一枚の壁画が、それぞれの人にとっての「壁」を越える力となるように──「 Over the Wall 」プロジェクトの主催者として、見た瞬間に幸せな気持ちになれる壁画を国内外で描くことを目指している、アーティスト・ミヤザキケンスケ。最終回は、現在のミヤザキが目指すアート表現の核心と、新たな取り組みについて聞いた。
7年前の2011年3月11日、ミヤザキは東京のケニア大使館にいた。
「2010年、ケニアのスラム街に2度目の壁画を描きに行ったことが大きな手応えとなり、この活動をこれから毎年各地でやっていこう、そう決意した矢先の震災でした」
それまでは、遠い国にいる苦しい立場の人々に、アートを通して何かできないかと考えていた。ところが自国に大災害が起こり、多くの人が被災した。
「そのときに、ケニアでやって日本でやらないというのはないな、と思いました」
では、自分に何ができるのか。
「たまたまケニアのプロジェクトのときに出会ったNPOの代表が、東北に支援に行くというので、まずはトラックで物資を届けるボランティアをさせてもらったんです。震災の1週間後から、週イチで東北に通いました。春休みの期間だったせいか、大人たちが泥や瓦礫の片付けに出かけている間、子どもたちが避難所でとても暇そうにしているのが目につきました。それで、絵を描くワークショップをすれば、少しは気がまぎれるのではないか、と思いついたんです」
仙台市、多賀城市、岩沼市、気仙沼市、大船渡市、宮古市などの避難所に手紙で打診し、4月の中旬から週1回ワークショップをして回った。仙台市の遠見塚小学校では、仙台市長に直談判し、壁画を制作することになった。
「そうした活動を続けるうちに、あるボランティア団体の方から、大船渡で仮設の床屋を始めた人が、看板を描ける人を探している、と聞きました。それでぼくは看板のみならず、屋根の上まで店舗全てを派手にペイントしたんです(笑)」
未曾有の震災の後は、文学や芸術に携わる人が、自分の無力さを噛みしめた時期でもあった。
「ぼくも怖かったですよ。絵なんて必要ない、と言われることも想像していましたし、床屋もこんな派手な色を塗るなんて不謹慎だ、と怒られるかも知れないと思いながら描いていました。でも、それまで行ってきた活動でぼくは、絵の力でつらい環境を変える、と謳っていたんです。その手前、震災の前に絵は無力です、とは言えなかった。批判されても、とにかくやってみようと」
壁画は最も古い絵画表現で、太古の昔の洞窟壁画は今も残されている。絵のない時代などなかった。人が生きる上で必要な何かを、絵は担っている。
「そう思いながらも、自分の活動に意味があるのかどうかは分かりませんでした。ただワークショップで絵を描いたこと、小学校で壁画を制作したこと、それから床屋の店舗をペイントした時間は、確かに残った。人々の記憶に、そして僕の中にも。その後も交流が続いていますし、あのとき絵を一緒に描いたよね、と話せるのがうれしい。そういう一つ一つが、ぼくの支えになっています」
そのとき、義援金でも支援物資でもなく、ミヤザキが手渡そうとしていたのは「アート」だった。
「アートには、何もないところから作り出す喜びがあります。ケニアのマゴソスクールの方たちの志には、教わることが多かったですね。お金や物資は直接的な助けになります。でも憐れまれたくないという思いも同時にあるんです。きれいごとに聞こえるかもしれませんが、ぼくの壁画の活動は、一緒に考えて、一緒に物を作る。対等です。持つ者が持たざる者に与えるという上下関係が、そこにはありません。対等な関係で一緒に作った物を残して帰ってくるという体験が、東北での活動にも密にリンクしています。そもそもぼくにはお金がなくて時間があったから、時間を使って一緒に何かをしようと思ったわけで、人それぞれの役割があるのだと思いますが」
プロフィール
1978年佐賀市生まれ。筑波大学修士課程芸術研究科を修了後、ロンドンへ渡りアート制作を開始。「Supper Happy」をテーマに、見た瞬間に幸せになれる作品制作を行っている。2006年から始めたケニア壁画プロジェクトでは、100万人が住むといわれるキベラスラムの学校に壁画を描き、現地の人々と共同で作品を制作するスタイルが注目される。現在世界中で壁画を残す活動「 Over the Wall 」を主催し、2016年は東ティモールの国立病院、2017年はUNHCR協力のもと、ウクライナのマリウポリ市に国内難民のための壁画を制作した。2018年はエクアドルの女性刑務所で制作予定。