このところさまざまな政治的・社会的な問題を取材していて、必ずと言っていいほど行きあたる根本命題がある。煎じ詰めれば、「国家の記録」について、とでも評すべきだろうか。
森友、加計学園問題もそう。南スーダンPKO日報問題もそう。築地市場の豊洲移転問題もそう。戦後日本の基軸を曲げた安保法制も、天皇の生前退位問題にも、同じ病理が根本に横たわっている。
もちろん、問題の位相はそれぞれ異なる。ただ、いずれも「国家の記録」が隠蔽され、ねじ曲げられ、廃棄され、問題の本質や意味があいまいにされたことにより、さらなる混乱を引き起こす悪循環に陥った。問題の本質と意味を後世に伝える「国家の記録」がひどくずさんに扱われた。
仮に「記録」がきちんと作成され、管理され、適切に公開されていれば、大半の問題で本質がクリアになっていただろう。政権に非があるにせよ、または官僚制の悪弊が原因にせよ、まさに「責任」の所在を含め、私たちの眼前にもっとクリアに示されていたはずである。逆に言うなら、クリアにされなかったことで高笑いしている者たちがいる。
本書は、その病理の所在を丁寧に、そして余すことなく解剖した秀作である。同じ集英社新書から刊行され、久保亨・信州大教授も著者に加わった『国家と秘密 隠される公文書』のアップデート版とも言える。
「国家の記録」である公文書と情報公開をなぜ重視するのか、本書は多くの金言を引用している。一つだけ紹介したい。
「情報が行き渡っていない、あるいは入手する手段のない『人民の政府』なる存在は、笑劇か悲劇の序章か、あるいはその両方以外のなにものでもない。知識は無知を永遠に支配する」(第4代米大統領マディソン)
さて、私たちは無知に追いやられていないか。無知に追いやられ、都合よく支配されようとしていないか。本書で著者が書く通り、これは〈民主主義のあり方自体の問題〉なのである。
あおき・おさむ ●ジャーナリスト
青春と読書「本を読む」
2018年「青春と読書」3月号より