「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと
新型コロナウイルスが猛威を振るう最中、「ステイホーム」の号令下にあって、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多いのではないだろうか。外出機会が制限される一方で、ウイルスを巡っての深刻なニュースが矢継ぎ早に飛び込んでくるとあっては、必然的にスマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増えただろう。それだけではない。リモート会議などのコミュニケーションから生活を支えるオンライン通販、映画や音楽の視聴といった余暇まで、在宅におけるすべての事柄がこうしたデバイスに支えられていたとさえ言える。
2019年4月、カナダでは非常にポピュラーな哲学者であるMark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らす一冊『退屈とインターフェース』を上梓した。その中でも現下の状況に最も関わりの深い第二部を、ドン・デリーロやフィリップ・ロスなどの翻訳で名高いアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。
(第4回より続き)
ここにおいて、こんな懸念はパラノイアだ、恐怖を煽っているだけだ、と人々はいつも言う。隠したいものがないなら、監視に大騒ぎする必要もないじゃないか? あなたのすべての動きを追っているアルゴリズムから買い物の提案が来て、それが役に立ったのなら、それでいいじゃないか? おそらく我々は心配するのをやめ、新しい買い物のサイトやサーチエンジンの巨人を歓迎すべきなのだ! そうでなければ、おそらく我々は思い出すべきなのだ、理性的な思考が本当に意味しているのはこれだけだということを──互いを真剣に受け止めるよう努めるという合意の維持。特に、自己の条件がここまで弱くてはかないものとしか思えなくなったら──アプリやヒット、ダイレクトメッセージ、検索用語などに縮小されたとしか思えなくなったら。クリックベイト(訳注:ウェブページの閲覧者にクリックしてみる気にさせるリンク)に不注意にも高揚してしまう一連の動作にすぎなくなった自己は、より少ない真実ではなく、より多くの真実を必要とする。「オルタナティブ・ファクト」とポスト・トゥルースに基づく確信──つまり、根拠なき確信──の時代に、我々は真実を規準にしなければならないことを改めて心に刻み、あらゆる形で浸透するインターフェースの影響に対抗しなければならない。しかし、現在の社会政治的コンテクストに立ち向かい、そのなかでの我々の消費者かつ市民としてのあり方に対処するためには、哲学的な批判が最高に啓発的だとする標準的な見方もまた修正されなければならない。これは難しいかもしれないが、退屈ではないことを私は約束する。
人々は24時間通知され続ける最新ニュースの光景にうんざりし、とても退屈して、政治をもっと自分たちの好みのものに変えようという信念を一段階アップさせる──これは、正確に言えば違うだろう(ある程度の真実もこの説明には含まれているが)。それよりも真実なのは、私の考えでは、地域のコミュニティが持続可能な意味をどんどん剥奪されているように思われること。ゆえに我々は個人の(しばしば乏しい)内的資質に無理やり頼らざるを得なくなる。ここで退屈との関係が明らかにされるべきだ。言葉や声明がかつて意味していたことをもはや意味せず、あるいはそのタイミング次第で自由に変動する「オルタナティブな」意味しかないとすれば、我々は意味の危機に瀕している──政治理論家のマイケル・E・ガーディナーが言う記号資本主義(セミオキャピタリズム)(訳注:明確な意味を失った記号の流通と消費を現代の資本主義の基盤として解釈する見方)だ。後期近代資本主義の伝統的な批判者たちは、資本主義の条件下における主体性形成の不完全さとの関連で「不安、憂鬱、無関心、あるいはパニックといった感情の状態について語る」。しかし、「彼らは多くの人が我々の時代に最もありがちな気分、あるいは感情であると考えるもの、すなわち退屈について、根気よく取り組むことはない」。退屈は「特質上、両義的な(アンビヴァレント)(そして取り囲むような(アンビエント))ものであるにせよ、実体のある気分、あるいは感情の状態として理解される──そして、資本主義の生産様式とそれぞれ独自の形で関係するものとして」。ゆえに、退屈には新しいアプローチで取り組まなくてはならない。ガーディナーの議論が私のとかぶさるのは、特にこの点である。21世紀の退屈は、「資本主義の生産様式」と深く絡み合った新しい形のものだ。その生産様式には、メディアによる絶え間ない情報供給も含まれ、論争が「我々」対「彼ら」という対立する二グループに不条理にも分かれてしまうだけでなく、それ以外の場面では真面目な国家の最高責任者が、国民全体を体系的に騙していくことになる。「とにかく我々についてきてください」とトランプ大統領は2018年の貿易戦争の際、7月の帰還兵の集会で支援者たちにこう訴えた。「こうした人たちが発するクズを信じないように。あれはフェイクニュースです。ただ、これを覚えておいてください。あなた方が見ているもの、読んでいるものは、実際に起きていることと違います」
「ステイホーム」の号令下で、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多かったのではないだろうか。スマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増え、コミュニケーションから生活、余暇のすべてがこうしたデバイスに支えられていることを実感しただろう。カナダでポピュラーな哲学者・Mark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らした『退屈とインターフェース』から、現下の状況に関わりの深い第二部をアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。
プロフィール
1958年生まれ。翻訳家、アメリカ文学研究者。学習院大学文学部英語英米文化学科教授。東京大学大学院修士課程修了。1998年アメリカ学会清水博賞受賞。フィリップ・ロス、ドン・デリーロなど現代アメリカを代表する作家の翻訳を手がけている。著書に『テロと文学 9.11後のアメリカと世界』、『ニューヨークを読む』、訳書に『リンカーンとさまよえる霊魂たち』、『ワインズバーグ、オハイオ』、共著に『世界が見たニッポンの政治』など。