対談

いま人間に足りないのは「放課後の時間」だ

北村匡平×宇野常寛

SNSやデジタルプラットフォームが人々を管理する「プラットフォーム資本主義」が世界中を覆っている。そのような時代に、人々は自分の幸せや人間らしさを追求できるか。この問題にそれぞれ異なるアプローチで向きあったのが、社会学者・批評家の北村匡平氏の『遊びと利他』(集英社新書)と、批評家の宇野常寛氏の『庭の話』(講談社)である。
北村氏と宇野氏が現代の空間と人間の身体の在り方、そして労働や制作のについて考える。

『遊びと利他』(集英社新書)

「歩くこと」と「走ること」

北村 宇野さんは近年の著作のなかで、繰り返し「走ること」について論じられてます。僕は人類学者のティム・インゴルドがすごく好きなんですが、彼は「輸送」と「徒歩旅行」を対比させている。輸送には目的があってそのためにどうするかといった効率性が重視されるが、「散歩」とも言い換えられる「徒歩旅行」は目的に向かってゴールすることではなく、歩く過程の中で世界と呼応する、と。
この対比はかなりしっくりきます。僕は昔からすごく旅が好きで、32、3カ国ぐらい行ってるんですけど、とにかく現地で適当に場所を決めて歩くんです。すると、そこに行くまでの過程でいろいろなことが起こる。ですから、僕の場合は、歩くことで効率化に対抗している意識があるのですが、宇野さんの中では「歩く」と「走る」は大きく違いますか?

宇野 僕も歩くのも     すごく好きなんです。夜型だった頃は、深夜に高田馬場からお台場まで歩いて、途中、築地でお寿司を食べる、みたいなことをよくやっていました。一つか二つのごく限られた、半径1キロぐらいのエリアをディープに味わうのだったら、歩くほうがいいと思っています。歩くといろんなものに出会って、小さな目的がそのたびに生まれて、それがすぐにまたキャンセルされて、次の目的にジャンプする、そういう楽しさがあると思う。
一方、走ることの面白さは、街同士のつながりがよくわかることです。
東京で走ると、1時間で高田馬場から広尾ぐらいまで行くんです 。すると、七つか八つぐらいの街を通り過ぎる。だから、山の手のあたりの土地の高さが高いとか、その土地の姿がすごくわかる。土地の高低差はランナーにとっては大事なもので、走っていると自ずと気づくんですが、そこで高いところと低いところにあるものが全く違うことに気付いたりする。

北村 僕も、コロナ禍の2020年は電車を使わずに、住んでいる二子玉川から大学がある大岡山まで自転車で通勤していました。そこで初めて、電車とは違う土地感覚を持ちましたね。二子玉川は玉川沿いで低い土地だから、大学に行くまでにずいぶん上るんですよね。

北村匡平氏

「時間的な自立」をする

北村 僕は単純に疲れるので、走ることがあまり好きではないのですが、走ってみると、街の味わい方は違うじゃないですか。自分の身体の感じ方がすごく変わります。『遊びと利他』の中でも、公園の中にある「斜面」を僕は重視していて、それは普段とは違う身体感覚を味わうことができるからなんです。

宇野 「複数の時間」というか、「複数の速度」があることが、僕は大事だと思っています。例えば、高田馬場から雑司が谷は隣の町で、歩いたり走ったりすると実はすぐなんです。でも、電車の接続は悪くて、電車だと結構時間がかかっちゃうんです。むしろ渋谷や飯田橋のほうが近く感じる。それによって、高田馬場と雑司ヶ谷はどこか遠く感じることがある。これは、やはり人間の土地の感覚が交通によって規定されていることだと思うんです。
同じことが、情報デバイスなどによって、より深刻に起こっています。
実際、実空間はプラットフォームの支配下にあると思います。例えば、今、オーバーツーリズムで悩む都市は、Google マップが市民の足であるバスを表示せず、観光用のバスのみを表示させるようにしています。その傾向はおそらく、今後もっと強くなっていくでしょう。つまり、空間的にも、もうプラットフォームの外部はないと僕は思っている。
特に日本で言うと、Xのタイムラインによって、人々の時間が全部規定されすぎていて、全員の精神的な、主観的な速度が一緒になってしまっています。
そのときに大事なのは、実空間かリアルかを問わず、僕たちが複数の時間を生きられるかどうか、ということなんです。歩く、走る、電車で移動するという移動手段を複数持つこともそうだし、オールドメディアの速度、ソーシャルメディアの速度が昔は全然違った。でも、今は一緒じゃないですか。

僕は、「複数の時間」を持つために、人間は「時間的な自立」をすべきだと思う。『庭の話』は、そうした「時間的な自立」をするためには、どのように空間を使えば良いのかの話をしています。

北村 「時間的な自立」ができる空間でいうと、かつて僕はメタバースの空間にすごく可能性を感じていたんですよね。ただ、結局その空間も現実世界の引き写しのようになってしまって居心地悪く感じるようになり、あまり興味を持てなくなったんですよね。メタバースについては、どう評価されていますか?

宇野 先ほども言ったように、ぼくは人間が「複数の時間」を生きられることが大事だと思っていて、いかに人間が暮らしの中で触れられる時間が複数化できるように、異なる速度の回路を埋め込んでおくのかが大事だと思っています。メタバースがそのうちの一つになるといいと思う。
でもそれは、ジョン・ハンケ的な問題にぶち当たるとも感じています。ジョン・ハンケはNianticの創業者で、PokémonGOを作った人です。彼はメタバースが好きではなくて、仮想現実的なものから拡張現実的なものに情報技術の応用トレンドを変えた立役者の一人です。彼は、自身が位置情報ゲームを作るのは、現実をゲーム化し、情報化することによって、人を物理空間で歩かせるためだという。僕もその考え方は好きで、PokémonGOが割と好きな人間だったんです。
ただ、PokémonGOはハンケが目指したような、地図を歩く面白さもさることながら、やはりコミュニケーションの面白さで受け入れられているところもある。彼女と一緒にピカチュウを取りに代々木公園へ行った、というソーシャルの面白さを導入し、そこに個人と世界を結ぶという当初の目論見が負けてしまった。PokémonGOは2016年にリリースされていますが、それから9年が経って、今はどちらかというと、誰かとつながるとか、誰かに承認されるとか、その欲望のほうが圧倒的に支持されている。それは、ソーシャルメディアで承認を交換するゲームの方が効率がいいからですよね。

宇野常寛氏

放課後の時間を取り戻す

北村 僕は『遊びと利他』で「放課後の時間を取り戻す」ということを書きました。昔は、放課後は子どもだけの何もない、何が生まれるかわからない時間帯でしたよね。この時間が、今は明らかに少なくなっていて、それを親が管理している。例えば、都市部だと、とにかく子どもに習い事をさせて、そういう何もない、豊かな時間を無くしていると思う。

宇野 僕は放課後の時間の何がいいって、自由に帰れることなんですよ。遊んでいてつまんなかったり、もめたりしたら帰れる。なんなら、明日来なくてもいい。これがいいと思っていて。
僕は子どもの頃、両親が共働きだったのですが、「大人って放課後ないじゃん」ということに絶望してたんですよ。朝出かけて、夜に帰ってきて、あとはもう寝る、って感じで。僕は遊ぶのが好きだったから、遊ぶ時間は大人になると無くなっちゃんだ、と思って、大人になりたくないと思ってた。

北村 僕も全く同じですね。僕の両親も共働きだったんで、帰ってきてご飯を食べて風呂に入って家事をして寝る、という様子を見てました。

宇野 あれは絶望しますよね。

北村 絶望ですね。

宇野 だから、僕は大人が遊んで見せることが大事だと思うんです。そのためには、労働環境を整える必要がある。
それと、『庭の話』で割と終盤に書いたのですが、そうした複数の時間を持つために、労働という回路をうまく使おう、ということなんです。労働はやりたくなくても、やらなきゃいけないことが結構多い。そんな思いがけないことをやったときに、交通事故とか、虫刺されみたいに、後ろや横から不意に襲われる刺激のようなものがあって、それで自分が変わってしまうことを経験すると思うんです。
そのための回路として、労働をいかにちゃんと使うかが大事で、それを用意するためには労働環境も変えていかなきゃいけない。ブラック企業じゃ、労働を通じて新しいものに触れる……なんて無理ですからね。

宇野常寛氏

傷付くことと創作

北村 今、労働の話でおっしゃったような「傷付くこと」は大事だとずっと思っています。現在は、社会全体が傷つくことを恐れすぎていて、そうならないように大人が整えてしまうのが問題だと思っています。
例えば、大学の授業でグロテスクな表現や作品とか、セクシャルなものを見せられなくなっています。でも昔は、テレビを見ていても思わずすごい表現に出会ってしまうことがあって、それがずっと忘れない経験になることもあった。今はそういう経験が全体的に無くなっていますよね。
僕が一番傷ついた経験をしたのは、旅なんです。旅をすると本当に傷つくんですよね。昔、ヒッチハイクをしていたんですが、そこで出会うのは、とても優しい人もいればひどい人もいっぱいいる。でも、その傷つく経験を通して、人間の本質というか、自分が知らなかった世界に触れられるような感じもあったし、知らない土地を歩いていくことによって、世界が拡張されていく実感もありました。
自分の世界を広げていくことに対して、リスクを負いたくないという思考や、傷つきたくないという思考が強いと感じます。

宇野 表現の快楽は、そもそもかなりマゾヒスティックなものなんですよ。テキストでもそうだし、映像でもそうだし、音楽でも全部そうなんだと思うんだけれど、やはり他人の妄想というか、テキストとか音声とか映像が、われわれの感覚器や内面をジャックすることによって、否応なく人間の心身を作り変えてしまう、表現に触れるって、そういう受動的な体験です。
現代は、この快楽が、むしろ共感による安心の快楽に負けてしまっていると思います。それは、そうした安心の快楽がインスタントで大量に供給されてるからで、明らかにSNSプラットフォームがそれを引き起こしている。表現や芸術作品など、いわゆる虚構が持っていたマゾヒスティックな快楽が、圧倒的に負けてしまっている。

北村 たしかに。塚本晋也の『鉄男』とかやばいじゃないですか(笑)。ああいう強烈な体験は今、なかなかできなくて、ああいう作品を授業で見せると色々な意味で反応があるんですよね。

北村匡平氏

<制作>で「世界の手ざわり」を取り戻す

北村 創作についての話になりましたが、『庭の話』では、そうした「時間的な自立」を求める過程の中で、<制作>の重要性を押し出していますよね。「食べること」や「プラモデルを作ること」など、日常の中で自分が<制作>することを重視しています。僕の本の中では、羽根木プレーパークの例を出していますが、あれはまさに自分たちで遊具を作り、自分たちで遊ぶ例です。そうすることによって、遊びがすごく立体的になる。

ただ、僕が危惧しているのは、そうした<制作>が現在、普通の公園では味わえなくなってきていることです。宇野さんの言葉で言う、「世界の手ざわり」がどんどん希薄になっている。

宇野 僕は、人間はどこかで「世界の手ざわり」を求めてしまう生き物だと思っています。世界と関わっている感覚を得たい生物だと思う。
そのとき、今の世界で手ざわりを得られるのは、主に2つです。1つは労働を通じて市場からの評価を得ること。しかし、大多数の人間はそれができません。そうでない人々は、SNSのプラットフォームを通して共同体に接続して、世界の手ざわりを得る。しかし、すでに言ったように、それは敵と味方を強力に分ける回路に巻き込まれてしまうことを意味する。    
これを緩和する第三の回路として、<制作>に僕は再注目しています。初期のインターネットでは、やはり制作が中心にあった。それをもう一度再起動したい。

2023年に出した『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)では、みんなでわいわい楽しむのもいいけれど、一人で遊ぶことも世界を味わううえでは大事だと書きました。その本のなかでも、まさにものを作る話をしている。自分に照らし合わせたとき、遊びを極めていくと、最終的に自分で作ることになるんですよね。
僕もずっとオタクで、アニメや特撮が好きすぎて、だんだん評論を書くようになっていった。だから、これも遊びの延長なんですよ。やっぱり作っているときが一番幸せです。だから、<制作>論にどうしても収斂していくところがある。

北村 僕も2000年代前半に自分でパソコンをいじってインターネットのウェブサイトを作ったりして、いろいろ遊んでいました。あの頃とソーシャルメディアの時代は全然違っている。アメリカの政治学者・ジョディ・ディーンが「コミュニケーション資本主義」という概念を2000年代初頭に打ち立てているんですが、新自由主義下のネットワーク上のメッセージは数の論理に回収されてしまい、交換価値が使用価値を上回って、「真/偽」を問わず「経済的価値」が優先される。その循環が経済を活性化させ、グローバル企業がいっそうヒエラルキーを構成し、格差が拡大し続けるということを言っていたんです。
まさに2010年代のソーシャルメディアの流れ、いわゆるプラットフォーム資本主義の流れは、交換そのものが経済的価値を帯びていく中で、使用価値が失われていく時代だったと思います。そう考えると、やはり自分で<制作>して世界とつながることの価値を捉え直さないといけない、と思いました。

『庭の話』(講談社)

構成:谷頭和希 撮影:内藤サトル

関連書籍

遊びと利他

プロフィール

北村匡平×宇野常寛

北村匡平 (きたむら きょうへい) 映画研究者/批評家。東京科学大学リベラルアーツ研究教育院准教授。1982年山口県生まれ。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了、同大学博士課程単位取得満期退学。日本学術振興会特別研究員(DC1)を経て、現職。専門は映像文化論、メディア論、表象文化論、社会学。単著に『遊びと利他』(集英社新書)、『椎名林檎論――乱調の音楽』(文藝春秋)、『24フレームの映画学――映像表現を解体する』(晃洋書房)、『美と破壊の女優 京マチ子』(筑摩選書)など多数。

宇野常寛(うの・つねひろ) 批評家。1978年生まれ。批評誌〈PLANETS〉編集長。 著書に『リトル・ピープルの時代』『遅いインターネット』(ともに幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)、『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)、『庭の話』(講談社)など。 立教大学社会学部兼任講師も務める。

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いま人間に足りないのは「放課後の時間」だ