徳光和夫の昭和プロレス夜話 第1夜

日本プロレス草創期の目撃者・徳光和夫

徳光和夫

「馬場は凄い。あんなデッカい体して宙を飛ぶんだぞ。月に行ったアメリカの宇宙飛行士より偉い。今日の試合でも外人が栓抜きを持って馬場に殴りかかったけんど、怯まんかった。反撃した。えらい根性や」

 祖母は寝ながら、両手を振り回し、馬場の空手チョップのマネをして、僕が寝つくまで熱くプロレスを解説してくれたのだ。ただ、寝つくまでといっても、祖母の夜話がテレビの試合実況さながらにスリリングなものだったので、余計に興奮し、目をつむっても、僕の頭の中ではジャイアント馬場が華麗に32文ロケット砲を繰り出していたから、なかなか眠ることができなかった。

 たぶん、そのおかげだろう、母とまた住むようになってからも、僕はプロレスを見続け、どんどん好きになっていった。大人になった今でも時折、祖母にドキドキワクワクさせられたプロレス夜話の数々を懐かしく思い出すことがある。

 祖母は10年前の秋に亡くなった。叶うのであれば、もう一度、誰かにプロレス夜話を語ってもらい、あの頃のように眠気も覚めるようなドキドキワクワクした妖しい月夜の晩を過ごしたい――。そう願っていた時、ふいに徳光和夫と祖母の【プロレス夜話】が合体したのだ。

 あれは2018年冬、CS放送の日テレG+の企画による力道山や馬場、猪木のBI砲の試合を振り返る特集で、テレビの液晶画面に突然、モノクロの映像が流れ出し、壊し屋、クラッシャー・リソワスキーが登場!

 それは1968年1月3日、蔵前国技館で行われたジャイアント馬場対リソワスキーのインターナショナル選手権の試合後の控え室。リソワスキーは興奮状態のままにインタビューを慣行しようとした若いアナウンサーのマイクを力任せにぶんどると、そのままガブリッと噛り付いたのである。今どきのコンプライアンスや忖度もあったもんじゃない蛮行だった。

 翌年8月にブルーザーがリソワスキーを引き連れ再び来日、馬場と猪木のBI砲とのインターナショナルタッグ選手権試合が行われるとテレビ中継で告知された夜だったと思う。祖母はワナワナと口元を震わせながら、こう言っていた。

「ブルーザーも強いが、リソワスキーも相当なもんだ。奴らがタッグを組んで来よる。困ったもんだ。今度こそ、BIは危ないかもしれん(実際に8月11日、札幌中島スポーツセンターで行われたインターナショナルタッグ選手権試合でBI砲は敗れ、王座転落)わしゃ、あいつがマイクを齧った時から、そう思っとった」

1969年、インターナショナルタッグチャンピオン時代のBI砲。写真/宮本厚二

 当時の映像では画面が切れていて、うまく確認できないのだが、前述したリソワスキーにマイクをぶんどられた“若いアナウンサー”は間違いなく徳光和夫だ。映像で確認できなくても、猛り狂っていたリソワスキーにインタビューを試みようとした(若干の若さを滲ませてはいたが)あの独特な“声”のトーンでわかった。

 となれば、どうしても当時の話を徳光和夫に聞きたくなる。

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第2夜  

プロフィール

徳光和夫

1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。

 

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