「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと
では、我々は真実が解釈次第であると言いつつ、どうやって記号資本主義(セミオキャピタリズム)の混沌から逃れられるだろう? ある種の解釈学や批評理論の正統的な考えは、真実が常にコンテクスト次第だということだ。主張の妥当性は所与の解釈の枠組みまたは方法によって決定され、それが生む真実の主張は所与の言説内部で妥当と見なされる。この見方は、ときどきポストモダンとして批判されるが、むしろハイモダンであり、真実に関してはしばしば「相対主義」あるいは「主観主義」として批判されるものである。もちろん、それはこうしたものではない。というのも、コンテクストに依存するとは、異なるコンテクストが複数の真実を平等に、そして矛盾なく真実であると考えること(それはほとんどの人が相対主義と呼ぶものである)を退け、複数の真実を異なるコンテクストから比較することを禁じる。また、コンテクストへの依存は、単一の視点だけに基づいた世界の説明(ほとんどの人が主観主義と呼ぶもの)も認めない。一方、ポストモダンとされている概念を右翼の政治組織がシニカルに流用することは正直でも解放的でもなく、シニカルで利己的であると一貫して明らかにされている。そして、ポストモダンの概念はそもそも左翼の批評家たちが権力と信念の構造を具象化し、それについて考えるために使ったものだが、だからといって彼らの責任でもない。
この認識論上の論争が持つ倫理的かつ政治的意味合いは長いこと注目されてきた。判断と行動に関する真の基準というのはあるのだろうか? それとも、文化によって異なる習慣があるだけなのだろうか? 我々は信頼に値する客観的な基準に従って、行動と評価の問題を決定できるのだろうか? それとも、果てしない解決不能な論争にいつでも巻き込まれるだけなのだろうか? このように述べてしまうと、これは評価の規範の問題に関する誤った二分法となる。信頼に値し、行動の指針となりながらも、普遍的な地位、または人間を超えた地位を自任しようとしない判断基準はあり得るのだ。我々は倫理的な生活を打ち立てるのに、客観的な見方を死守するという代償を払う必要はない。コンテクスト主義は、一歩間違えば有害なこの二分法から離れられる有望な一つの道であり、私はこれからの議論でそれの一つの形を追究し、擁護したい。主観的か客観的かという縛りは、自分に課した束縛であるとわかるはずだ。そこから我々は、矛盾や無秩序状態を自らに招くことなく、脱却できるのである。
しかし、現時点でより興味深いのは、コンテクストに依存することの政治的意味合いである。もし「ポストモダン」左翼があからさまにイデオロギーに基づいた意図を持って真実を扱い、政治的な目的に従属させたと非難されるのであれば、実のところ、同じ手段で怪しげな勝利を収めたのは政治的な右翼なのだ。この流用を見事に要約しているのは、かつて匿名扱いされていた人物──現在ではかなり信頼できる情報として、ジョージ・W・ブッシュの戦略家にして首席補佐官、カール・ローヴ──のものとされている、次の言葉である。ほとんどの人々が「現実に基づいたコミュニティと我々が呼ぶもの」に住んでいるのだが、ローヴはそうした人々を「認識できる現実を慎重に分析することから解決策が現われると信じている人々」と定義する。しかし、実際には「世界はもはやそのように動いていない。我々はいまや帝国であり、我々が行動すれば、我々独自の現実を作り出す。そして、あなたがその現実を──やりたければ慎重に──分析しているあいだに、我々は新しい現実を作り出し、それをあなたはまた分析できる。そのように物事は進展するのだ。我々は歴史の主役である……そしてあなたは、あなた方すべては、我々がやることをただ分析するしかない」。ポストモダン右翼の現実政策は、このように「現実」と「事実」を作り出し、「フェイク」だという(決定的に)歪んだ非難をすることで、特定の政治的課題を成し遂げようとする。今日、これに関して多くの人が最も驚くのは、この事態があの人物から始まったわけではないということだろう──予想に反して当選した四十五代大統領、トランプから始まったわけではないのだ。
(第6回へ続く)
「ステイホーム」の号令下で、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多かったのではないだろうか。スマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増え、コミュニケーションから生活、余暇のすべてがこうしたデバイスに支えられていることを実感しただろう。カナダでポピュラーな哲学者・Mark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らした『退屈とインターフェース』から、現下の状況に関わりの深い第二部をアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。
プロフィール
1958年生まれ。翻訳家、アメリカ文学研究者。学習院大学文学部英語英米文化学科教授。東京大学大学院修士課程修了。1998年アメリカ学会清水博賞受賞。フィリップ・ロス、ドン・デリーロなど現代アメリカを代表する作家の翻訳を手がけている。著書に『テロと文学 9.11後のアメリカと世界』、『ニューヨークを読む』、訳書に『リンカーンとさまよえる霊魂たち』、『ワインズバーグ、オハイオ』、共著に『世界が見たニッポンの政治』など。