徳光和夫の昭和プロレス夜話 第1夜

日本プロレス草創期の目撃者・徳光和夫

徳光和夫
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「ひどかったですねえ、レスラーのみなさんは(笑)。試合前に取材しようと思って、控え室に行くじゃないですか。それが新人アナウンサーだった私の仕事でしたから。でも、声をかけても誰ひとりまともに答えてくれない。

 当時、外国人レスラーは会場入りすると、試合開始まで暇ですから、カードゲームに興じたりしていたんです。そこに無粋にも取材に行くと足蹴にされる(笑)。なのに、試合後のリングでは猛烈にペラペラしゃべりまくる。おいおい、だったら試合前に私にしゃべってくれてもいいのに、と恨みましたよね、ホントに。試合前にしゃべってくれれば、実況の時に活かすこともできたのに、と思っていましたよ。でもねえ、だんだんとそれが彼らの仕事だと理解できるようになってきたんです。つまり、金にならないところではしゃべらないけど、リング上では派手に振る舞う。それが自分たちのプロとしてのパフォーマンスであると理解できるようになって」

  リソワスキーのマイク齧りなのですが。

「あれ、私です」

 やっぱりでしたか!

「あれは私ですから。あの時のインタビューには伏線がありましてね、試合間にリソワスキーに話を聞こうとしましたが、今も言ったように相手にされないんです。けんもほろろといいましょうか、しまいには足蹴りのマネまでされ“あっちに行け!”って。こっちはそれで恐怖心を植え付けられちゃったわけです。だから、試合後のインタビューは怖くて怖くて。その伏線の効果で下手すると食い殺されるんじゃないかと勝手に思っていました」

徳光さんがインタビューした直後のクラッシャー・リソワスキー。こりゃ怖い! 写真/宮本厚二

 齧られたのはマイクでしたけども。

 「そうそう(笑)。そのせいで、あの時は完全に腰が引けていたので画面から切れちゃったんでしょうね。まいりましたよ、いきなりマイクをパッと取られて、バァーッと何か叫びながら、最後にはマイクを齧り“ガチッガチッ”という機械音しか残らず……。ただでも、それがリソワスキーのプロとしてのパフォーマンスといいますか、当然の立ち振る舞いだったんでしょう」

 僕の祖母の話を思い出してみると、そのプロとしての狙いは抜群の効果を発揮していて、当時の日本人は改めて体の大きいアメリカ人を本気で怒らすと怖い、何をしでかすかわからないといった恐怖をブラウン管の中から感じていたようです。

「そうです、そうです(笑)。怖かった、恐ろしかった、それだけです」

 子供の頃はわからなかったのですが、ブルーザーもリソワスキーも、スポーツジムの器具を使って作り上げた、計画的な肉体ではないですよね。

「ええ、ええ、はい」

  ナチュラルに鍛えていたというか。酒場の用心棒をしながら、夜な夜なとんでもない連中とケンカして相手を叩き潰す筋肉とスキルを高めていったような。

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第2夜 

プロフィール

徳光和夫

1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。

 

 
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