監督・原辰徳 平成巨人の悲哀を背負った男 第1回

なぜ原辰徳は“団塊ジュニア世代のアイドル”となりえたのか?

中溝康隆

【監督・原辰徳は悲劇からはじまった】

 松井秀喜「55」、上原浩治「19」、桑田真澄「18」、清原和博「5」、阿部慎之助「10」、高橋由伸「24」、清水隆行「9」、江藤智「33」、河原純一「15」、二岡智宏「7」、工藤公康「47」、仁志敏久「8」、元木大介「2」。そして、監督の原辰徳「83」。

 2002(平成14)年秋、日本一に輝いた読売巨人軍は、主力選手たちの背番号を並べた写真に、「あなたも欠かせない戦力でした。一年間、ご声援ありがとうございました」という感謝のメッセージを添えて、ファンに向けた広告を出した。当時の巨人はアマチュア球界の有望選手を立て続けに獲得した逆指名ドラフトと、大物選手たちをかき集めるFA補強の全盛期で、まさにNPBのスターが顔を揃える銀河系軍団だった。

 だが、それは青年監督・原辰徳にとって、一種の悲劇でもあった。2001年秋、長嶋茂雄監督から直々にその座を譲渡された原辰徳は、いわば「長嶋巨人の遺産」で就任1年目から日本一監督の栄誉を手に入れたと、一部の球団OBや野球ファンから軽く扱われてしまったのだ。原は監督となった最初の秋季キャンプで、入念なウォーミングアップをナインに課し、長嶋体制で重要視されていなかったキャッチボールやベースランニングに時間を割いたが、そういう現場の意識改革が語られることはほとんどなかった。大型補強や金満球団のイメージが先行し、あれだけ充実した巨大戦力ならば、誰が監督をやっても勝てると思われたのである。

 そして、もうひとつの悲劇は、背番号55の流出だ。原の監督1年目のオフに巨人の長い歴史でも、ターニングポイントともいえる大事件が起きていた。10月31日に日本シリーズで西武ライオンズを4勝0敗で一蹴して日本一を勝ち取った翌日、2002年11月1日の午前1時過ぎ、松井秀喜のメジャー行きの速報ニュースが深夜のテレビで流れたのである。

 『週刊ベースボール』2002年11月18日号の表紙は、日本一になった原監督の胴上げ写真ではなく、「海渡る『巨人の四番』松井メジャーへ」とFA宣言をしてメジャー挑戦の意向を表明した松井だった。球界に激震が起こったと報じる巻頭カラー記事には、「扉は開かれた。」という大きな見出しが踊った。

 会見では苦渋の表情で「今は何を言っても裏切り者と言われるかもしれませんが、いつか松井は行ってよかったと思ってもらえるような気持ちを持って頑張ります」と言葉を絞り出した男は、プロ10年間で通算332本塁打を放ち、このシーズンに自己最多の50本塁打を記録していた。松井のあとに同じ場所で会見に臨んだ、土井誠球団代表はまるで不祥事を起こしたかのような謝罪の言葉を口にしている。

「説得はしましたが、松井君の意思は固かった。今は、言葉に言い表せないほど残念です。日本球界の大砲をメジャー・リーグに流出させたことをファンの皆さんに深くおわびします」(週刊ベースボール2002年11月18日号)

 2000年オフにイチローがポスティング制度で、メジャー・リーグのシアトル・マリナーズへ移籍して以降、松井は間違いなくNPBの顔とも言えるスーパースターだった。そんな生え抜きの四番打者が全盛期に自ら巨人を出るという。松井の移籍表明後に日本テレビの株価が急落したように、長嶋監督に続き、愛弟子の松井までチームを去ることは、昭和から続く“巨人ブランド”の崩壊を意味していた。

 1999年に年間平均20.3%を記録した巨人戦ナイターのテレビ視聴率は、2000年代初頭にはすでに15%前後まで下がり、全試合の地上波中継の打ち切りは現実味を帯びていた。2002年に日本と韓国が共催したサッカーの日韓ワールドカップは社会的な関心ごととなり、フィリップ・トルシエ監督率いる日本対ロシア戦はテレビ視聴率66.1%を記録する。もはや巨人の試合は、“国民的行事”ではない———。そんな時代の変わり目に巨人軍の指揮を執ったのが、原辰徳だったのである。

【巨人の危機を救い続けた男】

 振り返れば、選手時代から“巨人軍の危機”を託されるのが、原辰徳の野球人生でもあった。1980(昭和55)年10月21日、巨人の長嶋茂雄監督が「男のケジメ」で電撃辞任し、世界の王貞治も11月4日に現役引退会見を開く。あの時、巨人だけでなく、球界全体がONコンビに代わる新たなスーパースターを欲していた。そういうタイミングで巨人入りを熱望したのが、東海大の若大将・原だった。そして迎えた1980年のドラフト会議、巨人・藤田元司新監督が1位で4球団競合の末に当たりクジを引き当てるのだ。

「Nが去りOがバットを置いたいま、転換期のプロ野球を救うのはタツノリしかいないの声がふくらむ。実力、人気、スター性。果たしてタツノリは“80年代の牽引車”になれるか」(「週刊ベースボール」1980年12月8日号)

 プロ入り時から球界の救世主を期待される異様な状況でも、原は懸命にプレーした。1年目は新人王でチームは日本一。2年目は6月に巨人軍第48代4番打者に座り、130試合にフル出場してリーグ2位の33本塁打を放ち、最多勝利打点のタイトルも獲得してみせた。3年目には打率3割・30本塁打・100打点を達成して打点王に輝き、リーグ優勝の立役者となりMVPに選出された。

 当時はテレビをつけたらタツノリスマイルを見ない日はないという頻度で、富士重工、味の素、オンワード樫山、美津濃、明治製菓、明治乳業、大正製薬といった大企業のCMに出演していた。メディアへのときに過剰とも思えるサービス精神は監督になっても続いたが、週刊少年ジャンプの漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』第31巻のCMネタの会話中に、「イメージアップならさわやかな原辰徳の方がいい」なんて台詞が登場するほどだ。なお、初めて選手の個人名を使ったTVゲームは、エポック社のスーパーカセットビジョンソフト『巨人軍 原辰徳のスーパーベースボール』である。

 当時、日本中の野球少年たちのヒーローは、長嶋でも王でもなく、原だった。1970年生まれで広島県出身の谷繁元信は、子どもの頃からジャイアンツファンで、大洋ホエールズの1988年ドラフト1位でプロ入り後、捕手として初めて打席に巨人の背番号8を迎えた際の興奮と感動をのちにこう語っている。

「初めて原さんが打席に入ってきた時って、『うわっ、これが原か』と。僕の中では原さんじゃないんですよ。(有名人を見かけた感覚で)うわっ原だ……と。もう上から下までずっと何往復もキャッチャーのところから見て、パッと一番目についたのがふくらはぎの太さ。めちゃくちゃ太かったんですよ。これがプロの体かと。かっこよかったですね」(YouTube名球会チャンネル)

 同じく1987年のドラフト会議で中日から3位指名を受けた、1969年生まれの上原晃も、アイドル原に憧れた野球少年だった。プロ3年目の夏、東京ドームの試合前練習で原とすれ違った際に、「昨日はいいピッチングだったね」と声をかけられ、沖縄出身の上原は感激する。

「プロ野球で一番記憶に残っているのは対巨人戦初登板。初セーブをあげたとき。だってテレビで観ていた人に投げるんだよ。原さんをファウルフライに打ち取った。原さんはいい人だったなぁ」(マウンドに散った天才投手/松永多佳倫/河出書房新社)

 彼らが少年時代を過ごした1980年代、娯楽の王様はテレビであり、そこで毎晩放送されるのが後楽園球場のジャイアンツ戦だった。ちなみに1983年、巨人戦ナイター中継視聴率は年間平均27.1%という歴代最高を記録している。この年、MVPに輝いたのが当時25歳の原である。多感な少年たちにとって、カクテル光線に照られた煌びやかなテレビの中の巨人戦は、プロ野球の中心であり、スーパースター原辰徳は東京という大都会の象徴でもあった。

 さらに谷繁や上原よりひと回り下の世代で、1983年生まれの嵐の二宮和也も、東京出身で少年野球チーム時代に背番号8を付けた原ファンとしても知られている。二宮は、ワールドベースボールクラシック2026を独占中継したNetflixのスペシャルサポーターを務めた際、憧れのヒーローから「おぅ!ニノ!写真撮ろうぜ!」と声をかけられたことを、自身のXで「神(原辰徳様)」と表現して喜びを伝えている。

 この原稿を書く私も1979年生まれの埼玉県出身だが、小学5年生の遠足で後楽園ゆうえんちへ行った際、開場したばかりの東京ドームのショップで背番号8のフラッグや下敷きといった、大量の原辰徳グッズをおみやげで買い込んだのをよく覚えている。団塊ジュニアやポスト団塊ジュニア世代にとって、巨人の背番号8はそういう存在だった。

 一方でプロ4年目以降の原は、常に逆風の中でプレーしていたのも事実である。週刊誌で「チャンスに弱い史上最低の四番打者」、「お行儀のいいお嬢さん野球」と痛烈に批判され続けた。阪神の21年ぶりVで湧いた1985年の報道では、『巨人自力V絶望…このピンチに黙っていていいのか?原辰徳よ、男の意地を見せてくれ!』(「週刊ベースボール」1985年9月23日号)、『打撃30傑も危ない…原辰徳に巨人軍“栄光の4番打者”は無理なのか 入団5年目、超一流になれない若大将に識者が苦言直言!』(「週刊宝石」1985年9月27日号)と過剰な原叩きが続いている。ちなみにこのシーズン、27歳の原が残した数字は34本塁打、94打点である。

 1986年終盤には、津田恒実(広島)の剛速球をファールした際、左手有鉤骨骨折の重傷を負いプロ6年目で初の一軍登録抹消をされてしまう。それでも、少年たちは大人に嘲笑される背番号8を必死になって応援し続けた。やがて三十代を迎えた原は故障がちになり、外野へコンバートされ、1993年に憧れの長嶋監督が復帰したが、FA移籍してきた落合博満に四番の座を奪われ、1995年限りで現役を引退する。東京ドームでの引退セレモニーで原が口にしたのは、「巨人軍独特の、何人も侵すことのできない聖域があります」という言葉と、「私には夢の続きがあります」という将来の監督就任宣言とも受け取れる決意だった———。

【原・巨人は21世紀の巨人軍】

 原監督の通算成績は第一次政権(2002年~2003年)、第二次政権(2006年~2015年)、第三次政権(2019年~2023年)の計17シーズンで、1291勝1025敗91分け。川上哲治や長嶋茂雄を上回り、巨人軍史上最も勝った監督でもある。2度の三連覇を含む9度のリーグ優勝、3度の日本一という数字を残し、2023年限りで原巨人は終わりを告げた。

 すでに原体制を支えたコーチ陣や主力選手の多くがチームを去り、長年エースを張った菅野智之は渡米1年目からオリオールズで10勝を挙げ、36歳で迎える今季は新天地のロッキーズへ。不動の四番打者・岡本和真も、ポスティングによるメジャー移籍で2026年シーズンからブルージェイズでプレーしている。もちろん球団から夢の後押しを受けた岡本には、20数年前の松井のような悲壮感は微塵もない。

 今季、阿部慎之助監督は3年契約の最終年を迎える。かつてアイドルタツノリに夢中になった世代は、40代から50代の中年となり、子どもたちはYGマークの野球帽ではなく、大谷翔平や山本由伸が活躍するドジャースの帽子をかぶって街を歩く。先日のWBCで巨人から選出されたのはリリーフ投手の大勢だけで、野手は一人も選ばれなかった。巨人の四番は、球界の四番だなんてもう誰も言わなくなった。時代が変わり、球界における巨人軍の立ち位置も変化して、原巨人も完全に過去になりつつある。

 昭和も、平成も遠くなりにけり。だからこそ、「通算17年間続いた原巨人とは、いったいなんだったのか?」を客観視して総括できる時期なのではないだろうか。本連載は2001年秋に43歳で監督に就任して、2023年限りで退任するときには65歳になっていた若大将の戦いの軌跡。21世紀の巨人軍とは、とどのつまり、原巨人そのものだった。

 監督・原辰徳は、名将だったのか? それとも———。

(つづく)

監督・原辰徳 平成巨人の悲哀を背負った男

2002年、現役時代から比較されてきた長嶋茂雄の後を継ぎ、読売巨人軍の15代監督に就任した原辰徳。その後、3期16年に渡って監督を務め9度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた彼は、巨人の伝統を背負いながら大型補強と大胆なベンチワークを独特のマネジメントでまとめ、新しい野球の形を示した。しかし、現役時代から昭和の象徴である長嶋茂雄の後を背負いながら、平成・令和を経て野球という娯楽の在り方の変化に翻弄された。そして、3度目の監督就任時にはファンから多くのバッシングを受けながら監督を退任するに至る。若き改革者は、なぜファンからも嫌われる「ヒール」になったのか?17年の軌跡を追う。

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プロフィール

中溝康隆

なかみぞやすたか 1979年埼玉県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。ライター兼デザイナー。
2010年より開設したブログ『プロ野球死亡遊戯』が人気を博し、プロ野球ファンのみならず、現役の選手間でも話題になる。『週刊ベースボールONLINE』『Number Web』などのコラム連載の執筆を手掛ける。
主な著書に『プロ野球死亡遊戯』(文春文庫)、『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)、『巨人軍vs.落合博満』(文藝春秋)、『プロ野球1年目の分岐点 25歳の落合、18歳の大谷』(PHP新書)などがある。

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