マーク・キングウェル『退屈とインターフェース』を読む 第6回

「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと

⑥絶対に正しい解釈は存在しない

上岡伸雄
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新型コロナウイルスが猛威を振るう最中、「ステイホーム」の号令下にあって、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多いのではないだろうか。外出機会が制限される一方で、ウイルスを巡っての深刻なニュースが矢継ぎ早に飛び込んでくるとあっては、必然的にスマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増えただろう。それだけではない。リモート会議などのコミュニケーションから生活を支えるオンライン通販、映画や音楽の視聴といった余暇まで、在宅におけるすべての事柄がこうしたデバイスに支えられていたとさえ言える。

wavebreakmedia / PIXTA(ピクスタ)

 

2019年4月、カナダでは非常にポピュラーな哲学者であるMark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らす一冊『退屈とインターフェース』を上梓した。その中でも現下の状況に最も関わりの深い第二部を、ドン・デリーロやフィリップ・ロスなどの翻訳で名高いアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。


 

(第5回より続き)

叶えられない宿命にある願望

 言説に関する──特に政治的な言説に関する──素朴な言説のなかで最も基本的で最も間違った前提は、「事実」または「事柄の事実」が一方にあり、もう一方にこうした事実のさまざまな──おそらく競合する──解釈があって、そのあいだにははっきりとした線が引かれているというものだろう。この前提は一つの仮説の誤りを表わしている──すなわち、ある基礎となる現実にはいくつもの解釈が並び立っており、それは努力と方法論を通して、おそらく競合する解釈のなかの中道路線によって識別できる。さらに、基礎となる現実がこれであると一度識別されれば、手元にあるどんな問題に関しても、それが決め手となるはずだ。しかし、たとえば黒澤明の古典的映画、1950年の『羅生門』を見る経験を考えてもらいたい。日本の山間部で起きたレイプと殺人に関わる「同じ」一連の出来事を、恐ろしいことに、目撃者や関係者が少しずれた形で語る。その結果、我々は矛盾し競合する「真実」の諸バージョンを見せつけられる。しかし、順に披露される四つの説明はどれも自己中心的で、奇妙で、決定的ではない。

masalle3 / PIXTA(ピクスタ)

 

 我々はこれをどう考えたらよいのか? どの物語も実際に起きた事件の真相とぴったり当てはまらないが、それぞれが少しずつ真実の要素を含んでいるのだろうか? それとも、原型となった物語があり、それはどの個人も語れていないが、神の目(あるいは、観客か監督の目)から見るとわかるものなのだろうか? おそらく、最も不安を掻き立てられるのは、真実がどこにもないという可能性だ──行動や反応、動機、結果などがしっかり配置されているという意味での真実が。当然ながら、最後の可能性が最も高く、最も重要である。人間の営みは、そのなかでも特に極端なものは、「何が起きたか」を「意味づけして説明する」ための前提におとなしく従うものではない。『羅生門』は、この前提を強調するとともにひっくり返すように働く。そして、その批評の論理は、我々が現代批評理論の「暴露する」機能と呼ぶものと軌を一にしているのだ。暴露されるのは真実ではなく、客観的真実なるものがあってほしいという我々の熱烈な──しかし叶えられない宿命にある願望。その客観的真実が競合する説明をすべて蹴散らしてくれるという期待である。こうした願望は、プラトンからデカルトの系譜の痕跡とも呼べるだろう。我々自身の信念や行動の責任をもっと高所の力に委ねたいという、理解はできるが実現不能な願望だ。絶対的真理への古くから続く希求は、それ自体、不本意ながら中毒になった者が自分の責任から解放されたいと思う、熱烈な願望と似ていなくはない。しかし、それはこんなに単純ではない。認識論上の解放はあり得ないのである。

IrinaPapo / PIXTA(ピクスタ)

 

 そこで私は一つの映画が美的に表現したことを、同時代の批評理論と結びつけたいのだが、そこにはいくつかの理由がある。第一に、暴露の義務とでも呼べるものをめぐる知的な合意が、20世紀中頃にいかに働いていたかを、ここに見ることができるからだ。私がここで言いたいのは、ニーチェ・マルクス・フロイトとつながる懐疑の解釈学が共有する衝動である。とても大雑把に言えば、思考は決して無垢ではなく、イデオロギーが至るところで働いており、我々は自分にかかる抑圧を意識しても、その意識自体を抑圧してしまう。それに対する批評の介入は、それまで隠されていたことを示すという形を取る。安心できる社会的因習、政治的欺瞞、そして心理的抑圧などをそれぞれ暴露するのだ。日常の社会も心理も、現行の取り決めの利害に役立つ融和的な幻想を維持するように働く。暴露の義務は洞察力の鋭さを高め、当たり前のことを当たり前と取りたくないという気持ちに勢いをつけることで、この欺瞞の詐欺に対決するのである。

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「ステイホーム」の号令下で、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多かったのではないだろうか。スマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増え、コミュニケーションから生活、余暇のすべてがこうしたデバイスに支えられていることを実感しただろう。カナダでポピュラーな哲学者・Mark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らした『退屈とインターフェース』から、現下の状況に関わりの深い第二部をアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。

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プロフィール

上岡伸雄

1958年生まれ。翻訳家、アメリカ文学研究者。学習院大学文学部英語英米文化学科教授。東京大学大学院修士課程修了。1998年アメリカ学会清水博賞受賞。フィリップ・ロス、ドン・デリーロなど現代アメリカを代表する作家の翻訳を手がけている。著書に『テロと文学 9.11後のアメリカと世界』、『ニューヨークを読む』、訳書に『リンカーンとさまよえる霊魂たち』、『ワインズバーグ、オハイオ』、共著に『世界が見たニッポンの政治』など。

 
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