■ 社会学を教える詐欺師
YouTubeのホーム画面に、スティーブン・スピルバーグ監督の映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の切り抜き動画が表示された。レオナルド・ディカプリオ演じる詐欺師が、トム・ハンクス演じるFBI捜査官に追い詰められたかと思いきや華麗なウソをついて難を逃れる場面だ。切り抜き動画はNetflixのアカウントから配信されたものだったが、Netflixでの配信が終了していたのでAmazonのプライムビデオで全編を観た。
ディカプリオが演じたのはフランク・アバグネイル・ジュニアという人物で、実在の詐欺師だ。映画の内容もアバグネイルの自伝『世界をだました男』に基づいている。彼は、偽造した小切手の換金を得意とする詐欺師だった。本人の銀行口座への照会が時間差で行われることを利用して、不渡りとなるはずの小切手を窓口で換金したのである[1]。
もちろん銀行側も、時間差で照会される小切手をなんでもかんでも換金するわけにはいかない。だから、その人の身分証明書や所属を信用の担保にしようとする。はっきりとした身分があり、ステイタスの高い職業についているとみなされれば、当然換金もしやすくなる。だから、彼は身分詐称のスペシャリストでもあった。
映画では、アバグネイル演じるディカプリオがパイロットや医者の身分を騙りながら生活するところが特に描かれている。実際の彼は、もっといろんな身分を詐称していたようだ。興味本位で自伝を紐解いてみると、大学で社会学の講師になったという記述もあった。彼は経歴を粉飾して応募し、見事採用されると一夏のあいだ実際に教師役を務めたのだという。
社会学の講師がパイロットや医者と異なるのは、アバグネイルが実際に学生たちに教えていたという点だ。パイロットになりすましていたときは、勤務地へ移動するため他のパイロットが操縦する飛行機に便乗する「デッドヘッド」を不正に行っていただけで自ら操縦することはなかったし、医師になりすましていたときは研修医の指導役であったため自ら医療行為をする必要がなかった。ところが、学士すら持っていないアバグネイルは、大学生たちに社会学を教授したのである。このときのことを、彼は自伝のなかで振り返っている。
要請されたとおり、講義は教科書にのっとって進めたが、何もむずかしいことはなかった。わたしは学生より先に一章を読み、どの部分に力点を置いたらいいかを決めておいた。[2]
なるほど。つねに学生の一歩だけ先に進んでおくことで、アバグネイルは授業を展開することができた、ということらしい。鮮やかな手口で多くの人を騙してきた詐欺師ならばそんなこともできるのかもしれない。つまり、自分もつい先ほど知ったばかりの知識を、さも長年研鑽を積み重ねてきた専門家のように語るということだ。そのショボいバージョンとして、直前にwikipediaで仕入れただけの知識を飲み会で自信満々に披露する、というものがある。こちらなら僕にも身に覚えがある。会社のミーティングではみんなAIチャットボットの回答をそれっぽく読み上げているだけかもしれないし、アバグネイルが社会学の講師を務めあげたというエピソードがまったく現実感を欠いているということもなさそうだ。
しかし、だ。ここにはもう少し考えてみたいことがある。教えることというのは、自分の持っている知識を相手に伝えることに限られない。それだけであれば、講義のあいだずっと学生に教科書を読んでもらうのと何が違うのだろう? 僕は、稀代の詐欺師であるアバグネイルがパイロットを騙りながら飛行機の操縦はできなかったこと、医者を騙りながら手術はできなかったことに対して、教師を騙りながら授業ができてしまったことに、面白さを感じてしまう。そこにはなにか、教えることと学ぶことについての洞察が隠れているような気がするのだ。
■ 無知は教室で生まれる
ここで、教育にまつわるひとつの神話に登場してもらおう[3]。哲学者のジャック・ランシエールが『無知な教師』という本のなかで紹介しているものだ。彼は、一八七〇年にフランスに生まれ、その後ネーデルラント王国のルーヴェン大学[4]で教鞭を執ったジョゼフ・ジャコトという人物のある「知的冒険」に注目する。
ジャコトがフランス語の講師として教壇に立ったとき、彼はオランダ語を解さず、学生たちはオランダ語しか話せなかった。共通言語のない教室で、ジャコトはフランス語について「説明」する選択肢を持たなかった。そこで彼は、『テレマック』という小説のフランス語・オランダ語対訳本を学生たちに与え、ひたすらそれを読むことでフランス語を学ぶように仕向けた。すると驚くべきことに、教師による解説なしでも、学生たちは見事にフランス語を習得してしまったのである。
教師による解説なしで成立する学び。ジャコトの印象的な取り組みからランシエールは独自の教育論を展開する。一見自明だと思われていた、教師と生徒のあいだにある、説明をする側と説明をされる側という非対称な関係に対する疑義がそこで示される。
ふつうに考えれば、教師と生徒が「説明」をめぐる非対称な関係に置かれているのは、そもそも誰かがより多くを知っており、別の誰かが知らないからだ。だからより多くを知っている者が教師となり、まだ知らない者が生徒となる。もともとあった知と無知を根拠にして教師と生徒という役割が振り分けられる。生徒が単純な世界からより複雑な世界へと分け入っていくために、教師は、自身の知識を無知な生徒に繰り返し説明する。
しかし、説明することのできない教師のもとで学生たちが見事にフランス語を習得してみせたジャコトの事例は、この説明の体制に対するオルタナティヴを提示する。そしてそのことによって、教師と生徒が教室に入る前からそこにあったとされる知と無知の境界線は疑わしいものとなるのだ。ランシエールは次のように述べている。
無能な者を必要とするのは説明家であってその逆ではない。無能な者を無能な者として作り上げるのは説明家である。何かを誰かに説明するとは、まず第一にその人に向かって、あなたは自分ではそれを理解できないのだと示すことだ。説明は教育者の行為である以前に、教育学の神話、すなわち学識豊かな者と無知な者、成熟した者と未熟な者、有能な者と無能な者、知的な者とばかな者に分かれた世界という寓話である。[5]
教室や教師による説明が、無知でこれから教育されるべき生徒を作り上げてしまっているのではないか。ランシエールはそのように述べる。事実、学校に入るまでの子どもたちは母語の習得からなにから、教師なしでやり遂げてきたではないか、と。にもかかわらず、子どもたちを教室へと招き入れ、教壇に立つ教師は「無知というヴェールを学習すべきあらゆるものの上に投げかけ、それを取り去ることを自ら引き受ける。彼に会うまで、子供は手探りで、謎かけ式にやってきた。これからは学習するのだ」[6]。
ランシエールの「無知」という言葉の使い方に注意しよう。そこには二つの特徴を見出すことができる。ひとつめの特徴は、無知という言葉が、私たちがただ単に「○○について知らない」状態を指すのではなく、誰かによって知るべきと定められたものをまだ知らない状態を指すために使われているというものだ。ふたつめは、ある人の無知状態はその人の試行錯誤によって解消されるのではなく、教師の説明によって解消される、という特徴だ。すなわち、ランシエールがここで批判している教室とは、知るべきものを知らない者として生徒を定義し、その解決策を唯一与えることのできる説明家として教師を教壇に立たせる空間なのである[7]。
無知な者を生産しておいて、そこに施しとしての説明を与える。これは教師の権威を保つための制度であって、学ぶ者たちが本来備えているはずの理性を抑圧し、彼らを解放するのではなく愚鈍化してしまう。ところがジャコトのような教師は、自ら教えない立場に立つことによって生徒たちの理性を解放し、彼らが試行錯誤しながら学ぶのを助けることができる。そこから分かるのは、すべての人間が平等な知性を持っており、その発露を助けるような「普遍的教育」[8]がありうるのだ——ランシエールの議論はこのように進んでいく。
しかしいまは、この「普遍的教育」の議論には入り込まないようにしよう[9]。この連載の関心にとってさしあたり重要なのは、私たちが何かを学習する典型的な場としてイメージする教室が、どのようなものであったのかということだ。それは、教師の知と生徒の無知の不均衡を解消するべく自然発生するようなものではなく、教師に知を、そして生徒に無知を振り分ける政治的な身振りと制度によって作り出された空間であった。
冒頭で触れたアバグネイルの例を思いだしてみよう。彼はランシエールによって批判される「愚鈍化」を推し進める教師だったのだろうか、それともジャコトのように生徒たちを解放する教師だったのだろうか、実際のところは分からない。しかしながら、パイロットや医師というステイタスのある身分を詐称すれば小切手を効率的に換金できることを見抜いた稀代の詐欺師・アバグネイルは、身振りと制度こそが、知と無知の境界線を引き、人々を愚鈍化させることによって社会を円滑に動かしていることをよく知っていたはずだ。教える者が何を知っているのかではなく、教える者がどう振る舞うのかをよく理解していたからこそ、アバグネイルは社会学の講師を務めあげることもできたのではないだろうか。
■ 知らなきゃいけないことがたくさんある!
せっせとなにかを勉強しているとき、どこかの誰かが自分たちの権威を確立するために作り出した無知に従属しているのかもしれない、という視点は、学びながら生きる私たちにとって非常に重要なものだ。そこら中に「AI時代の今こそ知っておくべき」とか「投資で儲けている人が知っていること」のような惹句が溢れているが、彼らが私たちに提供すべき知を持っていないにもかかわらず教える者の身振りをなぞっているだけなのではないかとか、私たちを「無知な大衆」のポジションに固定することで利益を得ようとしているだけなのではないかと疑う目を持っておいたほうがいい(「知っておいたほうがいい」という警句は、知の非対称性を作り出して利益を得ようとする者の常套句である)。
自分がまだ何も知らず、学びの途上にあるという謙虚さを表明する意図で「無知の知」という言葉がよく使われる。しかし、その無知は見知らぬ誰かによって私たちに割り当てられたものかもしれないのだ。世の中には無数の知識があって、何かを知るたびそのリストにひとつずつチェックを入れていくようなイメージを持つ人がいるかもしれない。だが、「知識たりうるもの」のリストがあらかじめあって、私たちがそれを埋めていくことが「知ること」だと考えるのは、知と無知のあいだに境界線を引く制度によって私たちに染みついた習慣にすぎない。教科書や問題集を眺めていると、たしかにそのようなかたちで世界には知るべき知識のネットワークがあるように思えてくるが、それは教科書や問題集を作り出した出題者の姿がかき消されてしまっているからだ。「知らなきゃいけないことがたくさんある!」と思うとき、それを私に思わせているのは一体どこの誰なのだろう? 出題者は、出題することによって知と無知の境界線を引く。そして出題者としては透明になればなるほど、彼/彼女の教える者としての権威は強まっていくのである。
しかしながら、知ることは決して誰かが作った塗り絵帳を決められた色で塗りつぶしていくことには尽くされない。それよりももっと広く、バリエーション豊かな仕方で「知ること」の輪郭を描き出すことも、この連載の目的のひとつだ。そのためにも、もう少しこの「無知」という話題について掘り下げてみよう。
■ 無知はどこで生産されているのか?
ここまで、ランシエールによる教師批判を参照しながら、知と無知の境界線が知識の有無そのものではなく身振りや制度によって引かれるものだということを確認してきた。私たちは生まれたときから無知なのではなく、無知だということにされるのだ。無知は生産されるものだ、というのがここでおさえておきたい結論である。
次に考えたいのは、無知が生産される現場はどこなのか、という問いだ。近年興った『無知学(アグノトロジー)』という学問において、私たちが無知と呼んでいるものがどのような性格を持ち、そしてどんなメカニズムで生産されているのかが研究されている。そこで代表的な無知生産の主体として挙げられているのは、科学者や専門家、そして企業だ。教師が生徒の無知を生産する者だとしたら、これらの主体は社会の無知を生産する者だと言える。
次回の連載では、この『無知学』の研究成果を参照しながら無知についての考察をさらに深めていくことにしよう。
(次回へつづく)
[1] アバグネイルが活躍したのは一九六〇年代なので、詐欺を成功させるための条件が現代とは大きく異なることに注意しよう。
[2] フランク・アバネイル+スタン・レディング(二〇〇一)『世界をだました男』佐々田雅子訳、新潮社、一六九。
[3] ここで「神話」と書いているのには理由がある。ランシエールが『無知な教師』で展開する教育論にはたしかに重要な洞察が含まれていると思われるが、彼の議論は「言語を学ぶ」場面をあまりにも範例化しすぎているきらいがあるのだ。この連載では詳しく扱わないが、ランシエールの議論は、子どもが母語を身につけるときのような理性の働きがいかなる場面においても可能だと見なすことでようやく成り立つもののように思われる。後述するジャコトの事例が魅力的なものであることはたしかだが、それが母語の習得の場面において生じていることと短絡され、そこから教育一般についての洞察として展開されている点については、慎重な検討が必要だろう。
[4] ルーヴェン大学がある地域は、現在はベルギー王国に属している。
[5] ジャック・ランシエール(二〇一一)『無知な教師:知性の解放について』梶田裕+堀容子訳、法政大学出版局、一〇頁。
[6] ジャック・ランシエール(二〇一一)『無知な教師:知性の解放について』梶田裕+堀容子訳、法政大学出版局、一一頁。
[7] このような教師批判がいまだに当てはまる事例も多々あるとは思うが、いまや教師が説明家として道徳的な優位に立つのが難しい状況に追い込まれつつあるのも確かである。教育のサービス業化、情報機器の普及による知の非対称性の解消によって、これまで学校という舞台を維持していた装置は作動しにくくなっている。そういった状況では、教師が教育者としてのパフォーマンスを十分に発揮することも難しくなってしまうだろう。一方的な知識の伝達ではなく、教師と生徒が協働して知識を構成する場として学校を再定義する取り組みも進められているが、教師が教室という場をスムーズに運営するために支払わなければならないコストが増大していることを考えると、ランシエールが批判した教室が成り立たなくなりつつあることを素直に悦ばしい事態として受け止めてよいのかは分からない。
[8] ジャック・ランシエール(二〇一一)『無知な教師:知性の解放について』梶田裕+堀容子訳、法政大学出版局、二七頁。
[9] 人類学者のティム・インゴルドは『教育とは何か』(古川不可知訳、亜紀書房、二〇二五年)において、ランシエールが『無知な教師』で展開した議論を引き受けながら、誰かに教わることとは区別された「誰かから学ぶこと」の定式化を試みている。インゴルドのバックグラウンドは人類学であり、先人たちが積み上げてきたライフスタイルのなかに新たに生まれてきた者たちが参入していくときに起こっていることが、教育の在り方を考える視点を提供してくれるはずだ、というのが彼の洞察である。

生成AIの登場によって、人類はより情報や知識にアクセスしやすくなった。それゆえ、「知識があるだけの人間は意味がない」「いっぱいものを知っていることより、創造的なアイデアを持っている人のほうがいい」といった言説も流通し始めている。人間にとって「知る」ことの意味とは何か。そして、現代の「知る」ことの困難とは何か。 哲学・批評・クイズ・ビジネスの領域で活動し続ける田村正資氏が、さまざまな分野を横断しながら、「知る」ことの過程をひもといていく。
プロフィール

たむら ただし 哲学者。1992年生まれ。東京都出身。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は現象学とモーリス・メルロ゠ポンティ。著書に『問いが世界をつくりだす メルロ゠ポンティ 曖昧な世界の存在論』(青土社)、『独自性のつくり方』(クロスメディア・パブリッシング)など。


田村正資




古賀茂明×飯田哲也
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