プラスインタビュー

加害者家族という〝被害者〟、そして被害者遺族をも苦しめる、日本を覆う第三者という〝正義〟

長塚洋

加害者家族という〝被害者〟が受ける理不尽すぎる差別

――映画そのものに話を戻して、作品名『それでも私は Though I’m His Daughter』というタイトルに込めた思いを聞かせてください。英語では“his daughter”と明確に表記していますが、日本語はそこをかなり曖昧なニュアンスにしているようにも見えます。

長塚 ずいぶん迷ったし議論もしたのですが、日本人じゃない人たちには地下鉄サリン事件やオウム真理教は少し距離があるので、「父親って誰?」というフックを作らなければ関心を持たれないと考えて、英語のタイトルには父親を示唆する言葉を入れました。

 一方で、日本語タイトルを「それでも私は」にしたのは、「たしかに私は松本智津夫の娘だし、彼の娘であるがゆえに差別される。それでも私は、自分の人生を生きていきたい」というニュアンスを持たせたい、という気持ちですね。この人を松本麗華個人と捉えるのか、オウムの映画だと捉えるのか、ということにも関係してくるので、具象的なものはあえて外した、というところはありますね。自分ではもっと広い彼女の人生の映画だと思っているんですが、映画を観た人に「それでも」の「それ」って何だろう、と感じてもらいたいですね。

――映画を観た人に感じてもらいたいこと、という点では、タイトルの「私」は、映画を観終わったひとりひとりを指しているようにも思いました。つまり、映画を観たあと、それでも私は何を感じるのか。はたして自分は加害者家族という被害者の存在を今まで意識したことがあったのか、おそらくこの作品の裏テーマでもある死刑制度や社会と人の命について「いったいお前はどう考えているんだ」と問いかけてくるタイトルであるようにも思います。

長塚 それはあまり気づいていませんでしたが、とてもありがたい解釈だと思います。作品というものは、いったん世に出てしまうと作品自身が自分で歩いていくので、「この解釈は間違いです」ということを私はあまり言いたくないし、むしろいろんな解釈が広がるものを作りたいと思っています。

 作品の宣伝用チラシには「ひたむきに自身の人生を築こうともがく麗華の姿は、この世界で苦しみながら生きている人に向けた希望のメッセージとなりうるか」という一文があります。これは配給担当の人が考えた文章なんですが、たしかに私は過去のドキュメンタリーでも生活保護を受けることのできない人や、生きていくだけでもしんどい人たちをたくさん取材してきて、そんな生きづらい人たちの姿をこの作品の彼女に普遍化してみたい、という考えがありました。

 これは私が仕組んで聞き出したことでも何でもないのですが、彼女自身が「こうやって自分ががんばっている姿が、他にも苦しんでいる誰かの希望になったらうれしい」と言っているんです。彼女にその姿勢があったから、撮影を続けてきて6年目に完成できたのかなと思います。

© Yo-Pro

――「松本麗華」という取材対象と長い間付き合ってきて、踏み込めないところや、あえて踏み込まないところなどのバランスの取り方は難しかったですか?

長塚 私は報道畑でずっと暮らしてきたから、当事者に踏み込みすぎないこと、どちらか片方に寄ってはいけない、とずっと考えてきたのですが、この作品は松本麗華さんに心を許してもらわなければ撮れなかったことがたくさんあります。結果的に信頼してくれたので、映画の中でも後半の彼女はだんだんタメ口になっているんですね。でも、そういう関係があるからこそ、この距離感で撮ることができたのだと思います。

 やはり最初は、彼女はすごく構えるわけです。〈アーチャリー〉と呼ばれていた子ども時代から、取材はものすごく怖いものだ、という意識が彼女の中にはありましたから。でも、怖い顔をしていつも背筋をこわばらせた松本麗華では、観た人に共感してもらう映画はできない。だから、どうやって距離感の埋まった状態でカメラを回すか、ということは一番大きなテーマでしたね。

 その一方で、「あなたがお父さんの犯罪事実を受け入れられないことに対して、あなたに『そうだそうだ』って賛成する映画はできないよ」ということも、お互いの共通理解になっていました。「この映画は、ありのままのあなたが生きる大変さや、その中で見出す日々の楽しみを伝えることで、加害者家族の在りかたを観た人に考えてもらうんだから、あなたと(私の考えが)一緒にはなるわけではない。私はあくまでも観察者として伝える立場なんだ。それを続けるために、距離感が近くなければいけない」、ということをずっと確認し続けた6年間でした。

 彼女は聡明だし純粋なんだけど、その純粋さがときには融通のきかない正義感みたいな形になって現れる場合もある。たとえば、(被害者や社会に)謝れという圧力が自分にかかってきても彼女が謝らないのは、「私が謝れば、他の加害者家族に対して、謝るのが当然だというモデルを作ってしまうことになる」からだと言うんです。その主張はとても正しいことなんだけど、それをずっと貫き通すのはしんどいよ、とも思いますね。

――映画の中でも「私が謝れば問題が解決するわけではない」という主旨のことを言っていましたね。確かにそのとおりだと思うんですが、彼女がそういうことを言えば、世間は余計に反発するだろうなということもまた容易に想像できます。

長塚 今、「世間」とおっしゃいましたけれども、世間って実はすごく英訳しにくい言葉で、とても日本的な概念ですよね。この映画を海外でどう展開できるかと考えて、海外のプロデューサーたちに、その段階で撮れていたものを短い予告編にまとめたことがあるんです。すると、欧米の人たちは「これは差別と人権侵害の映画だ」と明確に解釈するわけです。一方、同じ外国でも韓国や中国や台湾の人たちは、「ああ、わかる。そうなるよね」という反応で、如実に文化の差が出るんですね。

 つまり、日本も東アジア文化であることのあらわれなのでしょうが、罪を犯した人はあくまでも個人で、家族はむしろそれで困っている人たちなのに、なかなかそこに考えが及ばない。だから、この作品を通じて、そんな意識が少しでも揺さぶられてほしいと思います。この映画がただちに何かを変えるわけではないけれども、意識が揺さぶられることが大事なんだと思います。

――東アジア社会の村八分文化、ということに関しては、麗華さんが大学入試に合格しているにもかかわらず入学を拒否されたり、理由を告げられずに銀行の口座開設をただ拒否されたりする理不尽なエピソードが映画の中で紹介されていますが、いかにも事なかれ主義的な日本社会の姿を反映していて非常に象徴的でした。大学が入学を拒否するのは、知の退廃以外のなにものでもありませんね。

長塚 教員のなかには「入学させるべきだ、入学拒否は大学の自治を否定するに等しい」と言って、運動をしてくれた人たちもいたみたいです。学長自身も個人的には差別反対の立場だったようですが、学生の保護者など数百人から激しい抗議があったために、大学経営上苦渋の決断をせざるをえなかった、ということです。

――小中学校の義務教育ならともかく、大学の意志決定が保護者の抗議で左右されてしまうとは、なんとも幼稚な話ですね。あと、銀行口座を持てないのは、そもそも社会人として詰んでしまうのではないですか。

長塚 生活できませんよ、と宣告されているに等しいわけですからね。「こんなことなら教団に入った方がいいよね」と麗華さんはまた誤解されかねないことを言うんだけど(笑)、むしろそういうことを言うから彼女は教団と関係ないんだ、と私は確信が持てるんです。

 麗華さんは教団と関係していないにもかかわらず、金融機関が彼女の口座開設を一方的に拒否するような傾向は、2012年の暴対法改正以降に悪くなったといいます。国や行政と連携して暴力団構成員の口座開設を拒否できる、という暴対法の影響だと、彼女や彼女の弁護士は捉えています。でも、銀行のやっていることは臭いものに蓋をしているだけで、しかも自分たちに身近なところに蓋をしたにすぎないんですよ。たとえば、かつて暴力団構成員だった若者の口座開設を拒否すると、その若者はむしろ元の暴力団に戻るだけで、何の解決にもなっていないわけですから。

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プロフィール

長塚洋

(ながつか・よう)

10代から小型映画を制作し、早稲田大学文学研究科(大学院修士課程)で映画学を学ぶ。民放キー局で事件報道に従事。後年はテレビや映画、さらに近年はWebなどの場で、人間と社会の在り方を問うドキュメンタリーを発表。2005年からフリーランス。テレビの報道やドキュメンタリーの現場から、社会的弱者の姿を伝え続けてきた。
犯罪を繰り返す高齢者の更生を記録した『生き直したい』(大阪ABCテレビ、2017年)で坂田記念ジャーナリズム賞。ここ10年ほどは、死刑制度を題材とした映画制作に取り組む。そのうちの一本、『望むのは死刑ですか オウム“大執行”と私』は、2022年にアメリカのThe Awareness Film FestivalでMerit Award of Awareness(気づきの功労賞)を受賞。

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