自民党とは何か、そして「保守」とは何なのか。本連載の最終回では、1993年に自民党を初めて下野させ、55年体制に終止符を打った細川護熙を訪ねた。日本新党結成の知られざる舞台裏、小沢一郎や武村正義との関係、政治改革、そして短命に終わった8党会派連立政権。細川政権の誕生と崩壊をたどると、そこで始まった政治の液状化が、30余年後のいまなお続いていることが見えてくる。細川が語る「保守の真髄」とは何か。動乱の保守政治を追ってきた連載の最後に、その原点を問い直す。
自民党を初めて下野させた男
自民党の保守政治は1990年代から崩れていった。きっかけは1993年8月の細川護熙が率いた8党会派連立政権の誕生に違いない。ここから自民党は1955年の保守合同以来、初めて野に下った。と同時に、対峙してきた革新政党の凋落も始まり、政界そのものが液状化していく。
言うまでもなく細川家は、九州・肥後熊本藩の歴代当主を輩出してきた名門だ。護熙は十八代目の当主にあたる。熊本県知事という地方自治体の首長から首相にのぼりつめた日本で唯ひとりの政治家でもある。政界から身を引いて以降、祖母の近衛千代子の住まいだった神奈川県足柄下郡湯河原町宮上の邸宅に住み、茶人として茶室「不東庵」を設えるかたわら、東京にある名刹の裏手に広いアトリエを構えている。ロンドンをはじめ内外で絵画や書の個展を開いてきた。作品を生み出したそのアトリエで本人にインタビューした。
「ここの裏には、細川家の六代目から十七代目までの当主の墓があります。それで私もこのアトリエで絵や書を描いています。油絵、漆絵、水墨、いろいろです」
米寿とは思えない壮健ぶりだ。柔和な笑顔で語り出した。

日本の政治は、竹下登政権下で摘発されたリクルート事件によって大きな節目を迎える。そもそも8党会派の連立政権はどのようにしてつくられたのか。
「初めからいろいろ考えていたわけではありません。最初は私一人でした。熊本県知事だった頃から中央集権的な日本の行政のあり様や中央官庁の官僚のやり方に苛立っていました。知事のときから日本に地方自治なんて存在しないと思ってきました。とくに熊本は水俣病対策があり、それも県は中央の下請け組織と化してきた。なので、なんとかしなければならないという思いを強く抱いてきたのです。で、知事を辞めてから政府の行革審(臨時行政改革推進審議会)のメンバーに加わり、本当に休みなく1年間で答申をまとめる作業に携わりました。しかし行革審では、知事のとき以上にどうにもならないと強く実感させられました」
細川は1991年2月に熊本県知事を退任し、年の末に行革審に加わった。行革審そのものは1961(昭和36)年11月、総理府に設置された第一次臨時行政調査会(第一臨調)を源流とする。その名称どおり行財政改革を旗印に掲げているが、一般に行革といえば土光敏夫が20年後の81年に会長として発足させた鈴木善幸政権時の第二次臨時行政調査会(第二臨調)のほうが馴染み深いだろう。
土光は石川島播磨重工業の生みの親として知られ、経営危機に陥った東京芝浦電気(東芝)の再建を成し遂げた名経営者として財界にその名を轟かせた。経済団体連合会会長を務め、「メザシの土光」と称された質素な私生活ぶりも有名だ。
そして土光は鈴木内閣の行政管理庁長官に就いた中曽根康弘に請われ、第二臨調を率いた。土光臨調として鈴木から政権を引き継いだ中曽根内閣で国鉄や日本電信電話公社、日本専売公社の民営化に取り組み、行政改革や規制緩和を進めたのは知られたところである。賛否はあるが、中曽根が現在にいたる日本を形づくってきたことは前に触れたとおりだ。
その土光臨調が1983年3月に解散し、改めて7月、臨時行政改革推進審議会設置法に基づいた行革審がスタートする。これも一次から三次まであり、細川は鈴木永二日経連会長が会長として1990年(平成2年)10月に立ち上げた第三次行革審「豊かな暮らし部会」の部会長に就いた。細川の言う行革審の議論は91年末から92年にかけた1年を指す。
「行革審では私が内政を任せられ、外交は京セラ(創業者)の稲森(和夫)さんが担当しました。部会の委員は十数人でしたが、錚々たるメンバーがそろっていました。行革審では土光さんの秘書だった人や朝日新聞の先輩記者だった人にも意見を聞いた。したがって第二臨調の影響も少なからずありました。皆さん行政システムの抜本的な変革を念頭に、かなり危機感を持って行財政改革の課題として地方分権や規制緩和、行政の民営化などに思いを共有していた。ですが、ここでも中央官庁の壁が厚く、答申は本当にがっかりするようなひどい中身に終わってしまいました。国のシステムそのものを行革審で変えなければならないと考えてきましたが、国会も内閣も変革の意志と能力を完全に失っているので、無理だと思わざるをえませんでした」
ちなみに細川の加わった鈴木行革審は93年10月に最終答申を出して解散した。これが村山富市内閣の下で94年12月、行政改革委員会と改組され、元三菱重工業社長の飯田庸太郎が会長に就任した。が、そこでもさしたる成果はあがっていない。
「死んだ言葉」を捨てて生まれた日本新党
この間、細川は政界再編に向けて舵を切っていく。日本新党を結党する1年近く前に相談した相手が、出版社「工作舎」の雑誌『遊』の編集長だった松岡正剛である。数多くの書評を手掛けてきた松岡は2006年11月29日のウェブメディア〈松岡正剛の千夜千冊 1163夜〉で、出井康博著の新潮新書『松下政経塾とは何か』を紹介するかたわら、細川が新党を立ち上げたときに自らかかわったエピソードを明かしている。
〈あるとき細川護煕が訪ねてきたのである。「新党をおこしたいので、その結党宣言に手を入れてほしい」というのだ。
細川さんにぼくを紹介したのは、ソニーの盛田昭夫会長やNIRAの下河辺淳理事長だった。二人から「そういうのは松岡さんに見てもらうといい」と聞いた細川さんが、一人で青葉台のぼくの仕事場にやってきたのは、平成3年(1991)の夏のことだった。熊本県知事をやめた経緯、このままでは日本をほっとけないこと、実は新党を結成したいことなどを手短かに語ると、こんな原稿を書いたので松岡さんに手を入れてほしいと言った。
1991年というのは一方では1月に湾岸戦争が始まり、他方ではベルリンの壁が(1989年に)崩壊して、急速に東欧の民主化がおこっていった年である。この年の年末にはソ連が解体した〉
日本新党の結成は1992年5月に発売された月刊誌『文藝春秋』6月号に自ら寄稿した『「自由社会連合」結党宣言』が始まりとされる。話のなかにある〈原稿〉とは、この文藝春秋の特集記事なのであろう。つまり細川は行革審に加わる前の91年夏から松岡に相談し、新党結成に動き始めていたことになる。
そして雑誌発売の8日後の5月18日には、党常任政務委員会を設置して政党名を公募した。200を超える党名候補のなかから「平成新党」と「日本新党」の2案が最終候補となったとされる。だが当人に聞くと、内情はもう少し複雑なようだ。こう明かした。

「松岡さんらに相談し、自分のところ(政党)を立ち上げようと動き始めたのは間違いありません。そこからコピーライターの方々に一緒に政党名を考えていただきました。東京プリンスホテルに部屋を借り、4人のコピーライターに声をかけ、私を含めた5人で何時間も党名を考えました。仲畑貴志さんや秋山道男さん、そういう売れっ子のコピーライターといっしょに一晩、ああでもない、こうでもない、と。それまでコピーライターは感覚だけでフレーズを決めているんだろうと思っていましたけれど、まったくそうではありませんでした」
党名の選考メンバーとして招集された秋山道男は青春出版社の新雑誌『BIG tomorrow』の創刊編集者で、衣料雑貨の「無印良品」や人気バンド「チェッカーズ」の総合プロデューサーとなる。また仲畑貴志は糸井重里や川崎徹などと並ぶ人気コピーライターとして、サントリーウイスキーの広告コピーを考案し、ソニーのウォークマンのCMで一世を風靡した。
「党名は文藝春秋で発表した『自由社会連合』までは私が考えました。いわば自由党や社会党という名前を組み合わせたような党名で、自由世界を目指す意味からそう名付けたのです。ですが、どうも彼らにはピンとこない。それで、まずいろんな言葉を選考の対象に並べ始めたのです。私がびっくりしたのは、彼らには言葉選びに関する一定の知見があるという点でした。てっきり自分のいい加減な感性だけでビールやウイスキーのCMを考えているのだろうと思っていたのですが、そうではなかった。酔っ払っていろんな議論を交わしながら、生きた言葉と死んだ言葉を壁に書いて並べ、どの言葉がいいか、選んでいく。たとえば彼らにとっては、『連合』や『民主』なんていう表現はすでに死んだ言葉でした」
もともと細川の発案した党名を解体すると、「自由」「社会」「連合」になる。どれも民主的な共生を意味しているようにも感じる。だが、名立たるコピーライターたちにとって、それは使い古された表現でしかなかったのかもしれない。旧態依然としたリベラルのイメージの弊害ということかもしれないが、いずれもダメ出しをされたという。
「彼らにとっては自由も社会もやはり死んだ言葉の部類に入っていました。それに民主も連合も。連合を死んだ言葉と言われたら労働組合に叱られるかもしれませんが、コピーライターたちの分析ではそうなのです」
政界では民主や自由、連合といった言葉を安易に使うが、それだけに国民に対するインパクトは薄い。2000年代に入り、自民党の対抗軸として発足した民主党も当代の売れっ子にとっては、決して名付けたくない政党名だということだ。今年(2026年)2月の衆議院解散総選挙を受けた立憲民主党と公明党が慌てて「中道改革連合」を立ち上げた。それも同じ理屈だと、ありえない党名ということになる。リベラルを標榜する政党が国民に受け入れられない現実は、案外、そのあたりにあるのかもしれない。

「彼らに言わせると、民主も自由もすでに90年代初めの当時から死んでいる言葉なんです。そうして朝方になって4人のコピーライターのうち、誰かが壁に書いた党名が『日本新党』だったのです。今でも誰が言い出したのか、はっきりは覚えていません。けれど、発案者は1人ではなく、2人か3人が同じ意見でした。私自身にとくにアイデアはありませんでした。日本新党ははじめ、少し右が勝ちすぎていないか、という不安もありました。日本という名前を付けると右翼のように感じるのではないかと思ったのです。反面、たしかに大きなインパクトがある。途中からこれはいいと思い直し、賛成しました。よくよく考えると、日本新党という党名は右だか左だかわからない。多数決で、これでいこうということで合意したのです」
日本新党の結党には、先の松岡正剛や有名コピーライターだけでなく、作家の辻井喬こと西武セゾングループ創業者の堤清二も尽力しているという。文藝春秋が発売される3日前の92年5月7日、細川護熙が千代田区内幸町の日本プレスセンタービルで結党を記者発表した。
「古ぼけた家を改築するのではなく、ブルドーザーで全部片付けて新しい家を建てよう」
細川は会見でそう語り、この年の7月におこなわれた参議院選挙で4人が当選する。細川以外の当選者は、ニュースキャスターの小池百合子をはじめ、実業家の寺澤芳男、農政研究者の武田邦太郎だ。細川が振り返る。
「堤さんはホテルにはいませんでしたが、たしかに手伝っていただきました。そういう有名人に相談しながら、結党会見したのはちょうど参議院選挙の 2カ月前で、候補者選びも慌ただしかった。たとえば武田邦太郎さんはすでに80歳近くになっておられましたけれど、説得力のある農業政策を掲げておられ、人格的にも立派な方でしたのでいちばんに決めました。といってもお年寄りばかりでは華がない。それで、誰か若い女性がいたほうがいい、と思い、私が小池さんに声をかけました。朝日新聞アフリカ総局長をしていた伊藤正孝さんがカイロで小池さんと知り合いだったということで、伊藤さんから紹介されました。伊藤さんは私の朝日新聞鹿児島支局時代の2年先輩で、もとはウエイトリフティングの選手でした。支局時代は朝からウエイトリフティングみたいなことをやらされ、さんざん鍛えられました。新党の候補者として小池さんはキャスターとして顔が売れているからいいんじゃないか、と単純に思い、薦められるまま声をかけました」
伊藤はのちに朝日ジャーナル編集長を務めた敏腕記者だが、鹿児島支局時代には種子島のロケット打ち上げに関する大誤報をやらかしたツワモノでもある。
結党時に「責任ある変革」というスローガンを掲げた日本新党は明くる1993(平成5)年7月の衆議院議員総選挙で新党ブームを起こし、一挙に35人が当選した。細川が続ける。
「選挙は面白かった。竹下(登)さんなんかは日本新党の候補者は1人も通らないぞと見下していましたけれど、参議院で4人が当選したすぐあとの都議選でも公認候補だけで20議席取りました。都政で第3党になり、その勢いに乗って翌年の衆議院選挙で35人当選できたのです。選挙で街頭演説に行くと、『日本新党がやって来るぞ』と聴衆が鈴なりになっていました。大阪なんかでは、人の重みで陸橋が壊れるんじゃないかと思ったほどです。遊説に行くとどこでも各地で数千人単位の聴衆が集まっていたので、300人くらいならそこはスルーしようか、という感じでした」
衆議院総選挙で飛躍した日本新党では、細川自身が非自民連立政権の首班となって政権交代を実現する。なお、現高市政権で外務大臣という要職にいる茂木敏充もこのときの衆議院選挙で日本新党から出馬して当選している。
戦国武将の細川忠興の子孫である細川は、実父の旧熊本藩細川家第十七代当主の細川護貞と元首相の近衛文麿の次女温子とのあいだの長男として東京で生まれ育った。上智大学法学部を経て朝日新聞の社会部記者から国政に転じたが、実父の護貞から政治家になることを反対され、細川家では一時勘当同然の扱いを受けた。それでも本人は1969(昭和44)年12月の衆議院議員総選挙に中選挙区時代の旧熊本1区から無所属で出馬して落選したあと、自民党公認を得て71年6月の参議院選挙に立候補して初当選した。当選後、自民党田中派に参加し、田中派に所属した。83年2月の熊本県知事選に挑戦して知事に鞍替えしたが、高度経済成長期の保守系議員であり、自民党政治を熟知している。もともとなぜ田中派に所属したのか。
「目白の田中(角榮)さんの家と私の祖父の家が隣同士という縁で、最初に選挙に出ようとしたときに吉田(茂)さんに挨拶に行くと、『(旧)熊本1区は自民党候補者で埋まっているから、割り込むのは大変だぞ』とおっしゃる。選挙区には防衛庁長官や農林大臣を歴任された佐藤派の松野頼三さん、大平派の大久保武雄さんや中曽根派の大番頭だった野田武夫さんがおられた。で、『どうしたらいいでしょうか』と吉田さんに尋ねると、『田中君のところへ行くしかないだろうな』と指示され、田中邸を訪ねたのです。それ以来、家に行くと、秘書さんが田中さんの財布を持ってきて毎月 20万円ずついただいていました。こっちも浪人生活をしていましたから、ありがたくいただいていました。ただ、私は田中さんにべったりではなく、宮澤(喜一)さんのところにもよく顔を出していました。田中さんとは家が隣同士で、政治活動の面倒を見てもらいましたけれど、お付き合いとしては宮澤さんの方が多かったですね。宮澤さんとは総理になってからもいろいろアドバイスをいただいていました」
小沢一郎と仕掛けた「非自民」連立政権
自民党内ではむしろ宏池会に近かったという。これまで書いてきたようにそこから知事を経て連立政権を樹立するのだが、政界再編のキーパーソンが小沢一郎である。小沢との邂逅は自民党の田中派に所属していた時代だろうか。
「自民党時代にどこかで会ったことはあるかもしれませんが、もともと小沢さんとこれといって面識はありませんでした。日本新党を立ち上げてからです。小沢さんから『連立政権で勝負をかけよう』と連絡がありました。私は『この指とまれっていう方式でどうでしょうか』と答えました。つまり『比例と選挙区を組み合わせた小選挙区比例代表並立制にし、政治改革を断行するので、賛同する政党は参加してください』と呼びかければ、賛同者が集まると考えたのです。この指とまれはこれまでやったことがない連立の方式でした。8党会派が一塊になるのは大変なことだから、この方式がいちばんいいだろうと。それ自体は割とうまくいったと思います」

1993年8月に非自民、非共産の8党会派で船出した細川内閣の樹立は、1955年(昭和30)年の保革対立体制が崩れた瞬間といえる。結党以来38年間単独政権を守り続けた自民党が初めて野に下った。改めて8党会派を並べると、日本新党、新生党、民社党、日本社会党、公明党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合である。マスコミ各社のスタート時の内閣支持率は70%前後と空前の国民的な人気を博した。
そんな細川内閣では、行革のほかのもう一つの主眼が政治改革だった。竹下政権下で表面化した89年のリクルート事件、さらに91年の東京佐川急便事件と立て続いた汚職により、政治とカネ問題が衆目を集めた。いわば安倍政権や高市政権といった30年後の今もなおこの問題を引きずり、解決していない。当時の政治改革気運の高まりをどう感じ、対処したのか。
「リクルートや佐川の事件は、永田町に政治改革が必要だという追い風になりました。それもあって私は日本新党の立ち上げに際し、経済界からの資金をあてにしませんでした。それまで自民党は経団連に政治献金を頼ってきましたけれど、私は一切足を運びませんでした。父方の祖父や母方の祖母が相次いで亡くなり、たまたま軽井沢の土地千坪などの相続があったものですから、その資金で候補者の面倒を見ました。今住んでいる湯河原の家なんかも祖母から相続したものです。その相続の大半を新党の立ち上げに使いました。
もう覚えていませんけれど、それで50人以上の候補者の事務所代、自動車代を賄いました。当時の衆議院議員選挙はまだ中選挙区制で、自民党内の派閥同士で競ってきましたけれど、そこにほとほと嫌気が差していました。あの頃の政治は酷いものでしたから、国政で勝負するなら、自前で選挙をやろうと思ったのです」
細川は自民党総裁の河野洋平とともに企業団体献金の廃止をはじめとした改革方針を打ち出した。が、結果的にそれも叶わなかった。
「政治改革は当時から竹下、宇野、海部、宮澤という四つの内閣の命題でもありました。けれど、自民党政権で6年かけてもできなかったわけです。それをとにかくやり遂げよう、と取り組みました。河野さんとは政治改革における最終的なところで手を握ったわけです。企業団体献金の廃止を目指していく、と国会内で合意しました。
ところが社会党は反対が強かった。私は法案がある程度固まった段階で衆議院議長だった土井たか子さんに挨拶に行きました。握手を求めようと『お世話になりました』と手を差し出したら、バチンとはじかれたのです。『あんたに叩かれる筋合いはない』と思ったけれど、そういう態度だった。党首の村山富市さんからは『あんたは夜明けによく騒ぐ男じゃのう』とずいぶん嫌味を言われた。採決をするのはたいてい明方になるので、そこまでいつも揉めるという意味です。『社会党がまとまらないから待たされて採決が夜中になる、まさに歴史は夜つくられる、あなた方のせいで』といつも言い返していました。コメの輸入問題のときなどもそうでしたね」
なぜ細川連立政権は瓦解したのか
そもそも8党会派の連立政権は、自民党保守やさきがけから創価学会を後ろ盾にする公明党、さらには革新系の社会党にいたる右から左までの寄せ集めといえた。自治労からバックアップを受けてきた社会党は労働組合からの献金をストップされては困るという至極わかりやすい理由から、団体献金の廃止に異を唱えてきたのであろう。のちに自民党が2009年9月に再び下野したときの民主党政権と同じく、政策の違った議員たちが一致団結するのは極めて難しかった。何が起きたのか。
「8党会派の連立という一つの塊ができて大きな流れにはなりました。けれど、さほどときを経ずにバラバラになった。さきがけの武村正義さんと小沢一郎さんがうまくいかなかったのが、いちばん大きいと思います。武村さんは社会党を中心に内閣をまとめていこうとした。民社党の大内(啓伍)さんなんかもどちらかといえば、社会党にくっついていった。それで政権運営がやりにくくなった。決定打はやはり国民福祉税の導入問題でした。国民福祉税は小沢さんが大蔵省の齋藤次郎(事務次官)さんといっしょに発案したのですが、強引過ぎました。あとで自民党の野中広務さんなども、細川内閣は国民福祉税で倒れたね、と解説していたくらいです」
国民福祉税は消費税の拡張版のようなものだ。消費税そのものは今も昔も社会福祉の財源となっており、目的をさらに明確にして税収を増やそうという発想からそう名付けられた。政策を授けたのが齋藤次郎であり、小沢一郎が90年代初めから導入を悲願としてきた。なぜそれがダメだったのか。
「国民福祉税の問題の第一は、今やるのはまずいというタイミングの問題です。連立内閣で取り組むべき問題がほかにもたくさんありましたから。増税政策は国民の反発があり、あの時点で今、国民福祉税を打ち出すと政権がつぶれてしまうと危惧したのです。もう少し上手にやるべきだという意見がもっぱらで、私自身も旧大蔵省の昔主税局長をやった人からヒアリングし、同じ意見でした。もう一つは税率の問題です。大蔵省の齋藤さんが説明したところでは、上げ幅を3パーセントから4パーセント、場合によっては5パーセントや6パーセントと想定していました。さらに記者会見直前になって7パーセントと言い出した。それはいくらなんでもやり過ぎだろう、と武村さんもそこに反発して、官房長官なのに会見にも出て来なかったり、混乱しました」
もとをただせば、細川内閣は新党さきがけの代表代行である田中秀征が首相特別補佐官として、新生党の小沢一郎とともに自民党の対抗軸を結成したはずだったが。
「小沢さんは、ときどきわがままが出るのです。たとえばとつぜん『武村氏の更迭にYesかNoか』と言い出したこともありました。『それはいくら何でも無理でしょう。内閣が崩壊します』と拒否する以外にありませんでした。ところが小沢さんにそう告げると『返事があるまで休ませてもらう』と、翌日から小沢さん自身が会議などに出てこなくなっちゃう。そんなこんなで10日間ぐらい欠席したことが、何度もありました。小沢さんには8党の取りまとめ役となる幹事長をお任せしていましたから、政権の要が出て来ないと、とても内閣がまわりません。それには困った」

武村についてはどうか。小沢とぶつかるのは必然だったのではないか。
「武村さん自身にも問題がありました。率直に言うと、武村さんは私より自分のほうが先に総理になるべきだったと思っていたと思います。地方自治体の知事同士で以前から付き合いがありましたけれど、私より先輩でしたから、俺の方が先だと。そういうふうに感じるところがずい分ありました。ですから、何かにつけて反発された。
武村さんは細川内閣の官房長官として年間数十億円の機密費を預かっていました。これは推測だけど、選挙のときなどに機密費を使っていたのではないでしょうか。あくまで想像ですが、日本新党の候補者を引っこ抜くために。実際、明らかに引っこ抜かれた連中がいました。私は官邸に張り付いて党内の面倒を見られないもんですから、いわば留守に付け込んでというか……。なかにはそれにすごく腹を立てて私に話してくれた人も何人かいました。そうすると、政権内部が疑心暗鬼になりいっしょにやっていくのは難しくなりますよね」
疑心暗鬼のなかで終わった細川政権
かなり際どい話ではあるが、連立内に互いの不信感が芽生えたのはたしかだ。自民党の河野と合意した94年1月末の政治改革4法の成立を機に、さきがけの田中秀征が首相特別補佐官を辞任し、細川内閣は瓦解していく。
もともと小沢は自民党幹事長時代から公明党書記長だった市川雄一と「一・一ライン」を築いて気脈を通じていた。この頃は、そこに民社党書記長の米沢隆を加え、「ワン・ワン・ライス」と永田町で呼ばれるようになっていた。小沢のこうしたパイプは、細川内閣で官房長官を務めてきたさきがけ代表の武村と対抗するためでもあった。先述したように武村は小沢の国民福祉税導入に反対し、政治改革にも及び腰だった。小沢から細川内閣の官房長官の辞任を迫られた武村は、政治改革法案を先送りしようとした自民党に近づき、細川とも袂を分かっていった。細川が言葉を継いだ。
「武村さんは細川内閣時代から自民党と接触していて、小沢さんなどから『いったいどこの官房長官なんだ』と揶揄されていたほどです。実際、武村さんは後藤田正晴さんや三塚博さんといった自民党の重鎮と近かった。だから、小沢さんは武村さんを警戒していたのでしょうね。『こっちの話がつつ抜けじゃないか』と怒っていました。そうして武村さんはわれわれから離れて自民党と組んでいったのですけれど、茂木さんなどは武村さんに唆された一人ではないでしょうか。日本新党から自民党に移り、武村さんは自社さ(自民・社会・さきがけ)の連立に加わっていったのです。」
そんなときに浮上したのが、細川が個人的に借りた佐川急便グループからの1億円問題である。これも細川内閣の打撃になった。細川が語る。
「実は佐川からはむしろ自民党の方がたくさんもらっている議員が多かった。問題が持ちあがったとき、私はそれをつかんでいて、いつでも表沙汰にできる状態でした。野田(佳彦)さんなんかも、自民党も徹底追及できないのではないか、と言っていたので、さほど気にしていませんでした。ただし、自民党と佐川との関係を国会などに出してしまうと、みっともない泥仕合になると思って控えました」
細川自身は政権の崩壊について、あくまで最大の要因は先の国民福祉税の取り扱いだという。だが、清廉なイメージで政権を発足させただけに、その影響は大きかったのではないか。
「そう見えましたか。けれど、ざっくばらんな話をすると、私のところは佐川さんの家主ですから、やましくもありませんでした。グループを率いる佐川清さんが京都の南禅寺そばに住んでいた1500坪の家などは佐川さんに貸していたものです。南禅寺別荘群と呼ばれ、植治(七代目小川治兵衛)さんという有名な植木屋さんがつくった琵琶湖の疏水の水を引いている庭園があります。京都に15しかない庭園なので佐川さんも喜ばれたはずです。それに、佐川さんとの関係でいえばたくさんあります。佐川さんの出身地である新潟県赤倉の1万数千坪の家、神奈川県葉山の別荘も佐川さんに貸していました。大家だから日頃からずい分たくさん家賃をいただいてきました。それであるとき、佐川さんが熊本の私の家を訪ねてこられました。たまたま台風で壁が倒れてしまって、佐川さんがそれを見て1億円を用立ててくれ、1千万円ずつ、10回分割で完済しました」
そして細川政権はわずか1年足らずで終止符を打ち、政界再編はさらに続いた。1994(平成6)年4月、小沢一郎とともに自民党を割って出た新生党党首の羽田孜が細川の後継と称して非自民の旗を掲げて首相に就いた。だが、急造内閣が長続きするはずもない。社会党が連立から抜け、羽田内閣は64日の超短命政権に終わる。
この間、自民党が打った一手が、新党さきがけの武村の抱き込みにほかならない。羽田首相退陣直後の94年6月、自民、社会、さきがけによる自社さ連立政権が誕生し、社会党委員長の村山富市が首相に就いた。とともに自民が政権にカムバックした。この政界再編を仕掛けたのが小沢のライバルである橋本龍太郎や梶山静六、野中広務といった自民党旧田中派の幹部たちだったのは言うまでもない。
細川護熙が語る、「保守の真髄」
もっとも何度も書いてきたように、保守政党が革新の社会党党首をトップにいただく裏には、自民党内の反発もあった。小沢はそこを見逃さず、新進党を結成して渡辺美智雄に新党への参加を呼びかけ、柿澤弘治らがリベラルズを結成して合流した。そこに自民党公認から漏れた高市早苗が駆けつけたのも前に書いたとおりだ。細川はこうした政界流動化をどう見てきたか。高市政権についてどう評価するか。
「一概にシステムを変えたら政治がよくなるかというと、そうはいきません。もっと大きな視座が必要でしょう。高市政権を一言でいえば、ノーサンキューです。このあいだ、外国に行っても相手にしてくれんから行かへん、と言っていました。そんな話があるかって思います。ろくに国会答弁もせず、Xの発信ばかり。消費減税をした2年後に税率を8パーセントに戻すとも言っていますけれど、それは政権の自殺行為になりかねない。高市政権はそう長く持たないんじゃないかと思います」

自民党保守という点から見た高市政権はどうか。昭和100年記念式典において天皇のスピーチもなく、自衛隊の音楽隊に流行歌の演奏をさせた企画に非難の声も上がっているが。
「高市さんがはしゃいでいるあのときの映像を見ていると、失敬だというほかありません。官房長官が天皇陛下を先導していましたけれど、なぜ総理がしないのか。それこそ不敬にあたるようにも感じました。高市さんにはとても期待できません。
私は連立当時、理想論だ、書生論だとさんざん批判されました。けれど、それをなくしてはいけない。理想と現実をどう結びつけるか、その役割を担うのが政治です。裏手の寺にいらした沢庵宗彭和尚は一休さん(臨済宗の一休宗純)とも所縁があったのですが、一休さんの書き残した臨済宗の教えに『諸悪莫作・衆善奉行』という言葉があります。つまり『悪いことをしなさんな、よいおこないをすすんでしなさい』という教えです。仏法の真髄はなんだと聞かれた人は『5歳の子供でもわかる話じゃないですか』と反論した。すると一休さんは『80歳の老翁でもなかなかできない』と答えたそうです。これは保守の真髄でもあり、保守政治はそうあってほしいと願います。
加えて沢庵和尚の好きな言葉に『百戦百勝するも一忍に如かず』もあります。防衛、安全安保に関する話です。家康、秀忠、家光の徳川三代の和尚として、『ぜったいに戦争はするな、尊いのは忍ということだ』と言い続けた。おかげで徳川の世は265年も続いたわけです。
保守政治をまっとうするためには歴史認識を明確にしなければなりません。先の大戦の際の日本を省みる。細川内閣の業績は何かと問われると、私は真っ先に先の戦争を侵略戦争と認める歴史認識を挙げ、それを言い続けてきました」
高市早苗は嫌中、反中を唱える勢力を味方につけ、政権を運営してきた。岩盤保守などと称され、防衛力の強化という名目の下、戦力の強化に突き進んでいる。しかし侵略を反省しないその過激な思想は保守と呼べるだろうか。
自民党は保革が対峙してきた55年体制の崩壊以降、常に連立を模索してきた。だが、その実、保守のあり様を見失い、政治はいっこうに安定しない。政治の液状化が1990年代から今にいたるまで続くのは、保守政治を取り戻せるリーダーがいないからではないだろうか。(敬称略 了)
プロフィール

(もり・いさお)
1961年、福岡県生まれ。ノンフィクション作家。2008年、2009年に「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」受賞。2018年『悪だくみ 「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』(文藝春秋)で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞。『魔窟 知られざる「日大帝国」興亡の歴史』(東洋経済新報社)、『国商 最後のフィクサー葛西敬之』『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『地面師vs.地面師 詐欺師たちの騙し合い』(講談社)他著作多数。
森 功





櫻井芙紗子×田中優子
小山美砂×永井玲衣
服部孝洋×橘玲

岩井俊二
中溝康隆