満洲国にあったのは、関東軍だけではなかった。日本人、漢人、満洲人など、さまざまな民族から構成されていた「もう一つの軍隊」満洲国軍については、いまだに謎が多い。
歴史社会学者の高媛氏は、満洲国軍に所属した、とある中国人軍人の日記に出会う。謎多き満洲国軍について知るべく、生々しく感情が吐露された資料を読み込むうちに見えてきたのは、激動の国家の「隙間」を生きた無名の人々の姿だった――。戦中・戦後という時代を、時に苦悩し、時に「裏切り者」と罵られながら生きた軍人の姿を丹念に描き出す。
満洲における観光の歴史に迫る『帝国と観光――「満洲」ツーリズムの近代』(岩波書店、2025年)が話題となった、注目の著者による短期連載!
2016年夏、私は中国東北部の長春市から、東へおよそ110キロ離れた吉林市に向かう列車に揺られていた。
長春は、かつて満洲国の首都であった。1932年、満洲国の建国とともに「新京」と名を改められ、帝都を造るという大事業が始まった。それまで東清鉄道(東支鉄道・中東鉄道)と南満洲鉄道株式会社線の乗換地にすぎなかった長春が、急速に姿を変えていく。広い道路が開かれ、官庁や住宅が建ち並び、近代都市が形づくられていった。ひとつの国家が急造されれば、その首都もまた、急造されなければならなかったのである。
それに対して、吉林はまた異なる時間を刻んできた町である。いまでは長春に次ぐ吉林省第二の都市だが、清代には吉林将軍衙門をはじめとする政治機関が置かれ、この地域の政治の中心として栄えた。名勝・北山公園を擁し、黒龍江の支流である松花江が、市街をゆったりと流れている。急速に造り変えられた長春とは対照的に、吉林には古い中国の町の面影が残っていた。その山紫水明の景観は、かつて日本人観光客の目には一種の郷愁を誘う風景として映り、「満洲の京都」と呼ばれることもあった。
私が吉林を訪れるのは、これが初めてではなかった。1991年、長春の吉林大学日本語学部に在籍していた私は、同級生たちとともに一度この町を訪れている。北京で生まれ育った私にとって、長春よりさらに東に位置する吉林は、まだ遠い地方の一都市にすぎなかった。当時の私は、この町に刻まれた複雑な歴史に思いを馳せることもなかった。覚えているのは、松花江で獲れた名物の魚料理に舌鼓を打ったことくらいである。
しかし、2016年の私の目的は観光ではなかった。吉林駅に降り立つと、私は市街地の一角にある文書館「吉林市档案館」へと足を急がせた。
同館は2014年に、『心痕手迹――偽満軍官施明儒日記』(以下、『心痕手迹』)全5冊を刊行した。そこには、満洲国軍の下級将校であった一人の中国人が残した日々の記録が収められていた。現存する日記は、1937年7月28日から1947年12月31日に及ぶが、1944年と1946年の2年分は失われている。もとの日記は6冊からなり、吉林市档案館はその筆跡や紙面を忠実に再現した影印版として、非売品の内部資料にまとめていた。
私は、この記録をたどるために、1991年以来、25年ぶりに吉林の町へ戻ってきたのである。

無名の「対日協力者」
その日記を残した人物の名は、施明儒である。
施は1913年10月19日、奉天省梨樹県(現吉林省四平市梨樹県)の農村で、男三人兄弟の末っ子として生まれた。清朝が倒れ、中華民国が成立してから、まだ2年足らずの頃である。梨樹県の近くには、公主嶺と四平街という二つの比較的大きな町があった。いずれも、日露戦争後にロシアから日本が引き継いだ東清鉄道南部支線の駅が置かれ、その周辺には南満洲鉄道株式会社(満鉄)が経営する附属地が設けられていた。施は、満鉄の列車が行き交う町を近くに望み、帝国日本の影響圏が傍らまで及ぶ土地で幼少期を過ごしたのである。
やがて施は、地元の「梨樹県立優等両級中学校」に進む。その卒業は1931年12月。関東軍の謀略によって満洲事変が勃発してから、わずか3か月後のことであった。さらに翌1932年3月、日本は中国東北部に傀儡国家・満洲国を建国し、その軍隊として「満洲国軍」を創設した。
満洲国軍とは、関東軍と協同し、満洲国の治安維持を担った軍隊である。その任務の中心には、日本側が「反満抗日の匪賊」と呼んだ抗日勢力の討伐があった。1939年時点で、総兵力は6万人近くに達していた(*1)。当初は募兵制であったが、1940年4月より徴兵制へ移行した。「五族協和」という満洲国の理念のもと、満洲国軍には、日本人、漢人、満洲人、朝鮮人、蒙古人など、さまざまな民族的出自をもつ人々が組み込まれていた。だが、その建前とは裏腹に、実権を握っていたのは日本人将校や日本人軍事顧問である。満洲国軍は、表では独立国家満洲国の軍隊であるが、実質的には、傀儡国家・満洲国のというより、関東軍の統制下に置かれた「植民地軍」に近い存在であった。
1935年、施は満洲国軍に入り、通信兵となった。
中国には古くから、「好鉄不打釘、好男不当兵(よい鉄は釘にならず、よい男は兵隊にならず)」という諺がある。とりわけ、1920年代の中国では軍閥が割拠し、規律を欠き、民衆に威張り散らす兵士たちは、世間から「丘八」(「兵」の字を「丘」と「八」に分けた蔑称)と呼ばれることもあった。兵隊とは、しばしば無頼漢やならず者に近い存在と見なされていたのである。
もちろん、満洲国成立後、満洲国軍を統括する軍政部は、ポスターや映画などの宣伝を通じて、そうした否定的な兵隊観を払拭しようとしていた。そこでは、満洲国軍は国家意識を備え、民衆を守る、尊敬されるべき新しい「国軍」として描き出されていた。だが、施が満洲国軍に入った1935年、すなわち建国からわずか3年ほど経った時点で、一般社会に根強く残る兵隊への忌避感がすでに一掃されていたとは考えにくい。
では、施はなぜ、その兵隊になる道を選んだのか。
日記は、その理由をはっきりとは記していない。ただし、当時の満洲国軍がどのような若者を引きつけていたのかを考えるうえで、手がかりとなる資料はある。満洲国軍政部の機関誌『鉄心』には、1936年の吉林市の募兵状況について、「応募者の大半は生活に窮し居れる下層青年に多し」と記されていた(*2)。これは施本人の動機を直接示すものではない。だが、少なくともほぼ同時期の吉林市において、満洲国軍が、生活に行き詰まった若者たちにとって、安定した給与や就職の機会を得るための現実的な選択肢となっていたことはうかがえる。
また、1938年1月2日、施は日記の冒頭に「写在日記的前面」(日記の前に記す)と題した一文を書きつけた。そこで彼は、「鉄窓の味もかつて一度味わったことがある」と述べ、「身に覚えのない冤罪、険悪な境遇」を経験したうえで、「人が政治犯あるいは思想犯と見なされることは、きわめて光栄なことだと思う」と記している。
この記述から、施がかつて、政治犯あるいは思想犯の嫌疑をかけられ、投獄された経験をもっていたことがうかがえる。兵隊になるという選択の背後には、就職や生計の問題だけでなく、そうした政治的な屈折や煩悶もあったのかもしれない。
その動機が何であれ、入隊後の施は、通信兵として軍内で一定の評価を得ていく。1938年には、奉天市(現瀋陽市)に設置された将校養成機関「中央陸軍訓練処」の入所試験に合格し、第七期候補生として入処した(*3)。卒業後は少尉に任官され、第二軍管区(吉林市)、江上軍(哈爾濱市)、吉林独立通信隊(吉林市)などを転々とした。
そうした軍務の傍ら、施は結婚した。『心痕手迹』第1巻には、1943年4月25日、吉林市の大型料理店「賓宴楼」で撮影された結婚式の写真も収められている。黒い背広風の礼装に蝶ネクタイを締めた施と、ウェディングドレスに身を包んだ花嫁。二人を囲むように、軍服姿の同僚と思われる男たちも並んでいる。
この一葉から、わずか2年あまり後、日本は敗れ、満洲国は崩壊する。
写真のなかの施は、やがて訪れる1945年8月が、自らの人生を根底から揺さぶることになるとは、まだ知るよしもなかった。
施にとって、「終戦」とは何を意味したのか。彼は何を見、何を記し、そして、どこへ向かおうとしていたのか。 本連載では、1945年および1947年分の日記を収録した『心痕手迹』第5巻を手がかりに、複数の国家のはざまに置かれた、ある無名の「対日協力者」の流転の跡をたどっていく。

「祖国」と「同胞」
「1945年1月16日 旧暦12月3日 晴れ」
〔原文は中国語、筆者訳、以下同〕
真冬の吉林市は、骨身に染みる寒さであった。
15時50分。施明儒は、目の不自由な母、身重の妻、そしてまだ一歳にもならない幼い長男に、涙ながらに別れを告げた。
そして、家族を残して、兵営へ戻っていった。
19時25分、施は軍用列車に乗り、吉林市を後にした。夜空には冴え冴えとした月が浮かび、その下で寒々しい星々がかすかに瞬いている。施はその光景を「冷月寒星」と書き留めている。
向かった先は、山海関の向こう側に広がる冀東(河北省東部)である。 では、満洲国軍の下級将校であった施は、なぜ満洲国の外にある河北省へ向かわなければならなかったのか。背景には、日本軍の華北侵出があった。河北省は華北の中心地域の一つであり、その東部は「冀東」と呼ばれていた。
満洲国成立後、日本はその勢力を、満洲国に隣接する冀東へも広げようとした。1935年末には、傀儡政権「冀東防共自治政府」を樹立する。さらに1937年7月の盧溝橋事件を機に日中戦争が全面化すると、同年12月、日本軍は北京に親日政権「中華民国臨時政府」を成立させた。翌1938年、この臨時政府は「冀東防共自治政府」を吸収する。さらに1940年には、南京の汪兆銘政権のもとで「華北政務委員会」へと改組され、その軍隊も「華北治安軍」から「華北綏靖軍」へと改称された。 こうして日本軍は、華北一帯を占領下に置いていった。しかし、その支配は安定したものではなかった。中国共産党が率いる八路軍の抵抗は激しく、各地で戦闘が続いていた。そして1945年1月、満洲国軍は、総兵力約1万5千人にも及ぶ「鉄石部隊」を編成した(*4)。日本軍や「華北綏靖軍」とともに、冀東で八路軍を掃討するためである。施も、鉄石部隊の通信隊員として、この作戦に加わることになった。
つまり施は、満洲国軍の将校として八路軍殲滅の軍事作戦に動員され、家族の待つ吉林市を離れ、遥か山海関の向こうへと向かっていたのである。
しかし、日記を開くと、そこには単なる「対日協力者」という言葉だけでは捉えきれない施の姿がのぞいている。吉林市を発つその朝、彼は次のように書き残した。
「今日は家を離れて西征する日であり、祖国に向かう日である」
日本軍に協力して八路軍討伐へ向かう男が、自らの進軍先を「祖国」と呼んでいたのである。
1月18日夕方。軍用列車はやがて、満洲国と「祖国」との境界線である山海関を越える。その瞬間、施は心の中でこう叫んだ。
「嗚呼!!これが14年間、人工的に描かれた境界線なのだ!これで同じ母親を持つ同胞は両地に分割されてしまったのだ!」
「祖国」と「同胞」――。
そこには、施の中国人としてのアイデンティティが率直な言葉で刻まれている。同時に、満洲国という「人工国家」を作り上げ、東北と華北とのあいだに境界線を引いた日本への、静かな憤りもにじんでいた。
「亡国奴」としての抗日
施は満洲国軍の軍人として日本軍に協力する立場にありながら、その内面には強い反日感情を抱えていた。
実は、1935年に満洲国軍へ入隊した頃から、施は密かに仲間たちとともに「国民党東北流亡救国社」と名づけた地下組織を作っている。正式に国民党員になったわけではない。だが、組織名に「国民党」を冠していることからもわかるように、彼は蔣介石の率いる国民党に強い期待を寄せ、自ら三民主義の信奉者であると考えていた。
施にとって、国を救うことは党派を超えた大義であった。彼は満洲国軍という組織を隠れ蓑にしながら、軍内部にいた同志たちとともに、「抗日救国」の活動を模索し続けた。とはいえ、その多くは実を結ばなかった。
また、日記から浮かび上がるのは、満洲国軍の将校でありながら、満洲国民としての自覚や誇りをほとんど持たない施の姿である。彼はむしろ、中国人としての民族意識を強く保ち、自らを「敵の手に落ちた東北という監獄」に閉じ込められた「亡国奴」と呼んでいた。
1945年、河北省へ向かう行軍のなかで、施は日本軍占領下の中国農村の惨状を目の当たりにする。焼け落ちた村、荒れ果てた街道、生活の場を奪われた住民たち。その光景は、彼の民族意識をさらに激しく揺さぶった。
日記には、日本人を指して「日寇」「倭寇」「倭鬼」「倭奴」といった激しい蔑称が繰り返し現れる。
たとえば冀東地区の遷安県(現遷安市)では、日本軍が住民を追い払い、レンガ造りの民家数百軒を占拠していた。しかも撤退時には、それらの民家を徹底的に破壊して去っていったという。崩れかけた壁だけが残る廃墟を前に、施は「亡国喪家」の慨嘆を禁じえなかった。
さらに同地では、日本軍が孔子廟を馬小屋や倉庫として使い、撤退時には柱や梁を取り壊したうえ、糞便や泥で壁を汚していた。儒教文化への侮辱ともいうべき光景を目の当たりにした施は、7月22日の日記に「倭奴滅亡の兆候はますます明らかだ」と怒りを書きつけている。
行軍の途中、施はこうも記している。
「14年来、幾度も蹂躙されたこの大地は、すでに生き地獄と化していた。同胞たちは塗炭の苦しみのなかで、絶望の呻き声を上げ続けている」
そこには、戦乱に苦しむ「同胞」への深い同情が刻まれていた。
だが、その「同胞」を苦しめている日本軍に、施自身もまた協力していたのである。
この矛盾を、彼は痛いほど自覚していたはずである。だからこそ、施の日記は単純な「抗日」の物語にはならない。日本への怒りと祖国への思いが強く記される一方で、そこにはもう一つ、別の感情が濃い影のように差し込んでいた。
「同胞」と「漢奸」のあいだ――施明儒の共産党観
施の共産党や八路軍に対する態度は、きわめて屈折していた。
彼は、日本の侵略に抵抗するという大義には強く共鳴していた。だが、中国共産党やその指揮下にあった八路軍を無条件に支持していたわけではない。むしろ彼は、共産党を、国難に乗じて赤化を広げようとする勢力と見ていた。日記では、国民党政府に対抗し、抗日救国の陣営を分裂させる存在として、「漢奸」(民族の裏切り者)、「売国賊」と罵ることさえある。
もっとも、その感情は単純な憎悪だけではなかった。厳しい状況下で抗日戦を続ける八路軍を、施はやはり「同胞」として見ていたのである。
1945年1月29日、施は日本軍と八路軍の衝突について記しながら、自らの立場を、次のような生々しい言葉で書きつけている。
「私はいま、鼻輪を通された老牛のように、敵〔日本――筆者注、以下同〕に東北から冀東まで引き立てられ、彼ら〔日本人〕のために働かされている。だが、それでも私は、できるかぎり共産匪を攻撃するつもりだ!だからといって、私を漢奸と罵ることはできまい。私は敵軍〔日本軍〕の力を借り、国民党に代わってお前たちを殲滅しようとしているのだ!なぜなら、お前たちは倭寇と同じく、中国に災禍と動乱をもたらす敵だからである!お前たちは知っているのか。ソ連がお前たちを支援する目的がどこにあるのかを。アメリカがひそかにお前たちを援助する目的がどこにあるのかを。憎むべき共産匪よ。哀れむべき共産匪よ!
昨夜、日本軍は八路軍の地雷に遭い、9名の死傷者を出した。一方で、八路軍も十数名が捕らえられた。それを目にしても、私はさほど惜しいとは思わなかった。彼らは共産匪だからである。ただし、彼らもまた、何といっても中国人である。そう思うと、 私はやはり彼らのことを惜しまずにはいられなかった!」
ここには、施明儒という人物の心の揺れが、これ以上ないほど率直に凝縮されている。
彼は日本軍に協力させられている自分を「鼻輪を通された老牛」にたとえながらも、その日本軍の力を借りて共産党を殲滅しようとしていた。だが同時に、捕虜となった八路軍兵士を「中国人」として哀れまずにはいられなかった。
「憎むべき共産匪よ」と叫んだすぐあとに、「哀れむべき共産匪よ」と書く。この二つの言葉のあいだに、施の揺れ動く心があった。
しかも、自らも「漢奸」と見なされかねない立場にありながら、共産党を「漢奸」とまで呼ぶ。そこには、施自身もまた引き受けざるをえなかった、もう一つのねじれがあった。
そして1945年8月15日、施は駐屯先の灤県にある榛子鎮で、ラジオから日本敗戦の報を聞く。それは、施を歓喜と不安のただなかへ投げ込むことになる。
施にとって、あの日は戦争の終わりではなかった。
注
*1 「1、満洲国軍に就て/(3) 満洲国軍の現状」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13021466000、満洲国軍、状況報告 昭和14年12月(防衛省防衛研究所)、第3画像目
*2 第二軍管区顧問部「満軍募兵に関する反響竝感想」『鉄心』2巻12号、満洲国軍政部、1936年12月、201頁
*3 『政府公報』1183号、国務院総務庁、1938年3月18日、23頁
*4 及川琢英『帝国日本の大陸政策と満洲国軍』吉川弘文館、2019年、230頁

満洲国にあったのは、関東軍だけではなかった。日本人、漢人、満洲人など、さまざまな民族から構成されていた「もう一つの軍隊」満洲国軍については、いまだに謎が多い。 歴史社会学者の高媛氏は、満洲国軍に所属した、とある中国人軍人の日記に出会う。謎多き満洲国軍について知るべく、生々しく感情が吐露された資料を読み込むうちに見えてきたのは、激動の国家の「隙間」を生きた無名の人々の姿だった――。戦中・戦後という時代を、時に苦悩し、時に「裏切り者」と罵られながら生きた軍人の姿を丹念に描き出す。 満洲における観光の歴史に迫る『帝国と観光――「満洲」ツーリズムの近代』(岩波書店、2025年)が話題となった、注目の著者による短期連載!
プロフィール

(こう えん)
駒澤大学教授。1972年、中国北京市生まれ。1994年、吉林大学日本語学部卒業。1995年に来日。博士(東京大学)。専門は歴史社会学、観光社会学。著書『帝国と観光――「満洲」ツーリズムの近代』(岩波書店、2025年)で、第19回日本観光研究学会「観光著作賞(学術)」および2026年度観光学術学会「著作賞」を受賞。
高媛





小山美砂×永井玲衣
服部孝洋×橘玲

岩井俊二
大塚久美子×福田淳