マーク・キングウェル『退屈とインターフェース』を読む 第4回

「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと

④テクノロジーは中立的ではない
上岡伸雄

新型コロナウイルスが猛威を振るう最中、「ステイホーム」の号令下にあって、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多いのではないだろうか。外出機会が制限される一方で、ウイルスを巡っての深刻なニュースが矢継ぎ早に飛び込んでくるとあっては、必然的にスマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増えただろう。それだけではない。リモート会議などのコミュニケーションから生活を支えるオンライン通販、映画や音楽の視聴といった余暇まで、在宅におけるすべての事柄がこうしたデバイスに支えられていたとさえ言える。

wavebreakmedia / PIXTA(ピクスタ)

 

2019年4月、カナダでは非常にポピュラーな哲学者であるMark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らす一冊『退屈とインターフェース』を上梓した。その中でも現下の状況に最も関わりの深い第二部を、ドン・デリーロやフィリップ・ロスなどの翻訳で名高いアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。


 

(第3回より続き)

 もちろん、精神が弱いものであることはみんな知っており、意志の力だけで中毒のサイクルを断つのは難しいだろう。2018年の新聞記事で引用されている匿名の心理学教授は、これは本質的に悪徳に対する美徳の闘いだと述べている──我々は短期的な快楽を抑えることで、長期的な美徳を作り出したいのだ、と。スマートフォンのアプリ以前には、チェーンスモーキングを抑えるために、一度に一本ずつしか煙草を買わないといった自己管理の手段があった(いまでもある)。あるいは、目覚まし時計を寝室の隣りの部屋に置き、歩いてアラームを止めにいくことなど。誘惑の源をしまい込んで鍵をかけるとか、自分を打擲(ちょうちゃく)するなどの暴力行為に及ぶといった、さらに過激な行動に出る場合もあるだろう。こうした手段のすべてにつきまとう問題は、中毒自体と同様に、時の経過に伴って耐性ができてしまうことだ──自己管理の手段が心地よいものと感じられるようになり、もはや効果がなくなるのである。あなたはどうやってスマートフォン中毒と闘っていますかと訊ねられ、この教授は「私はいい例ではないかもしれません」と告白した。「本当に重要な論文を書かなければいけないとき、私はすべてのパスワードを変え、自分では覚えられないランダムな数字の並びにするんです」。彼女はここで間を置いた。「そして、それを引き出しの奥に隠します」。さらに長い間。「家の引き出しに隠すんです。そうすれば、仕事中にスマートフォンを見たくても見られません。単に自分を、あるいは自己管理を信じていないんですよ。だから、これに関しては現実的に対処することにしました」

Besjunior / PIXTA(ピクスタ)

 

 このような自己への信頼の欠如は、重症であれ軽症であれ、中毒症には非常によくあることだが、ジャロン・ラニアーのようなテクノロジーに通じていながら懐疑主義者である者の忠告をなし崩しにする。ラニアーはデジタルテクノロジーの開拓者だが、近年はソーシャルメディアを厳しく批判するようになった。彼の2018年の本、『今すぐソーシャルメディアのアカウントを削除すべき10の理由』は、まさにタイトルのとおり──理由の列挙である。つまり、それらは理性的な主張であり、ターゲットは理性的な行為者であって、彼らは現実離れした理由よりも利己心から動くかもしれないが、それでも説得に応じる可能性のある人々だ。議論に基づいた自己管理を勧告したとして、それが力を持つためには、行為者がメディア回避という考えをすでに受け入れる素地を持ち、その戦略を実行するだけの自己管理力を持っていなければならない。その一方で、オンラインでの「つながり」を求める強い思いが疎外と分裂、人気に関する誤った観念などを促進し続けている。そして民間企業のために大量にデータをかき集めることも促進し、その企業が「公共」であるはずのコミュニケーションの形を実際に制御しているのだ。ラニアーが言うように、ソーシャルメディアを使うことはすべて、一見有益なように見えて、人間の「威厳、幸福、自由」に最終的な損失をもたらす。それに気づくだけで充分ならまだいい(ネタバレ注意、充分ではない)。ラニアーが触れていないのは、ソーシャルメディアの害がすべての人々に対して同じではないということだ。ある面においては──たとえば、社会的地位に関する容赦ない不安など──若い男性よりも若い女性に偏って影響を及ぼす場合がある。

 

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「ステイホーム」の号令下で、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多かったのではないだろうか。スマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増え、コミュニケーションから生活、余暇のすべてがこうしたデバイスに支えられていることを実感しただろう。カナダでポピュラーな哲学者・Mark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らした『退屈とインターフェース』から、現下の状況に関わりの深い第二部をアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。

関連書籍

テロと文学 9.11後のアメリカと世界

プロフィール

上岡伸雄

1958年生まれ。翻訳家、アメリカ文学研究者。学習院大学文学部英語英米文化学科教授。東京大学大学院修士課程修了。1998年アメリカ学会清水博賞受賞。フィリップ・ロス、ドン・デリーロなど現代アメリカを代表する作家の翻訳を手がけている。著書に『テロと文学 9.11後のアメリカと世界』、『ニューヨークを読む』、訳書に『リンカーンとさまよえる霊魂たち』、『ワインズバーグ、オハイオ』、共著に『世界が見たニッポンの政治』など。

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「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと