軍や民兵組織の抵抗によって苦戦を強いられた日本軍が毒ガス攻撃を仕掛け、200人を超える中国人捕虜を大砲の的にして虐殺したといわれる。
「長沙作戦における日本軍は相当ひどかったみたいですね。日本の軍人が中国人の服を着てなりすまし、今では語れないようないろんな工作をしていたみたい。議長はそのことを気にし、『行きたくない』と言い出す始末でした。『もう国交回復したんだから大丈夫ですよ』と言って見送りましたが、やはりそれは議長の杞憂だったようです。帰ってきたら議長が一席設けてくれ、『行ってよかった』と笑っていました。向こうには日本語のわかる人たちがたくさんおられ、『正直なところを話したら、昔のことだから、と水に流してくれた』とそう話していました」
 そして1982年、森山が次の鹿児島市議会の議長を引き継ぎ、正式に長沙市と友好都市締結の調印にまでこぎ着けたという。
「私は平成10(1998)年に国政に移って平成19(2007)年に財務副大臣を務め、このとき長沙市人民政府が200億円あまりの借款を申し入れ、財務省もそこに同意しました。友好都市になった頃の長沙は100年経っても鹿児島に追いつかないと思ったくらい遅れていました。けれど、そこから内陸都市として非常に発展しました。おかげで私は長沙市の栄誉市民になっています」
 もっとも森山はこうもつぶやく。
「その長沙市には一昨年に訪問したきり、それが最後になりました。高市政権下の今はなかなか行けません」

高市政権が壊した対中外交の不文律

 中国側の日本に対する外交窓口は中国共産党中央対外連絡部(中連部)だ。先の橋本岳のように、日本の国会議員たちはそことの接触も途絶えている。
 森山の前任の日中友好議連会長は二階俊博であり、その次が林芳正だ。林は岸田文雄政権で外務大臣に就任したため、二階に会長を譲った。したがって必ずしも自民党の幹事長が日中友好議連の会長ポストに就く決まりがあるわけではないが、やはり中国の事情に詳しい国会議員でないと議連会長は務まらない。
 元来、自民党の議員たちは中国と台湾の関係もあり、なんとなく親中国派と親台湾派に色分けされてきた。概して岸信介の流れを汲む旧安倍派や麻生派は台湾寄りとされ、中国の国交を回復した旧田中派や旧竹下派、旧大平派の流れを汲む自民党議員は中国寄りとされる。党内のそうした色分けについて森山に尋ねた。
「たしかに麻生太郎先生は台湾に近いとは思います。自民党ではそこを含めて中台のバランスを考えてきました。私も鹿児島の山中(貞則)先生に連れられて台湾に行っていましたが、自民党にはある一定のルールみたいなものがありました。党の役職に就いている議員は台湾の訪問を遠慮する、という暗黙の了解とでもいえばいいのでしょうか。台湾から要人が来られたときも、お会いする窓口は自民党の役職についていない若手の青年局が担当してきました。私が幹事長だった時代を含め、二階(俊博)先生や茂木先生のときも、そのルールは守られていました」
 いわば政権与党としての自民党の不文律だったという。森山が言葉を足す。
「けれど、高市さんが総理になってから、その慣習が壊れました。(古屋圭司)前選対委員長や(萩生田光一)幹事長代行という党の要職ポストの人たちが、台湾に行くようになったのです。そんなことは今までありえませんでした」
 高市政権誕生後に自民党選対委員長という4役に抜擢された古屋は、日本台湾友好議員連盟の会長を務めてきた。これまで議連の会長として何度も台湾を訪問してきたが、4役に就いてからも日台議連の会長を続投する。それなども中国の神経を逆なでしたといえるそうだ。
 古屋は2026年2月の衆議院選挙で自民党が大勝した立役者でありながら、選挙後は選挙対策委員長から外され、話題になった。表向きは、選挙に圧勝しながら比例候補者の数が足りずにみすみす野党に議席を譲った失態の責任をとったとされる。だが、その実、高市政権は古屋に憲法審査会の会長という重要ポストを用意した。憲法改正の要となっているだけに、それも中国側にとってはおもしろくないかもしれない。高市政権ではそうした配慮がない、と森山は突き放す。
「政府間の事柄ではないものの、与党や政府の役職にある議員が台湾と交流すると、台湾を国として認めたことになってしまう可能性がありましょう。やはり向こうを刺激してしまいます。役職のない平場の議員外交なら、中国側も何も言いません。けれど、やはり与党や政府の関係者となると、そうはいきません。報道はあまりないかもしれませんが、実際に大使館を通じて向こうから『国交回復のときの約束事と違うんじゃないですか』と抗議が来ます。政府与党としては、台湾を国と認めた交流をしない、と慣行慣例でそうなっています。だから、台湾から来られた人と自民党の誰が会ったとか、非常に気を遣ってきました。高市政権になるまでは」
 とどのつまり高市政権は、あの安倍政権時代でさえ守ってきた中国との国交回復時の暗黙のルールをことごとく破ってきたといえる。そういう事態が、冷え込んだ日中関係の目に見えない障害になっているのだという。

森山が小泉進次郎を推した理由

 森山𥙿は高市早苗に手厳しい。2025年10月の自民党総裁選では高市ではなく、小泉進次郎を推した。その理由について率直に森山に尋ねた。
「総裁選は誰かに票を入れなければなりませんから、たしかに私は小泉さんに1票入れました。小泉さんはもともと鹿児島にルーツのある方なのです。実は進次郎さんのおじいさんにあたり、衆議院選挙を戦ってこられた小泉純也さんは、旧姓を鮫島さんといいます。鹿児島出身の方なのです。鹿児島実業高等学校の夜間課程で学ばれ、非常にご苦労されたと聞いています。われわれ夜学生にとって憧れの人でした。その鮫島純也さんは小泉家のお嬢さんと熱烈な恋愛をして結婚され、小泉純也さんになられた。結婚相手は進次郎さんのおばあさんにあたり、ともにひいおじいさんの事務所に勤めておられたそうです。で、純也さんが小泉姓になって衆議院議員になられた。ですから、小泉進次郎さんは小泉家の4代目の議員ということになります。
 ちょうど先の総裁選の前、小泉進次郎さんをおじい様が出られた鹿児島実業高等学校にご案内しました。進次郎さんは石破政権で農林水産大臣を務めておられ、そのとき私の選挙区が大水害に見舞われました。小泉さんには農林大臣として大変ご尽力いただき、親しくお付き合いさせていだたくようにもなりました。そうした縁もあります」
 小泉進次郎の高祖父は明治時代の麹町区会議員だった宮本央だが、国政でいえば小泉家の初代は衆議院議長を務めた曽祖父の小泉又次郎で、祖父の小泉純也、父の小泉純一郎と世襲を続けている。森山は祖父の出身校に案内したときの牧歌的なエピソードを明かす。
「小泉進次郎さんが鹿児島にお見えになったとき、地元の造り酒屋のおばあちゃんがいらして、『おじいさんの純也さんとお父さんの純一郎さんのどっちがよかにせ(ハンサム)かね?』と尋ねると、『純也さんにはとても敵わん』とおっしゃった。純也さんはそれぐらい端整なお顔立ちをされていて、進次郎さんも人気でした」
 小泉進次郎はポスト高市の候補にもあげられる。反面、高市内閣では防衛大臣となり、安保三文書の改定をはじめとした防衛力強化策を打ち出している。これまでは高市と対極にある穏健保守と見られてきたが、すっかり右傾化して高市政権と同化し、積極財政派に転じているとも指摘される。高市政権は日本の成長産業と位置付ける殺傷能力のある防衛装備品の輸出や中古戦艦の売り込み、さらには核の持ち込みや「核武装の検討」まで打ち出しているが、小泉はその担当責任者だ。リベラル保守と呼ばれる森山にしてみたら、小泉はかなり期待外れなのではないだろうか。

保守とは「約束を守ること」である

 高市政権では前代未聞の出来事が続いて起きてきた。自民党内の議論が封じられ、無茶な国会運営も目立つ。幅広い国民保守政党としてのあり様がずい分変質しているのではないか。保守政治について森山に問うた。
「自民党が国民政党であることは間違いがありません。したがって右の意見、左の意見、それぞれが党内にあるのは当然のことです。それを一方だけの議論で済ませるというのは、国民政党である建前からするとありえない。それでは困ります」

1985年、12月1日、二階堂進  写真:東洋経済/アフロ

 保守の定義は約束を守るという点にあると思っています。裏切らないことではないでしょうか。1997年に二階堂先生が最後の訪中をされたときの約束もそうです。その夜、北京飯店に宿泊して二階堂先生といっしょに食事をしました。そのとき先生は『森山君は若いんだから、小異があることもよく認識しておいてくれ』とおっしゃいました。共産主義の国にもある種の保守の流儀みたいな感性があるのです。互いに小異を残して今日があると認識しておくという約束を守らなければなりません」
 森山はさすがにあからさまな政権批判をしないが、高市政権に危機感を抱いているのは間違いない。国対族議員として国会運営に奔走してきた森山は現状を憂う。
「高市政権では梶山弘志さんが国対委員長をやられ、一生懸命努力をしておられます。ご苦労は絶えないでしょう。私は第二次安倍政権と菅政権で国対委員長をしてきましたが、総理が委員会に出席しない苦労などはまったくありませんでした。外交日程が入っているから少し国会への出席の時間をずらしてくれという程度です。予算委員会にも出て来ず、陳述書で答弁に代えるなんてことは考えられません」
 高市の地元奈良の秘書が陳述書で弁明しているネガキャン動画騒動の詳細は割愛するが、まさしく長い日本の憲政史上に存在しなかった首相の振る舞いというほかない。はたしてどこまで首相自身や事務所がこの件にかかわっていたのか。8月31日に発売された週刊現代の9月14日号では、夫の山本拓が2024年からくだんの動画業者と付き合いがあり、高市事務所との動画作成にも関与していたとする特集記事が掲載された。この先の2026年秋の臨時国会でも、ネガキャン動画騒動は尾を引きそうだ。森山が苦言を呈する。
「2月の衆議院選挙であれだけ圧倒的な勝利をされましたから、民主主義で数の多い方の意見が通るのは当たり前でしょう。けれど、反対の意見を完全に無視していいのかというとそれは違います。他の意見もあるということを受け止めなければなりません。中国との関係でいっても、隣国ですから長い歴史のなかでいろんな齟齬がありますが、必要以上いがみあってはいけません。中国にしても日本にしても大国であることに間違いがありませんから、そこをしっかり自覚しなければなりません」
 対中外交の展望は開けるのか。国家の安全保障上、スパイ問題などもを含めて中国には気を付けなければならないという意見も根強く、事実、その懸念も捨てきれない。
「対中関係の改善はなかなか見えてきていませんが、いろんなところで協力関係が必要なんじゃないでしょうか。安全保障の問題も当然のことですが、それを表で言えばバカみたいな話になります。そこは心しておく、ということではないでしょうか」
 森山は日中友好議連の若手議員に9月の訪中を呼びかけているという。かたや高市は秋の内閣改造、党役員人事に向け、自民党の全国会議員にどんな職に就きたいかというアンケート調査をしてきた。これもまた異例中の異例の出来事だ。400人以上いる国会議員の希望と睨めっこする日々だとも伝えられる。もはや笑い話のような事態というほかない。が、実際は笑い事では済まされない。(敬称略 つづく)

 第八回

プロフィール

森 功

(もり・いさお)
1961年、福岡県生まれ。ノンフィクション作家。2008年、2009年に「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」受賞。2018年『悪だくみ 「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』(文藝春秋)で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞。『魔窟 知られざる「日大帝国」興亡の歴史』(東洋経済新報社)『国商 最後のフィクサー葛西敬之』『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『地面師vs.地面師 詐欺師たちの騙し合い』(講談社)他著作多数。

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