バブル経済の崩壊と冷戦終結は、日本の政治を根底から揺さぶった。リクルート事件で傷ついた自民党は、海部俊樹政権のもとで政治改革に乗り出すが、その過程で小沢一郎が台頭し、やがて55年体制は崩壊に至る。長年、自民党の中枢で国会運営を担い、政界の裏表を知り尽くす大島理森元衆議院議長の証言から、「海部政権以降」に始まる現在まで続く政治の混迷を読み解く。
30年以上続く「政治の迷走」はどこから始まったのか
日本政治の溶解は、土地や株の価値が異様に膨らんだあぶく経済の崩壊とともに1990年代初頭から始まった。自民党を割って出た小沢一郎が陰に陽に政界再編の糸を操っていたのはその通りだが、その一方で自民党保守政治はここから崩れ落ちていく。ここから先の政界の混乱は今もって収拾していない。失われた時間は経済だけの問題ではなく、政治の世界も同じだ。唐突な衆院解散から総選挙に打って出て自民党史上最大の議席を得た高市早苗政権に危うさを感じるのも、30年以上も続いている日本政治の迷走ゆえなのであろう。
高市政権で2月18日に召集された今度の特別国会は、例年の通常国会と同じく150日を会期として始まった。振り返れば、首相の国会運営における稚拙さが際立ったというほかない。自ら衆院解散、総選挙を仕掛けて国会の開催を遅らせておきながら、令和8(2026)年度予算の成立を急がせた。しょせん無茶なスケジュールだったのだが、加えて2月末には米国とイスラエルによるイランの爆撃が勃発し、中東のみならず世界中が大混乱に陥る。
ところが高市政権では、ただでさえ物価高騰に苦しんできた庶民などお構いなしだ。案の定、2026年度予算の成立は年度を跨ぐ。補正予算をはじめとした国内の景気対策が完全に後手にまわった挙句、国会スケジュールそのものが狂っていく。
そうしているうち当の首相自身が選挙のネガキャン動画問題で立ち往生する。首相が国会に出て来ない異常事態となり、法案審議が空転する始末だった。そこまで混乱した裏には、国会でこれ以上の醜態をさらしたくない女性宰相の脆さが垣間見える。特別国会の150日のあいだ、高市の国会運営は史上最低と酷評される場面まであった。
そして特別国会の終盤に差し掛かって法案審議が大渋滞し、高市政権は切羽詰まって維新の会と約束した衆議院議員の定数削減審議を秋の臨時国会に先送りせざるをえなくなる。本来の国会会期末だった7月17日を控え、同じく維新との約束である副首都構想のために8日の会期を延長した。国民民主から袖にされ、チームみらいを取り込んで辛うじて格好をつけたが、予想どおり国会採決は綱渡りだった。

青森県選出の自民党衆議院議員だった大島理森(79)は、かつて国会対策の大物族議員として野党と渡り合ってきた。大島には高市政権における国会運営がどう映っていたか。まずはそこを聞いた。
「2月に大勝した総選挙の余韻の力とでもいえばいいのでしょうか、高市政権の現状はその勢いが残って成り立っているように感じます。連立した維新との約束にできるだけ早く区切りをつけたい。高市総理の国会運営の進め方には、そんな思いがあるんじゃないでしょうか。
高市総理は来年に自民党総裁としての任期を迎えます。それまでの政治手順を考えるうえの一つのポイントとして、維新との約束を果たす。報道によればたとえば(党幹事長代行として)政権を支えてきた萩生田光一さんもびっくりしたぐらい、総理は定数削減の問題に前のめりになった。直接伺ったわけではないけれど、高市総理のご性格を勝手に推測すると、そう思います。いい悪いの議論は別に、連立相手との約束を果たすのは政治家として当然のことと考えているのではないか。維新との約束を片づけたあと、高市政治の体制をきちっとつくりたいのだろうと見ています」
大島は第二次安倍晋三政権下の2015年4月に衆議院議長に選出された。以後2021年10月に議長として衆議院解散の詔書を自ら朗読するまで、議長在職日数は2336日を数える。戦後生まれ初の衆議院議長であり、なおかつ歴代最長議長となる。衆議院議長退任と同時に政界から身を引いた。ちなみに2位は今年6月に鬼籍に入った河野洋平だ。
その大島は議長の職責を自覚し、官邸一強と謳われた第二次安倍政権時代の議長でありながら、森友学園問題の国会対応について次のような議長談話を発出する。
「(国会議員は)憲法に定められた精神と条文、国会法に基づいて行動していかなければならない」
森友加計問題でのらりくらりと国会答弁を繰り返してきたときの首相に対する箴言に違いない。そんな衆議院議長時代の大島にとって最大の仕事が、天皇の生前退位に関する2017年6月の特例法整備だった。のちに大島は議長会見で語った。
「国民の総意を見つけ出すことが立法府の重大な責務であり、静謐な環境で合意を最も重視した」
周知のように「国民の総意」「静謐な環境」は現高市政権で俎上にのぼっている皇室典範改正でもしばしば使われる。というより、高市政権が至上命題に掲げてきた皇室典範改正それ自体が、9年前の天皇の生前退位から議論が始まっている。だからこそ、この2つの言葉が重大な意味を持つのである。
そしてはからずもこの大島衆議院議長時代だった18年10月から19年9月まで、衆院の議院運営委員長を務めたのが、現首相の高市にほかならない。この間、高市自身は国対運営に疎いと批判されてきた。それもあながち的外れではないようだ。
「高市総理は常に勉強してますから、つい突っ走ってしまうのかもしれません。私が衆議院議長をしているときに議運の委員長に就任され、いきなり国会改革に関するペーパー(高市私案)を出しました。記憶が定かではありませんが、閣僚の国会への出席を減らすべきだとか、議員立法をもっと増やすべきだとか、その手の話だったようにも思います。議長のもとには議会制度協議会という諮問機関が置かれ、正式な議運のテーマとして取り上げる前の段階でそこに議題が上がってきます。高市総理のペーパーはその手前だったと記憶しています」
いわゆる高市私案が出されたのは2018年10月の臨時国会開会前のことだ。高市は29日の衆院本会議開催4日前の25日、超党派議連の「『平成のうちに』衆議院改革実現会議」の表敬訪問を受けた。メンバーの浜田靖一や小泉進次郎らにとつぜん<議院運営委員長として実現を目指す事柄>と題したA4判コピー用紙に印字された3項目に大別された国会改革案を手渡した。<(1)ペーパーレス化の一層の促進(2)法案審議の方法を改善(3)衆院本会議場への「押しボタン方式」の導入>と記されている。それが衆院議長である大島のもとへ届けられ、与野党が騒然となったのである。
問題は(2)の「法案審議の方法」だ。ここには<国会冒頭の大臣所信に対する質疑日数を増やし、法案審議は続けて行う。会期末前に残った時間は、議員立法の審査や一般質疑に充てる>と記されていた。閣僚である所管大臣を中心に政府が国会に提出した法案審議を優先しろというものだ。そのために閣僚を増やすべきだという趣旨も含まれているのかもしれないが、なによりこの政府提出法案を審議する際には、法案と関係のない議論を避けるべきだという。不祥事の追及は特別委員会を設置しておこなうべきだというもっともらしい意見なのだが、予算委員会などで安倍首相が森友加計スキャンダル対応に追われていた件を想定していたであろう。とどのつまり、これでは国会における不祥事追及の場がなくなってしまう。そこで野党はいっせいに高市私案に反発したのである。大島が説明を加える。
「国会運営は手続きが重要なんです。だから私は高市総理に『いきなりこんなペーパーを出しても、簡単にテーブルに載せるわけにいかない。きちんと議運のメンバーを説得しなさい』と諭しました。議運には、過去の国会法に則った慣例があります。激しい権力闘争のなかで生まれてきたルールといえばいいのでしょうか。国会はそのルールをベースに議論しなければなりません」
大島はかなり言葉を選んで慎重に話す。平たくいえば高市は国会のルールを無視していたため、門前払いになったという意味だ。今度の特別国会の運営を顧みると、首相に就任した高市が議運委員長時代の失敗を肥やしにしているとも思えない。むしろ失敗を繰り返している。首相が野党の質問にまともに答えず、秘書の陳述書を自らの答弁に代えようとする姿勢などは、まさしくその典型というほかない。人気の宰相は万能感に満ち、数で強引に法案審議を押し通すような姿勢ばかりが目立つ。
維新との約束を果たそうとしてきたのは長期政権を見据えているからなのかもしれないが、高支持率の女性宰相によるあまりに乱暴な国会運営に対し、野党はもとより自民党内にも相当な不満が潜んでいる。高い内閣支持率のおかげでその不満が顕在化していないだけではないか。そう問うと大島は言った。
「総じていえば、自民党総裁、内閣総理大臣というポジションは、『私が言えば何事でも動く』という思い込みみたいなものが付きまとうように感じます。まさに大勝した余韻が依然として残り、内閣支持率もその要因となるのでしょう。自民党内ではものを言いたくても言えない。しかし、気をつけなければなりません。たとえば消費税の扱いについていえば、自民党内には税体系の意見を持った税のプロがおられる。支持率が落ちたとき、不満の声が一挙にあがる。自民党は大人の政党ですから今は控えているけれど、状況が変化すれば、そんな可能性は否定できません」
ここへ来て、さしもの高市人気にも陰りが見え始め、水面下の反高市の動きが顔をのぞかせている。そこは稿を改めるが、自民党を中心とした政界の迷走について、改めて大島に尋ねた。
「一本の蝋燭たれ」――河本敏夫が大島理森に遺した政治哲学
「私は青森の田舎侍で、農業団体のリーダーだった父も地方議員をやってました。叔父が戦後に衆議院議員を6期務めていましたが、私の選挙区の代議士が三木派にいた関係もあって河本派から選挙に出ました。とくに河本(敏夫)先生にご指導いただきました。まさに先生にお育ていただきました。『投票箱の蓋が閉まるまでが選挙だから、最後まで全力を尽くせ』というのが河本先生の持論で、『政治家は一本の蝋燭たれ』とお話されていました」
大島理森の実父は青森県議会議長を務めた大島勇太郎、衆議院議員だった夏堀源三郎は叔父にあたる。三戸郡上長苗代村(現八戸市尻内町)出身の大島本人は、慶大法学部を卒業後に毎日新聞広告部から青森県議会議員を経て国政に転じた。中曽根康弘政権下の1983年12月、自民党河本派から総選挙に出馬して当選して以降、11期連続で衆議院の議席を守っている。党人派の元自民党代議士である。政界引退後は東京にも事務所を置き、大相撲の横綱審議委員会委員長として発言してきた。
大島の所属した河本派は、田中角栄の宿敵といわれた三木武夫が旗を掲げ、河本敏夫が三木派の議員をまとめて派閥を引き継いだ。地元の中選挙区時代、河本派の大島に対し、岸派の流れを汲む福田派の田名部匡省と大票田の八戸市を二分する熾烈な「八戸戦争」で知られる。政治の世界における権力闘争を肝に銘じているのは、党内派閥の力学と自らの政治信条を貫く難しさを肌で感じてきたせいかもしれない。
大島は衆議院議員1回生時代の85年6月、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」が議員立法によって国会に提出されると、そこに異を唱えた。通称、「スパイ防止法案」は、日米安保改正を実現した岸信介政権時代から統一教会やその傘下の国際勝共連合のバックアップもあって法制化を悲願としてきた。大島たちハト派の自民党議員はそこに危機感を抱いて反対した。スパイ防止法の是非を巡る議論は今なお続いており、のちの個人情報保護法や特定機密保護法、さらには今度の国家情報局設置などの審議もその延長線にあると言っていい。

極端な右傾化を嫌う大島が、師と仰ぐ政治家が河本敏夫である。河本は1911年6月兵庫県赤穂郡相生村(現:相生市)に生まれた。衆議院議員を連続17期務め、沖縄開発庁長官や経済企画庁長官、通産大臣や郵政大臣を歴任した重鎮であり、終戦後の自民党で総裁の座を争ってきた「三角大福中」に次ぐ党の実力者であった。政界入りする前には海運大手「三光汽船」のオーナー社長という顔を持ち、河本は自ら所属する三木派の政治資金を支えてきたといわれる。河本に心酔してきた大島は今も都内にあるオフィスに河本の写真を飾っている。
「河本先生は自由主義者で、出身校の旧制姫路高校時代に反戦論をぶってクビになった逸話も残っています。そのためにずい分苦労された。様々な仕事をしながら、ある議員先生のところに寄宿して日大(法文学部)に入ったといいます。その大学時代に義理のお兄さんと三光汽船を創業したのですが、三井にしろ、三菱にしろ、もともと大手の船舶会社はときの権力と強く結びついていました。けれど三光汽船は違います。河本先生の根底には、一種の反権力的な自由競争経済が基本だという思いがありました」
その三光汽船は第二次石油ショック後の海運不況により1985年7月、会社更生法の適用を申請し、戦後最大の倒産と騒がれた。大島が在りし日の恩師の姿を思い起こす。
「河本先生は三光汽船倒産のときも弁解がましいことなどいっさい言わず、『関係者に迷惑をかけた』と言って沖縄開発庁長官をスパッとやめ、責任をとりました。立派な政界のリーダーはみなそうですが、言い訳を聞いたことがない。そういう方でした。
だから保守本流とは少し距離を置いてきたのでしょう。私は直接その場面にいたことはありませんけれど、自民党は(1978年12月に誕生した)大平正芳内閣で、田中・大平対福田・三木で分裂した。そのとき新党結成の話が持ちあがったそうです。で、大平先生が『河本さんだけは自民党に残ってほしい』とおっしゃったとか、田中角栄先生から『河本は自由経済のなかで生きた男だから経済がわかる』と引き止められたとか、いろいろなエピソードを教えてくれる人もいました」
田中角栄が1976年に浮上したロッキード事件に塗れ、田中を追及してきた三木武夫が後継首相に座る。このとき自民党内では、相変わらず闇将軍と恐れられて最大派閥を率いた田中角栄と親米派のタカ派路線を進んだ福田赳夫の派閥の対立が表面化した。田中政権時代、外相として日中国交回復を成し遂げ、田中派のバックアップを得て首相に就いた大平はとうぜん田中に与し、ロッキード事件を追及してきた三木は反田中陣営の福田派に味方したとされる。
そもそも河本と三木とは、三木の娘婿の兄弟と河本の娘が結婚していた遠縁関係にあり、三光汽船のオーナーである河本は三木派のスポンサーと呼ばれてきた。それだけに田中や大平は河本を援軍につけようと、誘いをかけたのかもしれない。一方で、福田陣営には中曽根康弘や中川一郎などが合流し、三木派を引き入れて新党を結成する動きまで見せたというのである。だが、結局のところ河本が動かずに新党話は立ち消えになった。
自民党内が文字どおり真っ二つに割れそうになったその1980年代からおよそ10年のときを経て、本格的な政界再編劇の幕があく。対外的には日米が貿易収支を巡る経済摩擦で揉め、米ソの東西冷戦が終わった。日本国内では90年代に入ってバブル経済が崩壊する。と同時に、政治の世界も変化を大きな迫られた。大島がそんな時代を読み解く。
ベルリンの壁崩壊とバブルが変えた日本政治
「昔の1955年体制よりドラマが少なくなったから、今の政治は面白くないという人もいます。戦後の復興期を経て何十年も続いた55年体制では、たしかにもろに権力が戦い合う場が数多くありました。そこに人間ドラマが生まれる。とどのつまり政治は権力へアプローチする戦いで、それが民主主義でもあります。
日本の政界が変わったターニングポイントは 2点あります。第1点は1989年に起きたドイツのベルリンの壁の崩壊でしょう。米ソの冷戦構造が壊れ、いわゆるイデオロギーの対立軸が失われた。それによってグローバルという言葉が使われ始め、世界に新しい秩序が生まれました。ちょうどそのとき日本は自民党の海部俊樹政権が生まれました。そこで私自身、第二次海部内閣の官房副長官を拝命し、時代の変化に直面しました」

大島は1990年2月に発足した第二次海部内閣で内閣官房副長官に就任した。バブル崩壊前夜から日本政界を襲ったリクルート事件の影響についてこう語る。
「1988年から89年にかけて騒動になったリクルート事件のときの総理が竹下登先生でした。竹下内閣時代は昭和天皇の病状が毎日のように流され、ついに年が明けて崩御されました。このとき私は議運の末席の理事でした。竹下先生はリクルート事件を背中に背負いながら消費税導入という大変な決断をされ、平成の世になってそれを成し遂げました。当時の竹下先生の心中までははかりかねますが、田中派をはじめとした55年体制下の凄まじい派閥間の争いを体験された。政治の活力という意味で面白い時代でした。
そうして竹下内閣の次に宇野さんが首班指名されて参議院選挙で大敗をしたあと、海部内閣が生まれました。それまでの永田町のセオリーだったら、海部内閣が生まれるわけがなく、それ自体が大きな政治の変化であったわけです。誕生した海部内閣の課題が政治改革でした。そこからまさに政党、政策、政治の責任を明確にするため、そして日本の選挙制度そのものを変え、以後の日本の政治の形を変えていきました。成立するまで三内閣が関わりました」
リクルート事件が崩した「55年体制」
リクルートグループによる未公開株の政官財へのバラマキが発覚した1988年6月以降、自民党は55年体制時代の軸を失っていく。田中角栄や中曽根康弘の次を担うニューリーダーとして持て囃されてきた竹下登や安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄といった派閥の領袖クラスまでが未公開株を受け取っていた。リクルート汚職は事実上の賄賂工作だと糾弾され、自民党執行部は対象者に1年間の役職停止という重い処分を下す結果となる。実際に東京地検特捜部が10月から本格捜査に乗り出し、平成の時代に入った89年6月、竹下内閣は総辞職に追い込まれた。
結果、自民党では足元の竹下派はもとより安倍派、宮澤派、中曽根派という自民党4大派閥から総裁を出すことができない。やむなく河野(一郎)派の宇野宗佑、さらに河本派の海部俊樹に総裁のバトンが渡っていった。わけても海部は元神楽坂芸者とのスキャンダルで首相を辞任した宇野の後釜というピンチヒッターに違いなかった。党最大派閥を率いた竹下の早大雄弁会の後輩にあたり、竹下事務所と同じビルに海部事務所があり、それが功を奏したという見方もあるほどだ。海部は三木内閣時代に官房副長官を務めた河本派の幹部だった。前述したように大島はこの第二次海部内閣で官房副長官を務め、竹下派七奉行のトップと目された小沢一郎が自民党幹事長として内閣を支えた。ここから小沢が政界再編劇の主役を演じることになる。
海部政権を支えた小沢一郎、始まる政界再編
「私は第二次海部改造内閣で1年8ヶ月間、官邸で仕事させていただき、週に2~3回は党の小沢幹事長のところへ行って指導を仰ぎました。簡単にいえば、幹事長の怒られ役です。国内では政治改革を迫られ、世界では湾岸戦争が勃発し、日米構造協議の真っただ中でした。そこで私自身、小沢先生に鍛えられた一人でした。大変勉強をさせていただきました。海部総理の誕生については非常に感慨深いものがあります。そこから少なくとも平成の中頃までは、小沢政局が続いていたといえるでしょう」

大島はそう振り返った。竹下派内では海部政権に反対する動きもあり、小沢のライバルである橋本龍太郎を総裁に推す声もあった。だが、竹下派のオーナーといわれた金丸信が反対した結果、海部にお鉢が回ってきたという説もある。本連載で書いてきたように、竹下派七奉行の橋本グループと袂を分かった小沢は、日本新党党首の細川護熙を担いで非自民の8党会派による連立政権を樹立した。細川、羽田孜と首相の顔をすげ替えながら自民党に対抗した。
だが、ほどなく自民の反撃に遭い、まさしく自民対非自民の勢力争いが激化した。1994年6月に村山富市首相の自社さ政権が樹立されると、96年1月から自民党の橋本龍太郎が首相を射止め、98年7月の小渕恵三、2000年11月の森喜朗と首相が目まぐるしく入れ替わる。小沢はこの間、村山の首班指名を巡って海部を自民党から離党させ、政権奪還を目指した。いうまでもなく海部は大島にとって同じ派閥の先輩議員にあたる。しかし実のところ大島の所属していた河本派は海部政権の誕生に反対した。
「村山内閣の成立したとき、海部先生が小沢先生と組んで党を割って出ました。このときすでに河本先生は病床に臥せっておられましてね。夕方の6時ごろでした。私と(河本派の)高村正彦先生が病院に呼ばれ、『高村君、君は海部さんのところへ行って、自民党から出るのをやめろと言ってこい』とベッドから命じるのです。『海部君に電話したけれど、ぜんぜん出ない。大島君は情報を集めろ』と。私の地元でも、大島が海部といっしょに離党するんじゃないか、という話まで出ていて心配していたと聞きました。あのときの親父さん(河本)の姿を忘れられません。政治の世界にif〈もしも〉はありませんけれど、あのとき河本先生が病床でなかったら、状況が違ったかもしれません。結局、海部先生を引き戻すことなんてできませんでした」
大島自身は90年代に環境庁長官や文部大臣・科学技術庁長官などを歴任し、小渕政権の1999年10月に衆議院の議院運営委員長に就任する。このとき自民党は小沢が旗揚げした自由党を媒介として、自自公の連立政権としてスタートした。大島はここから自民党国対委員長を2度経験し、野党相手に「握りの大島」と呼ばれるまでの大物国対族議員として鳴らすようになる。それだけに与野党のパイプも太かった。小沢について大島はこう評す。
海部政権が開いた「連立時代」は今も続く
「小沢先生は政治、国会改革の信念をお持ちでした。いろんな批判もあり、私にもそれはありましたけれど、政治を動かす行動力はたいしたものです。小渕内閣で小沢先生の自由党と自民の自自連立が成立しましたけれど、 野中広務先生に『魔と手を握ってでもやる』と言わせたくらい。その後、自民党が民主党に政権を渡した谷垣禎一総裁時代に私は党の幹事長を拝命して民主党の小沢先生と対峙しました。人生の宿命というか、時代の巡り合わせといえばいいのでしょうか、さまざまな思いが巡ります」
大島には小沢一郎に対して一定のリスペクトを示す。が、小沢自身は年齢のせいもあるのだろうが、90年代に政界再編を仕掛けたかつての神通力を失っている。反面、現在は小沢のような存在感のある政治家がいなくなったのもたしかだ。
小選挙区制になって自民党内も派閥が勢力を争う必要もなくなった。善悪はおき、政治家がそうした権力闘争の場で成長した面も否めない。大島が指摘する。

「一言で申し上げますと、冷戦終息後、共産主義や社会主義に対する国民の皆さんの選択としてのイエスが消えました。その代わりに面白いところに一票を入れてみようとなりました。それに対してポピュリズム批判もありますが、事実として国民の選択の幅が広くなったといえます。それがいわゆる価値観の多様化であり、結果として海部内閣以来、政治の世界で明確な単独政権が成り立たなくなったのです。自民党単独政権は橋本内閣のほんのわずかの期間しかなく、基本的に連立政権の時代が訪れました。社会党が選挙に勝って土井たか子さんが『山が動いた』と名言を残しましたけれど、マドンナブームのような状況が今にいたるまでずっと続いているのです。
しかし、皮肉にも野党の諸君はそのあと連立を組んでまで戦う覚悟を持てなかった。そこに今の悲劇があります。自民党は党内でいくら喧嘩していても、大人の政党として最後は我慢します。我慢、忍耐を繰り返しながら組織を守っていく。人間の業をどうやって整理、整頓しながら世の中を安定させるか、そのうえで物事を前へ進めるのが政治の仕事です。そこでは現場の経験値が生きてくる。そこが野党と自民党の違いでしょう」
大島はこうも言う。
「よく政治テーマになる対立軸がなくなったと言われますが、探せばあるはずです。核の問題もあれば、世界経済、外交、安保……。今度の G7 サミットを見ていると、フランスのマクロンはすごい。G7への出席を嫌がっていたトランプを参加させて、イランとの停戦合意にまでまとめていった。今はかつてのような G7やG8 ではない。反グローバル世紀におけるアイデンティティを確立する戦いが始まっています。そのなかで日本はどう外交を展開するのか。これ一つとっても政治には大きな役割があるでしょう」
日本政界は1990年以降、すっかり様変わりしたが、ある意味、それも必然といえる。そこにどう対処できるか、政治家の力量が問われている。(敬称略 つづく)
プロフィール

(もり・いさお)
1961年、福岡県生まれ。ノンフィクション作家。2008年、2009年に「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」受賞。2018年『悪だくみ 「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』(文藝春秋)で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞。『魔窟 知られざる「日大帝国」興亡の歴史』(東洋経済新報社)、『国商 最後のフィクサー葛西敬之』『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『地面師vs.地面師 詐欺師たちの騙し合い』(講談社)他著作多数。
森 功





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