なぜこの世界で子どもを持つのか 希望の行方 第7回

子どもを持つ、持たないを超えた先にあるもの

奥山岬さん(仮名)インタビュー
中村佑子

家族3人中2人がケアされるべき存在

 奥山さんと私が出会ったのは、つい最近だ。まだ1年くらいのお付き合いだと思う。いつ会っても髪もメイクも綺麗に整えられ、流行に乗りすぎもしない遅れすぎもしない適切なファッションに身を包んでいる。奥山さんと私は同い年なので40代の後半も後半。この年齢になって“今”を取り入れつつ、やりすぎないようにするのはなかなか難しいが、奥山さんは自然に行っている。

 そんな奥山さん、私がこれまで会った方たちのなかで、一番メールの返事が早い。早いなんてもんじゃない。メールを出すと、毎回ほぼ数分以内にお返事が来る。1分後ということもある。まさに“秒速で1億円を稼ぐ男”ならぬ、“秒速で信頼を勝ち得る女”である。

 大手ラジオ局に勤め、日々いくつかのプロジェクトを掛け持ちしている彼女のいったいどこにそんな時間があるのか? たぶん私にだけでなく、他の人にも秒速で対応していると思われる。全方位的にきちんと仕事をこなしていく――そういう人だ。

 奥山さんには、今、恋人がいるが、これまで結婚はしていない。子どものことは「そもそも自分のライフプランのなかに子を持つことが浮上しなかった」と言う。私とはプライベートで出会った奥山さんだったが、今回じっくり話を聞いてみたいと思い、インタビューを依頼した。「私は子どものころからケアを担ってきたから、もうこれ以上やりたくないと思っているんです」と話していて、印象的だったからだ。

 秋のはじめのある晴天の一日、彼女の会社近くのカフェで話を聞いた。

――ご家族の話から聞いてもいいですか。

奥山さん うちは母と弟がいて、父と母は、今は離婚しています。父が割と放蕩なイケメンおじさんだったんです(笑)。小学校ぐらいから、いたりいなかったりで、父親って感じがあまりしないままに、基本母と弟との3人体制という感じで、たまに4人になるみたいなイメージの家族観です。母の両親、私の祖父母が近くに住んでいたということもあったので、しょっちゅう祖父母の家に行ったり、うちに来てくれたり、母のフォローを祖父母がしていたというのがベースにありました。おそらく経済的な支援もしていたんだと思います。母は祖父の会社に勤めていました。祖父の会社は福岡の運送業をやっていて、そんなに大きな会社ではなかったんですが、それでも従業員が2~30人はいたと思います。祖父が戦後立ち上げたこの会社で家族の経済が成り立っていた感じは、幼心にも気づいていました。母は私のケアをする存在というよりは、母自身が誰かの庇護の下にいるというイメージがあったような気がします。なので、私は父や母に守られるという感覚よりは、祖母と一緒に母を奮起させる存在というか……。うちの母はすごくキャラ立っているというか、割と今でいうと“陽キャ”って言うんですか、そんな人な気がします。でも、子育てとか家の経済とかいったものを深く考えていたとはあまり思えない。ただ明るさというのはすごく際立っていた人で、どちらかというとみんなにケアされるというか。母は3人兄弟の末っ子というのもあって、祖父母に甘やかされたのかなという気もします……。

――ご両親が正式に離婚したのは?

奥山さん 恐らく正式に離婚したのは私が大学生ぐらいだったと思います。

――じゃあ、曖昧な状態でずっと何か……。

奥山さん そうです。だから、いたりいなかったり、たまにいたりみたいな。

――ちょっと踏み入った質問ですが、外にほかの女性がいたり?

奥山さん そうです、そうです、はい。でもそれが、さもありなんていうぐらいかっこよかったんですよね。すごく優しくて、昭和のハンサムという感じ。

――お父さん、お仕事は?

奥山さん 不動産業をやっていて、いわゆるバブル期には羽振りがいい時期もあったような記憶がうっすらとあります。

――お父さんと、家族含めてではなく一対一の関係というか、会話とか、会うみたいなことは?

奥山さん ときどきは会いました。今はもう会っていないです。そういう感じなのであまり記憶があるわけではないんですが、ものすごく女性には優しかったので、私にもすごく優しかったし、甘かったとは思います。たとえば、私は私立の中高一貫校に通っていたんですけど、朝ちょっと寝坊しかけたりすると、何も言わずに車で送ってくれたり、割とそういうことは厭わなかったし、優しかった記憶がすごくあります。

――ということは、実質のシングル家庭ではあったんだけれども、お父さんはところどころ一応頼れる人としていたという感じですか。

奥山さん いや、でも、頼れると思ったことは一度もないですね(笑)。何か風来坊だから……。

――「送ってやるよ」くらいの感じですか。

奥山さん まず一緒に何かをするという感覚があんまりなかったですね。それは弟のこともあって。うち、弟がサッカーがすごくうまくて、サッカーで有名な学校に行って全国大会にもいっているんです。3歳差なので小学校では一緒の学校に在籍することになりますが、私は“あの奥山くんのお姉ちゃん”として有名でした。たまにいる父も、甘えん坊で陽キャの母も、基本的にずっと弟についてサッカーに行っているんですね。試合なり何なりで。だから、私に構うということがそもそもあまりなかったというのもあります。そもそも母には頼れないし、ケアされるべき存在という意味では、弟は必然的にケアされるべき存在だから、家族の3人中2人がそういう感じ。そうすると、何となく私がしっかりしないと、というふうに幼心にも思っていました。そのことで祖母と何か話したことはないけれども、祖母と私は一番、気が合ったし……。

――祖母さんと連帯感が。

奥山さん そうですね。感覚が一番すごく似ていたし、この家でちゃんとするのは私たちだよね、という感じ。ある種の共犯関係みたいなのが祖母との間にはすごくあったような気がします。だから、小さい言わない頃からちょっと大人っぽかったし、おばあちゃんと孫というよりは、何かこう、シスターフッドとまでは言わないですけれども、世代を超えた感覚は確かにあった記憶があります。

――具体的には、家事とか家のこととかも担っていたんですか。

奥山さん 主な家事は、留守番でした。サッカーの練習でほとんどいないので、家を守るというのが主な仕事……。

――家で何をしていたんですか。

奥山さん 勉強していました(笑) 。本を読んだり。そこで今の自分が培われたなとは思うんですけれども、圧倒的に一人の時間が長いから、自分とは何ぞやみたいなものとか、自分の将来のこととか、内省の時間がすごく多かったんです。本を読んだり、絵を描いたり、自分一人での過ごし方みたいなものは長かったと思います。『赤毛のアン』が大好きで。村岡花子のものを全巻、もう何度も繰り返し読んで、もっと小さいときには『おちゃめなふたご』シリーズというのも好きで。

もらったお小遣いを母のお財布にいれた

――私、前に奥山さんから聞いた気がするんです。小さな弟のことを自分がケアしているって思った瞬間があるって……。そのお話を聞かせてもらっていいですか。

奥山さん おそらく私が小学校1年生とか幼稚園の年長さんとかそれぐらいだと思うんですけど、弟と駅にいて、多分電車で旅行か何かに行ったのかな。駅のプラットフォームで弟がふらふら歩いていったんですね。母はふわっとしているから、「気をつけて」とかそういうことは何にも言わない。だから私が弟の手をがっと引いて「危ない」と言って、線路じゃない側に寄せて……。そのとき、私がちゃんとしなきゃって思ったのをすごくよく覚えている。

――3つ離れているということは、弟さんが……。

奥山さん 弟が3歳とか、そんな歳のころです。

――お母さんは自分の世界に入ってぽーっとしているから、私がフォローしなきゃ、みたいな気持ちでしょうか。

奥山さん そうですね。たとえば印象的なのは、うちの母は朝ご飯がケーキで……

――マリー・アントワネット(笑)

奥山さん 甘い物がすごく好きなんですね。シュークリームとかエクレアとかそういったもの。祖母がよくケーキを買ってくれたんですけど、それとコーヒーが朝ご飯だったんです。だから、小学校の修学旅行で初めて、朝食にあんな豪華な夕ご飯みたいなものが出てくることに本当に驚いて。みんな朝からこんなヘビーなもの食べるんだ、と思って。そういう浮世離れしているというか、ふわふわとしたお姫様みたいなところが母は強くて。おそらく祖父母が潤沢な生活費を与えていたんだと思います。母は祖父の会社で働いていたので、お給料として支払われていたということだと思うんですけど。でも、それを私は何となく子供心に恥ずかしく思ったんですよね。おじいちゃん、おばあちゃんにまだ頼っているのかというのが。

――自立していないという感じですね。

奥山さん うん。何か嫌だったんですよね。だから私、祖母や祖父からもらったお小遣いを、母のお財布に入れていました。還流しているというか。ちょっと不思議だし、子どもながらなんだけれども……。

――子どもなのに、どこからそんな発想が出てくるんですか。すごくないですか。

奥山さん 何かの足しになればと思ったんじゃないかな、やっぱり。祖父が亡くなってからは、母も経済的に苦しくなっていって。私はその後、東京の大学に行くんですが、奨学金で行ったし、大学を出てすぐに就職してからは、弟の専門学校の学費も私が払ったんです。母はそういうときも、「大学に行ってくれとは言ってないもん」という感じで。弟の学費についてはありがたいと言っていましたけど。だから私が子どもながらに経済的な意味でも母のケアをしなければならないと思ったのも、何かわずかながらそのころから始まったのかもしれない。500円玉でも1,000円でもいいから、母の足しになればと思って。で、母は全然気づかないんです(笑)。気づきそうなものじゃないですか。でも1万円とか入れるわけじゃないから気づかないのかな。1,000円とか3,000円とか、いつも入れていました。

――それは一方で、奥山さんがちゃんとしていないと、どこかで崩れるというか、そういう不安とか危機感みたいなものがあったということですよね。

奥山さん そうですね。あったと思います。私がちゃんとしなければならない。あと、祖父母の命は永遠ではない。そこの経済が崩れたらこの家はどうなるんだろう、というのは気づいていたと思います。だから、早く大人になりたかったですね。

――早く大人になったあと、どんなイメージでした? この家を支えるんだ、ですか。それとも、逃げ出すんだ、ですかね。

奥山さん どっちもありました。どっちもあった。正しく言えば、外に出てこの家族を養うのがいいなと思いました。何て言えばいいか、長い目で見たときに、そこに私がいることが、私含めてこの一家にとってよいこととは思えなかったんですね。

――何か奥山さんって子どものころから社会の大きな流れをすごく分かっていますよね。何でそんなに大きい社会が見えていたんだろう。

奥山さん それはやはり一人の時間がすごく長かったから、考える時間が山のようにあったからな気もする。私はいわゆる昔ながらの女子校、オーセンティックな地方の進学校に通っていたんですが、中学1年生ぐらいのときに、私がお金を稼ぐには何があるかなって考えたんです。一つは、夜の世界で働く。ホステスさんみたいなのが一案ある。もう一案は、学歴を生かすものだと思ったんですね。ほかにもあろうと思うんですけど、この2択だと思ったのをよく覚えていて。そのときに私、そんなにお酒飲めなさそうだなと。それなら学歴ルートに乗っていこう、と思ったんですよね。だから、じゃあ勉強していきますかみたいな気持ちになったのもあって。自分の将来とか、どうやってお金を稼げばいいかとか、そのためにどういう人生を歩めばいいかというのはめちゃくちゃ考えていたと思います。

「子を持ちたい」はランキング300位!

――子どものころの奥山さんの姿はイメージがついてきました。奥山さんは以前、私に「子を持つことが人生の選択肢が挙がらなかった」と言っていたんです。すごく印象的でした。それは振り返ってみて、どこかで積極的に子どもや結婚より仕事を選んだというスイッチがあったのか、それともそういうスイッチはなく、なんとなく進んできたのか。今、どういうふうに自分の人生の風景が見えていますか。

奥山さん スイッチが入ったことは1回もないですね(笑)。でも、今お話ししていて思ったのは、私、一切、同調圧力というのがない。かなり古い価値観ですけど、女の子は30歳ぐらいで結婚するとか妊娠の適齢期とか、特に地方の女子校なので、少なからず周囲にはあったと思うんですけど。私は自分で身を立てねばならぬという感覚が強かったので、そういう考えとか価値観に一切影響されなかったんですよね。

――例えば一般的に、誰かが産休取って、家に招かれて、ちょっと赤ちゃんを抱っこさせてもらうタイミングとかあるかもしれないですよね。そういうとき、どう感じますか。

奥山さん 赤ちゃんだね、かわいいねっていう。人生の中のイシュー(issue:課題)っていっぱいありますよね。人によっていろんなものがあると思うんですけど、私にとって妊娠・出産というのは、例えば1位、2位、3位とか、「人生で成し遂げたいことリスト」がダーッとあったとしたら、300位ぐらいの……。

――300位。

奥山さん 人によっては1位だろうし、1位だったけど叶わなかった人もいるだろうし、もうそれは1位、2位とかじゃなくて、絶対に成し遂げるものというものでイシューの前提として語る人もいるだろうし。でも、私の中では全くの論外というよりは、とにかくランキング下位にあるというイメージのほうが強い。

――ランキングの上位はどんなものがあるんですか、人生のイシューとしては。

奥山さん 人生のイシューとしては、穏やかに暮らす(笑)。ストレスなく暮らす、かな。

――それを具体的にイシュー化すると? 家を持つとか……

奥山さん ああ、そうですね。家を持つというのは大きかったかもしれない。だから、35歳のときに家を買いました。それはもう人生の設計図の中にありましたね。

――その設計図のなかに結婚は?

奥山さん 今の彼は付き合って3年ほどですが、パートナーはずっといるんです。ずっとモテていたっていう意味じゃなくて、結婚という形は取らなかったけれども、つねに誰かはいた。結婚の本質的な部分って、例えば、毎日一緒にご飯を食べたり、何気ない会話を日々したりする関係性のようなものですよね? そういう意味ではずっと誰かはいたから、籍を入れるか入れないかぐらいの違いだと私は思っていた。でも、そのときどきで、むこうから結婚したいと言った人もいて、その人はやっぱり子どもが欲しいって言っていました。

――そういうとき、どう返したんですか。

奥山さん 「あ、そう?」って(笑)。私は別に欲しいと思っていないというか、300位だから。今、自分のなかの1位から10位ぐらいをやりたいから、300位のことはちょっとな……と思っていた。300位が3位にランクアップすることはあんまりないし、それだったらこの人の人生に申し訳ないなと。もう進む道が違うんだな、いいお父さんになるだろうと思って別れた人もいました。

――その人と一緒にそっちの道を進むのは、魅力的に思わなかったですか。何か、この人となら、ずっと遠いと思っていた子どもとか家族とかもありえるかも、みたいな。

奥山さん うん。それは誰に対しても思わなかった(笑)。この人の子供が欲しいとかよく言うじゃないですか? 全然ない(笑)。

Win-Winになるためのシステム

――奥山さんにとっては「自立」が強い思いなんですね。

奥山さん そうですね。ある程度、仕事でキャリアを積み重ねていって、ふと気づくと30代真ん中ぐらいになってきますよね。そのときにすごく達成感があった。今、手に持っているもので十分幸せだと思っていたので、わざわざ何かプラスオプションを、300位のものをオプションとしてつける意味合いもなかったんだと思います。

――達成感ですね。自立したいと思っていた自分を、やっと自分の手でつかんだ。一方で、このインタビューを依頼したとき、子どもを持たない理由をもし聞かれたとしたら、奥山さんは「子どものころからケアすることを求められた私にまだ産めと言うのですか」と答える、と言っていたんです。これは結構、強い想いだと感じました。

奥山さん 基本的にはそういう強い感じではないんです。ないんだけれども、「なんで産まないんですか」とか、「なんで結婚しないんですか」ということを聞かれて、何らかの答えを求められるじゃないですか。そのときにやっぱり、「何で産まなかったんですか」という大多数の意見の中には、若干の“異端”への視線を感じるんですよね。物珍しさみたいな、強い言葉で言うと、若干の批判めいた……。

――女だったら産んどけ、じゃないけど。

奥山さん うん、数ミリの毒というか……。ちょっとした毒っ気を向けられることって、やっぱりある。そういうやいばを向けられたときには、そう言い返したほうが話が早いかなと。

――なるほど。これ以上もうケアできません、と。

奥山さん うん。今までお話ししてきたような生い立ちがあってケアをしてきて、まだ誰かのケアを求められるんですかという感覚。もちろん子育て=ケアというわけじゃなくて、そこには大きな幸せとか充足感とか付随するものが大きいというのはよく分かっているんですけれども、その幸せは、私は子どもからじゃなくても、ある程度自分で見つけられるし、感覚として得られているから。全く同じものとは言いませんけど、あなたが感じる幸福感を私も何かしらで得ているから余計なお世話です、という感じのほうが強いですね。

――なるほど。一方で、ある程度大きな企業に勤めていると、出産や子育てで休む同僚を、それこそケアしてフォローしなきゃいけないという事態が起こりますよね。世間的には子なし様、子持ち様みたいな差別体系もある。そういうときに、正直に語っていただきたいのですが、苦々しい思いとか、何であなたたちが自分の人生の選択をしたのをこっちが尻拭いしてあげなきゃいけないんだとか、そういう感情はやはり起こりますか。

奥山さん そういう感情を一度も覚えなかったわけでは、もちろんないんです。ただ、苦々しく思ったとしますよね、思ったことは自分で認めます。でもそれは自分に余裕がないんだなって思う。余裕がないということは、そうなるシステムが悪いんだなって。じゃあシステムをよくするため、自分ももちろん快適になり、同僚の子も快適になる、Win-Winになるためのシステムをどうすればいいかを考えるよう、すぐ思考をチェンジします。自分が明日、例えば両手両脚骨折して会社に来られないかもしれないし、妊娠・出産だけじゃなくて、同じように働けなくなることだっていっぱいあるわけで。誰かの介護というのもあるだろうし、明日は我が身というか、お互いさまじゃないかなって思うので。瞬間的にネガティブに思うことはあっても、それが持続したことは一度もないです。

――ケアっていうと、おむつ替えるとか、よだれ拭くとか、身体接触みたいに思うかもしれないけど、もっと事をうまく運ばせる、家族や働いている人たちも含めてみんなでうまく社会を動かす、そのことを指して奥山さんは「ケア」と言っている気がします。

奥山さん そうですね。そうかもしれない。だから、運営側のイメージですね。

――なるほど。すごく俯瞰的というか、そこが奥山さんの大きな特徴だと思いました。いろいろなメンバーが動いている大きな社会が見えつつ、自分のことを考えるみたいな、俯瞰の視点がすごくある気がします。

奥山さん 私、血族と言われるものをあんまり信じていないのかもしれない。いわゆる血のつながりみたいな。だから、母のことも長く一緒に暮らしたメンバーの一人と思って、今でも仲よく付き合っている(笑)。ざっくりした感覚で言うと、母も同僚も友人たちも、あんまり変わらないんです、私の中では。何かあったときには駆けつける、何かあったら駆けつけてねという、全くもっての信頼をおける関係性の人のことを私は「家族」って呼ぶので、血のつながりという意味ではないんですよね。あまり自分の子どもに興味ないというのは、そういう理由もあるかもしれない。

――家族もメンバーという感じですね。ワンオブゼムの、みんなメンバーのうちの一人みたいな感じ。

奥山さん そうです、そうです。だから、私からすると、マンションの隣の部屋に住んでいるお子さんも、甥っ子も、私の友人の子どもも基本的にみんな一緒で。大きくいうと社会の子どもだから、私はその子の母親ではないけれども、第5母みたいな、母代理、第6母代理とか……。隣の家の子はさすがに第180母代理ぐらいかもしれないけど(笑)、何かあったときにはその子にうちにご飯を食べにおいでと言うぐらいの母代理にはなりたいと思うし、それだけのキャパシティーはつねに持っていたいなと思う。やっぱり今のこの現代において、両親だけで、もしくはシングルでも、単体だけで家族を回していくのって至難の業だと思うんですよね。もっといろいろな人が入ってこないと、現代の家族って回らないと思う。その循環していく中で、母代理でいられればいいなと。本当のお母さんとはもちろん違うけれども、そんなに大きな差があるんだろうか、という気もしなくはない。

私は橋渡し

 ここで途中から同席していた奥山さんの後輩、牟田むたさんが口を開いた。

牟田さん 会社に子どもの未来を考えるというプロジェクトがあるんですけど、奥山さんは志願して参加していて。それ聞いたとき、私、ちょっとびっくりしたんです。奥山さんには子どもがいないけど何で? と。このプロジェクトはほとんどのメンバーが子持ちで、子どもがいる前提でみんな話すし、子がいる家族のことを考えるプロジェクトに見えていたから。でも今日の話で腑に落ちました。社会的母親として、やっているんだなって。

――そのプロジェクトの目的はどういうものですか。

奥山さん どちらかというと、会社内のシンクタンク的な意味合いがあるんですけど。うちの会社にも子どもを対象とした業務はあるし、子どもが今どういうことを考えていて、どういう状況にあって、子どもを育てている親もどういう状況にあって、何を悩んでいるのかということをリサーチするのが大きな趣旨です。

牟田さん 子どもがいる前提の印象が強いプロジェクトだし、そこから来るアンケートとかお知らせのメールも「子どものいる社員の皆さんへ」で始まることが多いんですよ。私も子どもがいないんですが、自分に余裕がないときは、うるさいなと思ってメールを消しちゃったりする。その呼びかけ必要? って思ったりもする。だから奥山さんがそういう文化の真ん中に晒されているのは嫌じゃないのかな、って当時は思っていました。

奥山さん さっきの話と同じで、子どもがいる人といない人の、私はちょうど中間の感覚だから。それぞれが話したほうがいいじゃんって思っていた。子どもがいない既婚の友人が勤めていた会社では、キャリアアップする女性たちを集めた座談会が開かれて、みんなママだとちょっと体裁が悪いと思ったのか、私の友人も入れられて。でもやっぱりママとしてとか育児と仕事の両立みたいな話が主になるので、それにすごく違和感をおぼえたって言っていて。どの会社でもよくあると思うんですけど。

――数合わせみたいに入れられたってことかな。アリバイのような。

奥山さん どっちかというと嫌だったという話をしていて、ああ、そういうふうに嫌だと思うんだ、と気づいた経験があるので。自分の会社でも、子どもがいる社員の悩みだけじゃなくて、子どもはいないけど話を聞きたい人がいつでもプロジェクトに入れるといいんじゃないですか、という話はしたことはある。

――橋渡しですね。

奥山さん そうやって話を聞いてみると、子どもがいる人もやっぱり大変だし、悩みを抱えているし、両手を上げて幸せ満点ですという人はあんまりいないから、そこに冷たい目線をわざわざ持つ必要もないかな。子どもを持っていない人が子どもを持っている人に恨むみたいな目線を持つことも、ちょっとやっぱり私の中ではないというか、そういうのは嫌だなと思う。

――それはそうありたいという気持ちですか。

奥山さん 拒否感ですね、そういう意味では。どっちも嫌です。逆もしかり。子どもを持っている人が子どもを持っていない人に対して持つマイナスの目線も嫌。事実としてお互いそうだけど、それを超えたところで話をしないと分断したままじゃない? って。

――そうですよね。

奥山さん 何か前に進まなくない? って思うし。誰も幸せになれない。みんな、健やかに幸せであってほしいんです。

 この日にあらためて発見した奥山さんは、つねに自分の目の前にあるグループメンバーの幸せの最大化を求め、それが得られるシステムの改造に腐心しようとする、カッコよくて、いさぎよくて、美しい精神を垣間見せてくれた。幼少期からの経験と、そこで芽生えた自立への意志、黙って決断してきたであろう行動の帰結からは、決して泣き言や恨み節が出てこない。つねに自分もその一人であるメンバー全員の幸せのための、大きな動きに目がいっている。

 こういう人こそ、大きな会社の代表や国のトップにふさわしいのだという気がした。ケアといっても、個別具体的なケアもあれば社会的なケアもある。

 奥山さんがくれるプレゼントはいつも気が利いているし、返事は速いし、皮膚感覚のケア的精神という意味でも申し分なく豊かな感性を持ち合わせているが、大きな管理運営という意味でのケア、社会のケア、システムを土壌からケア的に耕すという意味でのケアの能力と素質が並外れて高いという印象を持った。

 こういう人が実際に大きな会社のなかで、子がいる社員、子がいない社員の橋渡しをし、対話をするなら司会をするよと言ってくれるのであれば、どれだけ社会は風通しよくなるだろう。

 今、自分は母ではないけれど、社会的な母、代理の母としての場所を、いつでも心のなかに空けておきたい、という清廉な言葉にも心打たれた。それは、私が『マザリング』という本のなかでさんざん書いたことと、まったく同期していた。子を持たなかった側、子を持った側、双方あまり変わりはないんじゃないの? という奥山さんの深い実感にもまた勇気づけられる。

 取材を終えて外へ出ると、秋晴れの空はよりいっそう、はればれとして見えた。

 第6回
なぜこの世界で子どもを持つのか 希望の行方

世界各地で起きる自然災害、忍び寄る戦争の気配やテロの恐怖、どんどん拡がる経済格差、あちこちに散らばる差別と偏見……。明るい未来を描きにくいこの世界では、子どもを持つ選択をしなかった方も、子どもを持つ選択をした方も、それぞれに逡巡や躊躇、ためらいがあるだろう。様々な選択をした方々のインタビューを交え、世界の動向や考え方を紹介する。

プロフィール

中村佑子

1977年東京都生まれ。作家、映像作家。立教大学現代心理学部映像身体学科兼任講師。哲学書房にて編集者を経たのち、2005年よりテレビマンユニオンに参加。映画作品に『はじまりの記憶 杉本博司』『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』が、著書に『マザリング 性別を超えて<他者>をケアする』『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』がある。

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子どもを持つ、持たないを超えた先にあるもの

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