著者インタビュー

男性問題を語りつくそう

杉田俊介×西井開
杉田俊介×西井開

#MeToo運動をはじめ世界的にジェンダー平等への意識が高まる中、社会の中に表れる男性性がもたらす諸問題への異議には同意しつつも、一方で自らが抱く男性性の在り方に戸惑う男性も、少なくないのではないでしょうか。

マジョリティ男性にとってのジェンダーやフェミニズムとの向き合い方を示した、杉田俊介さんの新刊『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か-#Metooに加われない男たち』。また、「非モテ」を切り口にして、男性性をめぐる加害・被害の問題を深く掘り下げた、西井開さんの新刊『「非モテ」からはじめる男性学』。

昨夏、刊行された問題作の著者二人が、現在の社会の中に現れる男性問題について、とことん語り合いました。

(2021年12月5日にReadin’Writin‘BOOKSTOREさんで開催された配信イベントの一部を記事化したものです)

杉田俊介さん(右)と西井開さん

『「非モテ」からはじめる男性学』3つの論点

杉田 最初に僕のほうから西井さんの新刊『「非モテ」からはじめる男性学』について感想を述べさせてもらって、その後西井さんのほうからも杉田の本についての感想を述べてもらう、というようなところからはじめようと思います。僕も2016年に『非モテの品格――男にとって「弱さ」とは何か』という本を同じ集英社新書から出していまして、「非モテ本」つながりという間柄でもあります。
 西井さんの本は草稿の段階から読ませてもらっていまして、いろいろと刺激を受けてきました。まず3つほど感想を述べてみます。
 1点目ですが、自分の『非モテの品格』はサブタイトルにもあるように「男の弱さ」問題を論じたんですけれど、自己解脱というか自己救済の論理なんですね。自分で自分を救おう、自分の心の傾向や生活を改善して、自己配慮して、自分を律して、それで救われようとしている。家族や職場の関係は出てきますが、基本的にそういう傾向がある。しかしやっぱり男性が変わっていくときに、共同性や集団性の力が大事なんじゃないか。西井さんの本を読んで、あらためてそう思いました。西井さんの本は既存のグループ実践を参照して、非モテ男性たちが変わっていくための共同的な場を作っていく。実践としても書き方としても、そういう方法を選択していて、それは僕のような実存的な個人主義とは根本的に方法論が違う。それは今、すごく大事なことのような気がしました。
 2点目は、西井さんが分析の視点をすごく細かくミクロにして、いわば顕微鏡のように観察していくのが面白くて、そこから男性間の相互作用が見えてくる。非モテ問題はそもそも、社会的な問題として認識されず、意識すらされていない場合が多い。よく「そんなうじうじ考えずにさっさと行動しろ」「さっさと誰かと付き合っちゃえ」とか、かなり雑な非難をうける。あるいは「だからお前はモテないんだよ」と、メタ的なマウンティングを取られたり。

西井 よくあるやつですね。

杉田 「非モテ」云々の是非をせっかちにジャッジせずに、なぜその人にとって非モテ意識がそんなにも苦しいのか、その背景を見ていくべきなんだと。そこには他者との相互作用や社会的な諸々の理由がある。たとえば西井さんは「緩い排除」と言っています。差別ではなく、明確なイジメではないかもしれないが、緩やかな排除としての「周縁化」の作用があって、その中で男性たちの非モテ意識が形作られていく。そういうケースがある。その具体的なプロセスを非モテ研に参加した皆さんとのやりとりを通して言語化していくわけです。緩いがゆえに見えにくく、こじらせやすい、そういう暴力性があるんだと。
 さらにそうした緩やかな排除を被害者が内面化して、いじられキャラとして演じて、そのことで緩い排除を行う集団を積極的に支えてしまい、さらに自分が傷ついて悪循環に陥っていく……。たとえばそうした相互作用を分析しています。
 この2点目に関して、西井さんに聞いてみたかったのは、そこから想定される非モテの苦しみから脱していく主体っていうのを、能動的で強い主体ではなく、ある種の「緩い男性主体」として想定されているのかな、と感じました。男らしいマッチョな主体だけではなく、リベラルな価値観で自分を律する主体というのも、結構強いコントロール能力が求められるわけですよね。他方では、ちょっと微妙な言い方なんですけど、「強い被害主体」というのもある。つまり、被害性において強く自分のアイデンティティを打ち出していくような主体。けれどもここで西井さんは、強いとも弱いともつかないというか、能動的とも受動的ともつかないような、ある種の根源的な「緩さ」を抱えた男性主体をどこか想定しているのかな、と思いました。その辺が興味深かったです。そうした緩さと共にあるようなプロセスに耐えられないと、一発逆転で女性と付き合えば幸福になれるとか、強烈な親密さを求めて権威主義化していくとか、そういうパターンになるのかもしれないな、と。
 3点目は、「ダークサイド問題」が重要だと思いました。つまり非モテ男性たちの加害性や、性暴力への加担をどう考えるか。加害者が加害経験について語ること自体が二次被害を形作っていくからそもそも語るべきではないという見解もあると思うし、他方では、男性の性被害者やDV被害者がなかなか自分の傷を語れずに、それを自分の中でこじらせてしまって別の誰かへの暴力として発動するという場合もある。あるいは加害性と傷や被害者感覚が捻じれて共存していて、本人の中でぐちゃぐちゃになっている場合もある。
 例えばこの本では「加害トラウマ」という言葉が出てきます。実は加害者にも微妙な形でトラウマがあって、また誰かを傷つけてしまうんじゃないか、という形で自分の中にそれをため込んでいく。「男の弱さを語る言葉がない」と言われるけれど、実は加害性を語る言葉も足りないのではないか、と西井さんは書いている。
 何らかの加害を行ってしまった自分を変えていくには、すごく時間もかかるし手間もかかりますよね。ネット的な空間では、正しいか間違いか、反省しているか反省していないかみたいな、手っ取り早いジャッジが求められがちです。でも、何らかの加害に対して数日後に謝罪してそれで終わるかというと、そんな簡単な話ではない。加害や差別を様々な場面で再生産する意識や欲望の在り方自体が変わらないのであれば、あまり意味がない。それは何年も時間をかけて試行錯誤しつつ考え続けていくべき事柄でしょう。具体的変化を伴わない謝罪や償いは無意味であるわけです。その点、差別主体としての男性と、加害主体としての男性の分析にはまた異なるアプローチが必要で、加害男性について臨床的な研究は色々あると思いますが、それを男性学やメンズリブに生かすにはどうすればいいのか。この辺りの加害性やダークサイドの問題は今後西井さんの重要テーマになるのかな、と思いました。

西井 ありがとうございます。緊張しますね。

集団の中で変わっていくこと

西井 杉田さんの『非モテの品格』はすごく刺激を受けた本で、今回読み直してたんですけど、非モテ男性、周縁性を有した男性たちが抱えるであろう問題を、かなり先んじて書かれているなと改めて感じました。「男性たちは語る言葉がない」という杉田さんの提示が、自分の研究や運動の指針になってきたという実感があります。杉田さんがご自身の経験を基に書き起こした男性の苦しさやルサンチマン、男性嫌悪、暴力、加害性の問題といったものについて、どうそれが生起するのか、それがなぜ行動に結び付くのか、その要素と要素の間を臨床的な視点を持ちながらつなぎつつ、それをいかに実践の中に落とし込むかということを自分の仕事の一つとしてやってきたなということを再確認しました。なので今日は本当に感無量なんです。
 今コメントしてもらったミクロなまなざしというのはかなり意識したところです。男性をめぐる問題をわかりやすい一つの枠組みで捉えるのではなく、個人の経験を元に理論を立ち上げてきました。結果的に見えたのは、他者関係の中で男性が微細に傷ついている現状です。その背景として、ジェンダーの問題だけでなく、障害を持つ者への社会的排除、パートナーがいることを重視する社会意識や、運動ができない、背が低い、色が白い、声が高いといった身体的特徴に対する蔑視などがあることも見えてきました。
 もうひとつ、杉田さんが挙げてくださった、男性同士が集団の中で変え合っていくという話と緩い主体の話はつながってると思うんですね。自分がこうなりたい、こうあるべきだ、という意志の問題ではなくて、集団の中で語り合っていくうちに、グループの力学によってなぜか変わってしまっていた、ということが起こる。そこでは独特のグループの力学が発生していると思っています。ぼくは非モテ研において主催者であり、またファシリテーションを行うため、そこには当然権力性が発生する。ただ、一方で主催者が強く権威化されないような仕組みもその中にはあって、一方的にぼくがメンバーたちを変えるわけではない。化学反応のように、また相互的に変化が起こる。そして起こらない場合もある。そんな空間です。

杉田 マッチョで競争的な男性空間に対抗しうる原理が非モテ研にはあって、もちろんそれは非モテ研が積み重ねてきた固有の土壌の上にあるんだけれど、同時にそれは、様々な空間へも拡散され、種が撒かれていくのかもしれない、とも感じました。
 男性たちの実践や研究もそれなりに昔からありましたよね。マン・リブと呼ばれたり、メンズリブと呼ばれていたもの。男性学や男性性研究と呼ばれるもの。そういう経験の蓄積や歴史の水脈を掘り返していくことも、ある種の男性学ブームが生じている今、あらためて大事なのかなと。僕はあまり詳しくないので、この辺も西井さんに聞いてみたいです。

男性学・男性性研究の系譜の中で

西井 では僕のほうから今の杉田さんの問題提起を踏まえながら、『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』の話ができたらなとは思います。
 まず全体の感想として、この本では、フェミニズムの歴史や性的マイノリティをめぐる問題、レイシズムの問題など、差別をめぐる様々な知見が、最新のテーマを含め本当によくまとまっているので、自分の男性性の問題や、フェミニズムにどう向き合ったらいいか迷っている男性にとって非常に有意義な本になっていると感じました。男性が性差別の問題を考える道のりは険しい。どこに落とし穴があるのかもよく分からない。本当に正解が何か分からない中を進むための、まさに杉田さんが書かれていたように、「装備」としての意義があると思いました。
 もうひとつ、先程話題にあがっていた、男性学や男性性研究の蓄積において、杉田さんの本がどう位置付けられるのかということについてです。男性学・男性性研究はひとつのイデオロギーのように捉えられる傾向がありますが、一枚岩的なものではなく、各論的な領域も含め、90年代から様々な議論が展開されてきました。その中で、マクロな統計データを用いながら男性ならではの生きづらさや課題を分析し、その背景として男性規範の問題をあぶり出すという研究が中心的に論じられてきた歴史があります。
 こうした研究に対して、男性内部の問題を取り上げすぎているがゆえに「層としての男性」と「層としての女性」の間にある非対称が軽視されるのではないか、という批判や、ジェンダー以外の社会構造(セクシュアリティ、階層、民族性など)の視点が抜け落ちているという批判などが展開されてきました。
 杉田さんの本は、こうした論点をかなり網羅的に扱っています。男性であるがゆえの代償や剥奪感に加え、障害を持っていたり低階層にある男性の独特の痛みや呻きも重視しながら、複合差別論として展開されている。また、こうしたことに目を配りながらも、男性と女性の非対称性もきちんと踏まえている。多文化社会において様々な差別が相対化されていく危機感を杉田さんは繰り返し書かれていて、「そういうつらさもあるよね」みたいな感じで、マイノリティの当事者たちが抱えている苦悩や排除の問題が無化される、無痛化されていく。そういう状況の中でやはりもう一度、男性と女性、マジョリティとマイノリティの間に境界線を強く引く必要があるのじゃないかと提示されています。
 でも、この3つを同時にどう並立させるかというのは非常に難しいところだと思うんですね。特にマジョリティとマイノリティの間に境界線を引くことと、マジョリティ的な立場にある個人が自分を複合的なものだと捉え返して、自身の中にあるマイノリティ性に気付いていくことは一見矛盾します。これを同時に抱える在り方を試行錯誤された本なのかと感じました。「引き裂かれ」という言葉が繰り返し出てきてますが、この2つの間で引き裂かれながらも、それでもマジョリティ男性がこうした矛盾を抱えられる指針はないのか。それをまっとうさ(decency)という言葉で表しながら提示したのかなと読みました。

撤退戦のような…

杉田 ありがとうございます。「引き裂かれ」に注目してもらえたのは嬉しいです。『非モテの品格』は割と短期間で、自分の情念というか欲望を発散するような書き方で書けたんですけど、今回の本はすごく時間がかかった。苦行というか、書いていても快楽はなかったです。手製の状況地図を作るために、理詰めで基礎から建築していくような書き方をしなければ(苦手な書き方なのですが)、とも思っていました。しかしそれだけではなく、果てしない撤退戦みたいな感覚でした。というのは、積極的にポジティブな男性性を語ろうとしても、それはなかなか語りがたい。

西井 撤退戦でしか語れない。

杉田 撤退戦で、後退戦。でも、本当にこれでいいのかな、という思いはずっとありました。でも、そうした後退戦の中で、この本では辛うじて「まっとうさ」という言葉に行き着いた。

西井 なるほど。

杉田 「まっとうさ」を「正しさ」と対比して使いました。「正しさ」とは、果てしなく優等生的にクリアすべき条件のこと。仕事で稼ぐ、家事育児も当然やる、傾聴もできる、社会変革の行動もできる、というように、どんどん条件が加えても高いハードルを越えられる「正しい」男性。もちろん、男女の現実的な非対称は解消されねばなりません。しかし、「正しさ」の基準がややインフレしているとも感じました。それが可能なのは、特定の文化資本や経済的な余裕を持った主体に限られるのではないか。現代社会においてそういう過剰に「正しい」男しか承認されえないのだとしたら、男性内格差が生み出されてしまうし、それもおかしいのではないか、と感じていました。

西井 確かに、そうした非常に能力の高い男性だけが「あるべき男性」として社会的に称揚されるのは異様ですね。排他的とも言っていい。そしてその「正しい」男性を頂点にした男性間の競争が始まる。

杉田 たとえば私が以前執筆した『ドラえもん論』の話をつなげれば、誰もが出木杉君のように正しくなれなくても、のび太君のような無能さや無力さを抱えつつ、まっとうであろうとする男性の道もまたあると思うんです。
 つまり、新しい男性の生き方のモデルとして「イクメン」や「草食系男子」という言葉がこれまでにも登場したように、そうした言葉のレイヤー(層)を幾つも作っていくことが重要だと思いました。有害で有毒な「男らしさ」は全部脱ぎ捨てよう、「男らしさ」から脱しよう、って言って投げっぱなしにするのでは、フェアではないと思った。マジョリティの「男」として生まれ今も生きている、という条件から逃れられないとしたら、その中で悪戦苦闘しながら何らかのポジティヴなイメージを自分なりに一つでも提示してみたい。今回はそれが「まっとうさ」という言葉でした。

男性性をポジティブに描けるか

杉田 一方で、以前書いた『非モテの品格』の、特に3章の辺りは何となく楽しく書けた気がします。僕は20代半ばから障害者サポートの仕事を10年くらいしていて、その後、家にいて物書きをしながら子育てをしていた。息子が超未熟児で生まれて一時期病弱だったこともあり、育児ノイローゼになったりしながらケア主体を実践していました。そういう感覚があった。つまり、ケア関係を通してマジョリティ男性としての身体がある側面ではクイア化し、あるいはクリップ化していった。
 「クリップ」というのはクイア理論を引き受けた障害学の概念で、「片端(かたわ)」とか「異形」というような意味です。自分の身体の中にある病気や障害性を、社会批判的なものとして捉えると同時に、ある面で自分固有のポジティブなものとして捉えなおそうとする理論です。つまり、多数派男性であるこの自分の中にもクイア的、クリップ的な側面があったと気づいた。
 そもそも、日本の1970年代ぐらいからの障害者運動に並走してきた介助者たちには、積極的な主体性を語ってはいけない、健全者としての加害性を意識し続けねばならない、というある意味で強い「去勢」があったと思います。主体的なのは障害当事者であって、そもそも相互性を前提とした「ケア」という言葉もアウトだし、護るという「介護」もアウトで、「介助者」という言葉を用いていた。

西井 なるほど。手足論ですね。

杉田 そうですね、介助手足論。障害者を介助する健全者は、頭を使ったり口出ししたりして介入すべきではない(もちろん介助者論の意味についても所説ありますが)。だけど、『非モテの品格』の3章ではそういう自己抑制をいささか破って、ポジティブな側面――つまりマジョリティ男性も変化できる、身体的な欲望を変革していけるんだっていう経験を語りました。ところが、あれから5年が経過してマジョリティ男性についての本を書いてみると、もう、そういう肯定的な快楽や解放感はなかった。

西井 5年で何があったんですか。

杉田 時代的な変化もあると思います。『非モテの品格』を今読み直すと言葉遣いがまずい部分が結構ある。「トランス」という言葉とか。そういう書き方ができなくなった、あるいはしなくなったのは、ひとまず、状況が良くなったんだと思います。社会が少しずつ成熟してきた。
 でもやっぱりそこでマジョリティ男性たちは、これは言い方に気を付けないといけませんけど、状況に対して取り残されていると思う。これだけ性的マイノリティや女性たちが新しい理論や実践を積み上げてどんどん進んでいくのに、どうも男性たちはそれについていけてない。何かを語ろうとすれば、ひたすら反省したり、消極的な撤退線になってしまう。『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』でも、状況の地図を作るのに精いっぱいで、まだ登山していない感じもするんですね。アクションではなく、リアクションに終始しちゃっている。

西井 なるほど。面白い。杉田さんは今回の本で、リアクションをすることの必要性を粘り強く書かれていますが、それだけでマジョリティ男性は生きていけるのかという問題提起ですよね。

杉田 現代は過渡期っていうか、男性学、メンズリブ、男性批評の在り方はまだまだ発展途上だし、十分とは言えない。果てしない撤退戦だけではダメだとしても、同時にそうならざるをえない「男性」の現状を回避するのもやっぱりダメで、その果てしない撤退戦を引き受けながらその中からポジティブな男性性の未来を語っていく、あるいは社会変革を論じていく、そういう男性性に関する議論をみんなで積み上げていきましょう、という感じでしょうか。難しいですけれど。

欲望の開かれ

西井 『非モテの品格』の3章を僕も読み返したんですけど、やっぱりすごくいいですよね。障害者支援の中で杉田さんがケアをしているわけだけども、逆に彼らとの関わりの中で杉田さんの身体や欲望が開かれていくような感じがつぶさに書かれている。その体験が既存の言葉では書き尽くせないような印象を受けながら読んでたんです。霊性のようなものが入り込んでくるというか。
 独特な空気感の中でドミナントな既存の男性性ではない門戸が開かれ、同性愛的な欲望を含むオルタナティブな男性性が拡大化していく。杉田さんがおっしゃっているクイア化とはこうした変化を指していると思いますが、それは私が関わっている非モテ研の活動でも思い当たるところがあります。非モテ研は当初ただ淡々と月1~2回ぐらいの例会で2時間みんなでしゃべって終わり、くらいのものを考えていましたが、打ち上げで共にご飯を食べるようになるうちにメンバー同士次第に仲良くなり、遠足や登山、合宿をしたりするようになりました。プライベートで遊ぶメンバーもいます。するとだんだんメンバー間で互いに配慮したり気に掛け合うようなことが生まれてくるんですね。最近しんどいんだということを共通のLINEグループで誰かが投げ掛けたらミーティングが開かれたり、メンバーの誕生日や転居を皆で祝うような関係性が生まれてきたんですね。
 さらにもう少し言うとエロス的なものも出てくる。非モテ研の参加者の多くは異性愛男性ですが、以前AV監督の二村ヒトシさんと対談したときに「非モテ研はエロいよね」って言われたことがありました。その時はそこまで意識してなかったんですけど、確かに思い返すとみんなでご飯作って一緒に食べたり、ネイルケアのワークショップでマニキュアをみんなで塗って「かわいいね」って言い合ったり、身体の触れ合いや、互いを愛おしむ瞬間が確かにある。他の男性に対してちょっとドキッとすることがある、みたいな話も出てくる。ぼくも非モテ研で自身のセクシュアリティの揺れに気付いてきました。それは互いの関係性が深まったという側面もあるかもしれませんが、もともと持っていた自己の多元性を非モテ研という空間の中で開くことができた、ということだと考えています。ケアとエロス、そして遊びが絡まり合いながら立ち現れてくる。

杉田 面白いですね。それってなんか何て呼ばれるべきなのでしょうか。女性には「シスターフッド」って言葉があるけれど、男の場合はどうなんでしょう。男性の場合、オルタナティブな関係性は「ホモソーシャリティなきブラザーフッド」ということなのでしょうか。でも、ブラザーフッドってやっぱり強過ぎるのかな。かつてのコミューンとも違うし、男性同士のその辺りの微妙な関係性をポジティブに語り直せたら面白い。

西井 最近「ホモソーシャル」という言葉が幅広く使われていますが、その概念を改めて検討する必要を感じています。というのも、女性を客体化して搾取し、同性愛男性を排除し、異性愛男性同士でつながり合いながら互いに競争し合う悪しき男性の共同性に貼り付けるレッテルとしてのみ使われる傾向があるからです。雑に使われていると言ってもいい。
 確かにそうした面もあるんだけれど、「ホモソーシャル」を提唱したイヴ・セジウィックが重視したのは、ホモソーシャルとホモセクシュアルの連続性です。一見ホモソーシャルとホモセクシュアルは分断されているように見えるけれど、実は地続きで、ほぼ見分けが付かないような様相を呈している。セジウィックが表したのは、こうした男性同士の関係性に生じる欲望の複雑さでした。また、彼女はその連続性を切断するものとして、ホモフォビアの問題を指摘しています。ホモフォビアはホモセクシュアル、同性愛の人たちを排除・差別するだけでなく、同時にヘテロセクシュアルのふるまいや関係性も実は抑制していると書いています。自分たちの関係性が同性愛的に見えないようにセルフコントロールし、おびえながら関係性を作らなければならない。親密であってはいけないわけです。だから情緒性や身体接触といったものも排除されて関係が作られ、からかいや下ネタといったものが醸成され、さらには異性愛的欲望だけが増強されていく。ホモフォビアが、マジョリティ男性同士の親密性を抑圧しているわけです。しかし、場のコードを組み替えることで、その抑圧に少し風穴を開けることが可能であると言えるかもしれない。先程話した非モテ研で起きるケアやエロスは、別に非モテ研独自のものではないと思っていて、既にある男性同士の関係性でもこうした現象はホモフォビアの裂け目で起きているはずです。でもなかなかそれらは表面化せず、忘れ去られていく。

杉田 なるほどね。面白いです。例えば男性アイドルの嵐ってボディタッチが多かったですよね。競争的ではないし、男同士で親密で仲が良いっていうか。ホモソーシャリティとホモセクシュアルの境界上というか、恋愛か友達かという区別も不要な領域があるのかもしれない。育児もそうだし、障害者介助の現場もそうだけれど、広い意味でのケアって身体接触が多いわけです。他者との接触によって、自分のアイデンティティや身体的な境界線が揺らぐ面があって、自分と他者、第三者と親密な他者の関係も揺れ動いていく。僕の場合、やっぱり自分がそうした側面での集団性や共同性を十分には経験できていない気がして、その辺何らかの実践が必要かもしれないな。

境界線を引くこと、変化すること

西井 ここまで、マジョリティ男性と他の属性の人たちとの境界線を引くことと、マジョリティ男性の内部で多元化していくこと、その2つをどう並列させるか、という話をしてきました。差別の問題が軽く考えられる現在において、境界線を改めて引くことは重要なんだけれど、あまりに強く引きすぎると、マジョリティ男性の変化や主体性が失われてしまう。また、私はあなたとは違うと言い過ぎること、つまりマイノリティを他者化しすぎることも、それはそれで差別に繋がりうる危険がある。
 そのバランスをどうとるかが重要かと思うんですが、杉田さんとの話の中で感じたのは、例えば「特権から降りる」「男らしさから降りる」って言ったときに、制度と意識・身体の2つの次元を考えるべきなんじゃないかということです。制度の次元において、マジョリティ男性としての社会的な立場から完全に降りるということは不可能です。もちろん役職から降りるといったようなことを個別的にはできるかもしれないけれども、家事・育児を最優先にすることを免除される、預かり知らぬところで人事上優遇されている、夜道を安全に歩くことができる、といった制度や文化の中に入り込んだ男性の特権は、どうしてもついてきてしまう。制度の次元において、そのことに意識的になっておくこと、男性である層と女性である層の境界をきちんと見ておくことが重要だと言えます。それとは別の次元、つまり自分の意識やふるまいの次元において、男らしさから降りていく、変えていくということはできるかなと思いました。先程話していたクイア化はこの2つ目の話ですよね。

杉田 自分のメンズリブ的な本の中では、「法律や制度を変えていく社会変革」と、「自分の欲望や生活を変えていく生成変化」の分裂について書いてきましたが、それは二元論的というか、両方行ったり来たり、ジグザグでやり続けていくしかないのかもしれません。もちろん法律や制度の側面が重要です。しかし法律や制度さえ整えられれば、自分たちの欲望や身体の在り方はそのままでいいのかというと、そう単純な話にも思えない。だって法律や制度を作っていく、構成していくのは個々人の集まりなのだから。そういう行ったり来たりが必要かなと思いますね。

フェミニズムと男性

――参加者からの質問が来ています。

Q 私は男性向けのフェミニズム学習会を主催しています。その目的は男性の男性らしさからの解放や今のジェンダー不平等を解消していく男性集団を作っていきたいということです。後者については、ここまで参加してきている人たちが少しずつうまくいってるかなと思っています。ただ、男性のフェミニストとして、前者の男らしさからの解放や男性問題についてやるべきなのではないかと考えています。自分こそは非モテについて知らないふりをしていい立場ではないように思います。私自身まだまだ勉強不足ですが、フェミニズムを学ぶ中でいろいろなものから解放され、この生き方を選ぶことの肯定感を感じています。しかし、私のようにフェミニストを自称して、しかもパートナーもいるような者を、男らしい人たちや非モテの人たちはなかなか必要としていないように感じます。非非モテとして嫌厭される存在のようにも感じます。そういう私が男らしさにがんじがらめの男性と一緒に何かをやっていくためにはどうしたらよいでしょうか。男性問題を問題として捉えている時点で、そういう人たちとつながることはなかなか難しいのでしょうか。その場合、私にこれらの問題を解消するためにできることはどんなことが考えられますか。

西井 すごく意義深い活動をされてるなと思って聞きました。なかなかそういう実践の話は聞かない。メンズリブの運動でもそんなしっかりとフェミニズムを学ぶということはあんまりなかったんじゃないかな。
 ただ一方で、フェミニズムに関心のある男性と、男らしさに縛られた男性という二項対立的な表現に違和感を覚えました。つまり、その二項対立があり得るのか、ということです。ジェンダーの問題全てに対して理解するなんていうことは不可能ですし、自分も特権を持っていたり、この社会の中で男らしさみたいなものをどこかで踏襲してきてもいる。そういうことを考えると、いつ何時偏見や差別的なふるまいが出てしまうかわからない。そう考えると、この二項対立ってとても危ういものになります。
 最近メディアから取材を受ける機会がよくあるんですけど、男性の問題を他人事で考える男性記者の方によく出会います。「性差別的な男性は厄介ですよね」とか「男らしさで生きづらいってあるんですね」とか、あなたは何者かと言いたくなる。自分も社会の中で男性として生きてきているにもかかわらず、その立場性を棚上げしてしまうことを「切り離し」と呼んでいます。マジョリティ性と「切り離し」は密接に絡まり合っていて、自身を常に無徴化してしまう力動がそこには働きます。
 僕もついやってしまいますが、やはりそこは切り離しちゃいけないと思ってるんです。切り離した瞬間に、すごく上から目線の、出木杉君的な物言いにしかならない。男性の問題を男性が考える場合、もうちょっとボトムアップ的に、自分の愚かさもきちんと受け入れることを挟まないと、男性全体を巻き込みながらというのは難しいんじゃないのかなと思っています。

杉田 山に登るための入り口や受付窓口は複数あっていいわけで、男性がみんな非モテ問題を背負い込む必要はないとは思います。典型的なマジョリティ男性が自分たちを変えていくための取り組みが、ある側面で非モテ男性集団と響き合うこともあるかもしれない。フェミニズム男性集団というかフェミニズム男性結社というのは、面白そうですね。

西井 多分ニーズはすごくあると思う。男性がフェミニズムに出会った際、すごくおびえや罪悪感を抱くことがあります。でも何かしないといけないという感覚も同時に持ちうる。そういう男性たちが所属できるような受け皿はあったほうがいいなとは思っていて、杉田さんがおっしゃったように、窓口が幾つかあればいいと思いました。

男性が変化することの困難

Q 杉田さんの本を読んでマジョリティ男性が反差別的であろうとすることは苦痛や葛藤を抱え、そして面倒くさい過程ではあるだろうけれど、それと同時にある種の喜びを感じられる過程でもあるという旨のことが書かれていたように思います。マジョリティ男性にとって葛藤が快楽になり得るパターンとして僕は「エヴァンゲリオン」的なセカイ系(ポストエヴァンゲリオン)の、自己の駄目さを受け入れる形での男性性があったなと思っています。むろんそれは家父長的なものに回収されていく場合も反省のパフォーマンスにしかならないことも大いにあるのですが、オタク的なサブカルチャーを入り口に反差別的な方向に向かう可能性は考えられないのだろうかと考えました。よろしければお考えをお聞かせください。

杉田 なるほど。まず、我田引水ですけれど、自分は割とサブカルチャー批評と男性批評を絡ませながらずっと書いてきました。『宮崎駿論』や『長渕剛論』、それに『ドラえもん論』とかですね。最近は『ジャパニメーションの成熟と喪失』という本で庵野さんや細田守について書きました。
 ただ、ここはまだいろいろと考えている最中です。つまり、男の自己変革は面倒だし色々つらいこともある、でもそこには喜びもある、それが「まっとうさ」だ、と杉田は言うけれど、それ自体が(一部のリベラル男性の能力主義とは異なる形で)特殊な人々、強さを持った人々にしかできないことではないか、という批判を受けたことがあります。
 先ほども言いましたが『マジョリティ男性』を書くことは、すごく面倒だったしつらくて、小さな本だけれど思った以上に時間もかかって、それでも何とか完成させて、まあ楽しかったとは言わないけれど、それなりに面白いこともあった。つまり、この本の書き方自体が優等生的というか、苦行僧的な「まっとうさ」を実践したようなところがある。確かにそれはある種の能力主義であって、この本が分裂というか自己矛盾している点かもしれない。ただ、たとえば具体的な人間関係や職場の話でも、それは「できない」って思い込まないほうがいい気はするんですね。絶対楽しいとも言えないけど、早々に見切りを付けるともったいないかもしれない。粘り強く変わっていくというのは、それこそ「緩さ」が大事というか、ある日突然反省して、目覚めて、覚醒した主体になる、ということではないでしょう。欲望はじわじわ変わっていくのを待つしかないものです。
 もちろん即座に変えていくべき制度や構造の問題点はあります。けれども他方で、人間感情とか欲望とか文化とか、そういう水準はやっぱりそんなに簡単に手っ取り早く変わらない。地道に、じわじわと、手を尽くしつつ土壌が自ずと変わるのを待つように、緩やかにやっていくしかないんじゃないかな。地道に変わっていくプロセス自体の価値を大事にしたいですね。『ドラえもん』だって、コミックスの最初の方と最後の方ではのび太やドラえもんの性格だって大分違う。出木杉君も変わっていく。

西井 『ドラえもん論』で書かれてましたね。

杉田 変わっていく過程の中の特定の部分を切り取って、その部分だけを差別的か否かでジャッジするのは、もちろん時代の要請もあり不可避ではあるけれど、プロセス的な目線がもうちょっと必要じゃないかな。時代の制約の中で変わっていこうとする試行錯誤や姿勢みたいなもの、そこに真摯さを感じたらそこは積極的に肯定していいのではないか。そんなことも思います。

――ではお二人から最後に感想をお願いします。

杉田 僕と西井さんは結構年齢が離れているんですけど、頼もしいというか、西井さんには穏やかな緩さの中にも舌鋒鋭い批評意識があるんですよね。誰であろうが間違ったことを言えば容赦せんぞみたいな。そこがまた信頼できると思う。西井さんはあっさり読者を癒やさない。必要なのは癒しよりも欲望の変化であり、確かな変化を感じ取れるときに人は癒されるのではなく自己尊重できるし、他者と共に生きることに安心できるんだと思います。僕は今後も在野で細々とやっていくしかないんですが、西井さんのような仕事が蓄積されていけば、学問的にも、男性たちの実践としても、すごく面白いことになるんじゃないかと思ってます。頑張ってほしいですし、僕も頑張ろうと思います。

西井 ありがとうございます。今杉田さんが「読者を簡単に癒やさない」と言ってくださいましたが、マジョリティとしての立場性を踏まえて男性の問題を考えると、簡単な癒やしには結び付かない、どうしても痛い部分も出てきてしまうと考えています。自身の経験を顧みながら男性の問題を考えると、潜在的な自己の多様な側面に触れることになります。例えば、過去に自分が受けていた被害の経験や、逆に差別的な行為をやらかしてしまった経験、そういうネガティブなことだけじゃなくて、自分のケアフルな部分や、男性同士のエロスが思い出されていく。そういったことって日常生活の中でどんどん封印させられていくと思ってるんですね。特にマジョリティ男性ほど同調抑圧が強く掛かり、社会的に称揚される男性性から逸脱した経験が押し込められる気がしています。それを場合に応じて思い出し、変化していくことが大事なのかなと思ってるんです。その役割をこの本が少しでも担えたらなと思っていたので、簡単に癒やさないという杉田さんの言葉が非常にありがたかったです。
 ただ自分の仕事をアカデミズムに乗せたことで、描ききれないものもあると感じています。男性の内部にはもっと複雑な有象無象があるはずで、それは文学や批評といった表現に宿るのではないか。『非モテの品格』の3章には、まさにそういうところが出ていると思うんですが、そういう言葉や言語を、これからも杉田さんから学びたいなと、あらためて今日感じました。

撮影/野本ゆかこ

構成/オバタカズユキ

 

「非モテ」からはじめる男性学

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杉田俊介×西井開

杉田俊介(すぎた しゅんすけ)
1975年生まれ。批評家。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。また20代後半より障害者ヘルパーに従事。著書に『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)、『ジャパニメーションの成熟と喪失』(大月書店)、『長渕剛論――歌え、歌い殺される明日まで』(毎日新聞出版)など。差別問題を考える雑誌『対抗言論』では編集委員を務める。

西井開(にしい かい)
1989年大阪府生まれ。神戸大学発達科学部卒業後、会社員、NPO職員、無職期間を経て、立命館大学人間科学研究科博士後期課程。日本学術振興会特別研究員。臨床心理士。公認心理師。専攻は臨床社会学、男性・マジョリティ研究。モテないことに悩む男性たちの語り合いグループ「ぼくらの非モテ研究会」発起人、男性の語り合う場をつくる任意団体「Re-Design For Men」代表。共著に『モテないけど生きてます-苦悩する男たちの当事者研究』(青弓社)がある。

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