「金で優勝を買うのか」
監督・原辰徳の40代最後のシーズンは、歓喜と絶望で幕を閉じた。
2007年、監督復帰2シーズン目で5年ぶりのリーグ優勝を達成するも、この年からセ・リーグでも導入されたクライマックスシリーズの第2ステージでは、落合博満率いる中日に1勝もできずに惨敗した。試合後、悔し涙を流した49歳の若大将は、ストーブリーグに突入するなり、前代未聞の大型補強に邁進する。
新たにクリーンアップを打てる外野手を求めて、宿敵の中日からFA宣言していた福留孝介の獲得に乗り出す。「大リーグへの流出を黙って見ているわけにはいかない」と巨人の清武英利代表が公言して、異例の6年契約を提示するも、シカゴ・カブスの4年4800万ドル(約54億2800万円)には敵わなかった。巨人は福留を逃し、ターゲットをヤクルトのアレックス・ラミレスに絞る。右打者初のシーズン204安打、5年連続100打点という確実性と勝負強さを併せ持つ球界最高の外国人スラッガーである。ヤクルト残留が基本戦と思われたが、単年契約が基本線の低い評価に交渉は決裂。複数球団が獲得に乗り出すも、本人の希望する2年契約の年俸5億円を提示した巨人が争奪戦を制した。ヤクルト時代のラミレスは、規律の厳しい巨人に決していい印象を抱いていなかったが、新天地を選んだ理由のひとつが、「原辰徳が指揮を執るチーム」だった。両者はグラウンドで顔を合わせれば挨拶や軽い会話を交わす関係で、ラミレスは就任1年目から即日本一に輝いた原の下でプレーしてみたいと思っていたのだ。
「春季キャンプ初日、僕は監督室に呼ばれた。部屋に入ると、原さんは僕の肩を抱いて歓迎してくれた。僕は感激して、原監督率いるジャイアンツの一員になれたことを、とても誇りに思ったんだ。原さんは、僕が『いつか原さんの下でプレーしたい』と言ったことを、ちゃん覚えていてくれた。『ジャイアンツに来てくれて、ありがとう』。そして君の活躍を期待しているよ、と言ってくれた」
(ラミ流/アレックス・ラミレス/中央公論新社)
新たな四番打者の獲得に成功した巨人は、補強の手を緩めなかった。同じくヤクルトから16勝を挙げて最多勝に輝いたセス・グライシンガーを、阪神との激しい争奪戦を制し、2年契約の年俸5億円で獲得。さらに3年間で通算84セーブを挙げた横浜の抑え投手で、NPBで初めて160キロ超えを記録したマーク・クルーンにも、契約金と年俸の総額3億5000万円という好条件で契約を結んだ。同一リーグの他球団から、四番打者、エース、クローザーを獲得する前代未聞の大補強だった。4年ぶりにチーム総年俸は50億円を突破、2位の中日に15億円近い大差をつけて12球団トップを独走する。「金で優勝を買うのか」という批判は当然出たが、その姿はまるで、変わりゆく時代の波に抗い、巨人が球界の盟主であり続けようと、懸命に足掻いているかのようでもあった。2007年の原巨人が、東京ドームでリーグ優勝を決めた10月2日のヤクルト戦は、地上波で中継すらされず、日本テレビには1000件もの苦情が寄せられた。プロ野球史上最高の視聴率48.8%を記録した1994年の巨人と中日の“10.8決戦”からわずか10数年後、昭和から平成前半にかけてキラーコンテンツであり“国民的娯楽”だった巨人戦は、地上波テレビにおいて、その役割を静かに終えたのである。
坂本勇人、19歳
リーグ連覇、そして打倒・落合中日を目指した2008年、第二次政権3年目の原巨人は、ヤクルトとの開幕戦にひとりの若者を「八番・二塁」でスタメン抜擢する。当時プロ2年目、19歳の坂本勇人である。球団で十代の開幕スタメンは、1994年の松井秀喜以来だった。この開幕戦でレギュラー遊撃手の二岡智宏が右足ふくらはぎ肉離れで長期離脱へ。二岡は前年11月に左ヒザ半月板の形成手術を行い、リハビリを経て3月19日に復帰したばかりだった。もうすぐ32歳になる二岡は故障続きで、世代交代が急務だった。すると翌29日、開幕2戦目にスタメンのショートで起用されたのが、坂本だ。時は来た。「ショート坂本」の時代が幕を開けたのである。
背番号61は、4月6日の阪神戦で、セ・リーグ史上最年少の19歳3ヶ月でプロ初本塁打となる満塁ホームランを放ってみせた。10代選手の満塁アーチは球団初の快挙である。この年の坂本は、オールスターにも遊撃部門ファン投票1位で選出され、セ・リーグの高卒2年目では、初めて全試合先発出場を果たした。さすがに疲れが見え始めたシーズン中盤には、「坂本を外した方がいい」という評論家たちの声も聞こえてきて、原監督もそろそろ休ませるべきか迷ったという。
「私も彼(坂本)をスタメンから外そうかどうか、迷ったことは一度や二度ではありません。『今日は外そう』『今日こそ外すぞ』……。東京ドームに向かう車の中で、あるいは監督室に入ってから、何度も何度も考えたんです。でもドームで勇人と顔を合わせると、『おはようございます!』と威勢のいい声であいさつしてくれる。昨夜はグッタリしていたのはどこ吹く風、と言わんばかりに、彼の目を見たらギラギラしていたんです。その様子を見て私は、『ようし、勇人。グラウンドに出て練習するぞ!』と言いました。すると『はい!』と真剣なまなざしで言葉を返してくれる」
(監督 原辰徳研究 この「名将の器」に気付かなかった面々へ/江本孟紀/徳間書店)
原監督は坂本の背中に巨人軍の未来を見て、断固たる決意で試合に使い続け、負けん気の強い坂本も指揮官に臆することなく食らいついた。早熟の天才は、ときに指揮官の「ずっと出ていて活躍していないのは勇人だけ」といった厳しい指導や言葉に納得がいかず、ベンチで反抗的な態度を取ったこともある。それでも、猛打賞を記録した試合後に、「明日が大事なんで」とバットを手に室内練習場へ向かう19歳の姿があった。振り返ると、2007年の5年ぶりのリーグ制覇に貢献した高橋由伸も上原浩治も阿部慎之助も、いわば逆指名ドラフト時代の長嶋政権の遺産である。今思えば、坂本勇人こそ、第二次原政権の申し子だったのだ。
メークレジェンドと北京五輪
小笠原道大、ラミレス、イ・スンヨプという全員移籍組のクリーンアップを組んだかと思えば、高卒2年目の坂本をスタメンに抜擢し、セットアッパーには育成出身の山口鉄也を起用した。一見気の弱そうな風貌の山口は、清武代表に電話で「どうして支配下選手に上がれないんですか」と詰め寄る反骨心の持ち主でもあった。原監督は、坂本や山口のような野球に対して貪欲な若い選手を好んだ。大型補強でチームの土台を作り、その上で若手を起用して育てていく。それが、この頃の原巨人の特徴でもあった。
2008年の原巨人は、坂本というニューヒーローの出現はあったが、チーム初の開幕5連敗を喫すると、高橋由伸や二岡ら主力の故障や、2年ぶりに先発復帰した上原の不振でしばらく勝率5割ラインを下回る苦戦が続いた。5月16日の広島戦で1対7の完敗を喫すると、渡邉恒雄会長は「こんなバカな試合やって。優勝なんかしっこない。Aクラスを狙え。オレが見に来ると必ず負けやがる」(週刊ベースボール2008年6月2日号)という怒りの捨て台詞を吐いて、東京ドームをあとにした。5月26日にはドーピング違反でルイス・ゴンザレスが解雇される騒動もあったが、その2日後の5月28日の楽天戦で、ようやくシーズン初の勝率5割に届く。しかし、岡田彰布監督が指揮を執る阪神が6月11日に両リーグ最速で40勝に到達。2位中日に8.5ゲーム差をつけ、すでに独走態勢に入りつつあった。7月8日時点で、首位阪神と巨人のゲーム差は「13」にまで広がり、同22日には直接対決で巨人が敗れ、早くも阪神に優勝マジック46が点灯する。2008年のセ・リーグは終わったと多くのファンが思った。
だが、夏の北京五輪のあたりから徐々に風向きが変わり出す。阪神の新井貴浩が腰痛を抱えながら、五輪の日本代表として強行出場するも帰国後に腰椎疲労骨折と診断され戦線離脱。対照的に巨人は7月以降に打率.365と完全復調した小笠原と、打点王争いのトップを走るラミレスの“オガラミ砲”がチームを牽引した。8月終了時に残り30試合で6ゲーム差まで縮め、原巨人は9月11日から怒涛の7連勝で、首位・阪神との天王山を迎える。20日の東京ドームは実数発表以来では、最多の観客数4万6776人を記録。当日の指定席、立ち見券もシーズン初めて試合前にすべて完売して、入場できなかったファンに向けて、急遽ドーム22ゲート前の大型ビジョンで試合開始から生中継された。この19日から21日の首位決戦で、巨人は阪神に3連勝。球団16年ぶりの10連勝を飾り、ついに最大13ゲーム差から同率首位に並んだ。翌22日の広島戦は、オガラミのON砲に並ぶ年間14度目のアベックアーチが飛び出し11連勝。オガラミの2人に本塁打が出た試合は14連勝と不敗神話を更新した。引き分けを挟み、24日には32年ぶりの12連勝と巨人の勢いは加速し続ける。阪神も懸命な粘りを見せるも、巨人が10月8日の同率で迎えた直接対決を制し、141試合目で初の単独首位に立つと優勝マジック2が点灯。10月10日、神宮球場のヤクルト戦でシーズン83勝目を挙げ、原巨人の「メークレジェンド」は完結した。
クライマックス・シリーズでも、前年に苦汁を飲まされた落合博満監督率いる中日を3勝1敗1分けで退ける。日本シリーズ進出を決めた直後の優勝インタビューで、原監督は「昨年の悔しさを……」と感極まり、言葉を詰まらせた。「昨年は悔し涙を流したけど、今日はうれし涙が出ました。中日という越えなければならない壁を、選手たちがよく越えてくれた」(読売新聞2008年10月28日夕刊)と2008年の最大の目標でもあった「打倒・落合中日」達成の喜びを口にした。日本シリーズでは6年ぶりにパ・リーグ覇者の西武と対決したが、阿部慎之助を右肩の故障で捕手起用できなかったことも響き、3勝4敗で一歩及ばず敗退する。このとき、総力戦となるはずの第7戦で、原は翌年からのメジャー移籍が確実視されていた上原をベンチ入りメンバーから外した。
「シリーズを前に本人の『先発をやりたい』という願いを聞いて先発に回したものの、初戦、第5戦と結果の出ていない上原に、原はここで見切りを付けた。「『心、ここにあらず』の奴はいらん」ということである。このツケは大きかった。(第7戦)1点リードの8回、越智大祐がイニングをまたぐ続投をすることとなり、逆転を許し3対2で敗れ、日本一も逃した。しかし、原は『無念さ』どころか、むしろさばさばした表情をしていた」
(監督論 日本シリーズを制した27人の名将 /永谷脩/廣済堂文庫)
日本一こそ逃した2008年の原巨人だったが、補強と勝利と育成で、大きな手応えを感じた収穫の多い1年となった。ラミレスが打点王とMVP、グライシンガーが最多勝、クルーンも最多セーブと物議を醸した補強組が全員結果を残し、ペナントレースでは岡田阪神との13ゲーム差を逆転。CSで落合中日へのリベンジも果たした。若手ではリリーフのみで11勝を挙げた山口鉄也が育成出身初の新人王を獲得。144試合にフル出場した坂本も打率.257、8本塁打、43打点でセ・リーグ新人特別賞を受賞した。50歳にして、いよいよ原辰徳は、監督としての成熟期を迎えようとしていた。
WBC全員辞退の因縁
そして、大役が回ってくる。2008年10月28日、加藤良三コミッショナーから、第2回ワールド・ベースボール・クラシックの日本代表監督の就任を要請された原は、これを快諾するのだ。2週間後には、巨人から2009年シーズンの続投を正式要請され、新たに3年契約を結んだ。11月14日には、故障に加えて、女性スキャンダルも報じられた選手会長の二岡智宏をトレードで日本ハムへ。巨人移籍前はパ・リーグ屈指の遊撃手と称された小坂誠も、金銭トレードで楽天へ放出した。いわば19歳の坂本勇人の出現が世代交代のトリガーとなったわけだ。さらにドラフト会議では、原にとって高校の後輩にあたる高校No.1スラッガーの大田泰示(東海大相模)を抽選で引き当てた。
だが、すべてが順風満帆だったわけではない。WBC代表候補選手の中日から選ばれた4人が辞退。さらに追加で打診した1人も辞退と、5人全員が招集拒否という異例の状況に、原監督は「事情はあるでしょうが、一人も協力者がなかったことは寂しいものがある」と苦言を呈した。中日の白井文吾オーナーは、「北京五輪に全面協力したが、選手が体調を崩し、後遺症が大きかった。協力すべきと思うが、けが人が多い」(読売新聞2008年11月22日)と説明するも、落合博満監督と新たに3年契約を結んだ直後の騒動だった。様々な憶測を呼んだが、中日の森繁和バッテリーチーフコーチが後年、そのWBC全員辞退の舞台裏を明かしている。
「行くも行かないも『選手達の意思が第一』と聞いていたから、落合さんは選手達に『行くな』とも『断れ』とも、そんなことは全く言っていない。落合さんは打診のあった選手達に意思を確認して、そのうえで選手達が『できれば断ってください』と返答した。彼らは前年に北京五輪から憔悴しきって戻ってきた岩瀬の姿も、その後の調整で苦労した(川上)憲伸の姿も見ている」
(回想/森繁和/カンゼン)
本人たちの意思とは別のところで、原と落合の因縁は複雑に絡み合っていた。2008年11月20日、中日は35歳のベテラン投手と契約を結ぶ。河原純一だ。原政権1年目にクローザーを務め、日本シリーズの胴上げ投手にもなった、あの巨人元ドラ1右腕の河原である。前年に西武を戦力外となった河原は、故障を抱える右ひざのリハビリを兼ねて母校の駒沢大で練習をしながら、浪人生活を送っていた。大学の先輩にあたる森繁和コーチのルートで、10月31日に中日の入団テストを受けたのだ。
この時期の原巨人と落合中日の間には、1990年代の長嶋巨人vs.野村ヤクルトにも似た緊張感が漂っていた。そして、2009年シーズンが開幕すると、原は巨人ナインの前でこう檄を飛ばす。
「中日戦で活躍できない選手は、巨人のレギュラーとして認めない」と―。
(第8回へつづく)

2002年、現役時代から比較されてきた長嶋茂雄の後を継ぎ、読売巨人軍の15代監督に就任した原辰徳。その後、3期17年に渡って監督を務め9度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた彼は、巨人の伝統を背負いながら大型補強と大胆なベンチワークを独特のマネジメントでまとめ、新しい野球の形を示した。しかし、現役時代から昭和の象徴である長嶋茂雄の後を背負いながら、平成・令和を経て野球という娯楽の在り方の変化に翻弄された。そして、3度目の監督就任時にはファンから多くのバッシングを受けながら監督を退任するに至る。若き改革者は、なぜファンからも嫌われる「ヒール」になったのか?17年の軌跡を追う。
プロフィール

なかみぞやすたか 1979年埼玉県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。ライター兼デザイナー。
2010年より開設したブログ『プロ野球死亡遊戯』が人気を博し、プロ野球ファンのみならず、現役の選手間でも話題になる。『週刊ベースボールONLINE』『Number Web』などのコラム連載の執筆を手掛ける。
主な著書に『プロ野球死亡遊戯』(文春文庫)、『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)、『巨人軍vs.落合博満』(文藝春秋)、『プロ野球1年目の分岐点 25歳の落合、18歳の大谷』(PHP新書)などがある。
中溝康隆





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