プラスインタビュー

加害者家族という〝被害者〟、そして被害者遺族をも苦しめる、日本を覆う第三者という〝正義〟

長塚洋

父にとって「家族とは何だったのか」が聞きたい

――映画を観ていて、麗華さんと姉の宇未(二女)さんが、お父さんと暮らした少女時代や、あの時のお父さんが懐かしいという思慕の情を吐露する場面は確かに心が動かされるのですが、一方で「真相が明らかになっていない」「真相を知りたい」という表現をする場面もあるじゃないですか。それはおそらく、犯罪者である麻原彰晃を肯定するわけではなくて、「なぜ自分の父親がそういうことをしたのか、という真情を知りたい」という意味だと思うのですが、一連の事件の「真相」は事実関係がかなり明らかになっていると思うので、そこは正直なところ、違和感もおぼえました。長塚さんは、監督としてそこはどう考えているのですか。

長塚 松本麗華個人にとっては「本当にお父さんが指示したのか。したのだとすれば、なぜなの?」ということが、肉親としての彼女が一番知りたい「真相」なんですよ。だから、真相というよりも「深層」と言ったほうが適切かもしれません。これは、坂本弁護士の同僚でオウムとずっと戦ってきた岡田尚弁護士も、「深層が明らかにならないまま終わってしまった」と言っていますし、教団に取り込まれた家族を取り戻す「オウム真理教被害者の会」を36年前にたち上げて、後に名称を変更した「家族の会」の永岡英子さんも、「麻原の口から直接聞きたかった」と言っています。

 拘禁反応で応答できない状態のまま彼を処刑したのは、モンスターを社会から排除するためだったのかもしれませんが、あれだけの重大な犯罪だからこそ、言葉は悪いのですが研究材料とし、社会の教訓にするためにも生かしておいたほうがよかったのではないかと思います。

 先日の5月16日、麻原彰晃の逮捕から30年の節目にあたる日ですが、テレビの民放番組で脳科学者の方がマインドコントロールの仕組みについて話していました。その話では、自分の属しているコミュニティで正しいとされているものに対して、自分が違う考えを持っていると、辛くてとても生きていけない。でも、自分を変えればコミュニティに順応して生きやすくなる。そして、やがてその正しいことのためにむしろ一所懸命働くようになっていく、というわけです。

 このマインドコントロールの仕組みをよく考えてみれば、我々より少し上の世代の日本人は第二次世界大戦ですでに一億総マインドコントロールを経験していたわけですよね。だから、オウム事件は「明日は我が身」かもしれない「自分ごと」だと考えて学ぶきっかけにしなければいけなかったところを、「あいつらはモンスターだから社会から排除してしまえ」という方向へ進んでしまったことが残念です。

――それよりも日本社会は「吊して決着させてしまう」ほうを選んだ、ということなのでしょうね。日本が死刑制度を存置している理由のひとつに、被害者家族の応報感情を満足させることがよく挙げられます。被害者に家族がいない場合だと応報感情が成立しないことが矛盾点だとも言われますが、いずれにせよ、当事者ではない第三者にとって近親者を殺された家族の辛さや苦しみなどの感情は、推測するしかない領域です。

長塚 「被害者の家族なら犯人に死んでほしいと思うに決まっている」とか「加害者家族は謝罪し続けなければならない」といった類型的な家族像を作っているのは、あくまでも第三者です。その第三者の勝手な思い込みが納得できないから、被害者家族の原田さんと加害者家族の松本麗華は意気投合して、「世間よりも我々同士のほうが理解しあえるんだ」という状況になるわけなんですよ。

自宅を訪ねてきた松本麗華さんを励ます原田正治さん © Yo-Pro

――そういった類型的な家族像に自分たちの正義感を投影して感情が暴走するから、たとえばSNSなどでの罵詈讒謗や誹謗中傷という形で拡散していくのでしょうね。

長塚 そうですね。死刑という制度について私はずっと考えてきて、『望むのは死刑ですか』というタイトルで2本の映画も作りました。死刑は今の日本に存在する制度で、それに賛成する立場をけしからんと言うつもりはありません。ただ、賛成する時には、あくまでも「〈私〉は賛成だ」と言ってほしいんです。被害者感情のために賛成している、という言いかたはやめてほしい。それは「被害者家族はこう感じるべきだ」という同調圧力を加えてしまうことになる。

 実際に、処刑を望まない被害者家族や、生きたまま償わせたいと考える被害者家族もいるわけですから。だから、「そんなことをした人間は死ぬべきだと〈私〉は思う」と自分の意志として賛成をしてほしいと思います。類型的な被害者家族像を他人が作り上げることは、かえって被害者家族を苦しめることにもつながっていきます。

――麗華さんの場合でいえば、加害者家族という被害者で、しかも未成年だったので、当時の自分には知り得ないことも多々あったのでしょうね。

長塚 先日、ある場で麗華さんと一緒の席になった時に私が、「あなたたちのお父さんが治療されて意思疎通できるようになっていたとしたら、私が聞きたかったのは、事件のことというよりも、『あなたにとって家族って何だったの?』っていうことなんです」と言うと、姉の宇未さんも『私も本当にそれが聞きたかった』と大きくうなずいていました。彼女たちにしてみたら、松本智津夫が麻原彰晃として教団を率いて突っ走っていった結果、家族はバラバラになってお父さんは死刑になってしまう。娘としては『私たちのことをいったいどう考えていたんだろう』と思うのは当然ですよね。

――子どもとして、親に対する思慕の念は拭いがたいものがあるのでしょうが、だからといって麻原彰晃とオウム真理教のしたことがけっして免責されるわけではない。

長塚 ないですね、もちろん。

――松本麗華さんは亡くなった父親との思い出も道徳的な罪悪であるかのように言われてしまう人ですが、少女時代のそんな思い出を懐かしむことすら許さなくしたのは、ほかでもない麻原彰晃とオウム真理教なので、その意味では、彼女も一連のオウム事件の被害者なのでしょう。そう考えると、いろいろな矛盾も腑に落ちる気がします。麗華さん自身がそこをどう考えているのかはわからないし、彼女に残酷な捉え方なのかもしれませんが。

長塚 そうでしょうね。そうだと思います。映画では、彼女が教団にいた時代を振り返るアニメーション映像の場面がありますが、その中で、「今にして思えば、正大師の階位を授けられたり、長老部長の地位を与えられたりするのは、虐待の一種だったのではないか」と回顧しています。虐待は父の逮捕前も後もあるわけですが、逮捕前にその虐待をしたのは明らかに父親なわけで、それを彼女は認めているんです。その父親が逮捕されて死刑になっていくから、さらにそれが彼女の新たな被害になる。という意味で、父親は娘に何重にも虐待行為をしたことになるわけです。

――あれはいったい何だったのかと振り返ると、よけいに割り切れないでしょうね。

長塚 そう、割り切れない。でも、一方では確かに父が愛おしいという気持ちは揺るがないんです。「きっと世の中は(彼女のこの感情に)反発するんだろうな」とも思うけれども、これだけ揺るがないのだから、それが彼女のありのままの姿なんだ、ということですよね。

――その割り切れなさも含めて、観た者に非常に重いものを投げかけるドキュメンタリー作品だと思います。観終わった後に感じるこの重いものをできるだけ多くの人に感じてほしいし、その重さや割り切れなさが我々が暮らす社会の姿でもあるのでしょうね。

長塚 そうですね。そしてそれを多くの人が感じない限り、やがて似たような事件や出来事が起こり、それが刃としてまた社会に返ってくるんでしょうね。

映画公開前の6月7日には阿佐ヶ谷Loft Aで先行上映会を実施。上映後には森達也氏(左写真右端)らを交えてトークショーが行われた。なお、6月14日からの劇場公開と同時に、同イベントのオンライン配信(https://twitcasting.tv/asagayalofta/shopcart/379673
6月14日(土)から20日(金)までの期間限定配信)も予定されている。(撮影:西村章)

取材・文/西村章  撮影/五十嵐和博

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プロフィール

長塚洋

(ながつか・よう)

10代から小型映画を制作し、早稲田大学文学研究科(大学院修士課程)で映画学を学ぶ。民放キー局で事件報道に従事。後年はテレビや映画、さらに近年はWebなどの場で、人間と社会の在り方を問うドキュメンタリーを発表。2005年からフリーランス。テレビの報道やドキュメンタリーの現場から、社会的弱者の姿を伝え続けてきた。
犯罪を繰り返す高齢者の更生を記録した『生き直したい』(大阪ABCテレビ、2017年)で坂田記念ジャーナリズム賞。ここ10年ほどは、死刑制度を題材とした映画制作に取り組む。そのうちの一本、『望むのは死刑ですか オウム“大執行”と私』は、2022年にアメリカのThe Awareness Film FestivalでMerit Award of Awareness(気づきの功労賞)を受賞。

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